学位論文要旨



No 127892
著者(漢字) 張,丹
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,タン
標題(和) 大連における公園・緑地・海浜リゾートの展開に関する研究 : 帝政ロシア・日本の統治時代から中華人民共和国の今日まで
標題(洋)
報告番号 127892
報告番号 甲27892
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7660号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石川,幹子
 東京大学 教授 大方,潤一郎
 東京大学 准教授 城所,哲夫
 東京大学 准教授 羽藤,英二
 北海道大学 教授 越沢,明
内容要旨 要旨を表示する

中国における持続可能な発展と地球環境問題との調和は、21世紀初頭の現在、すべての分野で取り組まなければならない緊急の課題である。特に、1970年代末期から実施された改革開放政策の結果、この10年間、中国は高度経済成長を遂げており、それに伴い、都市化と市街地の膨張が急激に進行し、土地利用のあり方、都市の交通・住宅・環境衛生、さらには都市の景観と潤いなどの諸問題が深刻となっている。

中国東北地方の海浜都市である大連は帝政ロシア、日本統治時代を経て、中国における重要な観光都市である。都市の特色は、港湾のみならず、豊かな山林、山並み、海や海浜の地形条件が、それぞれにまとまりあった空間を構成している要素にある。それらが大連の独自な都市景観を形成している。

本研究は、大連における都市計画発展史の全体を俯瞰した上で、"公園緑地"に焦点を当てて、その概念の創設、実現された公園の建設経過とその背後にある考え方に対する考察、都市景観の形成の経緯、さらには21世紀にあたってストックとして残されている公園緑地やオープンスベースの継承発展、解明した。

1898年、帝政ロシアはダルニ-港と付属都市の建設に着手した。これは大連の街並みを形成する嚆矢であった。帝政ロシアの計画では、港湾、道路、河川、区画、鉄道、墓地などと共に、広場的空間(10箇所)、公園(6箇所)、サムソンスキ並木道が決定されていた。これが大連初の公園緑地計画である。帝政ロシアの建設者は、自然の特徴を深く読み込んで、適切な公園緑地を導入する計画思想は後の大連の緑の形成に大きな影響を与えた。それにより、1898年後の6年間は、ダルニ-市(後の大連)における公園緑地計画・建設の萌芽期と考えられる。

1905年から1945年敗戦まで、日本人の技術者は関東大震災、函館大火の経験の反省を生かし、諸外国の先進的な例を参考に、活用し、大連都市公園緑地計画の基盤整備期に携わった。1941年、市街地の無統制の拡大と乱開発を防ぐため、都市北部における臨海工業ニュータウンの計画と南部馬欄河区域の住宅地の整理を目的の「大連市街計画」が策定された。計画内容は港湾の部、鉄道の部、道路及び水路の部、用途地域の部、公園の部、学校用地の部などからなり,系統的な公園計画が街路、用途地域と対等の位置をようやく獲得したことを示している。計画設定区域内の公園緑地の計画の特徴は、広幅員道路や河川沿いの長い線路型の緑地帯を計画、それに大公園、近隣公園、児童公園等、様ざまな公園の配置,その公園と広幅員道路、河川、学校とが連動している系統性ある公園緑地を形成しているという点にある。その計画の近代性は当時としては画期的なものであった。南部馬欄河整理区域の計画には、住宅用地の土地整理と公園拡張、河川管理を合わせて、複合性高い土地整理・開発の地区計画思想、新しい都市の緑の軸線を形成しようとする計画方針が読み取れた。

中華人民共和国の建国以降、大連における公園緑地計画、事業は1970年代まで、何度かの政治情勢の動揺により挫折された。1980年代から、都市の規模の拡張に伴って、都市計画の範囲も大きくなった。公園緑地の運営・管理は着実に定着し、緑の対象は市街地地域の公園から市の全体に幅広く、多様な展開をみせはじめていたことは明らかである。大連は風光優美の海浜を持つため、百年前に、南満州第一の海浜リゾート、海浜浴場などを形成した。その基礎をとし、南部海浜風景区は発展してきた。都市の観光拠点と顔になる。大連湾側の臨海港湾用地は、国の東北振興戦略の推進に伴って、新しい発展のチャンスに直面している。都市の発展と緑の創造とは、どのように調和するか、今後大連は直面しなければならない課題である。

それらを踏まえ、今後のあるべき生態都市の将来像を構想し、水と緑の育成計画を促進すること、緑化施策のあるべき姿、特に緑と都市の共生による新たな取組みの可能性などについて検討した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、中国東北地方の海浜都市である大連市について、都市成立以来115年の歴史を通して、都市計画の経緯を公園・緑地及び海浜地域の計画史の視点から調査、研究を行ったものである。

中国では、1970年代末期から展開されてきた改革開放政策により、高度経済成長が進み、市街地の拡大が進展し、土地利用、交通、住宅、環境衛生、景観等の都市問題に対して、総合的な取組が必要となっている。

大連市の成立は、1898年、帝政ロシアが旅順と大連を租借し、ロシアの極東進出の拠点として開発されたことに始まる。日露戦争後、旅順・大連は日本の領土、関東州となり、1945年まで日本統治下により都市建設が進められた。1945年以降は、中華人民共和国時代に入り、これらの歴史的経緯が、大連の特色ある都市構造、独自な都市景観を形成する要因となっている。大連の緑とオープンスペースの特質を、都市形成史の観点から体系的に明らかにする研究は、これまで行われておらず、本研究の新規性は、この点にある。

研究の方法は、文献調査、現地調査、ヒアリング等によるもので、なかでも、関東州庁の未整理公文書から大連市街地計画に関する文献資料を、はじめて発掘することができた。また、行政機関の現職及び在任経験者などにヒアリングを実行し、大連における公園緑地の計画、建設過程、管理施策など第一次資料や一般に公表されていない資料を入手することができた。

本論文の学術的成果は、以下の通りである。

第一に、大連における都市計画は、統治した国による計画思想が大きな影響を与えており、なかでも公園・緑地計画は、その特質を空間形態として明確に反映しており、萌芽期(1898―1904年、帝政ロシア統治期)、基盤整備期(1905-1945年、日本統治期)、発展期(1945-現在)にわかれることが分かった。特筆すべき点は、公園・緑地は部分的に改廃を遂げたものの、都市構造の骨格として、時代を越えて継承されていることが重要であることが分かった。

第二に、基盤整備期の都市計画は、日本の統治下で実施されたが、諸外国の都市計画事例を踏まえた、当時の最も先端的計画思想が導入されたことが特色であることが明らかとなった。

すなわち、日本は、帝政ロシアの計画を継承し、広場的空間(10箇所)、公園(6箇所)、サムソンスキ並木道などを実現に導いた。また市街地背後の丘陵地の緑地保全を行い、良好な海浜地区は、リゾートとして景観を重視し整備を行った。特に丘陵地末端の調整池は、雨水排水系統と連動して一体的整備が行われた。大連市の拡大に伴い、総合的な都市計画の考え方と、当時の最先端の計画思想である広域計画としての地域計画が導入された。1941年、市街地の無統制の拡大と乱開発を防ぐため、北部臨海工業ニュータウンの計画と南部馬欄河区域の住宅地の整理を目的とする「大連市街計画」が策定された。計画内容は港湾、鉄道、道路及び水路、用途地域、公園、学校用地の部などからなり,近隣住区理論の導入による、はじめての総合的都市計画であった。また、この計画の特徴は、広幅員道路や河川沿いの線路型の緑地帯を計画し、それに大公園、近隣公園、児童公園等、様ざまな公園、学校をネットワーク化させ、都市の骨格となる公園系統(パークシステム)をつくり出したことにある。

第三は、これまで、実態が解明されてこなかった中華人民共和国の建国以降の、公園緑地計画と事業の全貌を明らかにしたことにある。本研究では、1958年の「大連都市総体計画」、1985年の「大連市城郷建設総体規劃」、1995年の「大連市都市総体計画」(2000-2020年)を公園緑地計画の考え方、手法、事業実績の視点から経年的に分析を行った。その結果、公園緑地計画思想は、1980年ごろより、観光政策、風景の保全が重視されることようになり、1990年代には、城郷一体化という都市農村の均衡ある発展を目標とする考え方に発展してきたことが分かった。現在は、歴史的な公園緑地の蓄積を生かした都市、海浜の再開発が進展しており、生態都市への転換が行われていることが分かった。また、大連は風光優美の海浜を持つため、百年前に、南満州第一の海浜リゾート、海浜浴場などを形成したが、これを基盤とし南部海浜風景区は発展を遂げてきており、大連の観光拠点となっている。このことから、風景の保全、活用の鍵となるのは、歴史的に蓄積された公園・緑地施策であることが分かった。

総じて、本研究は、大連の公園緑地について、115年に及ぶ都市形成史を踏まえて、その計画思想と実現のプロセスを明らかにしたものであり、大連市の公園緑地の大きな特質が、異なる時代の多様な公園緑地が時代の変化の中で消滅することなく、むしろ蓄積されて都市の骨格となっていることを提示した。

以上の業績により、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク