学位論文要旨



No 127907
著者(漢字) 矢野,史朗
著者(英字)
著者(カナ) ヤノ,シロウ
標題(和) セロトニン神経系の安定性とその社会的行動の記憶への影響に関する数理的及び実験的研究
標題(洋)
報告番号 127907
報告番号 甲27907
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7675号
研究科 工学系研究科
専攻 精密機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 淺間,一
 東京大学 教授 太田,順
 東京大学 教授 高草木,薫
 東京大学 教授 神崎,亮平
 北海道大学 准教授 青沼,仁志
内容要旨 要旨を表示する

セロトニンはセロトニン神経から放出され,様々な行動を調整する神経修飾物質として働く.本研究では,セロトニン神経と,セロトニンによって修飾されるシナプス後細胞を合わせて,セロトニン神経系と呼ぶ.

セロトニン神経は,多くの生物でその形態や機能が遺伝的に相同と考えられている.ヒトなどでは脳幹縫線核から放出されるセロトニンの枯渇がうつ病の病因の一つであると考えられており,ラットやマウスなどを用いて分子生物学,分子精神医学などから多くの実験的研究がなされてきた.セロトニンの枯渇を病因とする考え方をセロトニン仮説と呼び,この考え方の下,セロトニン神経系を構成する要素として重要なものが幾つか抽出されてきた.重要な要素として,セロトニン,セロトニン自己受容体,シナプス後細胞受容体,セロトニントランスポーターがあり,重要な挙動として,受容体の調整(upregulation / downregulation),自己受容体を介した刺激によるセロトニン産生およびセロトニン放出の抑制(これらを自己抑制と呼ぶ)がある.

近年では,Evidence based medicineの考え方,すなわち理論やデータに基づいた治療が求められている.データに基づく理解は,これまで生物学でよく用いられてきた実験的な理解であり,一方,理論に基づく理解は,物理学のような数理を用いた方法となる.生物の挙動を解析するために数理を用いる方法論は,近年になって少しずつ行われるようになってきた.生物学では現象に多くの階層性があるため,解析対象のシステムを構成する要素とその要素間の相互作用(微視的現象)から,どのような巨視的現象が発現するかを理解することが求められている.微視的現象から巨視的現象を説明する理論を構築することは,知識の体系化をするのみでなく,巨視的現象の調整のためにはどのような制御を構成要素に加えるべきかなど様々な理解に繋がる.

以上のような背景から,セロトニン神経系の挙動の理論的理解は,学術的のみならず実社会的にも重要な課題である.

本研究は,セロトニン神経系でみられる微視的現象からどのような巨視的現象が観察されるか理解することを目的としている.本研究でいう微視的現象とは,上述した重要な構成要素・重要な挙動を指す.本研究では,まずセロトニン神経系の数理モデルを構築し,これを解析するという数理的方法と,その解析から見出された新しい知見を行動薬理実験により検証する実験的方法を行う.セロトニンは,社会的競争(闘争)下で逃避行動の発現率を調節することが知られており,行動薬理実験ではこの機能に注目する.

2章では本研究で重要となる生物学的基礎および数学的基礎をまとめた.生物学的基礎としては,セロトニン神経系の構成要素および挙動として本研究で着目する知見をまとめ,数学的基礎としては,セロトニン神経系を表現する方法として力学系の基礎を,モデルを解析する技法として安定性理論,中心多様体定理,局所分岐理論をまとめた.

3章では2章の生物学的基礎を力学系で表現し,セロトニン神経系の数理モデルを構築した.

4章では3章で構築したモデルについて分岐解析を行った.この結果,モデルが超臨界型Pitch-Fork分岐をすると分かった.また,分岐を引き起こす因子(コントロールパラメータ)を調べ,幾つかのコントロールパラメータを解析的に導出した.一例としては,自己抑制の効果の増大によってシステムが完全型のPitch-Fork分岐をすることを示した.また自己受容体-セロトニン結合能の低下やセロトニントランスポーターの発現量増加のような変化はPitch-Fork分岐の不完全化項として働き,システムの安定性を変化させることが分かった.更に文献調査を行った結果,これらのパラメータは社会的敗北経験によって調整される因子であることが分かった.

5章では,4章の解析の結果得られた不完全型の超臨界Pitch-Fork分岐についてまず考察を加え解析の切り口として緩和過程を採用した.具体的には,この型のベクトル場が,ある条件で摂動に対しslow-relaxationすることを示し,緩和過程に着目した.この章の解析では,このシステムのslow-relaxationが,自己受容体アンタゴニスト(抑制剤)によって速い緩和過程となることを示した.また,摂動によって系の状態がどのようにしてslow-relaxationを開始するような状態に遷移するかを,これまでの解析結果を用いて示した.文献調査によって,このような遷移は,典型的には社会的敗北経験によって引き起こされることを整理した.

6章では,5章で解析した結果,すなわち社会的敗北によってslow-relaxationが発生するか,自己受容体アンタゴニストによって緩和過程が速まるか,の2点を検証した.1点目については先行研究の文献調査によって,クロコオロギで実際にそのようなslow-relaxationが発生する報告があることを示した.更に,このクロコオロギを実際に用いて2点目について実験的に検証した.セロトニン自己受容体アンタゴニストとしては5-HT1A受容体選択的アンタゴニストであるWAY100635を用いた.クロコオロギは一度闘争に敗北すると逃避するが,数分~約3日間のあいだは,同じ相手と再び遭遇した場合に逃避行動を選択する.そこでセロトニン神経系がこの逃避行動を選択するよう行動修飾していると想定し,WAY100635(1.0[mM])投与と生理食塩水投与の比較実験によって,6時間経過した時点での逃避行動をとる確率(複数ペアで実験を行い,全ペアのうち何ペアで逃避行動が見られるかの割合を求めた)が,有意に減少していることを示した.

7章では本論文の成果をまとめ,さらにこの成果を一般化して得られるシステム論的な生命観について考察した.すなわち,セロトニンのような情動(や高等動物では認知や思考)に影響するような神経が長期間個体の行動を,通常とは異なる状態に修飾しつづける現象を示すこと(slow-relaxation)について考察を加えた.このような修飾が特に逃避行動のような生命維持に直結する行動を修飾していることは,個体が外部環境に容易に適応しない戦略を可能にしていると考えられ,生物は神経修飾物質に代表されるような内部環境に対して優先的に適応していると言える.内部環境が外部環境よりも長期的に持続するという事態は,むしろ外部環境が個体の内部環境に対して適応することすら引き起こすと考えられ,工学のような外部環境の設計という営みにも共通する,生物の一つの適応戦略であろうと考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

矢野史朗氏の博士論文は,「セロトニン神経系の安定性とその社会的行動の記憶への影響に関する数理的及び実験的研究」と題し,全7章よりなる.本論文では,脳幹正中部の縫線核に位置するセロトニン作動性神経の動作を数理モデルとして構築し,その挙動を解析する問題を扱っている.

第1章では,まず背景として,近年の社会問題である精神疾患の急増を取り上げ,その問題解決にとってセロトニン作動性神経の理解が必要であることを指摘している.セロトニン神経系の活動に基づく精神機能や運動機能を調節するメカニズムの理解には,システム論的,構成論的なアプローチが有効である.本研究ではセロトニン神経系の細胞薬理学特性を数理的にモデル化し,力学系の手法を用いたモデルの特性解析によってセロトニン神経系の持つ自律調節メカニズムの理解に接近することが述べられている.

第2章では本研究で重要となる生物学的基礎および数学的基礎をまとめている.生物学的基礎としては,セロトニン作動性神経系に関する文献調査を行い,この系において重要とされている構成要素および相互作用について議論している.重要な要素として,セロトニン,セロトニン自己受容体,シナプス後細胞受容体,セロトニントランスポーターを抽出し,それらの重要な相互作用として,受容体の調整,自己受容体を介した信号によるセロトニン産生およびセロトニン放出の自己抑制の仕組みを取り上げている.また,数理モデル化の基本指針を与える薬理学的基盤である受容体理論,数学的基礎としての安定性理論,中心多様体定理,局所分岐理論などについて述べている.特に中心多様体近傍では緩和過程が緩慢となることなどについて指摘している.

第3章では,生物学的知見をもとに,セロトニン作動性神経およびシナプス後神経細胞を力学系で表現し,数理モデルを構築している.本章では薬理学的な考察を経て,必要な変数,パラメータ,関数をまず定義し,それらを用いて時定数の異なる4つの微分方程式から構成される数理モデルを構築している.また,このモデルの本質的な部分が受容体理論から導出できることを説明し,モデル化の妥当性を示している. 本章以下では本章で構成した4つの微分方程式からなるモデルと,受容体理論から導出した簡易モデルの双方に関してそのシステムの挙動を解析している.

第4章では,構築したモデルの分岐解析を行っている.解析にあたっては,まず生物学的知見に基づいた考察を踏まえてモデルがSlow-Fast dynamical systemとみなせることを述べ,特異摂動法による縮約によって自己受容体に関する微分方程式,シナプス後細胞受容体に関する微分方程式,および2つの制約条件へ変換している.分岐解析により,自己受容体の安定状態に超臨界型Pitchfork分岐が発生することが示している.また,自己受容体-セロトニン結合能の増減が因子となって,分岐が発生することなどを明らかにしている.

第5章では,さらに構築した数理モデルの緩和過程の解析を行っている.緩和過程の解析では,自己受容体量に摂動を加えた際,安定状態へ至るまでの緩和過程が緩慢になることを示しており,さらにこの緩和過程が,自己受容体アンタゴニスト(阻害剤)によって速い緩和過程となることを示している.また,このような摂動はどのような刺激に対応するかを,生物学的な知見に基づいて考察しており,このような摂動が社会的敗北経験によって引き起こされることを指摘している.

第6章では,緩和過程の解析結果を生物実験により検証している.実験においては,クロコオロギを取り上げ,社会的敗北によってクロコオロギに引き起こされる闘争性の変化(逃避行動の発現率の上昇)に着目し,その回復過程に緩慢な過程が見出せることを過去の文献調査によって示すとともに,セロトニン自己受容体アンタゴニストによってこの緩慢な回復過程が速まるか,について行動薬理実験を行うことで検証している.この実験により,6時間経過した時点での逃避行動をとる個体の割合が有意に減少していることを示している.

第7章では結論として本論文の成果を総括するとともに,さらなる実証的な生物学実験の方法を提案している.具体的には,自己受容体に予想される双安定性の検証実験手法について提案している.考察として,本研究の結果と大うつ病におけるセロトニン作動性神経の状態に関する知見の比較,この成果をロボットの適応的制御に応用する可能性について議論している.

以上,本研究では,従来の分析的取り組みでは扱うことのできないセロトニン作動性神経系のメカニズムの理解を目的とし,セロトニン神経系の数理的モデルを構築し,分岐解析および緩和過程解析などを行った.セロトニン神経系は,異なる時定数を有する複数の力学系が相互作用するような系であり,それが双安定系であること,どのような緩和過程が存在するかを明らかにし,その妥当性を,生物を用いた実験により検証した.博士論文として十分なオリジナリティとコントリビューションがあると判断する.

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

UTokyo Repositoryリンク