学位論文要旨



No 127947
著者(漢字) 笠井,秀隆
著者(英字)
著者(カナ) カサイ,ヒデタカ
標題(和) 核共鳴X線前方散乱を用いた高水素圧下のFe原子拡散の研究
標題(洋)
報告番号 127947
報告番号 甲27947
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7715号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡野,達雄
 東京大学 教授 前田,康二
 東京大学 教授 黒田,和男
 東京大学 教授 高橋,敏男
 東京大学 教授 枝川,圭一
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景

水素と固体材料との相互作用は科学的にも工業的にも関心の高い研究テーマである。水素誘起拡散現象とは、金属中に水素が固溶することで超多量の空孔が生成し、金属原子の拡散が著しく促進される現象である。水素誘起拡散は異種金属間の相互拡散とニオブの自己拡散において報告されている。そのメカニズムは、金属中の空孔が水素をトラップすることで、空孔の生成エネルギーが大幅に低下し、空孔濃度が大幅に増加するためであると考えられている。

上記のメカニズムから、多くの金属において水素誘起拡散現象が現れると予想される。しかしながら、広く使われている元素である鉄について未だに調べられておらず、鉄の自己拡散における水素誘起効果を明らかにすることは意義がある。その調べられていない理由は、鉄に水素を固溶させるにはGPaオーダーの高水素圧が必要であり、高水素圧下で原子拡散過程を測定する手法がこれまでなかったからである。

また、磁性体において重要な元素である鉄の磁性に及ぼす固溶水素の影響を明らかにすることも有意義であると考える。

このような背景を踏まえ、核共鳴X線前方散乱の時間スペクトル解析法と高水素圧実験技術を融合させることにより、鉄材料における水素吸蔵効果の研究を実現することを目的とした。この手法により、鉄中の自己拡散および磁性に及ぼす固溶水素の影響を実験的に明らかにすることを試みた。

実験

核共鳴X線前方散乱によってメスバウアー核種の57Fe原子の拡散過程と磁性を測定することができる。その原子拡散の測定は、原子拡散によって前方散乱X線のコヒーレンスが消失することを原理としている。高水素圧下の鉄原子拡散と磁性を測定することを目的として、核共鳴X線前方散乱と高水素圧手法を組み合わせた。図1に実験配置を示す。試料セルを小型キュービックアンビルプレスで加圧し、X線はアンビルにあけた孔を通してフォイル試料に垂直入射させた。前方散乱X線強度を8素子のアバランシェフォトダイオード(APD)でカウントし、核共鳴X線前方散乱の時間スペクトルを測定した。核共鳴X線散乱実験はKEKのビームラインAR-NE1とSPring-8のビームラインBL09XUで行った。

図2に試料セルの断面図を示す。試料は57Feを92%富化した4 μm厚のフォイル(ISOFLEX社から購入)である。水素源には、LiAlH4を最初使っていたが、吸湿性のために取り扱いが難しかったので、アンモニアボラン(NH3BH3)に変更した。これらの水素源は不可逆的に熱分解して水素を放出する。57Feフォイルと水素源を水素封入用NaClカプセルに封入し、1辺6 mmのキューブ状のボロンエポキシ製圧力媒体により加圧した。試料加熱は圧力媒体内のカプセルを囲むグラファイト製ヒーターに通電することにより行った。この試料セルと小型アンビルプレスにより、圧力2.8 GPa、温度1000 ℃までの測定が可能になった。

鉄の強磁性領域において、核準位のゼーマン分裂に起因する量子ビート構造を単純化させ解析可能にするために、装置の改良を行った。放射光は直線偏光であるので、外部磁場を印加し、ゼーマン分裂した核の量子化軸の方向が放射光の磁場ベクトルと平行になると、磁気量子数の変化Δm = 0の遷移が起こる。そのため、アンビルとアンビルホルダーの材料を変え、図1のような磁気回路を作製することで、量子ビート構造を単純化させ、強磁性領域でも時間スペクトルを解析することが可能になった。

実験結果・考察

小型キュービックアンビルプレスと図2の構造の試料セルを用いて、試料温度:RT~1000 ℃で、高水素圧下と水素なしの高圧下の57Feフォイルの核共鳴X線前方散乱時間スペクトルを得ることに成功した。時間スペクトルを核共鳴X線前方散乱強度の理論式でフィッティングすることで、指数関数的減衰から鉄原子のジャンプ頻度、量子ビートの周波数から内部磁場、ダイナミカルビートから試料の有効厚さの値を得た。この理論式ではダイナミカルビートのディップ部分を再現できなかったので、試料厚さに分布を持たせるように理論式を改良し、より精度の高いフィッティングが可能になった。

圧力2.8 GPaにおいて水素の効果は、量子ビート構造の消失温度と960 ℃でのスペクトル形状の変化に現れた。図3に得られた内部磁場を示す。水素なしでの圧力2.8 GPaでは730 ℃、水素圧2.8 GPaでは640 ℃で磁性が消失した。加えて、内部磁場の消失が1次の相転移であったので、磁性の消失はα相(bcc)からγ相(fcc)への構造相転移によるものだと考えられる。水素なしの高圧下と比較して、高水素圧下の鉄のα-γ相転移温度が大きく低下することが報告されており、上記の結果と合致する。また、水素圧2.8 GPa, 960 ℃でスペクトルの形状が大きく変化したのは、水素固溶によって鉄の融点が低下し、部分融解を起こしてフォイル試料の形状が変化したためだと考えられる。

圧力2.8 GPa、温度:RT~960 ℃において、得られた鉄原子拡散による崩壊の寿命の逆数1/τdを図4に示す。多結晶中の鉄原子のジャンプ頻度1/τとは、1/τ = 1/fM・1/τdの関係がある。ここで、fMはMossbauer correlation factorとよばれ、fccで0.69, bccで0.64である。得られた鉄原子のジャンプ頻度には水素の有無で有意な差はなかった。Nbで観測された水素誘起拡散(空孔‐水素クラスターの拡散係数)、提案されている水素誘起拡散のメカニズム、高水素圧下の鉄の格子収縮(空孔‐水素クラスターの濃度)、および鉄では空孔1個あたり2個の水素原子がトラップされるという計算結果といった文献値から、水素圧2.8 GPa下で鉄原子のジャンプ頻度はα相(bcc)で1/τ ~ 105 s-1(600 ℃), γ相(fcc)で1/τ ~ 103 s-1程度(900 ℃)になると推測された。これを踏まえると、核共鳴散乱ではジャンプ頻度1/τ = 1×105 s-1以下の鉄原子拡散を検出できないので、水素誘起効果が現れなかったのは、γ相では妥当で、α相でも推定範囲内であると考えられる。よって、本実験によって、水素圧2.8 GPaにおいて鉄中の自己拡散の水素誘起効果は、あったとしても、ジャンプ頻度1/τ = 1×105 s-1以下であることが明らかになった。

また、水素の有無に関係なく690 ~ 960 ℃で時間スペクトルに現れた鉄原子拡散の効果は、空孔機構による原子拡散ではなく、高速拡散(粒界拡散、転位拡散、特に表面拡散)によるものだと考えられる。

結論

鉄の物性に及ぼす水素誘起効果を研究するために、高水素圧下で核共鳴X線前方散乱時間スペクトルを測定する実験手法を開発した。小型キュービックアンビルプレスと高圧試料セルを用いた核共鳴X線前方散乱時間スペクトル測定により、水素圧2.8 GPa、試料温度RT ~ 1000 ℃で鉄の原子拡散と磁性の測定が可能になった。水素誘起効果は原子拡散に現れなかったことから、高水素圧2.8 GPa下の鉄における水素誘起拡散はジャンプ頻度で1×105 s-1以下であることが明らかになった。水素の有無に関係なく690 ℃以上で得られた鉄原子のジャンプ頻度はトレーサー法で測定された文献値より数桁大きく、高速拡散(特に表面拡散)によるものだと結論づけた。水素吸蔵による鉄の磁性の変化は、水素圧2.8 GPaにおいて、~ 640 ℃での内部磁場の消失(1次相転移)に現れた。また、水素吸蔵による鉄の物性変化は、960 ℃での時間スペクトルの形状変化に現れた。

図1:磁気回路を組んだアンビルを用いた核共鳴X線前方散乱の実験配置

図2:試料セルの断面図(水素なしの場合は、アンモニアボランの代わりにBNを入れた)

図3:水素圧2.8 GPaと水素なしでの圧力2.8 GPa(および0.4 GPa)における鉄の内部磁場の温度変化。点線は大気圧下の鉄の内部磁場の文献値。

図4:水素圧2.8 GPaと水素なしでの圧力2.8 GPa(および1.4 GPa)における鉄原子拡散による崩壊の寿命の逆数1/τd。□は鉄中の自己拡散の文献値から計算した1/τd。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「核共鳴X線前方散乱を用いた高水素圧下のFe原子拡散の研究」と題し、論文提出者が行った高水素圧下での純鉄の物性測定に関する実験的研究成果をまとめたものである.

論文は8章から成っている.

第1章は序論である.金属の物性に及ぼす水素の影響についての従来からの研究成果について概観し,工業材料としても重要な鉄において近年研究が進展している水素吸蔵に伴う超多量空孔生成に関して、これまでに解明されたその物理的な描像とこれからの研究方向についての論文提出者の見解を述べている.

第2章は,核共鳴X線散乱とその時間スペクトル解析による原子拡散過程の測定に関する一般的な解説である.核共鳴X線散乱は,同位体γ線源を用いたメスバウア分光法の発展形態の一つであり,励起光源として高輝度放射光挿入光源を用いることにより実現した計測法である.原子拡散に起因するコヒーレント核励起状態の緩和過程について詳細を述べ,原子拡散のジャンプ頻度が核共鳴X線前方散乱の時間スペクトルに反映されることを解説している.また,この方法によって測定される原子拡散係数は10-14m2/s程度であることを示した.

第3章は,水素吸蔵によって空孔拡散が加速される水素誘起拡散過程についての議論を行っている.拡散方程式によって記述される原子拡散係数と空孔を介した固体内金属原子拡散の対応を議論し,本研究のベースである水素吸蔵に伴う空孔生成の活性化エネルギーの低下が如何に金属原子の空孔拡散を促進するのかを定量的に議論している.

第4章では,高濃度の水素固溶により鉄の物性変化が発現する例として,鉄―水素系の相図を紹介し,論文提出者の開発した放射光実験装置で測定可能な圧力領域で期待される水素固溶度と空孔拡散係数の予測を行っている.また,在来の手法によって測定された様々な鉄の拡散経路を定量的に比較している,

第5章は,「試料と実験方法」と題して,測定を行ったKEKのPF-ARビームラインおよびSPring-8 BL-09ビームラインの概要を示し,論文提出者が行った高水素圧下での核共鳴X線前方散乱実験のための装置開発について詳細を述べている.高水素圧の発生は,小型キュービックアンビルプレスにより加圧されたサンプル内に封入されたアンモニアボラン(NH3BH3)の熱分解反応を利用した.実験に供した鉄試料は,57Feを92.44%まで富化した多結晶箔(平均厚さ4μm)を直径0.6mmのディスク状に切り出したものを使用した.この試料とアンモニアボラン水素源で窒化ボロン層を挟んだものを水素に対する透過バリア性に優れたNaCl粉末でくるんだものをカプセル状に整形した.試料の加熱は,このカプセルを囲む円筒状のグラファイトヒータで行い,温度計測にはセラミック被覆極細熱電対を使用した.また,常磁性相のみならず強磁性相での測定を行うためには,放射光の磁場ベクトルに平行に外部磁場を印加する必要があり,試料中心で0.1Tの磁場を発生できる磁気回路を設けた.基本的な高圧実験の枠組みは先行研究を受け継いだものではあるが,本実験を遂行する上での,実験の細部に至るまでのオリジナルな貢献は十分に評価できる内容である.

第6章は,実験結果である.実験の圧力範囲は1.4-2.8GPa,温度範囲は30-960℃である.測定データと理論式との詳細な対応を明らかにすることが必要であり,測定データである核共鳴X線前方散乱時間スペクトルのフィッティングにおいて,20%程度の箔状試料の厚さ分布を仮定することが必要であることを明らかにした.鉄の原子拡散に起因するジャンプ頻度は、650-960℃の範囲で明らかになった.時間スペクトルのダイナミカルビート構造の解析からは,Lamb-Moessbauer因子が決定され,文献値と良い一致をみた.また,強磁性相で観測される量子ビート構造から,57Fe原子の内部磁場の値を求めた.

第7章は,前章のデータに関する考察である.量子ビート構造の解析から求められた57Feの内部磁場の温度変化において2.8GPaの水素圧では,640℃付近で常磁性相への転移が観測された.磁性の変化は一次相転移型であり,水素の吸蔵によるα相からγ相への転移温度の低下を反映するものと結論された.また,920-960℃の領域で観測された時間時間スペクトルの急激な変化は,同じく水素吸蔵による鉄の融点降下として解釈できることを明らかにした.鉄の原子拡散に関しては,以下の知見が明らかになった.(1)650℃以下の温度では,時間スペクトルに原子拡散に起因する有意な時間変化を観察することができなかった.これより,本方法により測定しうるジャンプ頻度の限界が105/sであることが結論された.(2)690-960℃においては,測定されたジャンプ頻度は106/sの領域にあり,この値は水素の有無により有意な変化がないことが明らかになった.この結果から,今回の鉄箔試料においては,水素誘起拡散が顕著に現れる空孔拡散過程は,より高速の経路による水素の有無によらない拡散過程が顕わになったものと結論された.

第8章は本研究の結論であり,結果の要約と今後の展望が述べられている.

以上を要約すると、本研究は、核共鳴X線前方散乱の時間スペクトル解析法と高水素圧実験技術を融合させることにより,鉄材料における水素吸蔵効果の研究を実現したものであり,金属―水素系の実験的研究に新しい手法をもたらしたものとして評価することができる.鉄材料は,極めて広範に利用されている工業材料であるが,水素脆性など鉄―水素系において解決すべき課題も少なからず存在する.本研究成果は,金属―水素系の解明に新たな実験手法を確立したものとして,物理工学としての貢献が大きい.よって、本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる.

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