学位論文要旨



No 127956
著者(漢字) 松本,茂紀
著者(英字)
著者(カナ) マツモト,シゲノリ
標題(和) 流れの計算統計物理学
標題(洋) Simulation of Flow : Molecular Dynamics Approach to Classical and Complex Flow Phenomena
報告番号 127956
報告番号 甲27956
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7724号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 伊藤,伸泰
 東京大学 特任教授 藤堂,眞治
 東京大学 教授 吉田,善章
 東京大学 教授 金田,康正
 日本獣医生命科学大学 教授 大坂,元久
内容要旨 要旨を表示する

我々は実に様々な"流れ"の中で生活している。流れというと、直ちに思い浮かばれるのが水や空気などの流体の流れであろう。 これは、水や気体の分子の流れであり、古典的な物質流であると言える。流れには他にも、熱伝導の様な物質ではなくエネルギーの流れや、人や動物さらには車など複雑な動きをするモノたちの交通流が挙げられる。この様に、流れには大きく3つのタイプが考えられる。何れの流れも、個々の要素が寄り集まり、それらの大局的な性質として現れる。これらの流れを制御することが、工学的応用において大きな課題であり、実に様々な研究がなされてきた。しかし、依然として未解決な問題が数多く残されている。その主な原因の一つは、個々の要素による流れの発生起源が明確でないことにある。一般に、流れの性質が現れる運動スケールと、個々の要素の運動スケールとが大きく違う事から、解析が非常に困難であった。しかし、今日の計算機技術の発達により、個々の要素の運動から大規模な集団運動の計算が可能となった。そこで私は、大規模な数値計算技術を確立し、様々な流れの発生起源にかかわる重要な結果を得ることができた。本論文では、大規模計算および解析に関わる技術の確立、およびそれらを用いた様々なタイプの流れの発生に関する研究について報告するものである。

数値シミュレーションにより扱われる現象とそのスケールは実に様々である。分子動力学的手法により、ミクロな粒子の輸送現象の起源が確認されたのが、原子・分子サイズから数ナノメートルのスケールである。更に、対流や気泡生成といった流体的な性質が現れ始める事が、マイクロメートル近傍のスケールで確認されている。そして現在、数百TFLOPS(一秒間あたりの浮動小数演算)の実用的なスーパーコンピュータは、1秒間に約千億粒子の座標更新が可能な演算性能を有しており、マイクロメートルスケールの現象のシミュレーション可能性を示唆した。更にその上のスケールでは、巨大生体分子の様に機能を持った複雑な分子が現れ始める。これらの分子を扱うには、分子スケールよりも粗視化した分子スケールが必要となる。

これら分子スケールのシミュレーションは、ミクロな構造や輸送を理解するためには非常に強力な手法であり、今日の計算機によって流れの発生するスケールの計算が到達可能になった。そこで、計算機性能を最大限引き出す数値シミュレーションを可能にするプログラムコードを作成した。更に、シミュレーション結果の解析や現象の理解を深めるための手法として、3次元の可視化プログラムを開発した。その実行画面を図に示す。既存の可視化プログラムに比べ、大規模な3次元粒子系の描画に特化したプログラムであり、インタラクティブに空間や時間経過を観測することが可能である。これらのツールは、今後の大規模数値シミュレーションで初めて観測される諸現象の解析のための重要なツールになると考えている。

流れの中でも最も基本的で古典的な流れの一つが熱輸送である。熱輸送は、マクロな現象論からでは説明できない、ミクロな輸送特性を持っている。また、ミクロな分子構造により、大きく影響を与えられる。その一つの例として、非結晶中の熱伝導が挙げられる。一般的なガラスの伝導率は、結晶の約12%と低いが、窒化アルミニウムの場合では単結晶の約85%もの値を示す。実際に、ミクロな非結晶構造が熱輸送に与える影響がどの程度であるかを、非結晶の簡単なモデルとして剛体球のランダムパッキングを用いて調査した。熱輸送を調べる前にまず、ランダムパッキングの構造を定義する必要がある。しかし、ランダム構造を定量的に特徴付けるのは非常に難しい。そこで、近接粒子数とその角度分布を定量化するオーダーパラメータを開発した。その解析の結果、空間的な制約があるにも関わらず、ある粒子の周りにランダムに粒子が配置された場合と同じ性質を示した。更に、その構造を支える接触粒子は、パックされた構造の端から端までパーコレートするクラスターを形成している。このクラスターにより、エネルギーは迅速に伝達され、高い熱伝導率を示す結果が得られた。ランダムパッキングの熱伝導は結晶構造に比べ、同密度下では5倍近く高く、同圧力下では10%ほど低い結果が得られた。これは、非結晶構造が与える熱輸送への効果は10%程度であるが、密度が低くとも高い熱伝導率を示す構造であることを示唆している。

古典的な流れの中でも、未解決で重要な問題なのが乱流である。乱流は、自然現象や産業などを通して生活に深く関係しているが、その本質的な理解は未だなされていない。乱流は、大小様々な渦の運動により特徴づけられている。更に、それらの渦は各スケールにおいて強く影響し合っている。そのため、大きな渦構造と粘性の効く微小なスケールを完全には分離することができず、非常に大規模な数値計算が求められる。一方で、流体方程式は粘性の様なミクロな輸送を扱う事ができないため、壁表面での粗さや粘性の影響を直接扱う事が出来ず、依然として乱流現象の問題として残されている。そこで、ミクロな輸送と乱流の関係を明確にするため、分子動力学シミュレーションのアプローチを行った。

乱流を扱う為には、分子スケールから乱流が生じるスケールの計算をしなくてはならない。そこで、現在もっとも高速な分子動力学法のアルゴリズムを、単純な力学モデルである弾性球モデルへの最適化を行い、高レイノルズ数のシミュレーションを可能にした。このモデルで並行平板間流のシミュレーションを行ったところ、層流では非圧縮性粘性流体の性質と対応する性質が得られる。このことから、粒子密度に対する動粘性率を見積もることができる。その見積もりを基に、流体方程式から予測される乱流統計で最もよく知られている、エネルギーの波数スペクトルについて、等方性乱流条件を用いて調べた。その結果、コルモゴロフ理論から予言されたスペクトルと矛盾のない結果を得ることができた。更に、分子スケールでは散逸領域を直接観測できるため、流体方程式からでは得られないミクロスケールのスペクトルを得ることができる。これにより初めて、ミクロな分子輸送とマクロな乱流との関係を捉えることができた。

古典的な流れのほかに、複雑な機能を持った物質の流れが交通流である。中でも、興味深い現象として交通渋滞が観測されている。この交通渋滞は細胞内でも観測されており、数十ナノメートルの巨大生体分子であるリボソームが渋滞を引き起こす。リボソームは、メッセンジャーRNAをたんぱく質へ翻訳する分子機械である。翻訳過程は、生物にとって基礎となる過程であり、外的環境変化に対する翻訳速度の変化は、遺伝病や細胞成長などに深く関係している。しかし、リボソームの構造の複雑さや、細胞内の混雑により解析が困難である。また、原子スケールのシミュレーションでは膨大な原子数が必要であるため、依然として数値計算も困難な状況である。そこで、翻訳過程の分子濃度や拡散効果を取り入れた粗視化された分子モデルを提案し、シミュレーションを行った。

リボソームは円筒形として粗視化し、内部の複雑な化学反応を簡単なルールで置き換えた。そのほかの分子は、球として粗視化し単純な力学モデルで表わす。水の効果は熱雑音であるとし、全ての粗視化分子は分子間力と熱揺らぎによって運動する。これらの簡単なモデルを用いて、リボソームがメッセンジャーRNA上を一方向に翻訳する過程を実現することができた。更に、複数のリボソームが同時にメッセンジャーRNAを翻訳する際、リボソーム密度が高くなると渋滞現象を起こすことが確認できた。この様子は、交通渋滞を記述する確率数理モデルと似たような性質を示している。しかし、確率数理モデルでは外的環境に対する影響を扱う事ができない。一方この粗視化モデルでは、翻訳速度の濃度依存性や温度依存性を見積もることができる。その結果、翻訳するたんぱく質の種類による温度依存性の違いが確認できた。また、翻訳とは無関係の分子によるクラウディングの効果を示唆する結果を得た。これらは、実験的に得られる可能性のある、理論モデルから提案される結果である。

以上をまとめると、分子スケールシミュレーションにより、様々な流れの発生について調査を行った。古典的な流れである熱輸送や乱流については、ミクロな輸送を簡単な分子モデルにより数ナノメートルから数マイクロメートルのスケールでシミュレーションを行った。複雑な機能を持つ分子であるリボソームの翻訳過程については、粗視化分子を用いて数十マイクロメートルのスケールの運動を、分子揺らぎを考慮したモデルによりシミュレーションを行った。これにより、ミクロな構造や輸送から、それぞれの大局的な流れの発生機構を明らかにした。本論文は、自然科学においてはミクロスケールとマクロスケールの物理学を繋ぐ出発点となり、工学においては流れを制御し応用するための基礎研究となることを期待する。

図:大規模シミュレーション向けに開発した可視化ツール

審査要旨 要旨を表示する

相対論・量子論とともに現代物理学の支柱をなす統計物理学は、熱平衡状態の分子論を端緒とし、非平衡状態の解明を目指して発展し始めた理論である。統計アンサンブルを使った熱平衡状態の理論が確立し、そこからのずれとして線型非平衡状態、さらには非線形非平衡を記述することを目標に研究が進められている。相対論が時空の記述、量子論が物理世界の分析を担当し、統計物理学は分析した結果の全体への統合を担っているのである。本博士論文は、分子スケールの模型に基づく大規模な粒子動力学シミュレーションにより、主に非線型非平衡現象を解析し、その結果をまとめたものである。題目「Simulation of Flow(流れの計算統計物理学)」にある「Flow(流れ)」は、平衡状態には巨視的な流れがないことに比し、非平衡状態は巨視的な流れにより特徴づけられることを踏まえたものである。

本論文では、メソスケールでの熱流から巨視的な動物の群れまで以下の問題を扱っている:

(3章)アモルファス固体の熱伝導

剛体球分子をランダムに配置したアモルファス固体中の熱伝導を、面心立方結晶構造の場合と分子動力学シミュレーションにより比較し、伝導機構を分析した。この研究はある種のアモルファス固体に見られる高い熱伝導率について、もっとも簡単な説明を与えるものと評価される。

(4章)乱流

剛体球分子を一千万個単位で使い、分子運動に基づいて乱流を再現し解析した。2次元のエンストロフィーカスケードおよび3次元コルモゴロフ乱流場を確認し、特に分子運動スケールと乱流カスケードとがどのように関係しているかを示す始めての理論研究と評価される。

(5章)遺伝子からタンパク質合成にいたる遺伝情報発現の流れ

m-RNA上を運動するリボゾーム分子がどのようにしてタンパク質を合成するか、特に合成速度を決める要因を明らかとするために、関係する生体高分子の粗視化模型を提案し解析した。リボソームの渋滞転移がタンパク質合成を律速する様子を再現した。さらに温度やt-RNAの濃度への依存性も解析し、実験結果の説明に成功した。

(付録)2次元空間中の動物群の逃避・捕獲

逃避者1を捕獲者1が追いかける問題は、戦術学の基礎として数学的な研究が長く続けられている。この問題への多体性の効果を解析するために、群れの逃避・捕獲運動の理論研究の試みを報告した。

以上の成果は、個々の現象論的な重要性および非平衡統計物理学上の意義は大きいものと評価される。さらに、こうした研究、特に乱流の解析を実現するために開発した、高速並列シミュレーションプログラムおよび可視化システムは高く評価される。扱える粒子モデルを剛体球・弾性球に限って最適化を徹底することにより、現在までに実用化されたプログラムの中では最高の性能を持つものと考えられる。具体的には、ノートブック型のパソコンで数百万粒子程度、デスクトップパソコンであれば数千万粒子程度を毎秒シミュレーションしつつ3次元描画することができる。大型のスーパーコンピュータを使うことにより、10000並列程度までは実用的であることも示され、1兆粒子規模の非平衡シミュレーションを実現することが可能であると推定される。この業績は、現在のスーパーコンピュータの発展と相俟って、複雑な巨視的な現象に対するナノテクノロジー開発の出発点としても高く評価できる。

よって本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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