学位論文要旨



No 127959
著者(漢字) 山川,紘一郎
著者(英字)
著者(カナ) ヤマカワ,コウイチロウ
標題(和) 分子の対称性と表面吸着効果に関する研究
標題(洋)
報告番号 127959
報告番号 甲27959
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7727号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 福谷,克之
 東京大学 教授 岡野,達雄
 東京大学 准教授 ビルデ,マーカス
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 常行,真司
 東京大学 教授 吉信,淳
内容要旨 要旨を表示する

1.序論

自然エネルギーへの関心が高まる近年、光触媒反応に代表される表面化学反応を対象とした研究が活発に行われている。一方で、現象論や反応効率の議論のみに終始せず、表面で起きる化学反応の各素過程を、物理的メカニズムから掘り下げた研究が求められている。表面化学反応の微視的解明には、分子の吸着状態、及び相互作用についての詳細な理解という理論的側面と共に、吸着分子の非破壊、高分解能測定という実験的側面の両方が必要不可欠である。筆者は、この両面からの課題克服を試みた。

前者に関しては、筆者は特に分子の持つ対称性に着目し、分子が気相でもつ対称性の考察と共に、その対称性が非断熱効果や表面への吸着によってどのように低下するかということについての考察を行った。

後者に関しては、非破壊、高分解能測定が可能な、フーリエ変換赤外吸収分光(FTIR)に注目した。本研究では、結合音に着目することで、分子の表面に対する重心振動状態の解明を試みた。また、光触媒水分解反応で重要となる水素分子や酸素分子のような等核二原子分子の振動は、赤外吸収を起こさないことが知られている。その一方、イオン結晶表面の電場によって誘起された電気双極子の効果で、水素分子の微弱な赤外吸収を測定したという先行研究がある。そこで、超高真空、極低温において、表面誘導双極子によるFTIR測定システムの構築に着手した。そして、上述した分子の対称性についての理論研究を活かし、誘導吸収FTIR測定結果について、新しい視点からの解析を行うことを試みた。

更に、理論的には予測されているが実験による生成が困難とされている新奇物質に着目した。それは、6つの水分子からなる環状水クラスター(環状水ヘキサマー)である。筆者が開発した誘導吸収FTIR測定システムを用いて、この新奇物質の生成に取り組んだ。

2.理論研究

分子の対称性に関して、以下の考察を独自に行った。

2.1.直線分子における鏡映操作について

系のハミルトニアンを不変に保つ対称操作に伴う変換性により、系の固有状態は分類されることが知られている。直線分子の場合には、分子軸を通る任意の面についての鏡映操作が対称操作として含まれる。そして、分子軸を通る任意の面についての鏡映操作に対して波動関数が不変、もしくは符号が反転する電子項は、それぞれΣ+項、Σ-項と呼ばれる。しかし、鏡映操作とそれに伴う変換性については、誤った説明が広くなされている。この現状を踏まえ、筆者は直線分子における鏡映操作について独自の考察を行い、いくつかの新しい結果を見出すことに成功した。具体的には、1電子項は一般にΣ-項となりえないことを示した。そして、2電子以上の場合に、1電子軌道からΣ+項およびΣ-項を構成する一般的な方法を導いた。また、関連したテーマである原子における鏡映操作についても考察した。

2.2二原子分子構成原理におけるWigner-Witmer則の導出

原子項の対称性が特定された2つの原子が会合して二原子分子を構成する状況を考える。この時、二原子分子のとりうる電子項の対称性は、元の原子項の対称性から制約を受ける。特に2つの原子が同一で、原子項も同一である場合に生じる制約は、Wigner-Witmer相関則と呼ばれる 。難解として知られるWigner-Witmer相関則のより明快な証明は、長きに渡り多くの研究者によって探求されており、筆者もまたその証明を試みた。まず、一般にスピン角運動量Jをもつ等価な2つのN電子系を考え、その合成系の全スピン角運動量が2J,2J-2,…(2J-1, 2J-3,…)の場合には2つの系の間のN電子交換に対して全スピン関数は対称(反対称)となることを厳密に示した。そして、この性質を用いることで、Wigner-Witmer相関則を物理的に明快な方法で導くことに成功した。

3.実験研究と考察

3.1 TiO2ナノチューブ上CO2のFTIR測定

光触媒として注目されているTiO2の中でも、特に表面への吸着状態が興味深いナノチューブ構造のTiO2を試料に選んだ。吸着子はCO2 とし、赤外活性な逆対称伸縮振動による赤外吸収を基板温度81 Kで測定することで、吸着サイトの分光、およびナノチューブ表面に対するCO2の重心振動状態の解明を行った。

3.2誘導赤外吸収

試料として、NaCl蒸着膜を作成し、この表面にCO2、H2、O2を吸着させ、FTIR測定を行った。基板表面はCaF2(111)を用いた。NaCl単結晶をタングステンコイル内に固定し、コイルに通電することでNaClを加熱し、基板温度16 Kで蒸着を行った。FTIR測定は試料作成後in situで行った。各種ガスはガスラインからパルスバルブを用いて曝露した。図1(a)にNaCl蒸着膜上水素分子のFTIR透過スペクトルを示す。基板温度は13 Kで測定された。水素分子の曝露量が少ない領域では4097 cm-1に1つの吸収ピークが確認されたが、曝露量が増すと4121 cm-1にもう1つの吸収ピークが観測された。文献値との比較から、前者は欠陥サイトに吸着した水素分子に、後者はテラスサイトに吸着した水素分子に各々対応する。図1(b)はNaCl蒸着膜上酸素分子のFTIR透過スペクトルである。基板温度13 Kで測定され、1549 cm-1に吸収ピークが検出された。図1(c)には、基板温度13 KでのNaCl蒸着膜上二酸化炭素分子のFTIR透過スペクトルを示す。フェルミ共鳴効果に対応して、1278 cm-1と1384 cm-1に2つの吸収ピークが確認された。以上の吸収ピークは、全て気相では赤外不活性な振動モードに対応するものであり、吸着によって生じた誘導双極子に起因する。表面電場によるシュタルク効果の観点から、これら誘導吸収ピークの、気相からの振動数シフトを考察した。

3.2水クラスター生成

基板温度13 KでNaCl蒸着膜に水素分子と水分子を共吸着させ、FTIR測定を行ったところ、水分子の伸縮振動に由来するブロードな吸収バンドに重なって、いくつかの離散的な吸収ピークが検出されている。文献値との比較より、3530 cm-1、3368 cm-1、3230 cm-1の吸収ピークは、各々水分子3つ、5つ、6つが水素結合によって形成されるクラスターであることがわかった。3230 cm-1の吸収ピークに対応する水ヘキサマーは、一般に知られているかご状構造を取っている。一方、3335 cm-1に対応する吸収ピークは、環状の水ヘキサマーに対応することが、文献値との比較からわかった。

図1. NaCl蒸着膜上(a)H2、(b)O2、(c)CO2のFTIRスペクトル。

基板温度はすべて13 K。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「分子の対称性と表面吸着効果に関する研究」と題し,孤立分子の持つ対称性と分子が表面に吸着する際の対称性の低下という観点から,論文提出者が行った研究の成果をまとめたものである.

論文は5章から成っている.

第1章は序論である.分子と表面吸着全般に関する研究背景を述べた後,本研究の主題である分子の持つ対称性と対称性の低下がもたらす現象に言及し,これを踏まえて研究の具体的な課題設定を行っている.

第2章では,「分子の基底状態,赤外吸収,および表面との相互作用」と題し,分子の固有状態に関する一般的な解説を行っている.電子状態と原子核の運動状態を分離する断熱近似,それに基づく電子状態・核の運動状態の記述,さらに同種粒子を含む分子の固有状態についてまとめた後,本研究で扱う分子の電子状態と振動状態の対称性について述べている.また分子間相互作用・分子と表面の相互作用について,静電力,分極の効果,ファンデルワールス力の点から整理して述べている.

第3章では,「分子の対称性に関する理論考察」と題し,論文提出者が行った理論考察の結果を述べている.3.1は直線分子の持つ鏡映対称操作に関する結果である.直線分子の持つ対称操作として「分子軸を通る任意の面に関する鏡映操作」が存在することを指摘した後,群論に基づきC∞vの点群に属する直線分子が,Σ+とΣ-と表される既約表現を持つことを述べている.これらのΣ+とΣ-表現の,鏡映操作に対する変換性を論じた後,具体的に1電子軌道を用いて電子項の表式を示すとともに,その表式がΣ+とΣ-の基底をなすことを示している.3.2では,分子における鏡映対称性に関する考察結果を原子系に応用し,原子項の分類とそれを用いた選択則の導出を行っている.3.3は,二原子分子の電子項を構成する規則であるWigner-Witmer相関則に関する結果である.まず,K点群同士の直積を既約表現に分解すると,対称積と反対称積で表されることを証明した後,2つの原子系の電子交換に対する対称性を考察することで,空間反転対称性とスピン多自由度の関係を整理し,Wigner-Witmer相関則の新たな証明を行い,その物理的意味を議論している.

第4章では,赤外吸収分光を用いて表面吸着分子を実験的に観測し,その吸着状態を議論した結果をまとめている.まず4.1では,実験装置の概要,赤外吸収分光法の原理に続き,本研究で用いたTiO2ナノチューブと多孔性NaCl薄膜試料の作製についてまとめている.4.2では実験結果を,また4.3では得られた結果に基づいた考察を述べている.まず初めに,TiO2ナノチューブにCO2分子を吸着させたときの赤外吸収スペクトルを測定し,~2350cm-1にα1-α5と名付けた5種類の吸収ピークを,3600と3708cm-1にα6,α7と名付けた2種類の吸収ピークを観測した.このうち,α1-α5がCO2の赤外活性な逆対称伸縮振動に,α6とα7は逆対称伸縮振動とフェルミ共鳴した対称伸縮・変角振動との結合音に帰属されることを述べた後,スペクトルの時間依存性の結果から分子の吸着エネルギーを評価し,さらにCO2被覆率依存性を調べることで,α1-α4はTiO2表面の異なるサイトに吸着したCO2に対応すると結論している.一方,α5については,α3とα5の吸収強度比が被覆率に依らず一定であることを示している.この結果に基づき,α5がCO2逆対称伸縮振動と分子重心振動との結合音であると結論し,重心振動の波数を22cm-1と求めている.重心運動の振動モードとしては,表面垂直と平行方向のモードが存在する.吸着サイトとしてC4v対称性を仮定すると,対称性の考察から表面垂直方向の振動モードのみが赤外活性になることを考察し,実験で観測された結合音は表面垂直モードであると論じている.続いて多孔性NaCl薄膜へのCO2,H2,D2,O2,の吸着実験の結果を述べている.まず,CO2の逆対称伸縮振動に相当する吸収に着目し,~2340cm-1に波数の異なる4つの吸収ピークを観測するとともに,単結晶表面での結果と比較することで薄膜の表面積を評価している.続いて,CO2については~1300 cm-1にフェルミ共鳴した対称伸縮振動,H2,D2,O2についてそれぞれ,~4100,~2950,1550 cm-1に伸縮振動に対応する吸収ピークを観測した結果を示している.これらはいずれも孤立分子では赤外不活性なモードであり,NaCl表面に吸着することで吸収を示すことを指摘している.さらに,CO2とO2は,気相の波数に対して~-5cm-1シフトしているのに対して,H2とD2は-20-60cm-1シフトしており,シフト量が分子種によって異なることを見いだしている.これらの分子はいずれもNaCl表面に物理吸着していること,NaCl表面には電場が存在すること,を考慮し,上記赤外吸収が表面電場により誘起された誘導双極子に起因すると結論している.さらに,分子種によるシフト量の違いを分子の分極の違いから議論している.

第5章は,本研究の結論であり,結果の要約が述べられている.

以上を要約すると,論文提出者は,分子の対称性に関する理論的考察と,TiO2ナノチューブと多孔性NaCl薄膜における分子吸着状態に関する実験的研究を行い,新たな知見を得た.これらの研究成果は,物理工学として顕著な貢献があったと評価できる.よって,本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる.

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