学位論文要旨



No 127960
著者(漢字) 山田,辰也
著者(英字)
著者(カナ) ヤマダ,タツヤ
標題(和) 微小液滴の高速観察によるマイクロスケールの物性測定
標題(洋)
報告番号 127960
報告番号 甲27960
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7728号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 酒井,啓司
 東京大学 教授 田中,肇
 東京大学 教授 土井,正男
 東京大学 准教授 富重,道雄
 東京大学 教授 伊藤,耕三
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

近年,インクジェット印刷や内燃機関のインジェクションなど,微小な液体の高速な流動を伴う工業プロセスが盛んになっている.これらの工業プロセスでは,液体の典型的な大きさはμm以下,ずり速度は106 s-1程度に達する.一方,表面張力計やレオメーターなど,従来の液体物性計測装置は,せいぜいmmオーダーまでのマクロな液体の性質を計測するものである.典型的な大きさ数μmの液体では,高分子や液晶などの分子の相関長が系の大きさに近づくことによりメゾスコピックな効果が生じるなど,マクロな液体とは異なる挙動が観察されている.そのため,従来のマクロな計測装置によって測定された値をそのまま用いることは不適当である場合が生じるおそれがある.

典型的な大きさ10 μm程度の微小な液体では,105 s-1を超える大ずり速度においても,Reynolds数は100以下となり,安定した流体の運動が観察される.本研究では,独自開発したインクジェット装置によって射出された半径数μm~数10μm程度の微小液滴の挙動を高速観察することにより,微小かつ大ずり変形を伴う液体の物性を直接的に計測する.

内径8~30 μmのガラス毛細管とピエゾ素子を組み合わせたオンデマンド型のインクジェットにより,強酸・アルカリ・粘度30 mPa s程度までの液体を射出することが可能になった.射出された液滴を観察するためにストロボ法を用いた.発光時間が100 ns程度と非常に短いパルスライトを照明として用いることにより,1μs以下の時間分解能で液滴の高速挙動を観察することができるようになった.これらの技術を用いて,以下の実験を行った.

微小液滴の振動観察による表面張力・粘度測定

インクジェットノズルを対向させ,射出される液滴を正面衝突させると,液滴は表面張力を復元力として振動する.この振動を解析することにより,微小な液体の高周波振動における表面張力・粘度を測定した.

微小振幅・低粘度極限において,液滴は表面張力を復元力として振動する.この固有周波数はω_l=√(l(l-1)(l+2)σ/ρR_0^3 )で表される.また,この振動は粘性散逸によって減衰し,減衰定数はγ_(l=2)=5η/ρR_0^2 となる.これより,液滴の振動の解析から表面張力σ,粘度ηを測定できる.

液体の粘度が大きくなってくると,振動に対する粘性の効果が大きくなり,振動は伝播領域から過減衰領域に移行する.このときのn次の振動の複素減衰定数をξ=γ-iωと定義すると,t→∞の漸近領域で,

(ζ=R√(ξ/ν))となることが知られている(Prosperetti 1980).ここでω_n0,γ_n0はゼロ粘性極限での次の周波数および減衰定数である.

この方程式より,無次元粘性パラメーターを定義し,これに対する無次元化した振動周波数Ω=((ρR^3)/σ)^(1/2) ωおよび減衰定数Γ=((ρR^3)/σ)^(1/2) γを求め,図1に示した.ε>0.76で振動が伝播領域から過減衰領域に移行することが分かる.これより,粘性の影響が大きい液滴の振動でも,漸近領域を解析することにより,液体の粘性パラメーターεを得ることができる.

粘度1~20mPa s 程度のいくつかの液体の液滴の振動を解析し,粘性パラメーターの実験値ε_expを見積もり,文献値から得られる粘性パラメーターε_litと比較し,図2に示した.水,シリコーンオイル標準粘度液や,グリセリン水溶液は,実験値と文献値がほぼ一致した.一方で,エチレングリコールとジエチレングリコールでは実験値が半分程度になった.

Eyringの理論によると,粘性は分子のHopping Processにより生じ,その緩和時間は活性化エネルギーをE_ηとして〓で与えられる.これは,今回実験に用いた比較的低分子の液体ではns以下,周波数にしてGHz以上の領域となる.

エチレングリコールなどの会合性液体は,分子内にヒドロキシル基を複数持ち,分子間で水素結合のネットワークを形成するために,分子量の割に大きな粘性を持つ.実験値の粘性パラメーターが文献値より小さくなったのは,水素結合のネットワークにより粘性緩和が遅くなることが原因だと考えられる.

不完全濡れ液滴の平衡形状観察による表面張力・界面張力測定

重力が無視できる条件で,水と油のような互いに溶けあわない液体液滴が接触したとき,結合液滴は平衡状態で表面エネルギーと界面エネルギーの総和を最小化する形状を取る.結合液滴の曲率を測定することにより,表面張力・界面張力の相対値を測定することができる.

部分濡れの条件σ_w<σ_o+σ_i (σ_w,σ_o,σ_iはそれぞれ水の表面張力,油の表面張力,水-油間の界面張力)のとき,結合液滴はYoung-Laplace 方程式

(H_w,H_o,H_iはそれぞれ水表面・油表面・水油界面の平均曲率)を満たす.また,三相界面で,ノイマンの三角形と呼ばれる表面張力と界面張力のベクトルの釣り合いの式

が同時に成り立つ.この2条件を満たす作図を図3(a)に示す.

不完全濡れ液体であるヘキサデカンおよびシクロヘキサン微小液滴をインクジェットで射出し,純水微小液滴と衝突させたところ,衝突後50μs程度で,図3(b)に示すような亜鈴状の平衡形状に至った.この写真から表面と界面の曲率を画像解析で求め,水滴,油滴の体積比から得られる理論上の平衡形状と比較したところ,ほぼ理論予測と一致した.

このようにして得られた結合液滴の形状から,逆に表面張力・界面張力の相対値を求めた.ここで,界面曲率は画像解析で直接測定することは困難なため,表面曲率と水-油体積比から見積もった.水-ヘキサデカンの場合を図4に示す.高速かつ非接触に表面・界面張力を測定することができていることが分かる. 今後,界面活性剤の表面吸着など,高速に表面・界面張力が変化する系の測定への応用が期待される.

固体基板上の微小液滴の濡れ挙動観察

微小液滴の基板に対する濡れ性,接触角の測定は,回路のパターニングなど,精密な位置制御を要求するインクジェット印刷には欠かせない技術である.

固体を完全に濡らす液体液滴を基板に接触させると,粘性抵抗を受けながらゆっくりと広がる.このとき,光学的に観察できる部分球形状の液滴の見かけの接触線の前方に,数Åの非常に薄い薄膜が存在することが知られている(図5(a)).これを先行薄膜という.

先行薄膜が存在するとき,見かけの液滴の広がりは,図5(b)に示すような接触線付近の薄いくさび状液体膜における粘性散逸で支配される.θ_aが十分に小さいとき,単位時間あたり粘性散逸と単位時間あたりに駆動力Fがなす仕事FVとの釣り合いより, V=θ_a F/3kηが成り立つ.先行薄膜が存在するとき,見かけの接触線に働く駆動力はF=σ(1-cosθ_a )=σθ_a^2/2となる.見かけの液滴の幅を2wとすると,液滴の体積はΩ=πw^3 θ_a/4であり、体積保存よりdΩ/dt=0である.以上より,見かけの液滴の接触角θ_aおよび幅w(t)は

という冪乗則に従うことが導かれる.これをTanner則という(de Gennes 1985).

水,炭素数2~4のアルコール,アルカン,シリコーンオイルなどについて,ソーダガラス基板に対する濡れ広がり挙動を観察した.液滴の広がり幅w(t)を画像解析により測定し,w(t)=k(t-t_0 )^nでフィッティングしたところ,実験に用いたすべての液体について,n=0.1に対して3割以内の範囲に収まっており,Tanner則が成り立っていることが確かめられた(図6).

過去の実験(Lelah&Marmur 1981)では,アルコール類に関してエタノールはn=0.3, イソプロパノールはn=0.2となるなど大きくTanner則とは異なる傾向が見られたが,今回の実験ではそのような現象は見られなかった.今回の実験では過去の例に比べ液滴体積は100万分の1,実験に必要な時間100万倍分の1程度であるため,液体の乾燥や重力の影響がはるかに少ないためだと考えられる.

まとめ

以上の通り,微小かつ高速に流動する液体系の高速観察を行った.これにより,ずり速度10^6 s^(-1)に及ぶ高速な流動における粘度や表面・界面張力,濡れ性を測定した.現在筆者は,マイクロカプセルやリポソームなど,内部構造を持つ液相構造体を液滴衝突による空中プロセスによって作製する研究に取り組んでいる.本研究の高速物性測定法は,自己組織化分子の構造化によってms以下の時間範囲で高速に変化する物性を測定し,液相構造体の形成プロセスを分析することに役立つと考えられる.

図1. 漸近領域における粘性パラメーターεに対する無次元化した周波数Ω,減衰定数Γ.∈>0.76で過減衰領域になる.

図2. 粘性パラメーターの実験値∈_expと文献値∈_litの比較.会合性液体であるエチレングリコール・ジエチレングリコールの粘性パラメーターの実験値が,文献値より小さくなっている.

図3. (a)水・油結合液滴の平衡形状の作図.(b)水-シクロヘキサン結合液滴.

図4. 水-ヘキサデカン結合液滴の平衡形状から求めた油表面張力σ_o,水油界面張力σ_iの水表面張力σ_wに対する相対値.赤点線,青実線はそれぞれ σ_i/σ_w, σ_o/σ_wの文献値を示す.

図5. (a)固体基板上で広がる完全濡れ液体液滴の模式図.(b)見かけの接触線付近の「くさび型」液滴.

図6. ソーダガラス基板上で広がる完全濡れ液体液滴の見かけの幅の時間変化.(a)アルコール類(b)シリコーンオイル.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「微小液滴の高速観察によるマイクロスケールの物性測定」と題し、高ずり速度かつメゾスコピックな環境にある液体の粘性、表面張力、濡れ性などの物性を、微小なノズルから射出された高速に運動する微小な液滴の観察により測定することを目的として行われたものである。

近年、インクジェット印刷や内燃機関のインジェクション、スピンコートによる液体膜形成など、微小な液体の高速な流動を伴う工業プロセスの利用が盛んになっている。これらの工業プロセスでは、液体の典型的な大きさはμm以下、ずり速度は106 s-1程度に達する。一方で、表面張力計やレオメーターなど従来の液体物性計測装置は、mmオーダーでのマクロな液体の性質を計測するものであり、これらの装置によって測定された物性値は、高速に流動する微小な液体の物性とは異なっていることが予想されている。また先行研究では、複雑流体の分子の相関距離が系の大きさに近づくことによるメゾスコピックな効果が知られている。このようなメゾスコピックな効果は、従来の測定装置では反映されないが、微小な流体を扱う工学では重要な現象となる。

本研究では、独自に開発したインクジェット装置によって射出された半径数μm~数10μm程度の微小液滴の振動、不溶性液滴の平衡形状、固体基板に対する濡れ広がりなどの挙動を観察し、高速に運動する微小な液体の物性を詳細に調べた。典型的な大きさが10μm程度の微小な液体では、106 s-1を超える大ずり速度においても、Reynolds数は100以下となるため、運動は層流領域にあり安定している。この性質により、ストロボ法による反復顕微撮影により液体の運動を1μs以上の極めて高い時間分解能で観察することが可能となった。これによって液体の運動や平衡形状を解析し、従来は測定が困難であった微小な液体の大ずり変形下での物性を直接的に計測する方法を開発した。

本論文は全6章から構成されている。

第1章の「序論」では、本研究の背景と目的、および本論文の構成について述べている。

第2章の「実験方法」では、本研究で共通して用いた実験手法、特に独自開発したインクジェット装置および射出された液滴のストロボ法による高速観察法、液滴の落下観察による精密な半径測定法について述べている。

第3章は「微小液滴の振動観察による表面張力・粘度測定」と題し、液滴の正面衝突によって引き起こされる高周波数振動を観察し、液滴の表面張力・粘度等の物性を測定した実験について述べられている。減衰時間が振動周期に対して無視できる程度の、比較的低粘度の液滴振動を観察することにより、表面張力と粘度を測定した。また高粘度の液滴では粘性係数を測定し、大ずり変形下における物性と、静的な測定による物性の違いを比較した。その結果、水やシリコーンオイル標準粘度液など、多くの液体で静的な物性値と動的な物性値は一致することが判明した。しかしエチレングリコールなどの水素結合によって分子間にネットワークを形成する会合性液体では、動的な粘度が静的な粘度より小さくなっていることが明らかになった。これは液滴の振動により引き起こされるずり流れにより、粘性緩和が起きていることを示唆する。従来、低分子液体の粘性緩和はGHz以上の領域で起きると考えられていたが、本研究により、会合性液体のMHz以下の領域において、水素結合による分子間のネットワークが関係する遅い粘性緩和が存在することが示唆された。

第4章は「不完全濡れ液滴の平衡形状観察による表面張力・界面張力測定」と題し、水と油のような互いに溶け合わない2種類の液滴が接触した時に生じる平衡形状の観察により、液体の表面張力および界面張力を測定した実験について述べられている。部分濡れの条件を満たす互いに溶け合わない二種類の液体の液滴が接触した時に生じる結合液滴の平衡形状の理論的考察により、二種の液体の表面張力、界面張力および液滴の体積比が与えられた時の表面・界面の曲率が理論的に求められた。インクジェットから射出された二種類の液滴を衝突させることにより生じる結合液滴の平衡形状を観察し、理論的考察の結果と実験結果を比較し、ほぼ一致することが示された。また、平衡形状の測定から逆に表面張力・界面張力を高速測定することに成功した。この方法は、 微小液滴の表面張力および界面張力を100μs程度の非常に高速な領域において非接触に測定した初めての例となっている。

第5章は「固体基板上の微小液滴の濡れ挙動観察」と題し、ガラス製基板に微小液滴を衝突させ、濡れ広がる液滴の挙動を観察した実験について述べられている。完全濡れの条件を満たす液滴を固体基板の接触させた時、先行薄膜を伴った液滴が表面張力と粘性散逸を釣り合わせながら広がるモデルから、Tanner則として知られる液滴の見かけの幅・接触角に対するべき乗則が得られる。体積数μL程度の液滴を用いて行われた先行研究では、アルコール類に対してTanner則は成り立たないことが知られていた。本研究では、体積数pL程度の水、アルコール、シリコーンオイルなどの液滴の濡れ広がりを測定し、いずれもTanner則に従うことが明らかにされた。

第6章は「結論」と題し、本論文の内容を簡潔にまとめている。

以上のように、本研究ではインクジェットから射出された微小液滴の観察により、様々な液体の物性を測定する方法を確立した。 また、従来のマクロな測定法では測定できなかった領域の物性測定を行うための指針を示している。本研究の成果は、今後ますます進歩する高速な流動を伴う微小な流体の工学における物性測定法のスタンダードとして不可欠であると同時に、複雑流体の理論的研究にも大きな影響を及ぼすものであることから複雑流体科学全般へのインパクトが大きく、物理工学への貢献も大きい。 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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