学位論文要旨



No 127961
著者(漢字) 凌,霄
著者(英字)
著者(カナ) リン,ショウ
標題(和) 分子モーターキネシンのATP加水分解反応を制御する仕組み
標題(洋)
報告番号 127961
報告番号 甲27961
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7729号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 富重,道雄
 東京大学 教授 前田,康二
 東京大学 教授 土井,正男
 東京大学 教授 野地,博行
 東京大学 教授 樋口,秀男
内容要旨 要旨を表示する

キネシンは、ATPを加水分解しながら細胞内の微小管上を一方向に連続移動し、物質の輸送に寄与するモータータンパク質である。最近の研究により、キネシンはヒトが歩くように2足歩行運動をしていることが明らかになった(ハンドオーバーハンドモデル)。キネシンがこのように2つの頭部を交互に踏み出して進むためには2つの頭部(別々の分子)間での協調性が欠かせないが、その仕組みについては理解が進んでいない。私は頭部間をつなぐネックリンカーと呼ばれる部位に着目し、それぞれのネックリンカーにかかる負荷を介して2つの頭部がATP加水分解のサイクルを制御し合い、連続的に運動できるというモデルを考えた。本研究では、ネックリンカーに関する様々な変異体を作成し、生化学分析や1分子蛍光観察に加えクライオ電子顕微鏡法などの様々な手法を用いて、ネックリンカー部位がキネシン頭部のATP加水分解反応を制御する構造基盤を明らかにすることで、キネシンの協調的な2足歩行運動メカニズムの理解を目指した。

1.キネシンのATP加水分解反応に対するネックリンカー変異の影響

ネックリンカーとはキネシン二量体の2つの頭部をつなぐ部位でありATP加水分解反応に伴って頭部に強くdockingする。この構造変化によって浮いたもう一方の頭部を進行方向へ投げ出す(パワーストローク)ことがキネシンの連続的な運動に重要であると考えられてきた(Rice, Nature, 1999)。キネシンがhand-over-handモデルで連続的に運動するためには、両頭部結合状態において後頭部が微小管から解離するまで前頭部が先に解離してはいけない仕組み(front head gating)が必要である。私は作業仮説として、ネックリンカーの頭部へのdockingは頭部のATP加水分解に必要であると考えた(図1)。この仮説が正しいとすれば、両頭部結合状態では前頭部のネックリンカーは後へピンと引っ張られているため、dockingが妨げられて加水分解が進まずに解離できない。一方、後頭部ではネックリンカーが前へ引っ張られるためdockingが容易に起こり正常に解離できる。よって、上記のfront head gatingの仕組みを説明できる。

この仮説を検証するために、まずはネックリンカーの欠失変異体を作成してそのATP加水分解活性を測定したところ、ネックリンカーを完全に欠失させると酵素活性はほとんど失われた。つまりATP加水分解のためにはネックリンカー部位が必要不可欠であることが確かめられた。続いてネックリンカー上のどのアミノ酸が加水分解に寄与しているかを詳しく調べるために、様々なアラニン置換変異体を作成し活性の測定を行った。その結果325番目のイソロイシン(I325)を置換した変異体は他のどの変異体よりも酵素活性が著しく低下した(図2)。つまり、キネシン頭部のATPの加水分解の制御にはI325が最も大きく寄与していることがわかった。

2.ネックリンカーの疎水アミノ酸のATP加水分解制御における役割

I325残基がどのように加水分解反応に寄与しているのかを調べるためにATP結合前後のキネシンの結晶構造を比べたところ、ATP結合状態では頭部にできた疎水的な隙間を埋めるようにI325の側鎖が結合していた。過去には、この結合がネックリンカーのdockingあるいはATP結合状態の頭部全体の構造を安定化しているというモデルも提案された(Vale and Milligan, Science, 2000)が実験的に確かめられたことはなかった。そこでこの考えを確かめるためにI325を他のアミノ酸に置換した変異体を作成した。

まずATP加水分解活性を調べたところ、疎水性のアミノ酸については側鎖が小さくなるにつれて活性は低下していった。それに対して親水性のアミノ酸では側鎖の形に関わらずほとんど活性を示さなかった。次にこれらの変異体のネックリンカーが正常にdockingできるかを1 mM AMPPNP存在下で一分子FRET法(Tomishige et al NSMB 2006)を用いて調べた。その結果、疎水性アミノ酸では側鎖が小さくなるにつれてdocking状態をとる頻度は下がり、親水性アミノ酸ではほぼundock状態をとっていた。よって、I325の疎水的でかつ大きな側鎖は、キネシン頭部での加水分解とネックリンカーの安定的なdockingの両方に必須であることがわかった。さらにネックリンカーのdockingの頻度はATPase活性と強く相関しており(図3)、I325が頭部の疎水ポケットを塞ぐことで加水分解反応を促進させるというモデルを支持するものである。

3.クライオ電子顕微鏡法によるATP加水分解反応を制御する構造基盤の研究

上記の結果よりI325の側鎖が頭部の疎水ポケットを埋めることで加水分解反応を促進することが示唆された。しかし疎水ポケットとATP結合部位はキネシン頭部を挟んで反対側に位置しているため、直接作用することは出来ない。これを説明するために、私はATP結合に伴う頭部の回転を介して疎水ポケットとATP結合部位の間でアロステリックな情報のやり取りが起きているというモデルを考えた(図4)。

微小管のマイナス端方向から見たときATPの結合に伴い頭部全体が反時計回りに回転し、ATP結合部位は閉じて反対側では疎水ポケットが開く。このときI325がこのポケットを塞がなければ、疎水性の側鎖が溶液中に露出し不安定な状態になるため、頭部は逆向きに回転して元へ戻ろうとする。一方、I325が疎水ポケットを塞いだ場合は頭部の回転が安定化されて加水分解が進むというモデルである。このモデルが正しいとすればI325を側鎖が最も小さいG(グリシン)に置換してしまう(I325G)とヌクレオチドが結合しても頭部が回転した状態を安定に取れないことが予想される。そこで、I325G変異体が微小管上でどのような構造状態をとっているのかをクライオ電子顕微鏡法を用いて詳細に調べることにした。なおこの実験に関しては東京大学医学系研究科の吉川研究室との共同研究である。

野生型キネシンではATP結合状態をとると知られているAMPPNP存在下で観察したところ、ヌクレオチドは結合しているがネックリンカーはdockingしていない構造であった。しかし頭部全体としては、回転前のapo状態とも回転後のATP-like状態とも異なる新たな構造であった。最近当研究室ではキネシンの詳細な結晶構造解析からキネシンは微小管上でATP加水分解に伴って構造変化を起こすが、そのときキネシン内部では大きく3つのドメインに分かれてそれが一塊として構造変化していることが明らかになった(Makino 2011)。そこで、I325Gの結果をドメインごとに細かく見て行くと前側(ドメインF)はapo状態によく合っており、後ろ側(ドメインR)はATP-like状態により合っていた(図5)。つまりドメインごとに異なるヌクレオチド状態の構造をとっていた。この結果は、頭部はATP結合に伴って一気に回転するのではなく、ドメインごとに順番に構造変化していくこと示唆しおり、I325Gではその構造変化が途中で止まってしまったと考えられる。このドメインごとの連動した動きを考慮すると、I325Gの結果は以下のように説明できる。ATP結合によってまずドメインRが回転し、それに伴ってドメインFも回転するが、頭部の疎水性ポケットが開く(図6)。しかしI325をグリシンに置換しているので疎水ポケットを埋められず、ドメインRが回転後、ドメインFが回転前という反応の中間状態で停止してしまう。

以上、クライオ電子顕微鏡観察によってI325G変異体は、AMPPNP存在下でも頭部が回転した状態を安定的には取れないことがわかり、I325の疎水ポケットへの結合がキネシン頭部のドメイン間の連動を促進し加水分解反応を進めていることを示唆していた。これらの結果はキネシンのATP加水分解反応に関する新たな知見を与えるものである。

4.まとめと考察

上記の様々な実験結果を基に、キネシン頭部のATP加水分解反応におけるネックリンカーの役割を示すモデルをたてた(図6上)。まずは頭部からADPが解離して微小管上に結合する。続いて頭部へのATP結合に伴って最初にドメインRが時計回りに回転する。次にドメインFが回転して頭部の疎水ポケットが開く。このポケットをI325の側鎖が埋め、さらにネックリンカー全体がdockingすることで初めてドメインFの回転が安定化され、加水分解反応が進む。加水分解が終了してADP状態になると微小管から解離する。

さらにこのモデルを用いれば、キネシンダイマーの協調性に関する重要な未解決問題である"front head gating"の仕組みを説明することが出来る(図6下)。つまり両頭部結合状態では前頭部のネックリンカーは後へ引っ張られているためにI325が疎水ポケットを埋めることが出来ず、ATPの加水分解が進まずに微小管から解離しない。一方後頭部ではネックリンカーが容易にdockingできるため微小管解離がスムーズに起きる。これによって後頭部は選択的に解離し、キネシンは連続的に運動している。

図1.ネックリンカーによる加水分解の制御を表すモデル

図2.アラニン置換変異体のATPase活性測定

図3.I325変異体のネックリンカーの docking頻度と加水分解速度の関係

図4.ATP結合に伴う頭部の回転

図5.I325G変異体のCryo電子顕微鏡による観察結果

図6.モノマーのATP加水分解反応サイクルとダイマーのATP協調的な運動を説明するモデル

審査要旨 要旨を表示する

キネシンは、ATPを加水分解しながら細胞内の微小管上を一方向に連続的に移動し、物質輸送に関わるモータータンパク質である。最近の研究によりキネシンは2足歩行運動をしていることが明らかになったが、このような運動を行うためには2つの頭部(別々の分子)間での協調性が必要である。2頭部間の協調性には頭部をつなぐネックリンカー部位への負荷が重要であると考えられてきたが、その具体的な仕組みはまだわかっていない。申請者は、ネックリンカーと頭部との相互作用がATP加水分解の促進に必要であり、前頭部ではネックリンカーが後ろに引っ張られて相互作用できないために、ATP加水分解やそれに続く微小管からの解離が阻害されるという仮説を立てた。本論文はこの仮説を検証し、ネックリンカーがキネシン頭部のATP加水分解を制御する構造基盤を明らかにすることを目標とし、様々なネックリンカー変異体について生化学的測定や詳細な構造解析を行った結果をまとめたものである。

本論文は、以下の8章から構成され、英文で書かれている。

第1章では、キネシンについて明らかになっている事実および未解決問題をまとめた上で、本研究の概要が述べられている。

第2章では、研究に用いた実験試料の調製法および、各種生化学測定や1分子観察さらにはクライオ電子顕微鏡法などの観測技術の原理・方法が説明されている。

第3章~第5章では、ネックリンカーがキネシン頭部の加水分解に与える影響を明らかにするために、この部位を欠失させたり一部を別のアミノ酸に置換した変異体のATP加水分解活性を測定した結果について述べられている。まずネックリンカーを完全に欠失させたところ酵素活性はほとんど失われた。続いてネックリンカー上の様々な部位をアラニンに置換したところ、325番目のイソロイシン(I325)を置換したときのみ酵素活性が大きく低下した。さらにI325残基を様々な別のアミノ酸に置換したところ、側鎖の形が小さいあるいは親水的なアミノ酸では酵素活性が大きく低下した。以上の結果から、キネシン頭部のATP加水分解にはネックリンカー部位が必要不可欠であり、特にI325側鎖とキネシン頭部との相補的な疎水性相互作用が最も重要であることが明らかになった。

第6章では、ネックリンカー変異体における律速過程を明らかにするために、ATP加水分解サイクルの各ステップの速度を測定した結果について述べられている。5章で大きな活性の低下を示したI325G変異体について計測したところ、キネシンが微小管に結合する過程やADP解離の過程、およびATP結合過程の時定数は野生型とほぼ同じであったが、ATP加水分解に伴う微小管からの解離速度は野生型に比べて10倍以上も低下した。よってI325の置換によってATPの加水分解以降の過程が律速となって活性が低下し、微小管から解離しにくくなることが明らかになった。

第7章では、ネックリンカーが頭部の加水分解反応を制御している構造基盤を明らかにするために行われた詳細な構造解析の結果について述べられている。I325と頭部の相互作用がATP加水分解過程に重要であると示唆されたが、I325と相互作用する頭部の疎水ポケットはATP活性部位とはキネシンの頭部を挟んで反対側に位置しており直接相互作用できない。そこで申請者はATP結合に伴う頭部の回転を介して疎水ポケットとATP結合部位の間でアロステリックな情報のやり取りが起きているというモデルを考えた。このモデルを確かめるためにI325G変異体のATP結合状態の頭部の構造をクライオ電子顕微鏡法を用いて高分解能で観察を行った。その結果I325G変異体は飽和AMPPNP存在下で、頭部の回転が途中までしか進行していない新たな中間状態をとっていることがわかった。この結果は前述のモデルを支持するものであり、I325側鎖が頭部の疎水ポケットを埋めることでATP結合に伴う頭部の回転状態を安定化することにより、反対側にあるATP活性部位での加水分解過程を促進するという構造モデルが示唆された。

8章では、本研究で得られた成果をもとにキネシン頭部での加水分解がネックリンカーによって制御される構造モデルが提案され、キネシン2頭部間の協調性の説明がされている。

以上のように、申請者はネックリンカー部位に着目した様々な変異体を作製し、それらがキネシンの加水分解活性や構造変化に与える影響を詳細に調べることによって、キネシンがATP加水分解のエネルギーを効率的に使って2つの頭部を交互に動かすための具体的な構造基盤を明らかにすることに成功した。これはキネシンの運動機構の理解に大きく貢献するにとどまらず、タンパク質内部で複数ドメインにおける加水分解反応を互いに協調させて効率よく方向性のある運動を生み出す、という生命のエネルギー変換メカニズムの本質に迫るものであり、その学術的価値は高い。よって本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認められる。

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