学位論文要旨



No 127972
著者(漢字) 石橋,亮
著者(英字)
著者(カナ) イシバシ,リョウ
標題(和) 拡張ナノ空間を用いた液体クロマトグラフィーの研究
標題(洋) Study of Liquid Chromatography Using Extended Nanospace
報告番号 127972
報告番号 甲27972
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7740号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北森,武彦
 東京大学 教授 高井,まどか
 東京大学 教授 鄭,雄一
 東京大学 教授 藤井,輝夫
 東京大学 教授 藤田,誠
 東京大学 准教授 馬渡,和真
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

近年、単一細胞プロテオミクス等において、極微小試料を高分離効率、高速で分離可能なデバイスが求められている。ここで、高速液体クロマトグラフィー(HPLC)は最も一般的な分離手法である。しかし、現状の充填粒子を用いたクロマトグラフィーには限界があり、単一細胞体積(pLオーダー)以下の試料を高分離効率、高速で分離可能なクロマトグラフは存在しない。一方、当研究室では数十~数百nmスケール(拡張ナノ空間)のチャネルの加工法や圧力流体制御法を確立し、微小空間を活かしたアプリケーションも開発してきた。また、拡張ナノ空間内の水(プロトン性溶媒)はバルク水に比べて高粘度、低誘電率であることなどの特異的な性質も報告してきた。このような拡張ナノ空間は体積がaLオーダーと小さく、比界面積が大きいので、充填粒子を用いずにチャネル壁面を固定相とみなしてクロマトグラフィー分離が可能であると着想した。これにより、従来のHPLCの限界を打破する、aLオーダーの超微量な試料を高分離効率、高速で分離可能なデバイスが可能であると考えた。また、拡張ナノ空間に特異的な物性を活かした、新しい原理での分離も期待できる。しかしこれらを達成するためには、バルクやマイクロ空間に比べて拡散が支配的な拡張ナノ空間でのaLオーダーの試料のインジェクションや、未開拓の拡張ナノ空間内での分離現象の解明や分離性能の評価が必要である。

そこで本研究では、aLオーダーの試料を高分離効率、高速で分離可能な、拡張ナノ空間を用いた革新的なクロマトグラフィーの確立を目指す。具体的には1) aLオーダーの試料インジェクションのための新規流体制御システムの開発、2)拡張ナノ空間を用いたクロマトグラフィーの確立と分離性能の評価、3)拡張ナノ空間の特異性が誘起される水系移動相を用いた分離への展開について取り組んだ。

2.aLオーダーの試料インジェクションのための新規流体制御システムの開発

2-1. 原理:拡張ナノ空間内のaLオーダー試料のインジェクション

圧力駆動流を用いたインジェクション手法を図1に示す。三方向から同じ圧力を加えることにより試料をローディングし、続いて右側の圧力を大気開放し、一定の時間(Δt)後に上側の圧力を開放し、試料を分離チャネルにインジェクションした。既存のシステムでは、この圧力の切り替えが1秒のオーダーであった。ここで、試料バンドは1秒間に数10 μm拡散し、マイクロチャネルではこの拡散による影響は無いが、チャネル幅が数100 nmの拡張ナノ空間では大きく影響する(図1)。よって、拡散が支配的な拡張ナノチャネルでインジェクションを行うためには、圧力切り替えが速い新規流体制御システムが必要である。

2-2. aLインジェクションのための流体制御デバイスの開発

まず、拡張ナノチャネルの両端をマイクロチャネルで挟み込む設計にし、確実で迅速な溶液置換が可能であると考えた(図2a)。

圧力制御システムは、コンプレッサーで発生させた圧力をタンクに最大4 MPa溜め、ソレノイドバルブを10ミリ秒以内で開閉することにより圧力の印加を制御した(図2b)。さらに、ソレノイドバルブをシークエンサーにより制御することにより、10ミリ秒の時間分解能で制御することを可能にした。

また、圧力損失が大きい拡張ナノチャネルで、従来のHPLCと同程度の流速(mm s-1)で解析を行うためには数MPa必要である。そこでチップホルダーの素材をすべてステンレスにし、配管は溶接により耐圧性を増した(図2b)。

2-3. aL試料インジェクションの実証

深さ200 nm、幅900 nm、長さ1.2 mmのローディングチャネルと分離チャネルを有する石英ガラス製のマイクロチップを用いて蛍光試料をインジェクションした。

図3にΔtを変化させた時の、インジェクションのクロマトグラムを示す。この評価法から、最小180 aLの切り取り体積の試料インジェクションを達成したと計算される。またインジェクションの開始時間原点を確定することに成功した。

本システムによりこれまで困難であった、単一細胞の体積(pL)よりも6桁小さいaLオーダー試料のインジェクションに成功した。これにより拡張ナノ空間を用いたクロマトグラフィーが初めて可能になる。

3.拡張ナノ空間を用いたクロマトグラフィーの確立と分離性能の評価

水系のプロトン性の移動相を用いた分離では、拡張ナノ空間のサイズと特異性の情報が混在し評価が困難である。そこで、非プロトン性、非極性溶媒を移動相に用いる順相系であれば拡張ナノ空間の特異性の寄与を排除し、サイズのみによる分離の評価が可能であると考えた。

3-1. 原理:順相クロマトグラフィーと分離の評価

順相クロマトグラフィーでは、チャネル壁面との親水性相互作用が大きい試料程壁面に保持され遅く移動する(図4)。親水性相互作用が無い分子は保持されず移動相と同じ速度で移動し、分離がおこる。

分離効率を表す理論段高さにより分離を評価した。充填カラムを用いない系の理論段高さHは拡散定数Dmol、流速u、チャネル深さd、定数f0を用いて以下のように表される。

式1と実験結果を比較することで、現象の解明や性能を評価する。

3-2. 順相クロマトグラフィーの分離と評価

固定相としてチャネル壁面(シラノール表面)、移動相としてトルエン、試料にPyrromethene 597(P597)とCoumarin 460(C460)を用いた順相クロマトグラフィー分離をした。2試料の混合溶媒をインジェクションし、インジェクション部から1100 μm地点で得た4回の試行のクロマトグラムを図5に示す。2つの試料は再現的に分離され、従来の充填カラムを用いたHPLCよりも11桁小さい試料量(数 fL)のインジェクション試料を、2桁速い分離時間(4秒)での分離を達成した(表1)。

この分離の評価をするためのVan Deemterプロットを図6に示す。最小の理論段高さは2.3 μmであり、分離効率としての理論段数は440,000 段/mであった。これはHPLCの結果よりも一桁大きい値である。また、実験結果が理論(式1)に合致したことから、この高効率な分離は、チャネル深さ方向へ拡散する時間が充分に速く無視できることに起因することが分かった。また、式1を用いて拡張ナノ空間を用いたクロマトグラフィーに内在する最大の分離効率が7,000,000 段/mと算出でき、従来のHPLCよりも2桁大きい分離効率のポテンシャルがあることが分かった。

本手法は試料量、分離時間、分離効率において従来の充填カラムを用いたHPLCの限界を桁単位で突破する革新的な分離デバイスである。また、分離が理論と合致したことから分離効率を設計することが可能になる。実際に、分離チャネルを1.2から5.2 mmに、チャネル深さを200から400 nmに増やし、総理論段数(理論段数にチャネルの長さをかけた値)をHPLCと同等の103段となるように設計した。その結果、図5、6では700段であった総理論段数が、2,100段の高い分離能となることを実証した。

4.拡張ナノ空間の特異性が誘起される水系移動相を用いた分離への展開

本項では水系溶媒を用いた親水性相互作用(HILIC)モードと逆相モードを行い、拡張ナノ空間の特異的な現象について考察する。

4-1. HILICによる分離

固定相としてチャネル壁面(親水性)、移動相として水:アセトニトリル = 20:80(親水性)、試料としてFluorescein(Flu)とSulforhodamine B(SRB)を用いた際、4秒以内の分離が達成された。この分離のVan Deemterプロットを図7に示す。実験値が理論値よりも小さい値をとり、理論よりもバンドの広がりが抑制されていることが示唆された。これは、拡張ナノ空間の特異性により流速分布が理論からずれ、Van Deemter理論が崩れることに起因することが考えられるが、今後原因を解明していく。

4-2. 逆相クロマトグラフィーによる分離

一般的にタンパク質は、親水性の移動相と疎水性の固定相を用いる逆相クロマトグラフィーで分離する。そこで、チャネル壁面をTrimethylsilyl(TMS)基で疎水修飾し逆相クロマトグラフィーをした。FluとSRBを用いた分離が、TMSカラムを用いたHPLCの結果と一致したので逆相クロマトフィーを達成した。また、蛍光標識したBSAを用いた結果を図8に示す。試料バンドがピークとして検出され、拡張ナノ空間を用いたクロマトグラフィーはタンパク質にも適応可能であることが示された。タンパク質の分離の条件については今後検討する。

5. 結言

本研究では、拡張ナノ空間を用いた革新的なクロマトグラフィーを確立した。具体的には1)aLオーダーの試料インジェクションのための新規流体制御システムの開発、2)拡張ナノ空間を用いたクロマトグラフィーの確立と分離性能の評価、3)拡張ナノ空間の特異性が誘起される水系移動相を用いた分離への展開について取り組んだ。本研究は、試料量、分離時間、分離効率のいずれにおいても従来の充填カラムを用いたHPLCの限界を桁単位で突破する革新的な分離デバイスであり、分子生物学で単一細胞の溶解液などの極微量の生体試料の分析、また超高速分離を活かして薬剤のスクリーニングの分野の発展に大きく貢献するものと期待できる。

図1. インジェクション法と拡散

図2. マイクロチップ(a)と流体制御システム(b)

図3.Δtを変化した際のインジェクションの様子

図4.順相クロマトグラフィーの原理

図5.順相モードによる混合試料のクロマトグラム

図6. Van Deemterプロット

表1.分離性能の比較

図7.HILICモードのVan Deemterプロット

図8.蛍光標識BSAの、逆相クロマトグラフィー条件でのクロマトグラム

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、拡張ナノ空間(数10~1000 nm)の流路を用いた新しい液体クロマトグラフィー(拡張ナノクロマトグラフィー)を創成し、その性能や分離科学に関する研究結果をまとめたものである。近年、単一細胞プロテオミクス等において、極微小試料を高分離効率、高速で分離可能な新しい分離手法が求められている。現在、主として液体クロマトグラフィーが用いられているが、充填粒子の孔内部を分離場として用いるクロマトグラフィーには性能に限界があり、単一細胞体積(pLオーダー)以下の試料の高効率、高速分離は非常に困難であった。そこで本研究では、充填粒子の孔と同程度のサイズの拡張ナノ空間を直接分離チャネルとして用いることで充填粒子を排除し、従来の限界を突破する革新的な液体クロマトグラフィーを創成することを目的とし、以下のような章の構成とした。

第1章 緒言

第2章 極微量インジェクションのための高圧・高速流体操作法の開発

第3章 拡張ナノクロマトグラフィーの確立と分離性能の評価

第4章 拡張ナノ空間の特異性が誘起される水系移動相を用いた分離への展開

第5章 結言と今後の展望

以下、各章について簡単に説明する。

第1章では、従来の液体クロマトグラフィーの微小化に関する背景を述べ、さらなる発展のための従来法の課題を明らかにした。次に、この課題を解決する手段として、拡張ナノクロマトグラフィーの着想をまとめた。また、拡張ナノ空間に関する研究の発展過程や、拡張ナノ空間に特異的な水物性についてまとめた。さらに、拡張ナノクロマトグラフィーを達成するための課題として(1)aLオーダーの試料インジェクションのための新規流体制御デバイスの開発、(2)拡張ナノ空間を用いたクロマトグラフィーの分離現象の解明と分離性能の評価、(3)拡張ナノ空間の特異性が誘起される水系移動相を用いた分離への展開の3つを挙げ、本研究の目的を明らかにした。

第2章では、拡張ナノクロマトグラフィーの実現のために必要なaLオーダーの試料インジェクションのために必要な高圧、高速の圧力操作法を開発し、従来のHPLCのインジェクション量よりも7桁小さい180 aLの再現的なインジェクションを初めて実証した。また、インジェクションの際のバンド幅の上昇の定式化も達成した。これらにより、単一細胞(pL)よりも小さいaLオーダー体積のインジェクションの流体制御がはじめて可能になり、クロマトグラフィーや免疫分析、DNA分析などの拡張ナノ空間を用いたアプリケーションへの応用が期待できる。

第3章では、拡張ナノ空間を用いた順相クロマトグラフィーを確立し、拡張ナノ空間の特異的な効果を排除し、サイズ効果のみによる分離の性能評価を達成した。その結果、従来のHPLCよりも7桁小さい試料量を2桁速い分離時間で、2桁大きい分離効率での分離を実証した。また、実験結果が理論式と合致することに着目し、高い分離効率について考察した。その結果、拡張ナノ空間を用いて充填粒子を排除したことにより、原理的に分離効率が上昇したことを明らかにした。これにより本研究は、従来のHPLCの充填粒子の使用による試料量、分離時間、分離効率の限界を、桁単位で打破した革新的なクロマトグラフィーであることを実証した。

第4章では拡張ナノ空間の特異性が誘起される水系の移動相を用いた分離へ展開した。親水性相互作用クロマトグラフィーを達成し、バンド幅の増加が従来のバルクのVan Deemterの理論と異なる挙動を示すことを見出した。またこの挙動は溶媒の組成比に影響されることを明らかにし、拡張ナノ空間内の水の特異物性による流速分布の崩れが発生する可能性を指摘した。今後さらなる解明により、拡張ナノ分離科学の解明や従来のクロマトグラフィーの分離原理の解明が可能になると期待できる。また逆相クロマトグラフィーを達成し、従来よりも6桁少ないタンパクの分子数で分析が可能であることを示した。

第5章ではこれまでの研究をまとめた。また今後の展望として、拡張ナノの分離科学や従来のクロマトグラフィーの分離原理の解明のための研究ツールとしての展開、また応用として単一細胞分析の一枚の基板への集積化による、単一細胞の溶解液の高効率な分離、リアルタイム分離への展開について紹介した。

以上要約したように、本研究では拡張ナノ空間を用いた液体クロマトグラフィーを創成した。その結果、従来のクロマトグラフィーの性能の限界を打破する新しいクロマトグラフィーを実現した。これにより、単一細胞分析などの極微量試料を高効率に分離分析するデバイスを提供するとともに、拡張ナノ空間内の溶媒物性や分離原理の解明のための研究ツールとしても重要になると期待できる。

以上、原理の提案、装置開発から革新的分離性能の実現まで、従来のクロマトグラフィーの限界を突破する新しい方法を創成した。従って、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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