学位論文要旨



No 127975
著者(漢字) 清水,久史
著者(英字)
著者(カナ) シミズ,ヒサシ
標題(和) 熱レンズ顕微鏡による単一分子分析法の研究
標題(洋) Study of Single Molecule Analysis Using Thermal Lens Microscope
報告番号 127975
報告番号 甲27975
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7743号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北森,武彦
 東京大学 教授 上坂,充
 東京大学 教授 佐久間,一郎
 東京大学 教授 田畑,仁
 東京大学 教授 野地,博行
 東京大学 准教授 馬渡,和真
内容要旨 要旨を表示する

1. 緒言

近年、マイクロ化学システムや単一細胞分析が発展し、更に小さな拡張ナノ(10-1000 nm)空間を利用した研究も現れるなど、分析場が微小化の一途を辿っている。このような微小空間では検出体積の減少により検出分子数が減少し、単一分子分析が求められる。従来、単一分子分析にはレーザ誘起蛍光法が用いられてきたが、検出対象が蛍光分子に限られるため、大多数の分子は単一分子研究の対象とはならなかった。それに対して当研究室では、これまでに熱レンズ顕微鏡(TLM)を開発し、非蛍光性分子の高感度検出に取り組んできた。具体的には、時間平均で7 fL中の0.4分子に相当する濃度を検出し、金属ナノ粒子やλ-DNAを一つ一つカウンティングすることにも成功した。しかし、従来のTLMは明視野検出であり、プローブ光のバックグラウンドが高いため、極めて微弱な信号の検出が困難であった。そのため、金属ナノ粒子に比べて吸光係数が2桁以上小さい通常の小分子のカウンティングや、光路長が1000 nm以下と短い拡張ナノ空間内の測定が困難であった。

そこで、微分干渉(DIC)観察法をTLMに導入することでバックグラウンドフリーな測定を実現し、単一分子カウンティングや拡張ナノ空間内の分析を可能にできると着想した。しかし、液相中の熱拡散のスケールは数μmと大きいため、通常のDIC光学系での検出は困難で、専用光学系の設計・開発が必要となるなど技術的課題が多数存在する。

以上を踏まえ、本研究の目的は熱レンズ顕微鏡による単一分子分析とした。具体的には、(1) 微分干渉熱レンズ顕微鏡(DIC-TLM)の創成、(2) 単一分子カウンティングの実現、(3) 拡張ナノ空間内の分析への応用とした。

2. 微分干渉熱レンズ顕微鏡の創成

第2章では、DIC-TLMを開発し原理を検証した。具体的には、液相中でDIC-TLMの原理を実現するために専用のDICプリズムを新規に設計・製作し、装置を開発した。次に、バックグラウンドフリーの効果と信号の発生メカニズムを確認した。

2.1. DIC-TLMの原理

TLMは励起光によって試料を加熱し、μK程度の温度変化に伴って誘起された屈折率変化(熱レンズ効果)を検出する装置である。従来のTLMは、図1(A)に示すように熱レンズ効果によって屈折したプローブ光の光密度変化を測定していたが、この変化は元のプローブ光の強度に比べて非常に小さい(~1/1000)ため、高バックグラウンドな測定となっていた。

ここで、TLMによる濃度定量とカウンティングの違いを説明する。濃度定量は積算時間を1秒とし、検出部に存在する分子の個数平均(濃度)を測定する。一方、液相中の分子はブラウン運動によって検出部を数ミリ秒で通過するので、積算時間を1ミリ秒とすると目的分子の通過をイベントとして検出できる。これをカウンティングと呼ぶ。濃度定量では積算時間が長いため、バックグラウンドの揺らぎが平均化され単一分子レベルの濃度定量が可能となる。しかし、カウンティングでは積算時間が短いため、バックグラウンドを取り除いて揺らぎを低減しない限り単一分子測定は困難である。

そこで、DIC-TLMでは図1(B)のようにプローブ光を2本に分離し、再び進路を合成した後に干渉させることで強度を0とする。ここで、一方のプローブ光側の屈折率が変化すると、光の進む速度が変化し位相にずれが生じる。これにもう一方のプローブ光を干渉させると、位相差分が打ち消されずに信号として取り出される。屈折率変化がないときはプローブ光が打ち消されるため、バックグラウンドフリーな測定が実現する。

2.2. 実験装置

以上の原理を液相で実現するためには、DICプリズムが重要となる。通常、光学顕微鏡に用いるDICプリズムは光線分離幅が0.5 μm程度である。一方、熱レンズ効果の半径に相当する熱拡散長l [m]は変調周波数f [Hz]と溶媒の熱拡散係数D [m2s(-1)]を用いて

で表され、水中では7 μm程度である。そのため、光学顕微鏡用のDICプリズムでは図2(A)に示すように両方のプローブスポットに熱が発生し、高感度な測定ができない。そこで、分離幅を拡大したDICプリズムを新たに設計した。分離を大きくするために材質を水晶から方解石に変更し、図2(B)に示す分離幅5.3 μmのDICプリズムを製作した。図3に装置図を示す。励起光には波長488 nmのAr+レーザ、プローブ光には633 nmのHe-Neレーザを用いた。

2.3. 原理検証の結果と考察

まず、図4に示すように干渉によってプローブ光強度は1/100に減少した。また、Sunset Yellow FCF水溶液の濃度定量で信号とバックグラウンドの強度比(S/B比)を測定したところ、従来のTLMに比べて10倍向上していた。これにより、バックグラウンドの低減効果を確認した。

次に、信号の発生メカニズムを確認するために励起光の偏光面を回転させながら測定した。結果を図5に示す。励起光の偏光面が±45°のとき励起光は分離されず、位相差が発生して信号値は最大となった。一方、偏光面が0°のときは励起光も分離され、位相差が発生せず信号値はほぼ0となった。この結果より、信号が位相差に由来することを確認した。

3. 単一分子カウンティング

第3章では、液相中の非蛍光性分子の単一分子カウンティングに取り組んだ。まずDIC-TLMのカウンティング性能を評価し、単一分子の測定系を検討した後にカウンティングを行った。また、カウンティングの性能向上を目指してDIC-TLMを改良した。

3.1. カウンティングの実験

カウンティング性能の評価には、金ナノ粒子(直径5 nm)の水溶液を用いた。単一分子カウンティングには、ポルフィリン化合物のクロロホルム溶液を用いた。

3.2. カウンティングの結果と考察

金ナノ粒子のカウンティング結果を図6に示す。従来と比較して信号とノイズの比(S/N比)が10倍に向上していた。これより、S/B比の改善によってS/N比が向上したと結論付けた。

単一分子の測定系について、通常の分子の吸光係数は金ナノ粒子に比べると2桁以上小さい。一方、有機溶媒を用いれば熱レンズ信号を増幅することが可能である。これらの影響を考慮して、モル吸光係数105 M(-1)CM(-1)のポルフィリンのクロロホルム溶液について信号が検出可能と見積もった。単一分子のカウンティング結果を図7に示す。S/N比が3程度の単一分子と見られる信号が多数検出されたが、本手法は選択性がないため、不純物微粒子とみられる信号も検出された。そのためこれらを統計的に区別することが必要であるが、検出部を通過した分子の数に対して検出された信号の数が1%と非常に少ないため、単一分子検出の証明にはS/N比の改善が不可欠であった。そこで、バックグラウンドを極限まで低減することによって性能を更に向上できると考えた。具体的には、2個の対物レンズを上下対称に配置した光学系を採用することにより、バックグラウンドを限界まで低減してS/B比を1桁向上した。今後、この新しい装置を用いて単一分子検出を証明していく。

4. 拡張ナノ空間内の計測

第4章では、DIC-TLMを拡張ナノ空間内の分析へと応用した。まず、拡張ナノ空間内において初めて高感度な濃度定量を実現した。次に、これを拡張ナノ流体デバイス(例として、拡張ナノクロマトグラフィー)へと応用した。

4.1. 拡張ナノチップを用いた実験

石英ガラス基板上に電子線リソグラフィーとプラズマエッチングを用いてナノ流路を作成した。試料は圧力駆動法を用いてナノ流路内に導入した。まず、幅21 μm、深さ500 nmの流路とSunset Yellow FCF水溶液を用いて拡張ナノ空間における濃度定量の性能を評価した。拡張ナノクロマトグラフィーの実験装置を図8に示す。固定相をシリカ表面、移動相をヘキサンとし、幅2.3 μm、深さ250 nmの流路を用いて非蛍光性の色素Sudan IとSudan Orange Gを分離した。

4.2. 拡張ナノ空間内の濃度定量およびクロマトグラフィーの結果

拡張ナノ空間は熱拡散長よりも小さい空間であるため、試料溶液から石英ガラスへの熱移動が起こる。このとき、温度上昇に伴って溶液の屈折率が低下するのに対して、ガラスの屈折率は上昇する。そのため、これらの屈折率変化が相殺し感度が低下する。そこで、変調周波数fを大きくして熱拡散長lを小さくすることで屈折率変化の相殺を軽減できると考えた。その結果、図9に示すように熱拡散長4.5 μmでS/N比が最大となり、高感度な測定が可能になることが分かった。サンセットイエロー水溶液の検量線を図10に示す。検出限界は250 aLの中の390分子となり、DIC-TLMを用いることで拡張ナノ空間内の非蛍光性分子の高感度濃度定量に初めて成功した。

また、拡張ナノクロマトグラフィーのクロマトグラムを図11に示す。積算時間を100ミリ秒とすることによりピークが良好に分離された。また、ピーク面積の検量線では直線関係が得られ、定量性能を実証した。

5. 結言

本研究では、TLMによる単一分子分析を初めて実現した。具体的には、(1) DIC-TLMの創成により、(2) 単一分子カウンティングを実現し、(3) 拡張ナノ空間内の計測に応用した。今後は、紫外励起型のDIC-TLMを開発し拡張ナノ空間で生体分子の無標識単一分子検出を目指す。従って、本研究はマイクロ・ナノ化学チップと組み合わせることによって単一細胞・単一分子分析のための新しい検出法を提供するものと考える。

図1. (A) 従来のTLM (B) DIC-TLMの原理

図2. (A) 光学顕微鏡 (B) DIC-TLM用のDICプリズム設計

図3.DIC-TLMの装置図

図4. 干渉前後のプローブ光の写真

図5. 励起光偏光面と信号値の関係

図6. 金ナノ粒子カウンティング結果 (A) 従来のTLM (B) DIC-TLM

図7. 単一分子カウンティング結果

図8. 拡張ナノクロマトグラフィーの実験装置

図9. 拡張ナノ空間における熱拡散長と信号値の関係

図10. 拡張ナノ空間における濃度定量の結果

図11. 非蛍光性分子のクロマトグラム

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、非蛍光の単一分子検出を目的とした微分干渉熱レンズ顕微鏡の創成と、拡張ナノ(101-103nm)分析システムへの応用についてまとめたものである。近年、マイクロチップや単一細胞分析に代表されるように微小空間内の分析化学が大きく発展している。微小空間では、体積が小さくなることから検出分子数も少なくなり、単一分子検出という極限の性能が求められている。しかし、分子の大多数を占める蛍光を持たない分子については単一分子検出法の実現は困難であった。また、拡張ナノ空間というマイクロ空間よりも3桁も小さな極限分析場ついてもどうように検出は困難であった。そこで本研究では、非蛍光性分子を高感度に測定できる熱レンズ顕微鏡に着目して、従来の熱レンズ顕微鏡が有するバックグラウンドが高いという原理的な問題を解決する新しい原理を創成して、さらに拡張ナノ分析システムへ応用すべく、以下のような章構成とした。

第1章 歴史的背景と今後の分析手法への要求および研究の目的

第2章 微分干渉熱レンズ顕微鏡の創成

第3章 単一分子カウンティングへの応用

第4章 拡張ナノ空間内の濃度定量への応用

第5章 拡張ナノクロマトグラフィーへの応用

以下、各章について簡単に説明する。

第1章では、まずマイクロ・ナノ化学の発展について歴史的背景を述べ、今後の分析手法に対する要求を述べた。次に、微小空間に適用可能な検出法についてまとめ、この要求を満たす分析手法として有望な熱レンズ顕微鏡の開発過程について述べた。更に、従来の熱レンズ顕微鏡が抱える問題点を明らかにし、1)バックグラウンドフリーを実現する熱レンズ顕微鏡の開発、2)単一分子カウンティング、3)拡張ナノ空間内の濃度定量への応用、4)拡張ナノクロマトグラフィーへの応用の4つを課題として、研究の目的と意義を明らかにした。

第2章では、バックグラウンドフリーを実現する微分干渉熱レンズ顕微鏡を創成した。具体的には、光学顕微鏡の観察法の1つとして知られている微分干渉観察法を熱レンズ顕微鏡に導入し、微分干渉熱レンズ顕微鏡を開発した。特に、熱レンズ測定専用の微分干渉プリズムを新たに設計・製作することで、液相中で微分干渉の原理を初めて実現した。そして、この原理を実現する装置を構築し、この原理を検証した。その結果、レーザー誘起蛍光法と同様に非蛍光性分子のバックグラウンドフリー測定が初めて可能となった。これにより従来の熱レンズ顕微鏡の原理的限界を打破する新しい方法を実現した。

第3章では、微分干渉熱レンズ顕微鏡をカウンティング測定に応用した。まず、金ナノ粒子を試料として条件の最適化を行い、カウンティングの性能を評価したところ従来の熱レンズ顕微鏡に比べて10倍向上していることが分かった。更に、非蛍光の単一分子と考えられる信号を検出することに初めて成功した。また、カウンティング性能を更に向上するための光学系の改良に成功した。これにより、従来蛍光分子しか扱えなかった単一分子化学の対象となる分子を、近赤外から紫外までの波長領域に吸収を持つ分子に大きく拡大し、非蛍光の単一分子化学という新たな領域を開拓した。

第4章では、微分干渉熱レンズ顕微鏡を拡張ナノ空間内の濃度定量に応用した。拡張ナノ空間内の熱レンズ測定における問題点を明らかにし、これを解決するために条件を最適化することで、拡張ナノ空間内で光吸収による高感度な濃度定量に初めて成功した。また、流路の大きさと信号値の関係を実験と計算の両面から明らかにすることで、より小さな空間内で、より高感度な測定を実現するための指針を得た。これにより、拡張ナノ空間にこれまで存在しなかった非蛍光の検出器の開発を通じて、拡張ナノ化学という新たな分野を創成した。また、熱レンズ顕微鏡を用いて単一のナノポアやナノチューブ内の化学を解明するための基盤を築いた。

第5章では、微分干渉熱レンズ顕微鏡を拡張ナノクロマトグラフィーに応用した。クロマトグラフィーに必要な時間応答および定量性能について検証し、拡張ナノ空間内に分離・検出を初めて集積化することに成功した。これにより、拡張ナノ空間を用いた革新的流体デバイスの開発が大きく進展した。

第6章では、これまでの研究をまとめた。また、今後の展望として、励起光に紫外光を用いた微分干渉熱レンズ顕微鏡と、拡張ナノ流体デバイスを用いた単一細胞分析について紹介し、今後生命科学の研究を始め医療分野にも大きく貢献できることを示した。

以上、従来の熱レンズ顕微鏡の限界を打破する新しい原理の熱レンズ顕微鏡を創成して、装置開発から拡張ナノシステムへの応用まで展開した本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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