学位論文要旨



No 127998
著者(漢字) 五十嵐,潤
著者(英字)
著者(カナ) イガラシ,ジュン
標題(和) 緑膿菌および他のグラム陰性菌におけるクオラムセンシング(Quorum Sensing)を標的とした新規抗菌剤システムの開発と医療応用
標題(洋)
報告番号 127998
報告番号 甲27998
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7766号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅,裕明
 東京大学 教授 油谷,浩幸
 東京大学 教授 酒井,寿郎
 東京大学 講師 須磨岡,淳
 東京大学 准教授 村上,裕
内容要旨 要旨を表示する

論文概要

細菌クオラムセンシング(Quorum Sensing、以下QSと表記)とは、シグナル分子を利用して細菌間コミュニケーションを行ない、自らの細菌数に応じた遺伝子発現の制御を行なう機構である。医療分野においてQSが引き起こす重要な問題は細菌性の慢性疾患症状に深く関与していることであり、グラム陰性菌では毒素発現だけでなく多剤耐性化の一因となるバイオフィルムや多剤排出ポンプの発現を制御している。筆者は緑膿菌QSシグナル分子であるオートインデューサー(Auto Inducer、以下AIと表記)をモデルにした阻害剤を新たに創出し、単剤あるいは既存抗菌剤と併用する事で緑膿菌を含めたグラム陰性菌に対し多剤耐性菌発生の抑制が望める新しい抗菌システムの開発と医療応用を目指すため研究を行なった。

本論文では、第1章で細菌クオラムセンシング研究の背景と本研究の目的を述べ、本研究結果であるQSアンタゴニストの効果を2章に分け報告する。第2章では農業分野で問題となるグラム陰性菌のモミ枯れ細菌(B. glumae)に対する効果を評価し、第3章では医療分野で問題となるグラム陰性菌の緑膿菌(P. aeruginosa)に対する効果を評価した。

第2章では、モミ枯れ細菌(B. glumae)に対しQS阻害スクリーニングを進めAI受容体阻害剤である3oxoC6-E9CとAI合成酵素阻害剤であるC8-J8を見出した。さらに、それぞれの病原性の抑制評価だけでなくフィールドテストまで評価を行ない、モミ枯れ細菌病の病害を抑制した(図1)。引き続きAI合成酵素阻害剤であったC8-J8については、阻害機構を解明するためにそのX線結晶構造解析まで行ない機能解析やC8-J8の認識部位を明らかとした(図2)。これらの知見から新たなAI合成酵素阻害剤の開発につながる知見が得られた。

第3章では、モミ枯れ細菌に対し効果を示した3oxoC6-E9Cをリード化合物に新たにピリミジノン環を共通構造とするQSフォーカスライブラリーを構築し新たなQSアンタゴニストの探索を行ない、各QSアンタゴニストの水溶液中安定性まで評価した(図3)。次にフローセルモデルを用いた緑膿菌バイオフィルム形成抑制評価を行なった。さらに抗生物質Tobramycinを併用した場合の評価を進め、QSアンタゴニストがTobramycinの効果を増強したことを確認した(図4)。

緑膿菌感染症でQS阻害剤が注目される理由は、理論上、QS阻害剤の耐性株は発生しにくいと予想されるからである。QS阻害剤が作用を失う場合として作用点の酵素の変異が考えられるけれど、細菌QSはAI合成酵素とAI受容体で構成されるため、いずれか一方に突然変異が起きてQS阻害剤の効果が激減しても細菌そのものもQSを活性化することができず、結局は病原性の発現が大きく低下することが予想される。このことがクオラムセンシングを対象とした研究の本質を知る上で重要な背景である。

第2章におけるモミ枯れ細菌(B. glumae)の今後の展望として、第1に化合物の毒性評価が重要なカギであると考えている。ヒトへの毒性ばかりでなく環境残留性や環境毒性を評価する必要があり、結果によっては毒性低減のための誘導体合成を行なう必要がある。第2にその病害抑制効果のスペクトルを評価する必要がある。農業分野では多様な細菌が土壌中に存在するために、試験株で効果があっても実際の病害を起こした地域で効果を示すか知るためには十分な評価が必要である。また、複数の細菌に効果があることは商業的に重要な要素であり、モミ枯れ細菌にしか効果がない場合の商品化は難しいと考えられる。しかしながら、モミ枯れ細菌だけに効果があるだけでも既存商品にはない効果のため差別化できることから、今後の安全性の結果次第では十分な商品化の可能性はあると考えている。第3にはC8-J8とMTAの関係性から明らかにされた新規薬剤開発の可能性である。この化合物は広くグラム陰性菌のAI合成酵素を阻害できる可能性が示唆されていることから広い抗菌スペクトルが期待できる。ただし、モミ枯れ細菌の評価でもAI合成酵素阻害剤は完全にAI合成を止めることができなかったため競合拮抗作用では効果が望めない可能性もある。さらに親和性を高める必要もあるため、その化合物開発は大変興味深い。

第3章における緑膿菌(P. aeruginosa)評価での現在の問題点として、評価に用いた3oxoC6-E9CとTobramycinとの併用効果では完全に緑膿菌を死滅するまでには至らなかったことであり、QSアンタゴニスト、併用した抗生物質、バイオフィルム中の緑菌を検出する方法といういずれにも改善の余地が感じられた。

今後の展望として、ピリミジノン誘導体はこれまでにない構造を持つ化合物であることから、受容体との親和性を評価するためのモデルのドッキングを行なえば新たな化合物デザインも行なえる可能性がある。また、現在のフローセルを用いた評価系も改良の余地があり継続して評価を行なう必要があると考えられる。また、少なからず3oxoC6-E9CによるTobramycinの効果増強が認められたため動物を用いた試験に移行する価値は十分あると考えている。

本手法はQSを標的とした多剤耐性菌発生の抑制が望める新しい抗菌システムの開発が期待できる成果である。医療分野に限らず農業分野への応用も可能である点に言及している。

特記事項

・第2章のモミ枯れ細菌を用いた研究は、Seoul National UniversityのIngyu Hwang教授との共同研究の一環で行なわれた。

図1: QS阻害剤の投与によるモミ枯れ病の防除効果。モミ枯れ細菌のQS阻害スクリーニングから3oxoC6-E9Cは受容体阻害効果を示しC8-J8は合成酵素阻害効果を示した。またいずれの化合物も、試験場での評価で病害の発生をほぼ抑制した。

図2: モミ枯れ細菌のシグナル分子合成酵素TofIとC8-J8のX線結晶構造解析。(A,B)アポ型酵素に存在する青ドットで示すスペースにC8-J8は位置していた。(C,D)C8-J8の各置換基と相互作用を示す酵素中のアミノ酸残基の解析が行なえ、(E)図中灰色で示すポケットの構造から、C8-J8はアルキル基側から酵素内部に取り込まれる機構が示唆された。

図3: ピリミジノン環を共通構造とするQSフォーカスライブラリーの合成法と高活性QSアンタゴニストの水溶液中安定性。上記の一般式で示される約40種類の化合物を準備し、緑膿菌QS/GFPレポーター株によるスクリーニングを実施した。高活性な化合物は水溶液中安定性を評価した。

図4: QS阻害剤(3oxoC6-E9C)と抗生物質を併用した場合の緑膿菌バイオフィルム形成阻害効果。GFPを恒常的に発現する緑膿菌とフローセルシステム、共焦点レーザー顕微鏡を用いてQSアンタゴニストのバイオフィルム形成阻害評価を行なった。3oxoC6-E9Cと抗生物質の併用で、抗生物質の殺菌効果が増強され厚さが半減した事を確認した。

審査要旨 要旨を表示する

五十嵐 潤の緑膿菌および他のグラム陰性菌におけるクオラムセンシングを標的とした新規抗菌剤システムの開発に関する研究は、細菌クオラムセンシングに関するものであった。この研究は薬学、細菌学の学術分野(社会的には医療分野での多剤耐性菌の発生を回避する新規薬剤システムの提案について)に大きく貢献していた。

本論文では、第1章で細菌クオラムセンシング(以下、QSと略)研究の背景と本研究の目的を述べ、本研究結果であるQSアンタゴニストの効果を2章に分け報告していた。第2章では農業分野で問題となるグラム陰性菌のモミ枯れ細菌(B. glumae)に対する効果を評価し、第3章では医療分野で問題となるグラム陰性菌の緑膿菌(P. aeruginosa)に対する効果を評価していた。

本論文のQS研究における位置づけは、次のとおりである。1996年初頭にGreenbergらがV.fisheriのLuxR対して、ほぼ同時期にIglewskiらが緑膿菌(P.aeruginosa)に対して天然型オートインデューサー(以下、AIと略)をモチーフとしたAIアナログ研究を報告したことがAHLs型のQS制御法の研究の始まりであった。これまでの主な研究では、Givskovらが天然の海藻から抽出された化合物をリード化合物に誘導体が合成されたフラノン化合物を報告し、SmithらがAIのHSL環の代わりに多様な化合物に置換し、固相合成でライブラリーサイズを拡大したAIアナログライブラリーを報告し、Muhらが2万種類のランダムライブラリーからのスクリーニングを報告し、そしてBlackwellらのAIのHSL環を生かしたPHLライブラリーを報告したことがあげられる。しかしながら、水中安定性の低いホモセリンラクトン環を有する化合物群は水中安定性を十分検証せず評価しているため臨床応用は難しいという課題を含んでいた。また、フラノン化合物やライブラリーから1種類の細菌に対しスクリーニングされた化合物は、1種類の細菌に対して非常に効果が高かったものの複数の細菌には効果を示すことが難しいという課題を含んでいた。

それに対し本論文では、水中安定性に優れたピリミジノン環化合物が複数種の細菌QS阻害効果を示し、緑膿菌では抗生物質との併用で抗生物質の殺菌効果の向上作用があることを明らかとした点、またAI合成酵素の阻害剤を見出しこれが広範囲の細菌に作用する可能性を示した点という2点がQS研究のなかでの新しい知見と考えられた。

具体的な研究内容では、モミ枯れ細菌(B. glumae)に対しQS阻害スクリーニングを進めAI受容体阻害剤である3oxoC6-E9CとAI合成酵素阻害剤であるC8-J8を見出し、それぞれの病原性抑制評価だけでなくフィールドテストまで評価を進め、その有用性を確認している。また、C8-J8という化合物のX線結晶構造解析からAI合成酵素を効果的に阻害するための新たな知見が得られた。この合成酵素は多くの細菌に共通の仕組みで働くことから、広範囲な細菌に作用する新規化合物の開発の可能性が期待できた。また、3oxoC6-E9Cはモミ枯れ細菌(B. glumae)だけでなく緑膿菌(P. aeruginosa)にも単剤もしくは既存の抗生物質との併用で有意な緑膿菌バイオフィルムの阻害効果が得られることが示唆された。本研究では見出すに至らなかったが、さらなる高活性な新規化合物の開発の可能性が期待できた。

審査では、総括にあげているC8-J8とMTAを利用した高活性体合成戦略において、論文ではアミド結合の構造を維持したままリンカーで結合する方法を提案していた。そこで、アミド結合に代わりスルホンアミド結合やホスホン酸エステル結合へ変更することで、C8-J8とMTAを結ぶリンカーの修飾部位を得るだけでなくアミド結合を有する化合物よりも酵素との強い親和性が期待できる新規化合物の開発の可能性が議論された。

本審査会委員は総意のもと、五十嵐潤の学位請求論文は博士(工学)の学位授与に資すると認め、合格の判定を下した。

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