学位論文要旨



No 128009
著者(漢字) 菅原,慎悦
著者(英字)
著者(カナ) スガワラ,シンエツ
標題(和) 日本の原子力立地地域における原子力安全に係るリスク・ガバナンスの研究
標題(洋)
報告番号 128009
報告番号 甲28009
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7777号
研究科 工学系研究科
専攻 原子力国際専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 木村,浩
 東京大学 教授 長﨑,晋也
 東京大学 教授 田中,知
 東京大学 教授 城山,英明
 東京大学 客員教授 谷口,武俊
内容要旨 要旨を表示する

1. 緒言

本研究の問題意識は,原子力のリスク・ガバナンスは如何にあるべきか,というものである。リスク・ガバナンスとは,「危険な活動の運営を可能ならしめる,政治的,社会的,法的,倫理的,科学的,技術的な要素の集合」1)を指す非常に広い概念であるが,本研究では,日本の原子力施設立地地域における,原子力安全に係るリスク・ガバナンスを扱う。その理由として,立地地域が原子力利用の潜在的リスクを抱える地域であること,日本では安全規制における国と地方の役割分担が問題となっていること,等が挙げられる。

以上を踏まえ,本研究の目的は,日本の原子力立地地域における安全規制の執行段階に着目し,(1)そのリスク・ガバナンスの実態を解明し,背景要因を分析した上で,(2)他国・他産業の類似事例との比較を行い,(3)現状の課題を克服しうる制度設計案を提示すること,である。本研究は,日本の原子力安全規制の具体的改善に資するほか,科学技術と意思決定の問題を扱う科学技術社会論等の観点からも大きな意義を持つ。

以下,2章では立地地域におけるリスク・ガバナンスの現状を整理し,3章でその特徴や課題,背景要因等を考察する。4章及び5章では,他国・他産業の類例を取り上げて制度設計に資する示唆を得る。6章では,上記の分析結果や示唆を踏まえ,より望ましいガバナンスのあり方について具体的な制度設計提案を行う。

2. 立地地域におけるリスク・ガバナンスの現状:自治体の関わり方を中心に

日本では,原子力施設の運転段階において,関係自治体に何らの権限は付与されていない。しかし,関係自治体は,地域住民の安全確保等を目的として,事業者との間に「安全協定」を締結している。安全協定の運用を通した自治体関与のあり方を整理すると,環境モニタリングのような安全の実体面への関与から,事業者からの情報入手,事前了解における検討など,多様な形で原子力安全に関与してきたことがわかった。特に,リスクをめぐる立地地域の意思決定という点で重要な事前了解については,関係者へのインタビュー調査を行い,浜岡原子力発電所のプルサーマル計画実施に係る了解プロセスを中心に,他の立地地域における同事例と比較しながら,その全体像を描出した。その結果,事前了解のプロセス設計やアジェンダ設定は案件の性質や地域事情等に応じて多様であり,柔軟な運用が為されていることが示された。

3. 現状のリスク・ガバナンス構造 の分析

現状のガバナンス構造の特徴としては,立地地域における情報共有の仕組みを自治体が補っていること,原子力の安全確保活動に対する信頼性を付加する役割を自治体が担っていること,事実上の社会的意思決定が自治体首長によって行われていること,が挙げられる。他方,現状の問題点として,「法治主義」や「正統性」概念と衝突する可能性,社会的意思決定プロセスの不透明性,リスク・ガバナンスのあり方がリスクを低減する方向に機能していなかった可能性,が指摘できる。こうしたガバナンスが現出した構造的課題として,原子力施設の運転段階における自治体関与の制度的空白,原子力施設の運転に関する情報を立地地域に対して適切に伝える仕組みが用意されていないこと,規制や政策の決定過程における地域関係主体の参加機会が不十分と認識されてきたこと,規制機関の制度的位置づけが十分な信頼を得られていないこと,規制機関の能力への信頼も不十分であること,科学的不確実性の扱い方に疑義がもたれたこと,等が挙げられる。

4. フランス地域情報委員会の事例分析

本章では,関係者へのインタビュー調査をもとに,フランス地域情報委員会(CLI)の運営状況を整理し,CLIがガバナンス上で果たしている役割を考察した。その結果,2006年以降制度化されて安定した存立基盤を得たCLIは,(1)関係諸主体間の双方向コミュニケーションの媒体,(2)地方議員等の参加による地域の実情に合致した活動の実施,という役割を果たしていることが明らかとなった。また,独特の地方自治制度や地方議会と住民との関係,既存の市民参加手法などが,CLIの活動を担保・補完してきたといえる。ただし,日本の自治体のように,CLIが事実上の意思決定を行う例は見られず,CLIは情報共有や議論の場であり,運転に係る規制権限はあくまでも規制当局(ASN)に帰属している点が特徴的である。以上の分析を踏まえて,原子力施設をめぐる日本とフランスの自治体関与のあり方を比較し,両国のローカル・コンテクストの差を踏まえつつ,フランス事例から日本への示唆を導出した。その結果,(1)原子力規制体系への自治体の位置づけの明確化,(2)事業者及び規制機関と自治体との双方向コミュニケーションの回路の確保,(3)規制目的としての「透明性確保」の明示化,(4)「共同事実確認」的手法の活用,の4点が示唆として得られた。

5. 公害防止協定の事例分析

公害防止協定は自治体の環境政策手法の一つであり,原子力安全協定とほぼ同様の内容や性質を持つが,安全協定と異なり,学界・実務界において肯定的評価を得ている。そこで,千葉市・千葉県の担当課へのヒアリングをもとに公害防止協定の運用実態を考察し,安全協定の運用に対する示唆を得た。その結果,公害防止協定の運用においては,地域事情等を考慮して自治体と事業者の交渉の下に設定された具体的な排出基準値が,運用上の基準として機能していることがわかった。社会的事情の考慮は排出基準値の交渉・策定段階で行われ,協定運用段階においては一貫性が保たれている。これは,案件に応じて多様な社会的事情が斟酌され,運用の核となる基準が明確でない安全協定の場合と対照的である。ここから,安全協定の運用改善に向けた示唆として,(1)協定運用上の核となる客観的基準の設定と運用の一貫性確保,(2)自治体の持つ専門知の適切な活用,の2点を導出した。

6. リスク・ガバナンスの制度設計案の提示

3章で指摘した課題を制度設計の観点から再整理すると,規制機関のあり方に関する課題,規制と立地地域との関係をめぐる課題,等に分けられる。本章では,まず第一案(独立規制機関+説明責任明確化案)で,リスク・ガバナンス上適切な規制機関のあり方を検討した。しかし,第一案の内容に加えて,立地地域の関係主体を巻き込んだ形での制度設計がこれまでの分析から望ましいと考えられるため,4章及び5章で得た示唆をもとに,自治体の制度的位置づけとその関わり方について,第二案(環境モニタリング法定受託事務化案),第三案(日本版地域情報委員会設置案),第四案(規制機関と自治体との協議案)の3案を検討した。

第二案~第四案は,いずれも,独立性を高めた国の規制機関が技術的判断を行うと同時に,立地地域等からの意見を聞いて最終的な判断を行うという仕組みになっている。これに対して第五案(規制権限の自治体への委譲案)では,自治体が深く関与する上で必要なレベルの専門知を具えるべく規制権限等を設定するという設計思想の下,都道府県が規制権限を持つと同時に,立地地域の意見等を聞く仕組みも用意した。

以上の5つの案では,原子力安全協定の役割を制度設計に汲みいれていない。しかし,仮に上記の案が実現に向かう場合でも,短期的には協定による自治体関与が残ることもありうる。そこで第六案(安全協定の運用改善案)では,協定存続を前提に, 5章で得た示唆をもとに協定運用基準の明確化を図り,(1)環境モニタリングの目標値,(2)定量的リスク目標,(3)参加型での運用ルール策定,の3ケースを想定した。

各案を比較すると,社会がどのようなガバナンスを志向するか,という価値観の差異と呼応しており,客観的優劣はつけられない。ただ,各案において関係主体(特に自治体)が持つべき専門性に着目し,その実現可能性の点から各案を評価すると,第一案,第二案,第三案は既に自治体が相応の専門性を有しており,第四案も長期的には必要な専門性の獲得が見込まれるが,第五案及び第六案については実現可能性が低い,という結果が得られた。

7. 結論及び今後の課題

本研究は,(1)現状のリスク・ガバナンスの実態を解明し,その特徴や課題,背景等を分析した上で,(2)他国・他産業の類例との比較分析を行い,(3)現状の課題を克服しうる制度設計の選択肢を提示すること,を目的とした。現状のリスク・ガバナンスにおいては,情報共有や事実上の社会的意思決定等,自治体が多様な役割を果たしてきた反面,社会的意思決定プロセスの不透明性をはじめ,問題点も多く抱えている。こうしたガバナンスが現出した背景には,規制機関自体のあり方に問題があるのに加え,自治体関与の制度的空白も影響していると考えられる。上記の課題を改善する制度設計の選択肢として,フランスCLI及び公害防止協定の事例分析からの示唆を踏まえ,規制機関の独立性を高める第一案,第一案に加えて自治体の関わり方を設定した第二案~第四案,規制権限を自治体へ委譲する第五案,協定存続を前提としてその運用を改善する第六案,の6案を提示した。今後の課題として,実務的観点からのより詳細な検討や,セキュリティや核不拡散等も含めたマクロなガバナンスの模索,立地地域の持続的発展を含めた地域のガバナンスについての検討等が挙げられる。

1)G. Dubrueil, et al., A report of TRUSTNET on risk governance: lessons learned, Journal of Risk Research, 5(1), 83-95 (2002).
審査要旨 要旨を表示する

本論文の問題意識は,原子力のリスク・ガバナンスは如何にあるべきか, というものである。リスク・ガバナンスとは,「危険な活動の運営を可能ならしめる,政治的,社会的,法的,倫理的,科学的,技術的な要素の集合」を指す非常に広い概念であるが,本論文では,日本の原子力施設立地地域における,原子力安全に係るリスク・ガバナンスを扱う。その理由として,立地地域が原子力利用の潜在的リスクを抱える地域であること, 日本では安全規制における国と地方の役割分担が問題となっていること,等が挙げられる。以上を踏まえ,本論文の目的は, 日本の原子力立地地域における安全規制の執行段階に着目し,(1) そのリスク・ガバナンスの実態を解明し,背景要因を分析した上で,(2) 他国・他産業の類似事例との比較を行い,(3)現状の課題を克服しうる制度設計案を提示すること,である。1章では,以上のような研究の背景および目的を述べている。

2章では立地地域におけるリスク・ガバナンスの現状を整理している。日本では,原子力施設の運転段階において,関係自治体に何らの権限は付与されていない。しかし,関係自治体は,地域住民の安全確保等を目的として,事業者との間に「安全協定」を締結している。安全協定の運用を通した自治体関与のあり方を整理すると,環境モニタリングのような安全の実体面への関与から,事業者からの情報入手,事前了解における検討など,多様な形で原子力安全に関与してきたことがわかった。

これを受け,3章では立地地域におけるリスク・ガバナンスの特徴や課題,背景要因等を考察している。現状のガバナンスが現出した構造的課題として,原子力施設の運転段階における自治体関与の制度的空白,原子力施設の運転に関する情報を立地地域に対して適切に伝える仕組みが用意されていないこと,規制や政策の決定過程における地域関係主体の参加機会が不十分と認識されてきたこと,規制機関の制度的位置づけが十分な信頼を得られていないこと,規制機関の能力への信頼も不十分であること,科学的不確実性の扱い方に疑義がもたれたこと,等が拳げられる。

4章及び5章では,他国・他産業の類例を取り上げて制度設計に資する示唆を得ている。まず,4章では,関係者へのインタビュー調査をもとに,フランス地域情報委員会(CLI)の運営状況を整理し,CLIがガバナンス上で果たしている役割を考祭した。それを踏まえて,原子力施設をめぐる日本とフランスの自治体関与のあり方を比較し,両国のローカル・コンテクストの差を踏まえつつ,フランス事例から日本への示唆を導出した。

続く5章では,公害防止協定に着目する。千葉市・千葉県の担当課へのヒアリングをもとに公害防止協定の運用実態を考祭し,安全協定の運用に対する示唆を得,公害防止協定の運用においては,地域事情等を考慮して自治体と事業者の交渉の下に設定された具体的な排出基準値が,運用上の基準として機能していることを明らかにした。社会的事情の考慮は排出基準値の交渉・策定段階で行われ,協定運用段階においては一貫性が保たれている。これは,条件に応じて多様な社会的事情が掛酌され,運用の核となる基準が明確でない安全協定の場合と対照的である。

6章では,上記の分析結果や示唆を踏まえ,より望ましいガバナンスのあり方について具体的な制度設計提案を行っている。規制機関の独立性を高める第一案,第一案に加えて自治体の関わり方を設定した第二案~第四案,規制権限を自治体へ委譲する第五案,協定存続を前提としてその運用を改善する第六案,の6案を提案し,各案を比較して検討を行っている。その結果,社会がどのようなガバナンスを志向するか, という価値観の差異と呼応しており,客観的優劣はつけられない。ただ,各案において関係主体(特に自治体)が持つべき専門性に着目し,その実現可能性の点から各案を評価すると,第一案,第二案,第三案は既に自治体が相応の専門性を有しており,第四案も長期的には必要な専門性の獲得が見込まれるが,第五案及び第六案については実現可能性が低い,と考察している。

7章は結論である。現状のリスク・ガバナンスにおいては,情報共有や事実上の社会的音思決定等, 自治体が多様な役割を果たしてきた反面,社会的意思決定プロセスの不透明性をはじめ,問題点も多く抱えている。こうしたガバナンスが現出した背景には,規制機関自体のあり方に問題があるのに加え, 自治体関与の制度的空白も影響していると考えられる。上記の課題を改善する制度設計の選択肢として,フランスCLI及び公害防止協定の事例分析からの示唆を踏まえ,計6種類の具体的提案を提示し,考察した。また,今後の課題として,実務的観点からのより詳細な検討や,セキュリティや核不拡散等も含めたマクロなガバナンスの模索,立地地域の持続的発展を含めた地域のガバナンスについての検討等が挙げられる,とまとめている。本論文は, 日本の原子力安全規制の具体的改善に資するほか,科学技術と意思決定の問題を扱う科学技術社会論等の観点からも大きな意義を持つ。また、本論文は新規性,有用性,学術的価値および進捗度の観点からも申し分ない。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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