学位論文要旨



No 128035
著者(漢字) 黒川,あずさ
著者(英字)
著者(カナ) クロカワ,アズサ
標題(和) マウス味蕾における細胞種特異的な遺伝子発現プロファイルの解析
標題(洋)
報告番号 128035
報告番号 甲28035
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3751号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 三坂,巧
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 教授 東原,和成
 東京大学 特任准教授 朝倉,富子
内容要旨 要旨を表示する

食品中の呈味物質は、口腔内上皮層の味蕾という組織に存在する味細胞で受容される。近年、味覚受容体、ならびにその下流の細胞内情報伝達関連分子が同定され、味覚の受容・伝達メカニズムが分子生物学的に解明されてきた。その結果、甘味・旨味・苦味・酸味・塩味の5基本味は、それぞれ異なる味細胞で受容されることが明らかにされた。電子顕微鏡像から特定されたtypeI~IIIの味蕾細胞種のうち、typeIIが甘味・旨味・苦味受容細胞、typeIIIが酸味受容細胞、typeIが塩味受容細胞を含むその他の細胞群に相当する。それぞれが受け持つ機能に応じて、シグナル伝達因子の発現、膜電位特性、細胞分化機構、神経との接続様式などが異なっていると推定されている。したがって、細胞種に注目した遺伝子発現プロファイルを解析することによって、より効率的に、味蕾細胞種ごとに機能する新たな分子の知見が得られることが期待された。

TypeII味蕾細胞に特異的に発現する転写因子Skn-1aを欠損させたマウス(Skn-1ノックアウトマウス)は、甘味・旨味・苦味細胞が消失しており、それらの細胞に相当する数の酸味細胞が増加しているという特徴を持っている。この遺伝子改変マウスを用いて、味蕾細胞における遺伝子発現プロファイルを詳細に解析することで、特定の味蕾細胞種に発現する遺伝子を効率的に同定できるのではないかと考え、本研究を実施した。

本論文では、第1章にてSkn-1ノックアウトマウスの有郭乳頭上皮を用いたDNAマイクロアレイ解析の結果を、野生型のものと比較することにより、味蕾細胞種特異的に発現する候補遺伝子を抽出できることを示した。第2章から第4章は各論であり、第1章において作成した細胞種ごとの遺伝子発現プロファイルから発展して行った研究の事例を示す。そのうち、第2章では、typeII味蕾細胞と味神経の相互作用を行う候補分子を取得し、typeII味蕾細胞はシナプスを持たないが、神経との連絡が行われていることを示唆する結果を述べた。第3章では、typeIII味蕾細胞に発現する前シナプス分子群を新たに同定し、そのうちの一つであるコンプレキシンIIをノックアウトしたマウスにおいて酸味に対する感受性が顕著に低下することを示した。第4章では、typeI味蕾細胞に特異的に発現する膜貫通分子を探索し、typeI味蕾細胞の反応性、膜電位特性を浮き彫りにする試みについて論述した。

第1章 Skn-1ノックアウトマウスを用いた味蕾細胞種特異的な遺伝子の選別

野生型マウスの有郭乳頭上皮(WT-CvP)、野生型マウスの乳頭外の舌上皮(WT-Np)、Skn-1ノックアウトマウスの有郭乳頭上皮(KO-CvP)の3種のサンプルについて、DNAマイクロアレイ解析を行った。まず味蕾に特異的に発現する遺伝子を抽出するため、WT-CvPでの発現数値がWT-Npに対して有意に大きいプローブセットを選別した(Welch's t-test, FDR<0.1)。この中でWT-CvP / WT-Np比が2以上のものは5272個、5以上のものは1610個が抽出された。

次に、味蕾で細胞種特異的に発現することが既知の遺伝子群のデータに注目し、KO-CvPとWT-CvPの間の遺伝子発現変動と細胞種との関連を解析した。Skn-1ノックアウトマウスにおいてはtypeII細胞が消失し、typeIII細胞が増加しているので、遺伝子発現プロファイルにおいてもその特徴が反映されていると期待された。実際、typeII・typeIIIに発現する遺伝子群ではKOでWTに比べ有意に低下または上昇している一方、typeIまたは味蕾全体に発現する遺伝子群ではKOとWTで差が見られなかった。分離の指標としてKO-CvPのWT-CvPに対するfold changeの値(KO-CvP / WT-CvP)を用いた。typeIIに発現する遺伝子の90 %以上ではfold changeが0.5より小さくなり、typeIIIに発現する遺伝子の95 %以上ではfold changeが 2より大きくなった。これを指標として、取得した味蕾発現プロファイルからtypeII、typeIIIに特異的に発現する候補遺伝子を抽出した。また、typeI細胞および味蕾全体に発現する候補遺伝子として、WT-CvPとKO-CvPの間に発現量の有意差がなく、fold changeが0.7 より大きく 1.5より小さい遺伝子を抽出した。このようにして抽出された候補遺伝子群のいくつかは、in situ ハイブリダイゼーション(ISH)による発現解析から、予想された細胞腫に発現していることを実験的に明らかにした。

味蕾の細胞腫が変化した遺伝子改変マウスを利用した本解析手法により、細胞種特異的に発現する候補遺伝子を抽出する作業が飛躍的に効率化した。特定の味蕾細胞で機能する遺伝子を同定する上で、有力な手段であることが示された。

第2章 TypeII味蕾細胞に発現する神経接続因子の探索

TypeII味蕾細胞では、甘味・旨味・苦味の受容伝達機構はよく解明されている。しかし、typeII味蕾細胞はシナプス構造を持っておらず、味蕾細胞から味神経への味情報伝達の詳細や、その伝達様式が味質によって異なるのかなど、不明点が多い。また、特定の味の受容細胞がその味を伝達する味神経とどのように識別し合うかも未解明である。

TypeII味蕾細胞と味神経との接続機構についての分子的知見を得るために、typeII味蕾細胞に特異的に発現する候補遺伝子のアノテーションの中から、Biological Processに関するGene Ontology termで検索を行い、 "nervous system development"、"axon guidance"、"cell adhesion" 、またはそれらの下位のtermを持つものを抽出した。その結果、11遺伝子が抽出され、そのうち9遺伝子が有郭乳頭で味蕾特異的に発現していることをISHにより明らかにした。特に発現が強い遺伝子について二重ISHにより発現細胞種を詳細に調べたところ、Gfra2, Srpx2が甘味細胞に、Slit2, D0H4S114(p311), Edil3が苦味細胞に特異的に発現していた。これらのうち、Slit2, Gfra2については相互作用する分子が同定されている。Slit2の受容体であるRobo1/2の発現を味神経の細胞体を含む神経節で調べたところ、Robo2が発現していることを見出し、味神経とtypeII味蕾細胞の相互作用が存在することを新たに提唱することができた。

第3章 TypeIII味蕾細胞に発現する前シナプス分子の探索とCplx2ノックアウトマウスの解析

TypeIII味蕾細胞は、唯一シナプスを持つ味蕾細胞種である。既知の前シナプス分子のうち、typeIII味蕾細胞ではどの分子種が発現しているのかについて、DNAマイクロアレイ解析結果から候補分子を抽出し、組織学的な解析を実施した。その結果、typeIII味蕾細胞特異的に発現する前シナプス分子として、Cplx2, Syt7, Stxbp1, Cadps, Scg5, Pcloの6種を新たに同定した。

Cplx2 (コンプレキシンII)は、シナプス小胞の膜融合を制御する分子で、今回typeIII味蕾細胞特異的に発現していることを見出した。typeIII味蕾細胞のシナプスと酸味受容の必要十分性を理解するために、Cplx2ノックアウトマウスを解析した。ノックアウトマウスの味蕾では、野生型と同様に他の分子種のコンプレキシンは発現しておらず、味覚受容体、その他の味蕾細胞種マーカー遺伝子、主要な前シナプス遺伝子の発現は野生型と同様であった。味嗜好性の変化を調べるために、5基本味の溶液に対する行動試験を行ったところ、酸味を忌避する閾値が上昇し、その感受性が低下していることが分かった。さらに口腔内味溶液刺激に対する鼓索神経・舌咽神経の応答を調べたところ、低濃度の酸味に対する応答がほぼ消失していることが分かった。しかし、酸味に対する応答は完全には消失していないことから、typeIII味蕾細胞を介さない酸味認識機構も存在することが示唆された。酸味以外の味については行動試験、味神経応答ともに有意な差は見られなかった。したがって、酸味の伝達におけるシナプスを介した神経連絡の重要性が示された。

第4章 TypeI味蕾細胞に発現する膜貫通分子の探索

TypeI味蕾細胞は、長らく味受容細胞なのか支持細胞なのか不明であった。近年、typeI味蕾細胞の一部が塩味の受容を担うという知見が得られている。塩味の受容を含む味物質に対する応答に関与する遺伝子は、細胞膜に局在すると考えられる。前述のDNAマイクロアレイ解析によって選別されたtypeI味蕾細胞(または味蕾全体)に特異的に発現する候補遺伝子のうち、膜貫通領域を持つものをタンパク質情報データベースUniProtおよび膜貫通部位予測プログラムSOSUIを用いて抽出し、ISHを行って味蕾での発現を調べた。このうち、味蕾全体ではなく一部の味蕾細胞に特異的に強い発現が見られたAno1, Kcne3, Sec61a1については二重ISHを行い、typeI味蕾細胞に特異的に発現していることを確認した。

Kcne3は電位依存性カリウムチャネルのβサブユニット(調節サブユニット)である。電位センサー部位に作用してチャネルを常時開状態にし、電位依存性チャネルから漏洩チャネルに近い性質にすることが知られている。αサブユニットとしては味蕾全体にKcnq1が発現しており、これとヘテロマーを形成してtypeIに特徴的な膜電位特性を構築していると考えられる。

Ano1は、近年新たに同定されたカルシウム依存性塩化物イオンチャネルである。Ano1の抗体染色を行ったところ、味物質と接する味孔付近に局在していた。Ano1の発現からtypeI味蕾細胞が細胞内カルシウム濃度の上昇に応答する機構を持つことが示唆された。さらに、Ano1に類縁のアノクタミンファミリー遺伝子10種について味蕾での発現をISHにより調べたところ、Ano1に加えてAno7、Ano10が味蕾特異的に発現していた。しかし、互いに発現する細胞種が異なり、Ano7は甘味・旨味・苦味細胞の全体に、Ano10は苦味細胞に特異的に発現していた。Ano1, 7, 10は同じファミリーの遺伝子であるがイオンチャネルとしての特性が異なることから、細胞種ごとの反応性や膜電位特性の差に寄与していると考えられる。

今回の研究では、味蕾の細胞種ごとの遺伝子発現プロファイルの解析を行い、味蕾細胞の特性と密接に関わる遺伝子の発現情報をデータベース化することができた。ここには、味蕾を構成する様々な細胞の分化や、機能に関する分子知見が含まれている。各味蕾細胞種について得たこの事例は、今後の味覚研究に新たな端緒を与えるものと期待する。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、味蕾細胞種に注目した遺伝子発現プロファイルを解析することで、新たな機能分子の知見を取得する方法を開発し、得られた知見を利用して味覚受容伝達機構の解析を行った結果をまとめたものである。論文は序章、第1、2、3、4章の本論、および総合討論から成る。

第1章ではSkn-1ノックアウトマウスを用いた味蕾細胞種特異的な遺伝子の選別について述べている。転写因子 Skn-1aを欠損させたマウス(Skn-1ノックアウトマウス)は、typeII味蕾細胞が消失し、それに相当する数のtypeIII味蕾細胞が増加するという特徴を持つ。この遺伝子改変マウスの味蕾における遺伝子発現を解析することで、特定の味蕾細胞種に発現する遺伝子を効率的に同定できると考えた。野生型マウスの有郭乳頭上皮(WT-CvP)、野生型マウスの乳頭外の舌上皮(WT-Np)、Skn-1ノックアウトマウスの有郭乳頭上皮(KO-CvP)の3種のサンプルについて、DNAマイクロアレイ解析を行った。味蕾で細胞種特異的に発現することが既知の遺伝子群のデータに注目し、KO-CvPとWT-CvPの間の遺伝子発現変動と細胞種との関連を解析した。typeII・typeIIIに発現する遺伝子群ではKOでWTに比べ有意に低下または上昇している一方、typeIまたは味蕾全体に発現する遺伝子群ではKOとWTで差が見られなかった。細胞種の分離の指標としてKO-CvPのWT-CvPに対するfold changeの値(KO-CvP / WT-CvP)を用いて、typeごとに発現する候補遺伝子を選別した。これらの一部については、in situ ハイブリダイゼーション(ISH)による発現解析により、予想された細胞腫に発現していることを示した。

本解析手法により、細胞種特異的に発現する候補遺伝子を抽出する作業が飛躍的に効率化した。

第2章ではtypeII味蕾細胞に発現する神経接続因子の探索について述べている。typeII味蕾細胞は甘味・旨味・苦味の受容細胞だが、シナプス構造を持たず、味蕾から味神経への味情報伝達の詳細や、味蕾細胞と味神経の間の識別機構は不明である。typeII味蕾細胞と味神経との接続機構についての分子知見を得るために、typeII味蕾細胞に発現する候補遺伝子について神経接続関連因子を検索し、9遺伝子が味蕾特異的に発現していることをISHにより明らかにした。これらは、甘味・旨味細胞か苦味細胞に偏って発現する傾向が見られた。また、その1つであるSlit2の受容体Roboの発現を味神経の細胞体を含む神経節で調べたところ、Robo2が発現していることを見出し、味神経とtypeII味蕾細胞の相互作用が存在することを新たに提唱することができた。

第3章ではtypeIII味蕾細胞に発現する前シナプス分子の探索とCplx2ノックアウトマウスの解析について述べている。typeIII味蕾細胞は酸味受容細胞であり、唯一シナプスを持つ細胞種である。DNAマイクロアレイ解析結果から前シナプス分子の候補を抽出し手発現解析を行い、typeIII味蕾細胞特異的に発現する前シナプス分子として6種を新たに同定した。

そのうちの1つであるCplx2 (コンプレキシンII)は、シナプス小胞の膜融合を制御する分子である。typeIII味蕾細胞のシナプスと酸味受容の必要十分性を理解するために、Cplx2ノックアウトマウスを解析した。味嗜好性の変化を調べるために、5基本味の溶液に対する行動試験を行ったところ、酸味の感受性が低下していた。さらに口腔内味溶液刺激に対する鼓索神経・舌咽神経の応答を調べ、低濃度の酸味に対する応答がほぼ消失していることが分かった。酸味以外の味については行動試験、味神経応答ともに有意差は見られなかった。したがって、酸味の伝達におけるシナプスを介した神経連絡の重要性が示された。

第4章ではtypeI味蕾細胞に発現する膜貫通分子を探索し、typeI味蕾細胞の反応性についての分子知見を得たことを述べている。typeIに発現する候補遺伝子から膜貫通領域を持つものを抽出し、味蕾での発現を調べたところ、Ano1、Kcne3、Sec61a1がtypeI味蕾細胞に特異的に発現していた。Ano1は、カルシウム依存性塩化物イオンチャネルとして機能する。Ano1の発現からtypeI味蕾細胞が細胞内カルシウム濃度の上昇を伴う機構を持つことが示唆された。Ano1の抗体染色を行ったところ、味物質と接する味孔付近に局在していた。さらに、Ano1に類縁のアノクタミンファミリー遺伝子のうちAno7は甘味・旨味・苦味細胞の全体に、Ano10は苦味細胞に特異的に発現していた。Ano1, 7, 10は同じファミリーの遺伝子であるがイオンチャネルとしての特性が異なり、細胞種ごとの反応性や膜電位特性の差に寄与していると推測できる。

本論文は、遺伝子改変マウスを用いて味蕾細胞種ごとの遺伝子発現を解析する手法を世界で初めて提示し、さらに味蕾に特有の現象の分子機構の解明を行ったものである。これは社会的にも注目の集まる味覚の受容・伝達機構を理解するために大変有用な知見であり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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