学位論文要旨



No 128046
著者(漢字) 甲田,政則
著者(英字)
著者(カナ) コウダ,マサノリ
標題(和) F2-selective 2D NMR法による非破壊的な食品中の微量成分分析に関する研究
標題(洋)
報告番号 128046
報告番号 甲28046
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3762号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 教授 佐藤,隆一郎
 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 准教授 永田,宏次
内容要旨 要旨を表示する

近年、生体中に含まれる低分子化合物を網羅的に解析する代謝物分析(メタボロミクス)の技術が食品科学の分野において幅広く応用されている。食品中に含まれる様々な低分子化合物は、生育環境、保存状態、加工操作等の様々な要因によって変化する為、代謝物分析は食品の真正評価や品質管理において特に有用なツールになると期待されており、代謝物分析を用いた様々な研究が報告されている。代謝物分析にはGC-MS、LC-MS、NMR等の様々な機器が用いられているが、その中でもNMRは1) 簡単な前処理で非破壊的な測定が可能である 2) 糖類、脂質、有機酸、アミノ酸等の幅広い成分を一度に測定可能である、等の他の機器には無い利点を有している。また近年はHR-MAS (high-resolution magic angle spinning) NMR法を用いる事で固形状の試料も非破壊的に測定することが可能になっている。代謝物分析による食品の真性評価、品質管理では食品に含まれる微量成分の組成が重要な鍵となる事が多いが食品には糖類、脂質、エタノール等の圧倒的な主成分が含まれている事が多く、これらの成分に由来する強い信号はNMR測定においてしばしばダイナミックレンジの問題を引き起こし微量成分に由来する信号の検出を阻害する。そのため、NMRを用いた食品の代謝物分析では多くの場合、前処理として主成分に由来する成分の除去が行われている。しかし、前処理は時間がかかるだけで無く、重要な情報源である微量成分の変質、損失を引き起こす可能性もある。この問題を解決する有効な手段の一つか選択励起を用いて主成分に由来する信号を除去する事である。これによりダイナミックレンジの問題が改善し微量成分を非破壊的に測定する事が可能になる。選択励起を用いる事で食品中の微量成分を非破壊的に測定できる事については1次元NMRで既に報告がされているが、2次元NMRに関しては報告がされていない。2次元NMRスペクトルは複雑に重なった食品の1次元スペクトルの解析、帰属において非常に重要でありNMRを用いた非破壊的な代謝物分析においては必須の技術であると考えられる。選択励起を用いた2次元NMR法、それ自体については既に研究されており、F1軸に沿った選択励起を行う事(F1-selective 2D NMR法)で測定時間の短縮及びF1軸のデジタル分解能の改善に非常に有用である事が報告されている。しかし、これらの研究は何れも分離・精製された単一成分の構造解析で用いられており、食品の様な複雑混合物では適用事例が報告されていない。

本研究では選択励起を用いた2次元NMRスペクトルにより食品中の微量成分を非破壊的に測定し、代謝物分析への応用可能性を検討した。

1. F2-selective 2D NMR法1)

最初にNMRを用いた非破壊的な微量成分分析を行う試料として、その成分の大部分が水と糖類(ショ糖、果糖、ブドウ糖)であるマンゴー果汁を用いて低磁場領域(6.0-10.5 ppm)の微量成分の測定を行った。

ハードパルスを用いた非選択的な測定では糖類の強い信号によるダイナミックレンジの問題のため(レシーバーゲイン18 dB)1H NMRスペクトルの低磁場領域には殆ど信号が検出されなかったが、選択励起を用いて低磁場領域の1H NMRスペクトルを測定することでダイナミックレンジの問題が解決し(レシーバーゲイン60 dB)、多くの微量成分の信号を新たに検出する事ができた。次に従来法であるF1-selective 2D NMR法をマンゴー果汁に適用しF1-selective TOCSYによる低磁場領域の微量成分測定を行った。その結果、選択励起の範囲外であり、本来なら励起が起きないはずの糖類(約3-5 ppm)の励起が起こり、糖類の信号に由来するt1ノイズのために微量成分の綺麗なTOCSYスペクトルを得る事が出来なかった。また、レシーバーゲインが52 dBに制限された。この糖類の予定外の励起は、選択励起の後に非選択的に全領域に照射されるスピンロックパルスにより引き起こされたのではないかと考えられた。そこで、スピンロックパルスによる糖類の予定外の励起及びt1ノイズを避けるために、選択励起のパルスをパルスシークエンスの最後に配置しF2軸に沿った形での選択励起を行った(F2-selective 2D NMR法)。その結果、糖類のt1ノイズの影響を全く受けない微量成分の綺麗なTOCSYスペクトルが得られただけでなく、レシーバーゲインも最大値である60 dBに回復した(図1)。

F2-selective 2D NMR法をDQF-COSY及びNOESYスペクトルにも適用し、マンゴー果汁を用いてF1-selective 2D NMRとの比較を行った。その結果、従来法であるF1-selective DQF-COSY及びNOESYではTOCSYの時と同様に糖類の励起が起こりt1ノイズとレシーバーゲインの制限により綺麗なスペクトルを得る事が出来なかった。これに対してF2-selective DQF-COSY及びNOESYでは何れからも綺麗な2次元NMRスペクトルを得る事が出来た。この事はF2-selective 2D NMR法が様々な2次元NMR法に対して適用可能である事を示唆している。

F2-selective TOCSYを日本酒、ハチミツ、グレープシードオイルに適用し低磁場領域の微量成分の測定を行った。その結果、全ての試料から綺麗なTOCSYスペクトルが得られた。この事はF2-selective 2D NMR法がアルコール飲料、水溶性物質、脂溶性物質等の幅広い食品に適用可能である事を示唆している。

2. 選択励起を用いたNMRスペクトルによるマンゴーの品種識別

選択励起を用いた低磁場領域の1H NMRスペクトルと主成分分析を組み合わせる事で異なる5種類の品種のマンゴー果汁の識別を試みた。比較対象で行った、非選択励起による1H NMRスペクトルを用いた主成分分析では5種類の品種が互いに混じってしまい、識別モデルを構築する事は出来なかった。これに対し、選択励起により得られた1H NMRスペクトルを用いて行った主成分分析では5種類の品種が互いに分離し、綺麗な識別モデルを構築する事が出来た。さらにF2-selective 2D NMR法を用いる事で信号の帰属が効率的に行われ、芳香族成分だけでなく交換性のアミンプロトンに由来する信号も数多く存在している事が明らかになった。これらの帰属情報と主成分分析におけるローディングプロットを組み合わせる事で品種識別に有用な成分を同定する事が出来た。

NMRを用いた代謝物分析において低磁場領域はその信号の弱さからこれまで殆ど注目されて来なかった領域であるが、選択励起を用いる事で微量成分の検出、帰属を効率的に行う事が可能であり、さらに品種識別などの真正評価において有用な情報が含まれている可能性がある事が示された。選択励起を用いた低磁場領域の1H NMRスペクトルを用いる事で煩雑な前処理が不要な効率のよい食品の真正評価法を構築できる事が期待される。

3. F2-selective TOCSYスペクトルを用いた米発酵食品のメタボリックプロファイリング

日本酒、米酢などの米発酵食品は選択励起を用いて低磁場領域の1H NMRスペクトルを測定すると8-9 ppmにブロードな山型のピークが検出される。この領域はF2-selective TOCSYスペクトルにおいてF1軸の1-5 ppmの範囲との間に非常に多くの相関ピークが観測され、指紋の様な複雑なスペクトルパターンを示した。解析の結果これらのピークは主に低級ペプチドに由来する物である事が分かった。様々な製造会社の日本酒において、このペプチドに由来するスペクトルパターンは類似していた事から、これは日本酒を特徴付けるパターンではないかと考えられた。そこで同じライスワインである紹興酒とマッコリのF2-selective TOCSYスペクトルを測定したところ日本酒とは全く異なるパターンを示した。これらの2次元TOCSYスペクトルを主成分分析で処理したところ、日本酒、紹興酒、マッコリを識別するモデルを構築する事が出来た。さらに、マッコリは米麹を用いた物と小麦麹を用いた物の2種類あったが、これらに関しても識別する事が出来た。米酢は銘柄ごとに異なるパターンを示す事が分かった。この結果より食品中のペプチドの組成には発酵食品の履歴情報が織り込まれている可能性が示唆された。このF2-selective TOCSYスペクトルにより得られる複雑なペプチドのスペクトルは食品の指紋として真正評価や品質管理に利用できるかもしれない。

1) Koda, M.; Furihata, K.; Wei, F.; Miyakawa, T.: Tanokura, M. F2-selective two-dimensional NMR spectroscopy for the analysis of minor components in foods. Magn. Reson. Chem. 2011, 49, 710-716

図1マンゴー果汁の(A)F1-selective TOCSY,(B)F2-selective TOCSYスペクトル

審査要旨 要旨を表示する

本論文はNMRを用いた食品の代謝物分析において、微量成分を非破壊的に測定するための選択励起の応用について述べている。本研究では食品中の微量成分の2次元NMRスペクトルを測定するための効果的な手法としてF2-selective 2D NMR法を開発し、その応用としてマンゴー果汁の品種識別及び米発酵食品の解析を行う事で当該手法の有用性を具体的に示している。本論文は3章からなる。

第1章では食品中の微量成分の2次元NMRスペクトルを測定する効果的な新規手法としてF2-selective 2D NMR法について述べられている。従来のnon-selective法と比べた本法の最大の優位性は測定におけるダイナミックレンジの大きな改善であり、これにより従来法で困難だった微量成分の検出が可能になった。また、選択励起を用いた従来法であるF1-selective 2D NMR法に比べてスペクトルの解析を阻害するt1ノイズが減少しスペクトルの質が大きく改善する事が示されている。さらにF2-selective 2D NMR法はTOCSY, DQF-COSY, NOESY等の様々な2次元NMR法に適用可能なだけでなく、様々な食品の測定にも適用可能な汎用性の高い手法である事が示されている。これらの結果はF2-selective 2D NMR法がNMRによる食品の代謝物分析において微量成分検出の有効なツールとなる事を示している。

第2章では選択励起により得られた1H NMRスペクトルと主成分分析によるマンゴー果汁の品種識別について述べられている。本研究の最大の特徴は、信号の弱さから殆ど利用されてこなかった低磁場領域のスペクトルに着目している点であり、選択励起により低磁場領域の微量成分のスペクトルを非破壊的に得る事に成功している。このスペクトルを主成分分析で処理する事で、これまで有益な情報源とされてきた高磁場領域のスペクトルを用いた場合よりも分離の良い識別モデルの構築に成功している。低磁場領域のスペクトルはF2-selective 2D NMR法を用いる事で効率的に帰属が行われている。帰属において低磁場領域には芳香族成分だけでなくアミンプロトンに由来する信号が存在する事が示されているがF2-selective 2D NMR法を用いる事で従来のF1-selective2D NMR法では検出されなかった相関ピークを検出できる事が示されている。この結果はF2-selective 2D NMR法の従来法に対する優位性を改めて示している。この帰属情報を用いてローディングプロットを解析する事で品種識別に重要なマーカー成分の同定に成功している。この研究は、これまでほとんど注目されてこなかった低磁場領域のスペクトルが有益な情報源になり得る事を示している。

第3章ではF2-selective TOCSYスペクトルを用いたライスワイン及び米酢のプロファイリング分析について述べられている。食品の1H NMRスペクトルにおいて8-9 ppm付近には線幅の広い信号が測定される場合が多い。これまでの研究では、この線幅の広い信号は主にポリフェノールに由来するものではないかと考えられてきたが、本研究により主にペプチドのアミドプロトンに由来するものである事が見出された。このアミドプロトンはTOCSYスペクトルにおいて側鎖との間に複雑な相関ピークを示すが、これを主成分分析で処理する事によって異なる3種のライスワイン(日本酒、紹興酒、マッコリ)が識別可能であることを示している。マッコリにおいては外観での判別が困難な原材料である麹の種類の識別も可能である事が示された。米酢では同じ銘柄間でも異なるスペクトルパターンが示された。この結果は製造過程、熟成具合など様々な要因により米酢中のペプチドの組成が変化していることを示唆している。本研究によりF2-selective TOCSYによって得られたペプチドを主体とする複雑なスペクトルパターンが新たな食品の指紋として食品の品質管理、真正評価などで有用な分析法となり得ることが示唆された。

以上、本研究は食品中の微量成分を効率的に測定するための新規手法としてF2-selective 2D NMR法を開発しただけでなく、選択励起を用いる事でこれまで殆ど注目されてこなかった低磁場領域の有用性を示した。またF2-selective TOCSYにより得られたペプチドのスペクトルによる新規プロファイリング法を提案している。これらの手法は食品科学において学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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