学位論文要旨



No 128066
著者(漢字) 石塚,航
著者(英字)
著者(カナ) イシヅカ,ワタル
標題(和) 北方針葉樹トドマツの標高に沿った局所適応の実態解明と将来予測への応用
標題(洋)
報告番号 128066
報告番号 甲28066
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3782号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 森林科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 後藤,晋
 東京大学 教授 井出,雄二
 東京大学 教授 宝月,岱造
 東京大学 教授 丹下,健
 東京大学 准教授 岩田,洋佳
内容要旨 要旨を表示する

生育環境が異なると、同一種内でも集団ごとに表現型の変異がみられる。自生する環境に特異な自然選択によって、集団がそれぞれの環境に適応するような遺伝的応答をすることを"局所適応"と呼ぶ。局所適応は、対象種の環境適応のメカニズムを理解するため、あるいは環境変化に対する応答を予測するために重要な概念である。近年、草本種では、相互移植試験に基づいて局所適応の実態解明が進んでいる。一方、木本種では、広い地理スケールの環境勾配に沿った局所適応は実証されるものの、狭い地域内スケールの環境勾配においてどの程度の局所適応が存在するかよく分かっていない。標高勾配は、狭い地域内スケールでも温度を主として大きく環境が変化するため、標高に沿った局所適応が存在することが考えられている。したがって、標高に沿った局所適応の実態を解明することは、対象種の将来の温暖化に対する応答を予測する上でも有用な知見となる。

北方針葉樹の一種であるトドマツ(モミ属,Abies sachalinensis)は、北海道全域にわたって分布する。本種は、北方林の主要構成種であり、有用な林業対象種である。本種のいくつかの形質に地域変異が存在することが古くから知られ、積雪勾配などの生育環境の変化に沿った適応的な変異が指摘されている。また、標高変異が存在することも知られているが、局所適応の有無は実証されていない。そこで本論文では、トドマツの標高別集団にどの程度の局所適応がみられるか、また、どのような形質の変異が適応に関わっているかについて検証するため実証的な研究を行った。さらに、その中で構築したモデルをもとに、温暖化を想定したときのトドマツ各集団の応答を予測する応用的な研究を行った。

本研究では、北海道中央部に位置する東京大学北海道演習林の標高勾配 (230~1,200m) を対象とした。この標高勾配に沿って1974年に"トドマツ標高間相互移植試験"が設定され、標高の異なる8採種集団の苗が6試験地へ植栽された。本研究ではまず、各集団がそれぞれの自生地において有利なパフォーマンスを示すホームサイト・アドバンテージがみられるかどうかを、この試験の長期データをもとにモデルを構築して検証した(第2章)。次に、局所適応に関わると予想される秋期の耐凍性獲得(低温馴化)のフェノロジーに着目し、同試験地に生育する個体を用いた凍結試験によって標高に沿った変異(標高クライン)が存在するかどうかを調べ、フェノロジーの違いにどのような温度応答の変異があるかを検証した(第3章)。さらに、1979年より行われる"トドマツ高×低標高間相互交配試験"の試験個体から得られた自然交配実生の形質の変異を調べ、着目する形質の遺伝様式を検証した(第4章)。最後に、第2章で構築したモデルを用いて、将来の温暖化に対してトドマツの標高別集団のパフォーマンスがどのように変化するか、また、どのくらい温暖化に追随できるかを予測した(第5章)。

トドマツ標高間相互移植試験を用いたホームサイト・アドバンテージの実証

トドマツ標高間相互移植試験におけるこれまでの継続的な測定記録と、2009年に測定した36年生時のデータを用いて、樹高と生残率に対する遺伝子型と環境の効果を推定した。次に、樹高と生残率の積によって算出した生産力を指標として、採種集団と試験地間の標高差を軸にホームサイト・アドバンテージが成立するか否か、すなわち、標高差が小さいほど生産力が高いかどうかを検証した。その結果、植栽個体の樹高や生残率はいずれも遺伝的な支配を受けており、高標高産ほど樹高や生残率が低下する共通した標高クラインが認められた。モデルを用いて試験地ごとに採種集団の生産力と標高差の関係を調べた結果、採種標高より高標高へ移植する上方移植と採種標高より低標高へ移植する下方移植のいずれの場合においても、標高差が大きくなるほど生産力が低下するホームサイト・アドバンテージが成立することが示された(図1)。これは、調査を行った全ての年齢(10,13,18,31,36年)で有意だった。また、上方移植の場合のみ、標高差の効果は年齢の経過に伴って増加した。36年生時点では、上方移植のほうが下方移植よりも標高差の効果が大きいことが示された(図1)。以上より、トドマツにおいて標高に沿った局所適応が存在し、高標高地域ほど強い選択圧がはたらくことが示唆された。

秋の低温馴化タイミングにおける変異

耐凍性の獲得に関わる低温順化タイミングについて、適応的な標高クラインの有無、ならびに低温馴化の調節に関与すると考えられる温度応答にどのような遺伝変異があるか検証した。上述した相互移植試験の生育個体から2010年10~11月に時期を変えてシュートを採取し、-30°Cの凍結試験を行った。その結果、秋期の耐凍性に明瞭な標高クラインがあることが示された。低温馴化タイミングは遺伝的支配を強く受けること、高標高ほど早い時期に耐凍性を高めることが明らかになった。次に、"積算温量モデル"を用いて現地の気温変化から低温馴化過程を推定し、モデル内のパラメータにおける標高別集団の変異を検証した。その結果、低温量の積算に関わる"閾値温度"において低温馴化タイミングに影響する標高変異があることが明らかになった。すなわち、温度応答における感度の違いが標高に沿った局所適応に重要な役割を果たすと示唆された。

遺伝的背景の異なる実生後代における変異とその遺伝様式

トドマツ高×低標高間相互交配試験地から2009年に自然交配種子を採取し、2010年春にそれらを圃場に播種し、2成長期にわたる育苗試験を行った。採取した種子の母親は、高標高由来、低標高由来、およびそれらの交雑家系、と遺伝的な背景がそれぞれ異なっている。実生後代のフェノロジーや成長形質に母親の遺伝的背景の違いが影響したか否かを調べた結果、発芽時期や低温馴化タイミング、苗高や針葉サイズに有意な遺伝変異があり、相加的な作用が検出された。遺伝効果のパターンが標高クラインのパターンに一致したことから、これらの形質が標高に沿って局所適応する上で重要な形質であると推察された。

将来の温暖化に対する集団別応答の予測

第2章で構築したモデルを応用し、将来の温暖化に対するトドマツ標高別集団の応答予測を行った。応答予測は、標高間相互移植試験において下方移植した場合の応答から予測できると想定した。その際、集団がどのくらい環境変化に対して応答できるかという"可塑的応答"の評価と、環境変化時に予測される応答は変化後の環境にどのくらい合っているかという"応答の最適性"の評価の両方から集団の応答を評価した。可塑的応答の評価から、集団による程度の差はあるものの、トドマツはある程度の温暖化ならば生産力の向上がみられることが示された。しかし、応答の最適性の評価から、現在生育する集団が示すと予想される生産力は、温暖化後の環境に適した遺伝子型が示すと予想される生産力よりも、2°Cの温度上昇で約30%、4°Cの上昇で約50%低くなると推定された。すなわち、トドマツは現在の環境に局所適応しているために、この遺伝的制約によって最適な生産力が実現できないと考えられた。

本研究より、トドマツは生育するそれぞれの標高環境に遺伝的に応答し、標高に沿った局所適応を示すことが実証された。局所適応の程度は高標高ほど強く、秋期のフェノロジー調節などの遺伝的応答により高標高の寒冷な環境へ適応することが重要だと考察された。また、遺伝的制約によって将来の温暖化に追随できないと予測された。したがって、もし可塑的応答の程度が大きい他種が存在する場合、競争下で不利になると考えられた。将来の森林動態を把握する上で、主要種の局所適応の実態理解が必要だと考えられる。

図1.採種地-試験地間の標高差と自生集団に対する相対生産力との関係

36年生時の樹高と生残率を用いて相対生産力を算出した.横軸の標高差は、負の値が上方移植された場合、正の値が下方移植された場合を示し、自生集団の標高差は0である.ホームサイト・アドバンテージの検証結果を回帰曲線で示す.

審査要旨 要旨を表示する

申請者は、北海道全域に分布し幅広いニッチを有するトドマツ(モミ属,Abies sachalinensis)を用いた、環境勾配に沿った遺伝的適応の実態の実証的研究と、将来予測される環境変化への応答を予測する応用的研究を行った。本研究は、狭い地域内スケールでも温度を主として大きく環境が変化する"標高"勾配に沿った遺伝的適応に着目した点に特色がある。

第1章では、既往文献のレビューを通して環境適応メカニズムの一つである局所適応の理論的背景と実証例をまとめた。また、その実態を解明するための手法として、相互移植試験を用いて、生育地と同じ環境下に植栽された自生集団のパフォーマンスの有利性を検証することの有効性を指摘した。さらに、対象種トドマツについて、生態遺伝学的な観点から既往文献をレビューし、地域間および標高間で集団変異が存在することを指摘した。

第2章では、東京大学北海道演習林の標高勾配 (230~1,200m) を用い、標高の異なる8採種集団の苗を6試験地へ植栽したトドマツ標高間相互移植試験を対象とした。植栽後の継続的な測定記録、および36年が経過した2009年の測定データを用いて、樹高と生残率に対する遺伝子型と環境の効果を推定するとともに、それらの積で表す生産力と、採種集団と試験地間の標高差との関係から自生集団の有利性を検証した。その結果、植栽個体の樹高や生残率は採種標高が同じでも植栽地標高が高いほど低く、とくに樹高では標高730~930m、生残率では標高530~730mの間に不連続な変化が認められた。また、採種標高より高標高へと移植すると、低標高へと移植した場合に比べて、同じ標高間の移動でも、生産力が低くなることが示された。

第3章では、適応に関わると予想される秋期の耐凍性獲得(低温馴化)のフェノロジーに関する標高変異を調べた。上述した相互移植試験の生育個体から2010年10~11月に時期を変えてシュートを採取し、-30°Cの凍結試験を行った。その結果、秋期の耐凍性に採種集団の標高による明瞭な差があり、低温馴化タイミングは遺伝的な支配を受けていることが示された。また、そのタイミングは、どの試験地においても高標高由来の個体ほど早かった。このような標高差から、寒冷な高標高で凍害回避に、温暖な低標高で成長期間の延長に有利に関与している適応的な変異だと考えられた。

第4章では、トドマツ高×低標高間相互交配試験の試験個体から2009年に得られた自然交配実生のフェノロジーや成長を2010~2011年の2成長期間調査し、各形質の遺伝様式を検証した。採取した種子の母親は、高標高由来、低標高由来、およびそれらの交雑家系と遺伝的背景が異なり、これらの違いによって実生の形質の変異が説明できるかを検証した結果、発芽時期や低温馴化タイミング、苗高や針葉サイズに相加的な作用による変異が検出された。

第5章では、対象種がそれぞれの標高環境に局所適応していたと想定し、その場合に、将来想定される温暖化に対してどのような応答を示すかについて予測した。第2章で検証した相互移植試験の下方移植個体の応答から温暖な環境におかれた際の応答を考えた。そこで、標高差を温度差に変換し、移植個体の生産力の変化をモデルによって定量化した。各集団が現在の環境へ遺伝的に適応するため、その遺伝的制約によって、温暖化後の環境に適した遺伝子型が示すと予想される生産力を実現することはできないと予測された。また、モデルより、最適値からのずれは温暖化の進行に伴って大きくなることが予測された。

第6章では、総合考察として、トドマツの遺伝的応答と将来の北方林動態について考究した。異なる標高環境への適応には遺伝的変異が関与しており、とくに寒冷な高標高環境への適応の重要性は大きいことが示唆された。また、局所適応がみられる場合には、遺伝的制約によって温暖化に追随できないことが想定された。したがって、主要種の局所適応の実態解明は、将来の森林動態を把握する上でも必要となると考察された。

本研究では、標高間で相互に移植した試験地の長期データを用いて、トドマツの自生環境に対する有利性が低標高だけでなく高標高でも存在することを示した。本研究で用いた各採種標高域の母樹は5個体と少なく、各標高域の集団を代表しているとは言い難いが、自生集団の有利性が低標高試験地と高標高試験地の両方で示されたことは興味深く、学術的に極めて有用だと考えられる。また、本研究では、採種標高より高標高への移植を行うと生産力が低くなるという知見を得た。さらに、本研究では、温暖化後のトドマツ自生集団の応答の予測を試みており、今後の造林計画や森林管理などの実用的な観点でも有用な知見が得られたと考えられる。

以上のことから、審査委員一同は、本論文は博士(農学)の学位に値すると判断した。

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