学位論文要旨



No 128071
著者(漢字) 井ノ口,繭
著者(英字)
著者(カナ) イノクチ,マユ
標題(和) ティラピアの鰓塩類細胞における機能の多様性と細胞の入替りに関する生理学的研究
標題(洋) Physiological studies on functional diversity and cellular turnover of gill mitochondria-rich cells in Mozambique tilapia
報告番号 128071
報告番号 甲28071
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3787号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金子,豊二
 東京大学 准教授 大久保,範聡
 東京大学 准教授 兵藤,晋
 東京大学 准教授 井上,広滋
 聖マリアンナ医科大学 准教授 廣井,準也
内容要旨 要旨を表示する

現生魚類の大部分を占める硬骨魚類では、生息環境によらず体液浸透圧は常に海水の約1/3に保たれている。そのため淡水や海水など体液と浸透圧の異なる環境では、水やイオンの調節を能動的に行わなければならない。浸透圧調節に重要な器官として、鰓、腎臓、腸が挙げられるが、特に鰓に存在する塩類細胞はイオンの調節に重要な役割を担っている。塩類細胞にはイオンを取り込む淡水型とイオンを排出する海水型が存在し、環境水と接する頂端膜および体内側の側底膜に各種イオン輸送タンパクが局在することで、イオンを能動的に輸送することが知られている。

本研究では、塩類細胞におけるイオン輸送機能の多様性と細胞の入替りという二つの観点から検証することで、塩類細胞の浸透圧調節機構を包括的に明らかにすることを目的とした。実験魚には、脱イオン水から180%の濃縮海水まで広範囲の浸透圧環境に適応できることが知られている広塩性魚ティラピアOreochromis mossambicusを用いた。ティラピアは世界各地で養殖されているが、養殖が盛んな理由のひとつとしてティラピアの優れた環境適応能が挙げられる。環境適応に重要な浸透圧調節機能を明らかにすることは、今後のタンパク源として期待されているティラピアの養殖技術の改善にも役立つものと考えられる。

第1章 多様な浸透圧環境下での塩類細胞の観察

本章では、広塩性魚ティラピアを多様な浸透圧環境に馴致し、環境水の浸透圧が塩類細胞の形態および機能に及ぼす影響について調べることを目的とした。ティラピアを脱イオン淡水(DFW)、淡水(FW)、1/3海水(1/3SW)、海水(SW)に一週間馴致した。まず、走査型電子顕微鏡を用いて鰓表面に存在する塩類細胞の開口部を観察した。その後、塩類細胞のマーカーとして知られるNa+/K+-ATPaseに対する抗体を用いて免疫染色を行い、塩類細胞の形態を比較した。DFWでは微絨毛が密に存在する開口部が大きく広がり、イオンを取り込むための表面積を広げている様子が観察された。一方、SWでは塩類細胞の大きさが有意に大きくなったが、これは海水中で塩類細胞がアクセサリー細胞との複合体を形成したことに起因するものだと考えられた。次に、real-time PCR法により、塩類細胞のイオン輸送を担っていると考えられているイオン輸送タンパクNa+,K+,2Cl-共輸送体1a (NKCC1a)、Na+/H+ 交換輸送体3(NHE3)、液胞型H+ポンプ(V-ATPase)、Na+,Cl-共輸送体(NCC) のmRNAの鰓における発現量を比較した。外界の浸透圧上昇に伴ってNKCC1aの発現量が、また浸透圧低下に伴ってNHE3、NCCの発現量が高くなった。この結果から、NKCC1aは高浸透圧適応(海水適応)、NHE3、NCCは低浸透圧適応(淡水適応)に重要であることが示唆された。また、免疫染色を行ったところ、高浸透圧環境下ではNKCC1aが側底膜上に存在する塩類細胞が、低浸透圧環境下ではNHE3もしくはNCCが頂端膜上に存在する塩類細胞が多く存在した。これらの結果より、NKCC1aが側底膜上に存在する塩類細胞(海水型)がイオンを排出し、NHE3もしくはNCCが頂端膜上に存在する塩類細胞(淡水型)がイオンを取り込むと考えられた。

第2章 淡水におけるイオン取り込み機構の解明

第1章の結果から、淡水では二種類の塩類細胞が存在することが明らかとなった。本章では、ティラピアをNa+、Cl-の濃度を変化させた低張水に馴致させ、血液浸透圧の90%以上を占めるNa+、Cl-の取り込み機構を調べることで、二種類の淡水型塩類細胞のイオン取り込み機構とその役割分担を解明することを目的とした。

ティラピアを人工淡水(Control)、低Cl-水(LowCl)、低Na+水(LowNa)、低Na+/Cl-水(LowNa/LowCl)に移行して一週間飼育した。Na+濃度の低いLowNa、LowNa/LowClではNa+の取り込みを淡水よりも活発に行う必要がある。同様にLowCl、LowNa/LowClではCl-の取り込みが必要となる。走査型電子顕微鏡で塩類細胞の開口部を比較したところ、LowCl、LowNa/LowClでは凸型に膨らんだ微絨毛の存在する開口部が多く存在し、顕著に大型化した様子が観察された。一方LowNa、LowNa/LowClでは網状構造を持つ凹型開口部が面積を広げていた。次に、前の実験で低浸透圧適応に重要であると考えられたイオン輸送タンパクNHE3、NCCのmRNA発現量をreal-time PCR法により比較した。LowNa、LowNa/LowClで発現量が高くなったことから、NHE3は低ナトリウムイオン環境でNa+の取り込みに不可欠であることが示唆された。一方NCCはLowClで発現量が高くなったことから、低塩化物イオン環境でNa+、Cl-の取り込みに必要であると考えられた。しかし、Cl-の濃度が低い環境にもかかわらずLowNa/LowClではNCCの発現量が上がらなかったことから、Cl-の取り込みには他の経路も関与することが推測された。また免疫染色の結果から、前の実験結果と同様にNHE3、NCCは異なる塩類細胞の頂端膜上に局在し、NHE3はLowNa、LowNa/LowClで、 NCCはLowCl、LowNa/LowClで染まる範囲が大きくなる様子が観察された。これらの結果から、NHE3は凹型開口部に、NCCは凸型開口部に局在すると予想された。

これらの関係を確かめるため、開口部の形態とイオン輸送タンパクの局在を同時に確認する方法を開発した。まずNHE3、NCCの一次抗体に金粒子のついた二次抗体を反応させ鰓弁を免疫染色し、銀増感法でその金粒子の周りに銀を沈着させて反応を増感した。さらにマイクロX線分析により銀を検出することで、走査型電子顕微鏡像と免疫染色像の結果を同時に示すことに成功した。これは走査型電子顕微鏡により観察された塩類細胞開口部の形態とイオン輸送タンパクの局在との関係を初めて直接的に示したものである。その結果、NHE3は凹型開口部上に存在し、凸型開口部にはNCCが存在していることが証明された。

第3章 環境水の浸透圧変化に伴う塩類細胞の入替り

1章と2章では、塩類細胞を二種類の淡水型塩類細胞と一種類の海水型塩類細胞に分類し、その形態的機能的特徴を捉えることができた。近年、機能的に成熟した塩類細胞については研究が進み、多くの知見が得られてきた。しかし、塩類細胞が幹細胞からどのように分化し機能を獲得するか、そして機能を喪失した塩類細胞はどのような過程を経て細胞死を迎えるかという、塩類細胞のライフサイクルについてはほとんど研究が進んでいないのが現状である。細胞に寿命が存在する限り、硬骨魚が連続的に恒常性を維持するためには、機能を失った細胞の排除と新しく分化した細胞の加入が絶えず並行して起こらなければならない。従って、塩類細胞の浸透圧調節機構の全貌を解明するためには、機能的な塩類細胞についてだけでなく、塩類細胞の経時的なライフサイクルを明らかにすることが重要である。そこで、本章では、環境水の浸透圧変化を起こすことで塩類細胞の入替りが活発化し、鰓において塩類細胞の加入と細胞死が同時に起きていることを示すとともに、そのメカニズムを明らかにすることを目的とした。

ティラピアを淡水から70%海水へ直接移行後1/4(6時間)、1、3、7日目にサンプリングを行った。体液浸透圧は移行1日後に433mOsmと最も高くなり、3日後には正常な値の323mOsmに戻った。環境水の浸透圧変化による鰓での細胞死を検証するため、アポトーシスの形態的特徴の一つであるDNAの断片化を可視化するTUNEL法を用いて、鰓でのアポトーシスを検出した。その結果、移行1日後にアポトーシスを起こしている細胞が最も増加する様子が観察された。さらに、鰓でのアポトーシスが最大になる海水移行1日後の鰓上皮細胞の微細構造を、透過型電子顕微鏡を用いて観察したところ、アポトーシスが塩類細胞で起きていることが確認された。以上から、淡水型塩類細胞がアポトーシスを起こすことで鰓でのイオンの取り込みが抑えられ、そのことが70%海水移行後の体液浸透圧の正常化に寄与していると考えられた。

次に、BrdU法を用いて塩類細胞の分化について検討した。実験魚をあらかじめBrdUで処理しておくとDNA複製の際にBrdUがチミンに置き換わって取り込まれる。取り込まれたBrdUを免疫染色により検出することで、BrdU処理後に新たに分裂・出現した細胞を既存の細胞と区別することができる。淡水で飼育していたティラピアをBrdU処理後、淡水から70%海水へ移行し1、3、7日後に鰓をサンプリングした。この鰓をBrdUと塩類細胞のマーカーであるNa+/K+-ATPaseに対する抗体を用いて二重免疫染色を行い、新しく分化した塩類細胞を検出した。対照群には淡水維持群を用いた。免疫染色の結果、BrdU陽性の核を有する塩類細胞は「単体の塩類細胞」と「塩類細胞の複合体」の2種類に分類できた。塩類細胞複合体は、複数の塩類細胞から形成されるものと塩類細胞とアクセサリー細胞からなるものが観察された。BrdUで標識された単体の塩類細胞は、70%海水移行群でも淡水群と同様に出現しているのに対し、塩類細胞の複合体の分化は移行群で有意に増加した。複合体を形成する塩類細胞がイオンを排出する海水型塩類細胞であることを考慮すると、淡水から70%海水移行後、単体の塩類細胞に加え塩類細胞複合体を新たに分化させることで海水適応能を高めていると考えられる。

以上の結果より、高浸透圧環境下では側底膜上にNKCC1aを発現する塩類細胞がイオンの排出を、低浸透圧環境下では頂端膜上にNHE3、NCCを発現する塩類細胞がイオンの取り込みを担っていることが示された。さらに、NHE3は塩類細胞の凹型開口部に存在しNa+の取り込みを行い、NCCは凸型開口部に存在しNa+、Cl-の取り込みを担っていると考えられた。また、ティラピアを低浸透圧環境から高浸透圧環境に移行すると、淡水型塩類細胞はアポトーシスを起こし、単体の塩類細胞に加え海水型の塩類細胞複合体を分化させることで海水適応を発達させることが示唆された。本研究では塩類細胞の機能の多様性に加え、細胞の入替りという時間軸を加えて塩類細胞の浸透圧調節機能の解明を試みた。このような研究はこれまでになく斬新なアプローチであり、塩類細胞のライフサイクルの全貌解明に向け、大きな進展をもたらしたものと考えている。

審査要旨 要旨を表示する

本研究では広塩性魚ティラピアを用い、塩類細胞におけるイオン輸送機能の多様性と細胞の入替りという二つの観点から真骨魚の浸透圧調節を検証することを目的とした。

第1章 多様な浸透圧環境下での塩類細胞の観察

環境水の浸透圧が塩類細胞の形態および機能に及ぼす影響を調べるため、ティラピアを脱イオン淡水(DFW)、淡水(FW)、1/3海水(1/3SW)、海水(SW)に一週間馴致した。まず、走査型電子顕微鏡を用いて塩類細胞の開口部を観察した。次にNa+/K+-ATPaseに対する抗体を用いて免疫染色を行い、塩類細胞の形態を比較した。DFWでは微絨毛が存在する開口部が大型化し、イオン吸収のための表面積を広げている様子が観察された。一方、SWでは塩類細胞のサイズが有意に拡大した。次に、real-time PCR法により、塩類細胞のイオン輸送体Na+,K+,2Cl-共輸送体1a (NKCC1a)、Na+/H+ 交換輸送体3(NHE3)、液胞型H+ポンプ(V-ATPase)、Na+,Cl-共輸送体(NCC) のmRNA発現量を比較した。外界の浸透圧上昇に伴ってNKCC1aの発現量が、また浸透圧低下に伴ってNHE3、NCCの発現量が高くなった。ここから、NKCC1aは高浸透圧適応、NHE3、NCCは低浸透圧適応に重要であることが示唆された。また、免疫染色の結果から、高浸透圧環境下ではNKCC1aが側底膜上に存在する塩類細胞が、低浸透圧環境下ではNHE3もしくはNCCが頂端膜上に存在する塩類細胞が多く存在した。これらの結果より、NKCC1aが側底膜上に存在する塩類細胞(海水型)がイオンを排出し、NHE3もしくはNCCが頂端膜上に存在する塩類細胞(淡水型)がイオンを取り込むことが示唆された。

第2章 淡水におけるイオン取り込み機構の解明

淡水型塩類細胞のイオン取り込み機構を解明するため、ティラピアを人工淡水(Control)、低Cl-水(LowCl)、低Na+水(LowNa)、低Na+/Cl-水(LowNa/LowCl)に移行して一週間飼育した。塩類細胞の開口部を比較したところ、LowCl、LowNa/LowClでは凸型で微絨毛を持つ開口部の大型化が観察された。一方LowNa、LowNa/LowClでは網状構造を持つ凹型開口部が拡大していた。次に、前章で低浸透圧適応に重要だと考えられたNHE3、NCCのmRNA発現量を比較した。LowNa、LowNa/LowClで発現量が高くなったことから、NHE3は低Na+環境でNa+の取り込みに重要なことが示唆された。一方NCCはLowClで発現量が高くなったことから、低Cl-環境でNa+、Cl-の取り込みに必要であると考えられた。また免疫染色の結果から、NHE3はLowNa、LowNa/LowClで、 NCCはLowCl、LowNa/LowClで染まる範囲が大きくなる様子が観察された。これらの結果から、NHE3は凹型開口部に、NCCは凸型開口部に局在すると予想された。そこで走査型電子顕微鏡像と免疫染色像を同時に観察することにより、塩類細胞開口部の形態とイオン輸送体の局在の関係を直接的に示す方法を開発した。その結果、NHE3は凹型開口部上に、凸型開口部にはNCCが存在していることが証明された。

第3章 環境水の浸透圧変化に伴う塩類細胞の入替り

環境水の浸透圧変化に伴う塩類細胞の入替りについて明らかにするため、ティラピアを淡水から70%海水へ直接移行し1/4,1,3,7日目にサンプリングを行った。まず環境水の浸透圧変化による鰓での細胞死を検証するため、TUNEL法を用いてアポトーシスを検出した。その結果、移行1日後にアポトーシスを起こす細胞が有意に増加した。更に、移行1日後の鰓上皮細胞を透過型電子顕微鏡で観察したところ、アポトーシスが塩類細胞で起きていることが確認された。以上から、淡水型塩類細胞がアポトーシスを起こすことで鰓でのイオン吸収が抑えられ、70%海水移行に伴い高くなった体液浸透圧の正常化に寄与していると考えられた。

次に、BrdU法を用いて塩類細胞の加入を検討するため、淡水馴致ティラピアをBrdUで処理した後、淡水または70%海水へ移行し1,3,7日後に鰓をサンプリングした。この鰓をBrdUとNa+/K+-ATPaseに対する抗体を用いて二重免疫染色を行い、新しく分化した塩類細胞を検出した。その結果、BrdU陽性の核を有する塩類細胞は「単体の塩類細胞」と「塩類細胞の複合体」の2種類に分類できた。BrdUで標識された単体の塩類細胞は、70%海水移行群でも淡水群と同様に出現するのに対し、塩類細胞の複合体の分化は移行群で有意に増加した。ここから70%海水移行群では、単体の塩類細胞に加え塩類細胞複合体を新たに分化させることで海水適応能を高めていると考えられた。

本研究により、高浸透圧環境下ではNKCC1aを発現する塩類細胞がイオンを排出し、低浸透圧環境下ではNHE3、NCCを発現する塩類細胞がイオンを吸収していることが示唆された。更にNHE3は塩類細胞の凹型開口部に、NCCは凸型開口部に存在していることが示された。また、ティラピアを淡水から70%海水に移行すると、淡水型塩類細胞はアポトーシスを起こし、単体の塩類細胞に加え塩類細胞複合体を分化させることで海水適応能を発達させることが示唆された。

以上のように、本論文では塩類細胞の機能の多様性に加え、細胞の入替りについても検証したことで、塩類細胞の浸透圧調節機構の全貌の解明に向け大きな進展をもたらしたものと考えられる。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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