学位論文要旨



No 128074
著者(漢字) 児玉,武稔
著者(英字)
著者(カナ) コダマ,タケトシ
標題(和) 太平洋熱帯亜熱帯海域における栄養塩環境変動と植物プランクトン群集動態に関する研究
標題(洋)
報告番号 128074
報告番号 甲28074
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3790号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 教授 福代,康夫
 東京大学 准教授 高橋,一生
 東京海洋大学 教授 神田,穣太
 長崎大学 教授 武田,重信
内容要旨 要旨を表示する

熱帯・亜熱帯には、表層混合層における栄養塩濃度が極めて低いレベルに維持される貧栄養海域が広く分布する。こうした貧栄養海域では、プランクトン群集の生物量は少なく、変動に乏しいことから、漂泳生態系は安定で均質であると見なされている。近年、栄養塩の高感度分析法が確立され、貧栄養海域の表層でも栄養塩濃度は常法の検出限界以下のナノモルレベルで時空間的に大きく変動することが明らかになってきた。このため、植物プランクトン群集もその変動に応答して変化していると考えられ、これまでの安定で均質な生態系の概念が見直されている。しかし、こうした知見は、ハワイ、バミューダ周辺海域に集中しており、外洋域からの報告は乏しい。亜熱帯海域の生物生産力は亜寒帯海域や沿岸域に比べると低いが、その広大な面積から全海洋の生産に占める割合は大きく、生物生産力の支配要因として栄養塩環境の評価は重要である。本研究は、太平洋熱帯亜熱帯海域における表層混合層の栄養塩分布をナノモルレベルで明らかにし、その時空間変動のメカニズムと植物プランクトン群集動態との関係の解析から、栄養塩環境から見た各海域の海洋学的特徴を解明することを目的とした。

観測は、海洋研究開発機構の研究船「淡青丸」および「みらい」による計7回の航海において、東シナ海からフィリピン海、西部太平洋(36°N~35°S、130°E~180°)、南太平洋(17°S線上、85°W~155°E)で行った。いずれの航海においても表層の成層が発達していた。航走中、船底からくみ上げられた表層海水の水温、塩分、クロロフィル蛍光、栄養塩濃度を連続測定し、さらに海水試料を随時採取して植物プランクトン群集組成を調べた。観測点では表層混合層の各層からCTD-CMSニスキン採水により試水を得て、上記の項目を観測した。さらに、2008年6月には西部北赤道海流域の定点において22日間にわたる連続観測を実施した。

栄養塩濃度は、検出部に長光路キャピラリーセルを適用した高感度比色分析法を用い、硝酸塩+亜硝酸塩(N+N)、アンモニウム塩(NH4)、溶存反応性リン(SRP)を測定した。栄養塩濃度の検出範囲は、NH4およびSRPは3~1000 nM、N+Nは0.5~3000 nMであった。植物プランクトン群集組成はフローサイトメトリーならびに検鏡で細胞密度を計測し、高速液体クロマトグラフィーでクロロフィルならびにキサントフィル濃度を定量した後、CHEMTAX法を用いて綱レベルの植物プランクトン群集組成を推定した。

東シナ海およびフィリピン海 東シナ海からフィリピン海にかけての海域に認められた特徴は、1)栄養塩濃度が東シナ海側で高くフィリピン海側で低い、水平方向の濃度勾配の存在と、2)パッチ状の高N+N濃度水の存在である。前者については、東シナ海でフィリピン海と比べて栄養塩躍層が浅く、栄養塩躍層付近での深度方向の濃度変化が大きいため、下層から表層への栄養塩供給を受けやすいためであった。後者については、水平距離が2~52 kmのN+N濃度のパッチ状の増加が3回の航海において計20カ所で認められた。これらの高N+NパッチはN+N濃度の増加が(1)水温の低下とクロロフィル蛍光ならびSRP濃度の増加を伴うタイプ、(2)塩分の低下を伴い、クロロフィル蛍光ならびSRP濃度は変動しないタイプ、(3)その他のタイプ、の3種類に分けられた。タイプ1は島周辺に分布し、局地性湧昇などの亜表層水由来であった。タイプ2は、SRPをほとんど含まず、各パッチ内でN+N濃度は塩分に対していずれも有意な負の相関を示した。この相関を塩分ゼロに外挿するとN+N濃度は0.14~6.2 μMとなり、観測海域周辺で観測される雨水中の硝酸塩濃度に一致することなどから、降水由来であると判断された。この外挿値と降水量から求めた観測海域の降水による窒素供給量は、同海域の窒素固定量ならびに渦拡散による下層からの供給量と同程度であることから、降水は重要な窒素供給源であると結論される。

西部太平洋における海盆スケールの時空間変動 西部太平洋では、赤道湧昇域や表面水温が低下して成層が弱い一部の海域ではN+Nは>100 nMと高い濃度であり、局所的に上記の高N+Nパッチが認められたが、海盆スケールでは成層が発達しN+N濃度は<20 nMと総じて低かった。この低N+N海域でも海域によって濃度の違いが認められ、西部太平洋暖水プールを中心とした熱帯域や黒潮続流域では5 nM以上存在したのに対して、南太平洋亜熱帯循環域ではほぼ5 nM以下、さらに北太平洋亜熱帯循環中央部では3 nM以下に枯渇していた。この海域による濃度の違いは、下層からの供給の違いを反映したものと考えられる。

SRP濃度はN+Nよりも大きな海域間の変動幅(<3~300 nM)を示したが、観測を行った4航海に共通して22~26°Nの海域で最も低い濃度が観測された。この海域では窒素固定活性が周辺海域と比較して高い傾向にあり、窒素の供給に伴うSRPの消費を反映したものと考えられる。この海域のSRP濃度には季節変化が認められ、11~2月にかけては5 nM以上存在したが、3~9月にかけてはほぼ検出限界以下であった。11~2月にかけては混合層深度の深化と渦拡散により下層からのSRP供給速度が増えるのに対し、3~4月には降雨による窒素供給量が増加し、また、3~5月にはアジア大陸からのダスト降下が増加するため、鉄の供給により窒素固定が高まり、さらにダストに含まれる窒素栄養塩の沈着も加わり、SRP消費が増加したためと考えられる。

一方、N+NおよびSRPとは異なり、NH4には大規模な海域間の違いは認められなかったが、より小さな空間スケールでの変動を示した。NH4濃度が高い海域は1)下層からのN+N供給が活発な高N+N海域、2)フィジー南方の19°~23°Sの高トリコデスミウム海域であった。いずれの海域にも、NH4濃度とクロロフィル蛍光ならびにクロロフィルa分解物のフェオフィチンa濃度とに正の相関があり、生物生産の活発な水塊で動物プランクトンの摂食によるNH4の再生を反映したものと考えられる。さらに2)の海域ではトリコデスミウムからのNH4の細胞外滲出の可能性が示唆された。

南太平洋における東西分布 南太平洋亜熱帯海域では、東西方向にN+N、NH4、SRPいずれも東で濃度が高く、西で低い勾配があり、とくにN+N濃度は150°W以東は常に10 nM以上であったが、これは、赤道湧昇の影響と考えられた。すなわち、赤道湧昇は東方に向かって発達しており、その影響を受けた水塊が南方に水平移流により張り出したものである。

西部北太平洋における短期間変動 北赤道海流内の定点観測では、22日間の観測期間中、1)水塊の移流、2)生物活性の変化、および3)潮汐による栄養塩環境の変化が認められた。すなわち、観測開始後10日から15日にかけて混合層内のSRP濃度が60 nMから20 nM以下まで減少したが、基礎生産及び窒素固定から求めた植物プランクトンによる消費では観測された減少の約15%しか説明できなかった。海色及び海面高度の観測から、前述した観測域北側に分布する低SRP海域の水塊が移流してきたことが示され、水塊の入れ替わりによるものと判断した。水の入れ替わりに伴い窒素固定活性が高まっており、観測域北側の低SRP海域の特徴が認められた。また、別の日には、雨天による光律速で基礎生産速度が低下した期間にNH4濃度が25 nMまで増加する現象が認められた。水柱積算でみるとNH4増加量と基礎生産低下量がほぼ等しく、且つ両者の変化が鏡像関係となっていたことから、晴天時には、基礎生産による消費と均衡していたNH4の再生が、基礎生産の低下に伴って植物プランクトンによって利用されずにNH4が残存し検出されたと考えられる。さらに観測2日目と4日目の3時間毎の24時間観測から、亜表層クロロフィル極大付近では、潮汐による密度躍層の上下と同期してN+N躍層が変動し、表層混合層底部のN+N濃度が変化する様態がとらえられた。

栄養塩環境と植物プランクトン群集 観測海域を通して原核緑藻類が優占し、全クロロフィルaの平均48%を占めた。次いでシアノバクテリア及びハプト藻類が多く、それぞれ15%、11%を占めた。観測海域では一貫して窒素が制限要因となっていたが、原核緑藻類の現存量はNH4濃度とは正の相関はあるがN+N濃度と有意な相関を示さず、これは原核緑藻類がほとんどN+Nを利用できないことの現れと解された。シネココッカスおよび真核藻類の現存量はN+N、NH4濃度ともに正の相関を示した。以上から、供給される窒素栄養塩の種類が植物プランクトン優占グループを制御している可能性が示唆される。

以上、本研究より太平洋熱帯亜熱帯貧栄養海域ではナノモルレベルの栄養塩動態における物理過程と生物過程の関わり方は一様ではなく、海域により異なっていることが明らかになった。その類型化を基に調査海域は少なくとも5海域に区分けされた。窒素栄養塩の種類と植物プランクトン優占グループとの関係、および窒素固定者の存在は、ナノモルレベルの栄養塩環境の変動によって植物プランクトン群集の増殖活性が時空間的に変動することを示唆している。これまで、貧栄養海域における増殖速度に関する知見はマイクロモルレベルに留まっており、ナノモルレベルについてはほとんど不明である。今後、この点を中心に研究を進めることで、熱帯亜熱帯貧栄養海域の漂泳生態系がもつとされている安定性や均質性が栄養塩環境の変動にどのように影響されるかが明らかになると期待される。

審査要旨 要旨を表示する

熱帯・亜熱帯海域では表層混合層における栄養塩濃度が極めて低いレベルに維持されており、漂泳生態系は低生物量の群集が時空間的に変動の乏しい均質性で特徴づけられてきた。近年、栄養塩の高感度分析法が確立され、このような貧栄養海域に関する古典的な見方が見直されてきたが、その知見は一部の海域に限られ、外洋域では極めて乏しい。本研究は、太平洋熱帯亜熱帯海域における表層混合層の栄養塩分布をナノモルレベルで明らかにし、その時空間変動のメカニズムと植物プランクトン群集動態との関係の解析から、栄養塩環境から見た各海域の海洋学的特徴を解明することを目的とした。

観測は研究船「淡青丸」および「みらい」による計7回の航海において、成層の発達した東シナ海からフィリピン海、180°以西の西部太平洋で行った。航走中、船底からくみ上げられた表層海水の水温、塩分、クロロフィル蛍光、栄養塩濃度を連続測定し、さらに海水試料を随時採取して植物プランクトン群集組成を調べた。観測点では表層混合層の各層からCTD-CMSニスキン採水により試水を得て、上記の項目を観測した。2008年6月には西部北赤道海流域の定点において22日間にわたる連続観測を実施した。栄養塩濃度は、検出部に長光路キャピラリーセルを適用した高感度比色分析法を用い、硝酸塩+亜硝酸塩(N+N)、アンモニウム塩(NH4)、溶存反応性リン(SRP)を測定した。

東シナ海からフィリピン海ではパッチ状の高N+N濃度水の存在が認められた。水平距離が2~52 kmのN+N濃度のパッチ状の増加が20カ所で認められた。これらの高N+NパッチはN+N濃度の増加を、1)水温の低下とクロロフィル蛍光ならびSRP濃度の増加を伴うタイプ、2)塩分の低下を伴い、クロロフィル蛍光ならびSRP濃度は変動しないタイプ、3)その他のタイプ、の3種類に整理した。タイプ1は亜表層水由来であった。タイプ2は各パッチ内でN+N濃度は塩分に対して有意な負の相関を示し、この相関を塩分ゼロに外挿するとN+N濃度は0.14~6.2 μMとなり、観測海域周辺で観測される雨水中の硝酸塩濃度に一致することなどから、降水由来であることを明らかにした。

西部太平洋では、N+N濃度は総じて<20 nMと低かった。この低N+N海域でも海域によって下層からの供給の違いを反映して、海域により濃度が異なることを見出した。SRP濃度は<3~300 nMの大きな海域間の変動幅を示し、観測した4航海に共通して22~26°Nの海域で最も低い濃度を観測した。この海域ではSRPが冬季は残存し夏季は枯渇する季節変化が認められ、この変化を冬季の下層からの供給の増加と春季の窒素固定による消費の増加から説明した。NH4濃度は下層からのN+N供給が活発な海域とフィジー南方の高トリコデスミウム海域で高まった。両海域ともNH4濃度はクロロフィル蛍光ならびにフェオフィチンa濃度と正の相関があることから生物生産の活発な水塊で動物プランクトンの摂食によるNH4の再生を反映したものと結論し、さらにフィジー南方ではトリコデスミウムからのNH4の細胞外滲出の可能性を指摘した。

北赤道海流内の定点観測では、水塊の移流と生物活性の変化による栄養塩環境の変化を捉えた。すなわち、5日間で混合層内のSRP濃度が40 nM以上減少したが、植物プランクトンによる消費では減少の約15%しか説明できず、海色と海面高度の観測から北側の低SRP海域からの流入と判断した。また、光律速による基礎生産速度が低下に対応してNH4濃度が25 nMまで増加し、これは消費と均衡していたNH4の再生が、基礎生産の低下に伴い利用されずに残存し、NH4が検出されたと結論した。

さらに、観測海域全域にわたり窒素が制限要因となっていたが、原核緑藻類の現存量はNH4濃度とは正の相関はあるがN+N濃度と有意な相関を示さないこと、シネココッカスおよび真核藻類はN+N、NH4濃度ともに正の相関を示すことを見出し、供給される窒素栄養塩の種類が植物プランクトン優占群集を決めていることを明らかにした。

以上より、太平洋熱帯亜熱帯海域ではナノモルレベルの栄養塩動態における物理過程と生物過程の関わり方は一様ではないことが明らかになり、栄養塩動態の違いから少なくとも5海域に区分けされることがはじめて明らかになり、貧栄養海域の漂泳生態系の特徴とされてきた時空間的安定性や均質性の理解が大きく前進した。このように本研究は太平洋亜熱帯海域の栄養塩変動と植物プランクトン群集動態の関係を解明する上で新たな展開を与え、学術上も応用上も極めて貢献するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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