学位論文要旨



No 128078
著者(漢字) 岡本,成司
著者(英字)
著者(カナ) オカモト,セイジ
標題(和) ヤマトシジミのエキス成分および食味に及ぼす生息域塩分の影響に関する研究
標題(洋)
報告番号 128078
報告番号 甲28078
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3794号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 松永,茂樹
 東京大学 教授 浅川,修一
 東京大学 准教授 潮,秀樹
 千葉大学 准教授 米田,千恵
内容要旨 要旨を表示する

ヤマトシジミCorbicula japonica は北海道から九州の日本全域の汽水湖や河川の干潮域に生息する。平成21年におけるわが国における漁獲量は約10,000トンで内水面漁業の最も重要な漁獲対象種の一つとなっている。このため,ヤマトシジミに関しては,生息生態や産卵生態など多くの研究が行われている。例えば,塩分耐性が温度によって著しく異なることなどが明らかにされている。一方,水生無脊椎動物は温度,塩分,溶存酸素など種々の環境要因に対して代謝的に応答し,細胞内成分を変化させて順応することが知られている。ヤマトシジミについても遊離アミノ酸を中心とした生体内エキス成分につき,水槽内および汽水湖の塩分変動に伴う変化が調べられている。ところで,茨城県での本種の漁獲量は約1,800トンで,島根県,青森県に次いで3番目に多く,しじみ掻き漁業は地元の重要な産業となっている。同県での漁獲地は涸沼および涸沼下流域であるが,後者の生息域のヤマトシジミの生体内エキス成分は汽水湖よりさらに潮汐の影響を強く受けると考えられるが,その実態は明らかでない。一方,水生無脊椎動物の生体内エキス成分は,食味に深く関係することが知られているが,生息域塩分の変動に伴うエキス成分の変化およびこの変化に伴う食味の違いについてはほとんど情報がない。

本研究はこのような背景の下,2009~2011年に涸沼および涸沼川下流域の水質をモニタリングするとともに,同年6月下旬~7月上旬に両水域からヤマトシジミを採取し,エキス成分を分析した。さらに,潮汁を調整してその食味を官能検査し,遊離アミノ酸などの生体成分との関連を調べたもので,成果の概要は下記の通りである。

1.涸沼川水系の水質環境

2009年6月下旬~2011年10月に涸沼(茨城町下石崎)および涸沼川下流(水戸市平戸)の水深1.0~1.5mに多項目水質計を設置し,水温,溶存酸素(DO)および塩分をモニタリングした。さらに,2011年6月中旬~7月下旬に涸沼の主漁場である涸沼湖尻(茨城町前谷)および涸沼湖奥(茨城町上石崎)でも同様に塩分を測定し,涸沼川下流(水戸市平戸)と比較した。

涸沼では,水温が5.2~32.1℃(平均19.1℃),DOは0.1~11.4ppm(平均6.0ppm),塩分は0.2~10.8psu(平均4.2psu)であった。一方,涸沼川下流は,水温が6.7~27.8℃(平均17.4℃),DOは2.3~12.4ppm(平均6.0ppm),塩分は3.1~17.0psu(平均11.7psu)であった。水温の年間較差は涸沼の方が涸沼川に比べて大きく,涸沼は気温,涸沼川は潮汐の影響を受けたと考えられた。DOの日間較差は,涸沼ではとくに水温が高い季節で大きかった。一方,涸沼川のDOは2010年11月中旬まで概ね5ppm以下の低い値で推移したが,2011年1月中旬以降は7.1~12.4ppmと高い傾向を示した。塩分は涸沼では概ね5psu以下であったが,涸沼川では年間の約8割は10psu以上と高く,また,日間較差が大きく,潮汐の影響を強く受けた。2010年および2011年で6月中旬~7月上旬の塩分を比較すると,涸沼では,それぞれ1~5psuおよび2~11psuと両年間で大きな違いがあった。また,涸沼川下流域ではそれぞれ,0~21psuおよび3~25psuと2011年の方が若干高く,東日本大震災による地盤沈下の影響が認められた。

2.生息域を異にする涸沼川水系産ヤマトシジミのエキス成分の比較

2009~2011年の6月下旬に涸沼(茨城町前谷~下石崎)および涸沼川下流(水戸市中瀬~平戸)で漁獲されたヤマトシジミ(以下,それぞれ涸沼産および涸沼川産とする)を,調理時の処理法を模して20℃に調整した5psu食塩水中,16時間蓄養して砂出しした後,生物学的形質を計測した。その後,開殻して体液塩分を測定し,軟体組織を切り出した。さらに,ろ紙で表面に付着した水分を除去して重量を測定した後,軟体組織を-35℃で冷凍貯蔵した。その後,2009年の試料は引き続き-35℃,2010年および2011年の試料は-60℃で貯蔵した。供試したシジミは殻長20.7~26.0mm,貝殻付き重量3.2~6.8g,軟体指数[(軟体重量g/貝付き重量g)×100]18.8~24.8%,身入度[(軟体重量g×1000)/(殻長mm×殻高mm×殻幅mm)]0.124~0.162であった。試料は半解凍後,水分を測定するとともに,常法によりエキス成分を抽出し,グリコーゲン,コハク酸および遊離アミノ酸を分析した。なお,2009年の試料については遊離Dアミノ酸の分析も行った。

2009年6月下旬に採取した涸沼産および涸沼川産(2009年分析区)を比較したところ,それぞれ蓄養前の体液塩分は7.2~7.6psu,蓄養後は6.6~6.9psuであった。次に,蓄養後の軟体組織の水分は75.4~76.7%,グリコーゲンは36.1~44.9mg/g,コハク酸は55.6~71.9mg/100g,遊離アミノ酸総量は358.9~390.6mg/100gと,涸沼産と涸沼川産との間に大きな差はなかったが,遊離D,L-アラニンは涸沼川産の方がやや高い値を示した。

2010年6月下旬に採取した試料(2010年分析区)の蓄養前の体液塩分は,涸沼産および涸沼川産でそれぞれ5.5および16psuで両者間に大きな違いがあったが,蓄養後は4.5~5.2psuとほとんど変わらなかった。また,蓄養後の軟体組織の水分は73.9~76.4%,グリコーゲンは69.3~103.3 mg/gと両試料間で大きな差違はなかったが,コハク酸は涸沼産および涸沼川産でそれぞれ,50.0~74.5mg/100gおよび21.1~28.6mg/100gと,涸沼産の方が高かった。遊離アミノ酸総量を雌雄別に比較したところ,雌では涸沼産および涸沼川産でそれぞれ471.6および557.3mg/100g,雄ではそれぞれ573.9および607.6mg/100gと,涸沼川産の方が高かった。また,アラニン,プロリン,β-アラニン,オルニチンおよびグルタミンも涸沼川産の方が高かった。

2011年6月下旬に採取した蓄養前の体液塩分は涸沼湖奥産,涸沼湖尻産および涸沼川下流産でそれぞれ4.6,5.5および18.0psuと,下流ほど高い傾向にあった。蓄養後の体液塩分は4.5~5.1psuでとくに大きな差異はなかった。蓄養後の軟体組織の水分およびグリコーゲンでは産地による差異はなかったが,コハク酸には若干の違いが認められた。遊離アミノ酸総量は,涸沼湖奥産,涸沼湖尻産および涸沼川下流産で,それぞれ330.0~362.9,581.3~680.4および737.0~832.1mg/100gと,蓄養前の体液塩分と同様に下流のものほど高かった。また,アラニン,グルタミンおよびオルニチンも同様の傾向がみられた。

一方,2010年および2011年の6月下旬に漁獲した試料の遊離アミノ酸を雌雄別に比較したところ,雌雄にかかわらず涸沼産および涸沼川産とも,アミノ酸総量は2011年産の方が高かった。また,アラニン,グルタミン酸,グルタミン,オルニチン,プロリンおよびセリンも2011年産の方が高く,これは生息域の塩分が2011年に上昇していることに起因しているものと推測された。

3.涸沼川下流域産ヤマトシジミのエキス成分に及ぼす潮汐の影響

2011年7月上旬,涸沼川下流域(水戸市平戸)にプラスチック製籠中,ガーゼを2重に敷き,さらにその中に砂を敷いた容器内に同地産のヤマトシジミを収容して設置し,干潮時および満潮時に取り上げ,直ちに開殻し軟体組織表面の水分を除去した。試料の凍結保存(-60℃)および分析は先述方法と同様に行った。

体液塩分は干潮および満潮試料でそれぞれ9および16~19psuと,満潮時の試料の方が高い値を示した。軟体組織の水分は干潮および満潮試料でそれぞれ78および74%と,満潮時の試料の方がやや低い値を示した。

遊離アミノ酸総量を雌雄別に比較したところ,干潮時試料では雌および雄でそれぞれ365.4および492.1mg/100g,満潮時の試料でそれぞれ1,037.3および1,213.7mg/100gと,満潮時の雌および雄の試料は,干潮時の試料に比べてそれぞれ2.8および2.5倍高かった。また,アラニン,プロリン,グルタミン酸,オルニチン,β-アラニン,グリシン,グルタミン,セリンおよびリジンの値は雌雄に関わらず満潮時の試料の方がはるかに高い値を示し,これらの遊離アミノ酸の変化は浸透圧調節に関わるものと考えられた。

4.生息域を異にする涸沼川水系産ヤマトシジミの食味の比較

潮汁は,殻付き重量から推定した軟体部の19倍量の沸騰した純水中に半解凍の殻付き試料を投入し,再沸騰後1分間加熱して作製した。その後,潮汁に食塩を添加して塩分を8psuとし,約70℃にて訓練したパネルによる2点比較法での官能検査に供試した。潮汁の成分分析は軟体組織と同様の方法で行うとともに,核酸分析も実施した。

2009年分析区の涸沼産および涸沼川産から作製した潮汁のグリコーゲンはそれぞれ5.7および4.6mg/ml,コハク酸はそれぞれ7.5および4.2mg/mlと,大きな違いはなった。一方,遊離アミノ酸総量はそれぞれ,54.7および42.3mg/100mlと,涸沼産の方が多かった。また,AMPはそれぞれ0.057および0.036mg/mlと,涸沼産の方が高かった。潮汁の官能検査の結果では,涸沼産の方が涸沼川産より先味および後味が強い傾向であった。

2010年分析区の涸沼産および涸沼川産から作製した潮汁では,グリコーゲンはそれぞれ4.2および5.1mg/ml,コハク酸はそれぞれ,50.7および78.7mg/100mlで違いはなかった。一方,遊離アミノ酸総量はそれぞれ26.8および34.2mg/mlと,涸沼川産の方が高く,蓄養前の体液塩分との関連性が考えられた。また,AMPは涸沼産および涸沼川産で,それぞれ0.031 および0.041 mg/mlであった。2010年分析区の潮汁の官能検査では,涸沼産および涸沼川産の間に先味および後味に違いはなかった。2009年分析試料の官能検査の結果との違いについては,今後の課題として残された。

以上,研究により涸沼および涸沼川下流のヤマトシジミの軟体組織のエキス成分を分析し,遊離アミノ酸総量は生息域の塩分が高いほど多くなることが明らかになり,これは浸透圧調節に関連するものと推察された。さらに,潮汁を両水域の試料から調製して比較したところ,漁獲時の水域の塩分の違いは潮汁のエキスに含まれる遊離アミノ酸総量を左右し,食味にも影響を及ぼすことが示されたもので,この成果は食品化学に貢献するのみならず,産業的にも資するところが大きい。

審査要旨 要旨を表示する

ヤマトシジミは北海道から九州の日本全域の汽水湖や河川の干潮域に生息しており,生息生態や産卵生態など多くの研究が行われている。一方,水生無脊椎動物の生体内エキス成分は,食味に深く関係することが知られているが,生息域塩分の変動に伴うエキス成分の変化およびこの変化に伴う食味の違いについてはほとんど情報がない。本研究はこのような背景の下,茨城県の涸沼および涸沼川下流域の水質をモニタリングするとともに,両水域からヤマトシジミを採取し,エキス成分を分析した。さらに,潮汁を調整してその食味を官能検査し,遊離アミノ酸などの生体成分との関連を調べた。

まず,2009年6月下旬~2011年10月に涸沼(茨城町下石崎)および涸沼川下流(水戸市平戸)の水深1.0~1.5mに多項目水質計を設置した。涸沼では,水温が5.2~32.1℃(平均19.1℃),DOは0.1~11.4ppm(平均6.0ppm),塩分は0.2~10.8psu(平均4.2psu)であった。一方,涸沼川下流は,水温が6.7~27.8℃(平均17.4℃),DOは2.3~12.4ppm(平均6.0ppm),塩分は3.1~17.0psu(平均11.7psu)であった。一方,涸沼川のDOは2010年11月中旬まで概ね5ppm以下の低い値で推移したが,2011年1月中旬以降は7.1~12.4ppmと高い傾向を示した。塩分は涸沼では概ね5psu以下であったが,涸沼川では年間の約8割は10psu以上と高く,潮汐の影響を強く受けた。2010年および2011年で6月中旬~7月上旬の涸沼では,それぞれ1~5psuおよび2~11psuと両年間で大きな違いがあった。また,涸沼川下流域ではそれぞれ,0~21psuおよび3~25psuと2011年の方が若干高かった。

次に,2009~2011年の6月下旬に涸沼(茨城町前谷~下石崎)および涸沼川下流(水戸市中瀬~平戸)で漁獲されたヤマトシジミを,砂出しした後,軟体組織の水分を測定するとともに,エキス成分を抽出し,グリコーゲン,コハク酸および遊離アミノ酸を分析した。2009年6月下旬に採取した涸沼産および涸沼川産(2009年分析区)の軟体組織の水分は75.4~76.7%,グリコーゲンは36.1~44.9mg/g,コハク酸は55.6~71.9mg/100g,遊離アミノ酸総量は358.9~390.6mg/100gと,両試料間に大きな差はなかったが,遊離D,L-アラニンは涸沼川産の方がやや高い値を示した。2010年6月下旬に採取した試料(2010年分析区)の水分は73.9~76.4%,グリコーゲンは69.3~103.3 mg/gと両試料間で大きな差はなかったが,コハク酸は涸沼産および涸沼川産でそれぞれ,50.0~74.5mg/100gおよび21.1~28.6mg/100gと,涸沼産の方が高かった。遊離アミノ酸総量を雌雄別に比較したところ,雌では涸沼産および涸沼川産でそれぞれ471.6および557.3mg/100g,雄ではそれぞれ573.9および607.6mg/100gと,涸沼川産の方が高かった。2011年6月下旬に採取した試料の水分およびグリコーゲンでは産地による差はなかったが,コハク酸には若干の違いが認められた。遊離アミノ酸総量は,涸沼湖奥産,涸沼湖尻産および涸沼川下流産で,それぞれ330.0~362.9,581.3~680.4および737.0~832.1mg/100gと,下流のものほど高かった。一方,2010年および2011年の6月下旬に漁獲した試料の遊離アミノ酸を雌雄別に比較したところ,雌雄にかかわらず涸沼産および涸沼川産とも,アミノ酸総量は2011年産の方が高かった。

次に,2011年7月上旬,涸沼川下流域(水戸市平戸)にプラスチック製籠中,ガーゼを2重に敷き,その中に砂を敷いた容器内に同地産のヤマトシジミを収容して設置し,干潮時および満潮時に取り上げ,開殻し軟体組織表面の水分を除去した試料の分析を行った。遊離アミノ酸総量を雌雄別に比較したところ,干潮時試料では雌および雄でそれぞれ365.4および492.1mg/100g,満潮時の試料でそれぞれ1,037.3および1,213.7mg/100gと,満潮時の雌および雄の試料は,干潮時の試料に比べてそれぞれ2.8および2.5倍高かった。

最後に,潮汁を,殻付き重量から推定した軟体部の19倍量の沸騰した純水中に殻付き試料を投入し,再沸騰後1分間加熱して作製した。2009年分析区の涸沼産および涸沼川産から作製した潮汁のグリコーゲンはそれぞれ5.7および4.6mg/ml,コハク酸はそれぞれ7.5および4.2mg/mlと,大きな違いはなった。一方,遊離アミノ酸総量はそれぞれ,54.7および42.3mg/100mlと,涸沼産の方が多かった。また,AMPはそれぞれ0.057および0.036mg/mlと,涸沼産の方が高かった。訓練したパネラーによる2点比較法で潮汁を約70℃にて官能検査に供試したところ,涸沼産の方が涸沼川産より先味および後味が強い傾向であった。2010年分析区の涸沼産および涸沼川産から作製した潮汁では,グリコーゲンはそれぞれ4.2および5.1mg/ml,コハク酸はそれぞれ,50.7および78.7mg/100mlで違いはなかった。一方,遊離アミノ酸総量はそれぞれ26.8および34.2mg/mlと,涸沼川産の方が高かった。また,AMPは涸沼産および涸沼川産で,それぞれ0.031 および0.041 mg/mlであった。なお,2010年分析区の潮汁の官能検査では,涸沼産および涸沼川産の間に先味および後味に違いはなかった。

以上,研究により涸沼および涸沼川下流のヤマトシジミの軟体組織のエキス成分を分析し,遊離アミノ酸総量は生息域の塩分が高いほど多くなることが明らかになり,これは浸透圧調整に関連するものと推察された。さらに,潮汁を両水域の試料から調製して比較したところ,漁獲時の水域の塩分の違いは潮汁のエキスに含まれる遊離アミノ酸総量を左右し,食味にも影響を及ぼすことが示されたもので,これらの成果は学術上、応用上資するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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