学位論文要旨



No 128083
著者(漢字) 中島,亨
著者(英字)
著者(カナ) ナカジマ,トオル
標題(和) 植物油脂原料の国際市場における価格伝達と市場支配力
標題(洋)
報告番号 128083
報告番号 甲28083
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3799号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 教授 鈴木,宣弘
 東京大学 教授 木南,章
 東京大学 准教授 齋藤,勝宏
 東京大学 准教授 中嶋,康博
内容要旨 要旨を表示する

近年,世界的に食料価格が高騰している.その背景として,新興国の食料需要やバイオ燃料需要の増大等が指摘され,世界の食料需給や農産物の価格動向に対する関心が高まっている.農産物の中でも,中国による大豆輸入の急増や,欧州を中心とするバイオディーゼルの生産増大にみられるように,油糧種子や植物油といった植物油脂原料が近年特に注目されている.また,こうした農産物の国際流通を担う大規模穀物流通企業の農産物調達方法や価格形成への影響力についても関心が集まっている.一方で,農産物の多くを海外からの輸入に依存している日本では,原料価格の上昇を転嫁できなかった農家の廃業危機が指摘されており,価格の伝達性や食料輸入のあり方に関する研究が必要とされている.

価格伝達に関する研究のうち,構造モデルを使用した産業組織論分析では,不完全競争と価格伝達の関係に関心が払われてきた.また,時系列分析においては,共和分モデルによる価格伝達分析が近年盛んに行われている.しかしながら,原料価格の上昇時と下落時で,製品価格が調整される程度や速度が異なるという「非対称価格伝達」が存在する場合,日本をはじめとする輸入国は,農産物の価格変動リスクのみならず,非対称価格伝達によるリスクも負っていることになる.したがって,農産物の国際市場における非対称価格伝達の存在を検証することは,重要な今日的研究課題のひとつである.

しかしながら,非対称価格伝達の時系列分析においては,経済理論と整合的な推計が行われておらず,期間内の構造変化が考慮されていないものが多い.非対称価格伝達の要因として,不完全競争市場における市場支配力(価格を限界費用より高く設定する能力,マーケット・パワー)の存在等が挙げられているが,非対称価格伝達との関連性は定量的に分析されていない.一方,市場支配力に関しては,新しい実証的産業組織論に基づく研究蓄積がみられるが,非対称価格伝達の分析と同様,パラメータの経年変化を考慮した分析が欠如している.これらの研究対象についても,国際貿易過程や日本を分析対象とするものが少なく,また,植物油脂原料を対象とした包括的分析も行われていない.

以上の既存研究の問題点を踏まえ,本研究の課題を次のように設定する.第一に,パーム油,大豆,菜種を対象植物油脂原料とし,その貿易過程における市場構造を産業組織論的に把握する.第二に,対象植物油脂原料について非対称価格伝達の推計を行い,輸出国と輸入国の収益性に対する含意を導出する.第三に,実証分析では,時系列の定常性を考慮し,パラメータの経年変化を踏まえるなど,より頑健な推計を行う.第四に,植物油脂原料の主要輸出国の市場支配力を推計し,その経年変化についても検討する.第五に,産業組織論の理論枠組に則り,市場構造,非対称価格伝達,および市場支配力の相互関連性について分析する.その上で,本研究から得られる政策的含意を導出する.

上述の課題設定を第1章で行った後,第2章では,植物油脂原料の国際市場構造について,貿易データを用いた記述統計や,輸出産業に関する既存研究を整理することで分析を行った.パーム油については,インドネシアおよびマレーシアが輸出市場の85%を占め,集中度指標であるHHIも0.4前後となっている一方,輸入国のHHIは0.1未満となっており,輸出国の寡占市場が形成されていることが示された.輸出企業についても,インドネシアのパーム原油を除き,少数の大企業が輸出を行い,輸出産業の寡占構造の実態が明らかとなった.なお,補論Aでは,インドネシアのパーム油原料流通における市場構造について現地調査に基づき分析を行い,市場の成熟化にともなうパーム原油の搾油工場の競争増大とパーム油原料の売り手の価格交渉力増大を明らかにした.大豆については,米国が最大の市場シェアを持つが,特に1990年代後半以降,ブラジルやアルゼンチンの輸出増加にともない,米国のシェアは低下した.輸入国については,1990年代後半以降,中国の輸入量が急増し,HHIも0.1前後から0.3を超えるに至った.米国の輸出企業は,従来から少数の大規模穀物流通企業による寡占構造となっていたが,1990年代後半以降,その傾向はさらに強まっていることが指摘された.一方,菜種に関する分析によると,EU域外市場におけるカナダの市場シェアは約70%と高く,EU以外の輸入国は菜種の輸入をほぼカナダ一国に依存している状態で,HHIも0.1程度と低くなっている.また,カナダの輸出企業は旧協同組合系,カナダ資本の民間企業,米国系企業といった大規模穀物流通企業による寡占市場となっていることが示された.

第3章では,輸出国の植物油脂原料の国内価格から,輸入国の買取価格としての輸出価格への非対称価格伝達に関する実証分析を行った.特に,モンテカルロ・シミュレーションによる分析結果に基づき,輸出国の超過利潤,輸入国の超過損失が蓄積される正の非対称価格伝達と,輸出国の超過損失,輸入国の超過利潤が蓄積される負の非対称価格伝達について,共和分閾値自己回帰モデルにより推計を行った.その結果,パーム油については,インドネシア産パーム油で負の非対称価格伝達が,マレーシア産パーム油で正の非対称価格伝達が検出された.また,米国産大豆については,同モデルの総サンプル推計とそのローリング推計を行い,輸入国平均において1970年代までは正の非対称が検出されたが,1980年代は負の非対称となり,1990年代前半には対称的価格伝達となったものの,1990年代後半以降は負の非対称性が強くなるという結果が得られた.日本,メキシコ,中国,EUといった主要輸入国については,概ね正の非対称が趨勢的であった.一方,カナダ産菜種については,1980年代末以降,輸入国平均や日本に関して正の非対称価格伝達が検出された.米国については2000年頃を境に負の非対称から正の非対称へ変化し,メキシコは負の非対称であるものの,その非対称性は減少し,今日では負の非対称が解消されていることが示された.

第4章では,残余需要モデルを用い,輸出国の市場支配力の推計を行った.パーム油については,インドネシアはパーム原油の輸出において,概ね市場支配力を有していないが,パーム精油の輸出においては市場支配力を有する場合が多く,輸入国平均でも市場支配力を持っていることが示された.また,マレーシアは,輸入国平均でみてパーム油輸出において市場支配力を有しており,特にパーム原油よりもパーム精油の輸出においてその程度が大きいことが明らかとなった.米国産大豆については,残余需要モデルのローリング推計を行い,1990年代後半以降,輸入国平均では市場支配力をほとんど持たないが,日本やメキシコに対する輸出において,市場支配力を有していることが示された.なお,補論Bでは時系列モデルにより輸入国平均について米国の市場支配力の変化を検討し,残余需要モデルの推計結果を支持する結果が得られた.一方,カナダ産菜種に関しては,日本やメキシコに対しては1990年代後半以降,米国や輸入国平均では2000年以降に,カナダは菜種輸出において市場支配力を持つようになったことが示された.

第5章では,第2章から第4章の分析結果に基づき,市場構造と非対称価格伝達および市場支配力の関連性について分析した.その結果,パーム油については,輸出国やその輸出産業が寡占的であるほど正の非対称価格伝達が検出され,輸出国が市場支配力を有する傾向が強いことが示された.また,正の非対称価格伝達と市場支配力の関連性が比較的強くみられた.大豆に関しては,米国の輸出市場におけるシェアの低下と,正から負という非対称価格伝達の変化,市場支配力の減少という対応関係が示された.同時に,輸入国のHHIと市場支配力指数の相関係数も高いものであった.一方,菜種についても,輸入国のHHIをはじめとする市場構造と,非対称価格伝達指数や市場支配力指数に高い相関関係が検出された.特に,大豆の場合と同様,正(負)の非対称価格伝達と市場支配力の行使(非行使)に関係性があることが判明した.

本研究の主な結論は次の通りである.第一に,市場構造と市場成果の関係については,輸出国の輸出産業が寡占的であるほど,また,輸出国の集中度が高いほど,輸入国の集中度が低いほど,正の非対称価格伝達や輸出国の市場支配力をもたらすことが明らかとなった.このことから,国際市場の産業組織論分析においては,対象産業のみならず,国際市場構造を総体的に把握する必要があるといえる.第二に,非対称価格伝達と市場支配力に関連性があること,特に,正の非対称と輸出国の市場支配力の関連性が強いことが明らかとなった.よって,市場支配力の推計の代替として,より少ないデータで分析が可能な非対称価格伝達を推計することに一定の意義が認められる.第三に,日本の植物油脂原料輸入の大部分で,正の非対称価格伝達や輸出国の市場支配力の存在が確認された.さらに,非対称性や市場支配力の程度は対象輸入国中最大規模となっていることが示された.この是正を目的とするならば,日本は新興輸出国への投資を促進するなど,植物油脂原料の調達源を多様化し,輸出国同士の競争を促す必要性があるといえよう.第四に,実証分析では非対称性の程度や方向(正負),市場支配力の程度には経年変化が存在することが示された.したがって,時系列分析において,総サンプルを使用した推計のみをもって結論を導出することには危険性が存在するといえる.

今後の発展的研究課題としては,市場支配力の推計における双方寡占の考慮,フードシステム的観点による多段階同時決定モデルの構築,空間均衡的視点の導入,価格変動が流通主体に与える影響に関する一般均衡モデルによるシミュレーション分析等が挙げられる.

審査要旨 要旨を表示する

本研究の課題は、パーム油、大豆、菜種という植物油脂原料の国際市場を対象に、日本への輸出を含む貿易構造に焦点を当てて分析し、特に輸出から輸入にかけての価格伝達の非対象性に着目し、その推計結果から価格伝達の非対象性の原因を市場の不完全競争性と結びつけて実証的に解明することにある。価格伝達の非対象性の実証分析はこれまでにも様々な形で行われてきたが、それが生じる原因は明らかにされていない。本研究は植物油脂原料の貿易の分析を通じて価格伝達のメカニズムの解明に取組んだ研究である。

第1章で、まずこの分野における先行研究の研究成果を整理し、これまでの研究でどのような部分が不足しているかを考察しながら本研究の課題設定を行っている。

第2章では、集中度指数や現地調査および企業調査を通じて、植物油脂原料の国際市場の構造を明らかにしている。パーム油、大豆、菜種のそれぞれについて結果をみると、パーム油についてはインドネシアとマレーシアのシェアが大きく輸出国が寡占化していること、大豆についてはブラジルやアルゼンチンの台頭で米国の地位がゆらいでいること、菜種についてはEU域内の貿易をのぞけば輸入国の多くはカナダへの依存が大きいこと等が明らかにされた。

第3章では、植物油脂原料の輸出国の国内価格から輸入国の買取価格への非対称価格伝達に関する実証分析を行っている。投入価格が変化したとき産出価格の調整速度が前者の上昇時と下落時で異なることを非対象価格伝達といい、また上昇時の調整が急速な場合を正、下落時の調整が急速な場合を負の非対称価格伝達と呼ぶ。本研究ではこれを輸出国の国内価格(投入価格)と輸出価格(産出価格)についてその有無を計量的に分析している。パーム油については、インドネシア産で負、マレーシア産で正の非対称価格伝達が検出された。大豆については、米国産が1970年代までは正、1980年代および1990年代後半以後は負となる非対称価格伝達が検出された。菜種については、カナダ産が1980年代末以後に正、米国産は2000年以前が負で以後は正、メキシコは負であるがその程度は減少し今日では消滅していることが検証された。

第4章では、輸出国の市場支配力を残余需要モデルを用いて分析している。パーム油において、インドネシアはパーム原油の輸出については市場支配力を有しないが、パーム精油の輸出については世界のいくつかの市場で支配力を持っており、一方、マレーシアは原油・精油ともに市場支配力を持ち、特に精油輸出において大きいことが明らかにされた。大豆については米国が日本やメキシコへの輸出において市場支配力を持ち、また、菜種についてはカナダが日本市場やメキシコ市場で1990年代後半以後、米国市場でも2000年以後に市場支配力を持つようになったことが示された。

第5章では、第2章から第4章までの結果に基づき、市場構造と非対称価格伝達および市場支配力の関連性について分析している。パーム油については、輸出国や輸出産業が寡占的であるほど、すなわち輸出国が市場支配力を有するほど、正の非対称価格伝達が検出される傾向にあることが示された。大豆については、米国の輸出市場のシェアの低下に伴い正から負へと非対称価格伝達が変化していることから、市場支配力と非対称価格伝達の対応関係が示唆された。すなわち、非対称価格伝達の正から負への変化は市場支配力の行使の有無と関連していることが定量的に明らかにされた。菜種についても、カナダの市場支配力が2000年以後に強化された時期に正の非対称価格伝達が示され、大豆と同様に両者の関連性が判明した。

第6章では、以上の分析結果を要約し、本研究の意義と政策的含意、今後の課題などが議論されている。

以上のように、本研究は食料問題にとって重要な植物油脂原料の国際市場を分析するにあたり、非対称価格伝達と市場支配力に着目し、両者の関係の解明に成功している。非対称価格伝達については時系列統計分析の手法の発達とともに多くの解析がなされてきたが、対象とする市場の構造や経済主体の行動には十分な検討を行ってこなかった。本研究は非対称価格伝達モデルを用いた植物油脂原料の貿易の分析としては初めての成果であるだけでなく、非対称価格伝達が発生するメカニズムを市場構造の変化と対応させて分析した数少ない研究であり、高く評価できる。

農産物の国際市場は先の穀物価格高騰にみられるように、大きな価格変動を繰り返している。通常の市場分析は需要と供給の変化要因のみに焦点を当てた研究が大半を占めるが、需要と供給を結ぶ価格伝達にはあまり関心が払われてこなかった。しかし、価格形成を考察する上で価格伝達の問題は大きな研究課題となっており、特に非対称価格伝達は不完全競争的市場構造と関連していることが指摘されてきたが、それを検証した研究はほとんどない。本研究はそれを計量的に実証した先駆的研究である。このように本研究は学術上かつ応用上の価値が高く、よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位を授与するにふさわしいと判断した。

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