学位論文要旨



No 128084
著者(漢字) 倉田,正充
著者(英字)
著者(カナ) クラタ,マサミツ
標題(和) 農村の経済発展と所得分配に関する実証分析
標題(洋)
報告番号 128084
報告番号 甲28084
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3800号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 池本,幸生
 東京大学 教授 泉田,洋一
 東京大学 教授 木南,章
 東京大学 准教授 中嶋,康博
 東京大学 准教授 齋藤,勝宏
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、農村の経済発展に伴う所得分布の変容とその所得分配問題の変遷について考察した。この所得分配問題とは、農村内の絶対的貧困(貧困)と相対的貧困(格差)の二つに大別される。低所得国で一般的な農村の貧困問題は、中所得国でも残存すると同時に農家・非農家間格差の問題が浮上し始め、高所得国では農家の相対的貧困が主たる問題となっていく。その問題の変遷は、農業セクターが基盤となる農村経済において、非農業セクターの比重が徐々に高まっていく長期的な経済発展のプロセスと対応している。

そのため本研究は、低所得から高所得段階までの発展を俯瞰するための長期的視座と、世界各国の共通点と相違点を整理するための広域的視座の、その両方に立った考察が必要となる。そこでまず第1章では所得分配問題の国際的な現状を把握した上で、第2章にて低・中所得国の多国間比較分析を行った。続く第3章では低所得国の事例としてバングラデシュを、第4章では中所得国の事例としてベトナムを、第5章では高所得国の事例として戦後日本を、それぞれ分析対象として取り上げた。各章の要約は次の通りである。

まず第1章では、本稿が扱う農村の所得分配問題を、Schultz(1953)およびHayami (2007)が定式化した伝統的な「農業問題」の中に位置付けた。そして第一の所得分配問題である絶対的貧困について国際的に俯瞰し、貧困層の多くが農村に滞留している現状を確認した。さらに第二の所得分配問題である農家の相対的貧困についても、複数国の長期に渡る農家の相対所得を見ることでその状況を把握した。その結果、中所得国においては農家の相対的貧困化が進む一方、高所得段階に入ると農業保護が採用され相対所得は増加するという傾向が確認された。

この現状を把握した上で、次の第2章では、国際的に広いエリアを網羅した17カ国・30セットの個票データベース「RIGAデータベース」を用いて、低・中所得国の農村経済の変容について考察した。この章の目的は、多国間比較分析によって農村の所得分布(貧困と格差)に関する共通点と相違点を見出し、その後の章での個別国の分析を相対化することにある。

分析の結果、農村の絶対的貧困は経済発展に伴い緩和される一方、農村内の所得格差に有意なトレンドは見いだされなかった。しかし、格差を引き起こす所得源泉別の要因については共通した傾向が認められる。まず低所得段階での大きな格差拡大要因は非農業セクターの自営所得であるが、経済発展に伴ってその影響は弱まり、代わりに同セクターの雇用所得が拡大要因として大きくなる。また、非熟練雇用の影響が強まるのに対し、熟練雇用は中所得段階では大きな格差要因とはなっていなかった。

他方で、農業所得は低所得段階では大きな所得シェアを占めているが、ほとんどの国で低所得層に厚く分布しており、格差縮小要因となっていた。このことは、特に低所得国における農業の生産性向上が、貧困と格差という二重の所得分配問題を効果的に解決する手段であることを示唆している。また農業セクターの成熟は、農村内の非農業セクターの拡大要因ともなっている以上、その後の中・高所得段階における農業の過剰就業を解消するためにも極めて重要であると考えられる。

続く第3章では、低所得国の事例としてバングラデシュ農村の所得分配を考察した。低所得段階での主たる所得分配問題は、絶対的貧困である。ここでは農村世帯調査に基づくオリジナルの個票パネル・データ(2004年と2009年の二時点)を用いて、近年盛んな貧困評価法である「多元的貧困」指標の測定を行った。分析の結果、所得(消費)の貧困のみならず、教育や健康、生活環境などの側面を含んだ多元的貧困も大きく削減されていることが確認された。ただし、一部の健康や児童教育に関する項目では改善が見られなかったことにも注意が必要である。

この貧困削減は、農村内の所得格差を一定に保ちながら実現され、低所得層ほど所得増加率が高いPro-Poor Growthが成立していることがわかった。また脱貧困層の経済行動の特徴は、農業への所得分散化と農業資産の蓄積であることも判明した。営農規模の拡大が所得(消費)に与える大きな正の影響は固定効果推定によっても確認され、第2章でも示唆された農業の重要性が強調される結果となった。そのため低所得段階では、土地改良や新技術(品種)の導入、また農地市場の整備など農業セクターの拡充を促す農業政策が、所得分配問題の解決策として有効と考えられる。

次の第4章では、中所得国の事例としてベトナム農村の所得分配を考察した。中所得段階での所得分配問題の特徴は、未だ残存する貧困状況に農家・非農家間格差が発生しはじめること、つまり絶対的・相対的貧困の併存にある。ここでは2002年における全国規模調査(VHLSS)の個票データ(サンプルサイズは約2万2000世帯)を用いて、貧困・格差分析を行った。

分析の結果、貧困線を1日1ドル未満で定義した貧困者比率が37%と高い水準にあることに加え、同比率は非農家の20%に対して専業農家は50%にも達していた。これは中所得国農村において露呈する、二重の所得分配問題の典型例と言える。この背景には非農業セクターの拡大があり、第2章でも一般的に見られたように非農業所得が格差拡大要因として機能していた。

この農村経済の変容の中では、非農業セクターへの労働移動が重要となる。そこで農外就業の決定因を操作変数法・プロビット分析によって調べたところ、特に教育水準の影響の強さが確認された。そのため中所得段階では、特に小農などの貧困層に教育機会を広げることが有効な施策となるだろう。この時、単に農業の過剰就業を解消するだけでなく、貧困層から優先的に非農業セクターへ移動できるようなターゲティングを行うことが効率的である。

次の第5章では、高所得国の事例として日本の農家の相対的貧困を考察した。高所得段階での主な所得分配の問題は、農家(特に専業農家)の相対的貧困化である。一般的に高所得国では農家保護政策が採用され、戦後日本でも「農工間格差」の是正を標榜した農業基本法(1961年)が成立した。しかし農村の非農業セクターが成熟し農家の兼業化が進展すると、かつては農家・非農家間格差として表出していた格差構造が、次第に専業・兼業農家間格差として農家経済に内部化されうる。つまり高所得国の農村の特徴として、農家間格差が拡大する可能性も生まれるのである。

そこで本章では、1950年代から2000年にかけての農家間格差に関して、所得階級別の集計データを用いて所得分布をパラメトリックに推定した。その結果、農家・非農家間格差が縮小していった60年代から70年代前半にかけて農家間格差は逆に拡大し、その後は段階的に縮小していく傾向が確認できた。その格差変動を所得源泉別の要因分解によって調べたところ、70年代前半までは非農業所得が格差拡大をもたらし、それ以降は移転所得(主に年金)が格差縮小に寄与していた。しかし農家間格差の水準は全般的に極めて低いものであり、これは旧基本法以降の農業保護政策が持つ平等化効果を示唆するものと考えられる。

ただし農家の相対的貧困化を防ぐ手段が、価格政策に基づく農業保護である必然性は無いことに注意が必要である。特に兼業化が進み、農家に大きな異質性が存在する場合、農業政策による相対的貧困の抑制はターゲティングとして非効率的となりうる。産業政策とは切り離した社会保障制度の整備など、他の政策的候補も含めた議論が必要となるだろう。

最後の第6章では、第3章から第5章までの特定国の分析をまとめる形で、Kuznets(1955)に基づく経済発展と所得分配のシミュレーションを行った。ここでの目的は、特定国における経済発展の経路を厳密なシミュレーションを通じて再現することではなく、簡単なモデルとパラメータの設定によって、一般的に生じうる経済成長と貧困及び格差の関係を直感的に捉えることにある。

よって本章では、二部門モデルにおける所得分布を対数正規分布とし、経験的な仮定を複数置いたシンプルなシミュレーションを行った。この分析により、低所得段階からの農業の生産性向上、中所得国段階での労働移動の促進、そして高所得段階での農業保護の採用がそれぞれ所得分配に与える影響を確認し、第3章から第5章の分析を総括した。

以上の研究の問題点としては、農村における所得分配問題の国際的な現状やその要因を探る一方で、各国の異質性・多様性を捉えることが不足していること、また政策的含意が具体性に欠けることなどが挙げられる。質的研究の深化や、インパクト評価法などの新たな定量分析手法の利用によって、各国の状況に応じた具体的な政策提言を行うことを今後の研究課題としたい。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、農村の経済発展と所得分配問題との関係について、経済学的に実証分析したものである。所得分配をめぐる問題は、「1日1ドル」などの絶対的貧困線によって定義づけられる絶対的貧困の問題と、高所得層と比較したときの低所得層の窮乏を示す相対的貧困(格差)の問題がある。貧困問題は現在の発展途上国においても農村を中心に広範に見られ、経済発展に伴って貧困が解消されていく一方で、農家と非農家の間の所得格差が拡大し、格差問題が深刻化していく。農村開発の視点から、このような経済発展と所得格差の関係を実証的に明らかにし、貧困問題解決のための政策的含意を提示することが本研究の大きな目的である。

第1章では、所得分配問題の世界的な状況をまとめ、考察すべき課題を明らかにする。まず絶対的貧困に関して、世界中で1日1ドル未満で暮らすとされる約12億人の貧困層のうち約75%が農村で暮らしているという現状が示される。農家と非農家の間の格差に関しては、中所得国では格差拡大が進み、高所得国では農業保護政策によって格差が縮小するという傾向(いわゆる「クズネッツの逆U字型仮説」)を複数国の長期的データから明らかにしている。

第2章では、低・中所得国における農村の所得分布に関する多国間比較分析が行なわれる。17ヶ国30セットに及ぶ膨大な個票データを用いた実証分析によって明らかにされたことは、(1)低所得段階では非農業セクターの自営所得が主要な格差拡大要因であること、(2)しかしその影響は経済発展に伴って弱まり、(3)代わりに同セクターの雇用所得が格差拡大要因として重要になるということである。一方、農業セクターはほとんどの国で格差縮小要因となっており、農業の生産性向上は、貧困・格差問題を効果的に解決する重要な手段となる可能性が論じられている。

第3章では、低所得国のケース・スタディとしてバングラデシュ農村の貧困問題を考察する。用いられたデータは、2004年と2009年に実施した農村世帯調査に基づくオリジナルの個票パネル・データである。その分析で明らかにされたことは、所得や消費で測った貧困は順調に削減されているものの、健康や児童教育に関する改善は限定的であり、地域間格差も大きいということである。貧困から脱出できた世帯の経済行動を分析した結果、農業資本の蓄積による農業所得の向上が特徴であることが明らかにされ、貧困削減のために農業政策の強化が重要であることが論じられる。

第4章では、中所得国のケース・スタディとしてベトナム農村の貧困・格差問題が考察される。2002年における全国規模の世帯調査(VHLSS)の個票データを用いた分析によって明らかとなったことは、1日1ドル未満の貧困者比率が、非農家では20%であるのに対して、専業農家では50%に達するという大きな格差が存在するということである。ベトナムのような中所得国の移行経済では、非農業セクターへの労働移動が所得格差を決定する重要な要因となる。農外就業の決定因を操作変数法・プロビット法で分析した結果、特に教育水準の影響が強いことが示される。そのため、特に貧しい小農などが非農業セクターへの就業機会を見出せるような教育支援が、政策的含意として論じられる。

第5章では、高所得国のケース・スタディとして戦後日本の農家間の格差問題が考察される。農家所得に関する政府統計を用いた分析によって明らかされているのは、1950年代から70年代前半にかけて農家間格差が拡大し、それ以降は段階的に縮小していくという「クズネッツの逆U字型」の傾向である。所得源泉別の要因分解によって、70年代前半までの格差拡大は非農業所得が主要な要因となっていること、それ以降は移転所得(主に年金)が格差縮小に寄与していたことが示される。このような農家の相対的貧困化に対しては、価格政策に基づく農業保護政策よりも社会保障政策の枠組みの方がターゲティングとして効果的であることが論じられる。

第6章では、第3章から第5章までの低・中・高所得国のケース・スタディを総合的に理解するために、Kuznets(1955)のモデルを援用して経済発展と所得分配のシミュレーションを行っている。二部門モデルにパラメトリックな所得分布を組み込み、経験的な仮定を複数置いたシミュレーションによって、低所得段階からの農業の生産性向上、中所得国段階での労働移動の促進、そして高所得段階での農業保護政策の採用がそれぞれ所得分配に与える影響が確認されている。

以上、本研究は、農村の視点から長期的な経済発展と所得分配の関係について分析した点に特徴があり、また独自の現地調査も含めた膨大な個票データを利用した定量分析の実証性にその強みがある。途上国における経済発展に伴う格差拡大が国際的にも問題視されている現在において、本研究は学術上かつ応用上きわめて価値が高い。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文に値するものと認めた。

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