学位論文要旨



No 128086
著者(漢字) 加藤,千尋
著者(英字)
著者(カナ) カトウ,チヒロ
標題(和) 気候変動がベイドスゾーンの水・熱・CO2動態に及ぼす影響に関する研究
標題(洋)
報告番号 128086
報告番号 甲28086
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3802号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物・環境工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮崎,毅
 東京大学 教授 塩沢,昌
 東京大学 教授 久保,成隆
 東京大学 准教授 西村,拓
 東京大学 准教授 吉田,修一郎
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

気候変動は自然生態系や農林水産業に深刻な影響を与えると予測されており1)、近年、土壌が自然生態系や農業の基盤であることを念頭に、土壌に関わる気候変動研究が進められている。土壌水分量や地温など土壌物理環境については、水文学や気象学などで、面積で数百km2以上のスケールで気候変動に対する応答が検討されてきた。気候変動が農業や自然生態系に及ぼす影響を予測し適応策を立てるためには、このような大スケールの現象のみでなく、圃場スケールで、土壌・大気境界に位置するベイドスゾーン、すなわち地表面から地下水までの水分不飽和土壌領域における水・熱動態を検討する必要がある。

有機物分解速度や物質の移動係数など、土壌内の物質循環に関わる要素は、動的に変化する土壌水分量や地温の影響を受ける。したがって、連鎖的に生じる気候変動の影響を予測しその対策をたてるためには、実験や観測による現象把握だけでなく、地上部の気候変動と土壌内に生じる諸現象を関連付ける物理モデルによる検討が必要である。

本研究では、(1)気候変動がベイドスゾーンの水分・熱動態に及ぼす影響、(2)ベイドスゾーンの水分・熱環境の変化が、土壌中のCO2動態に及ぼす影響を予測することを目的とした。

2.フィールドモニタリングによるデータ収集およびモデルの検証 (第3~5章)

将来のベイドスゾーンの水・熱・CO2動態予測に際し、現状では気象現象とベイドスゾーンの水・熱・物質移動現象を関連付ける物理モデルは確立されていない。土壌中の水・熱・物質移動予測計算の汎用プログラムHYDRUS-1D2)は、気象サブモデルを含み、気象データを用いて熱収支式に基づき地表面境界条件を生成する。温暖湿潤でバイオマス生産力の高い、環太平洋地域の畑地に広く分布する火山灰土壌は団粒構造を有し、特異的な土壌水分・熱特性を持つ。そこで第3~5章では、温暖湿潤な地域の火山灰農地土壌中の水・熱・CO2動態予測におけるHYDRUS-1Dモデルの検証を行い、将来予測シミュレーションのためのパラメータとモデルの準備を行った。

本研究では、西東京市の本学農学生命科学研究科附属生態調和農学機構(以下、「田無農場」)内の圃場を対象地とした。現場では10m四方の裸地を整備し、地表面熱フラックス、深さ3,5,7,10,20,30,50,80cmの体積含水率(θ)と地温(T)、深さ10,20,50cmの土壌中CO2濃度(Cco2)の連続測定を行った。また、地表面境界条件の算出には、田無農場で蓄積している気象データ及び東京府中または大手町のアメダスデータを用いた。

HYDRUS-1Dは、土壌中の水分移動は液状水と水蒸気フラックスを考慮したリチャーズ式、熱移動は、顕熱の伝導及び液状水と水蒸気の顕熱、水蒸気の潜熱輸送を考慮した移流分散型の熱輸送式、CO2移動は移流拡散型のガス輸送式に基づく。また、土壌中CO2移動予測では、土壌水分や地温などからある深さと時間におけるCO2生成速度を算出するCO2生成サブモデルを含む。

本研究では、各土壌の水分・熱移動特性関数を独立した要素試験を行うことで決定した。水分移動特性関数は、蒸発実験データをDurner-Mualemモデル3)で逆解析して決定した。熱移動特性関数のうち熱伝導率は、熱伝導プローブを用いて熱伝導率を実測し、Chung and Horton4)のモデルでフィッティングした。体積熱容量は、試料の三相や有機物含量の割合から決定した。CO2生成・移動パラメータは文献値5)を用いた。

モデルの検証のため、現場でモニタリングしたθ、T、CCO2を、数値計算により再現を試みた。熱移動境界条件となる地表面熱フラックスの計算値は、実測値をよく再現した(図1)。また、モデルは現場土壌中のθ、T、CCO2の変動を良く再現した(図2~図4)。ただし、モデルは冬季の地温を過小評価する傾向にあった。これはモデルが、冬季の地表面近傍における凍結現象を考慮していないためと考えられる。

3.気候シナリオを用いた将来予測シミュレーション(第6~第8章)

近年、全球気候モデル(GCM; General Circulation Model / Global Climate Model)の発展が著しい。

GCM予測値をベイドスゾーンの水・熱・物質動態予測に適用するためには、GCM予測値と農地土壌で生じる現象の、空間・時間スケールの違いを補うダウンスケーリングが必要である。また、GCM予測値を局地スケールの影響評価に利用する場合は一定期間の平均値を用いることが一般的であるが、この平均化のために異常気象の影響を評価しにくい。以上を踏まえ第6~8章では、GCM予測値に基づいた気候シナリオを作成し、気候変動がベイドスゾーンの水・熱・CO2動態に及ぼす影響の予測を行った。

本研究ではGCM予測値に、本学気候システム研究センター、国立環境研究所、海洋研究開発機構地球環境フロンティア研究センターが共同開発を進めるMIROC ver3.2の出力結果を用いた。このモデルは、IPCC SRES A1Bシナリオに基づき、データは約150km四方メッシュで、1901/1/1から二百年間の日データである。「現在」を1971~2000年、「将来」を2071~2100年の平均値とし、対象地の「現在値」には、同じ期間のアメダス府中または大手町の平年値を用いた。

空間ダウンスケーリングには、累積分布関数(CDF)法6)を用いた。その結果、「将来」は、日平均気温は一年を通じて3~5℃の上昇、降雨量は4~6月に1.6~1.9倍に大幅増加、9月に0.8倍に減少すると予測された。

続いて、日別データを時別データに変換する時間ダウンスケーリングを施した。気温、湿度、風速、日射量はHYDRUS-1Dの気象サブモデルを用いた。降雨量は、MIROC予測値の日降雨量と日最大時間降雨強度を用い、田無農場の降雨特性に基づき、一つの降雨イベントについて、(1)一イベント継続時間、(2)イベント開始時刻、(3)最大強度の継続時間、(4)最大強度の開始時刻を定めることで、平均的な強度と最大強度で降るよう近似した。時間ダウンスケーリングの例として、図6に10分間降雨強度と気温の連続変化の例を示す。以上のようにMIROC予測値に空間・時間ダウンスケーリングを施して作成したシナリオを"Future GCM"とする。

また、年々変動の大きい降雨について、MIROC予測値の30年平均値を用いたことで平均化された現象を補うシナリオ"Future rainfall"を作成した。ここでは、MIROC予測値の日降雨量と日最大時間降雨強度の関係の変化傾向に基づいて、2009年の降雨イベントごとに、最大時間降雨量(及びそれに準ずる時間降雨量)を1.14×1.21倍、それ以外の時間降雨量を1.14/1.21倍した。これによりイベントの総降雨量は1.14倍となり、イベントの中で平均強度に対して最大強度が増加する。

以上の気候シナリオを用いて、ベイドスゾーンの水・熱・CO2移動予測を行った。"Future GCM"シナリオでは、熱収支に関して、純放射量の増加の有無に関わらず蒸発潜熱フラックスが増加すると予測された。水移動について、地表面から深さ100cmまでの領域では、降雨量が増加する6月は土層全体で土壌水分量が増加すると同時に、領域外への流出量も増加し、降雨量が減少する9月は、蒸発フラックスの微増で上層の乾燥が促進される(図7)。熱移動については、蒸発量の増加も反映した、連続的な地温分布予測ができた(図8)。CO2生成移動について、一年を通して深さ30cm程度までのCO2生成速度上昇、地表面からのCO2放出フラックス増加が予測された。他方、土壌中CO2濃度は、深さ20cm以深で1%以上の濃度増加が見られた(図10)。すなわちCO2生成速度の全増分が大気に放出されるのではなく、一部は下層に移動する。

"Future rainfall"シナリオでは、先行する降雨がない場合は、降雨量・強度増加に伴い、土壌水分量が増加する結果となった。他方、降雨が続くと、降雨量・強度の変化に伴う土壌水分量変化はほとんどなくなり、下方浸透フラックスが増加すると予測された。この結果は田無農場の高透水性を反映している。

4.まとめ

本研究では、気象サブモデルを含むHYDRUS-1Dモデルの検証を行ったうえで、西東京を対象に、空間・時間ダウンスケーリングしたGCM予測値を適用し、農業や自然生態系の観点で必要な圃場スケールで、ベイドスゾーンの水・熱・CO2動態を予測した。本研究の成果は、土壌や気象に関するデータベースを利用することで、他地域にも応用できると考える。また、今後の課題として、冬季の凍結や植生の考慮、GCM予測値のダウンスケーリングについて他手法の検討、またCO2生成速度予測について、基質分布や微生物多様性の変化の考慮などが挙げられる。

1) IPCC第4次評価報告書,20072) Simunek et al., 2008, Vadose Zone J., 7, 587-600,3) Durner, 1994, Water Resour. Res., 30, 211-223,4) Chung and Horton, 1987, Water Resour. Res., 23, 2175-2186,5) Buchner et al., 2008, J. of Hydrol., 361, 131-143,6) 飯泉ら, 2010, 農業気象, 66(2), 131-143

図1 地表面熱フラックスの実測値と計算値の比較

図2 深さ20cmの地温の実測値と計算値の比較

図3 深さ20cmの地温の実測値と計算値の比較

図4 深さ20cmの土壌中CO2濃度の実測値と計算値の比較

図5 空間ダウンスケーリングを施したGCM予測値に基づく「現在」と「将来」の日平均気温と月降水量の比較

図6 時間ダウンスケーリングを施したGCM予測値に基づく将来の10分間降雨強度と気温の連続変化

図7 「現在」と「将来」の (a)6月(b)9月日中の体積含水率の鉛直分布の比較

図8 「現在」と「将来」の(a)6月(b)9月日中の地温の鉛直分布の比較

図9 「現在」と「将来」の (a)6月(b)9月日中の土壌中CO2濃度の鉛直分布の比較

図10 「現在」と「将来」における 6月一ヶ月間の累積CO2放出フラックス

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、将来の気候変動が地表面から地下水までの水分不飽和土壌領域(ベイドスゾーン)の熱、水、CO2ガス動態に及ぼす影響について、信頼性の高い複数の既往モデルを応用して予測を行い、その影響に対する適応策指針につなげようとしたものである。

第1章では、気候変動が自然生態系や農林水産業に与える影響について、IPCC2007など広く認知されている情報を検討し、ベイドスゾーンにおける影響予測が欠落していることを指摘し、本研究の目的は、気候変動がベイドスゾーンの水分・熱動態に及ぼす影響、および、ベイドスゾーンの水分・温度分布の変化が土壌中のCO2動態に及ぼす影響を予測することである、とした。

第2章では、気候変動下の将来予測を行っている既往の研究、特に、全球気候モデル(GCM:Global Climate Model)とHYDRUSモデルを本研究へ適用するために留意すべき事項を述べた。すなわち、GCMモデルは、数百km2以上のメッシュの代表値を予測する手法なので、作物栽培や農地レベルへの適用には、時間的・空間的ダウンスケーリングが重要となること、HYDRUSモデルでは、これまで主として世界の乾燥地で適用性が検証されてきたものを日本のような特殊な気象(温暖湿潤)や土壌(火山灰土壌)条件下においても適用できるかどうかの確認が重要となること、などを述べた。

以下、第3章から第5章までは、HYDRUS-1Dモデルの適用性を検証する方法とその結果を述べている。

第3章では、西東京市の田無農場内区画圃場における土壌水分、温度、熱フラックス、土壌中CO2濃度分布、等のモニタリング測定手法とそれらの結果を述べた。

第4章では、第3章のモニタリング結果に対応する土壌中の水・熱移動シミュレーション手法としてのHYDRUS-1Dモデル適用手法を述べ、この手法がモニタリング結果を良く再現すること、気象サブモデルの導入が重要であること、などを明らかにした。特に、1年間を通しての詳細なシミュレーションを行うためには、初期条件の設定が重要であり、仮の初期条件を与えた予備シミュレーションによって1年間(2008年~2009年)の予備シミュレーションを行い、その最終結果を真の初期条件として与えて同じ1年間についての本シミュレーションを行うことの有効性を証明することができた。

第5章では、第3章のモニタリング結果に対応する土壌中のCO2生成・移動シミュレーション手法としてのHYDRUS-1Dモデル適用手法を述べた。ここでは、土壌中のCO2生成について行ったBuchnerら(2008年)の方法が優れており、この手法が、実測した土壌中のCO2モニタリング結果を良く再現することを示した。

以下、第6章から第8章までは、全球気候モデル(GCM:Global Climate Model)をダウンスケーリングして適用する手法とその結果を述べている。

第6章では、予測すべき将来の気候シナリオを作成する手法を述べた。まず、GCMで予測されている気候シナリオを局地的かつ短期的なシナリオに変換するための空間ダウンスケーリングと時間ダウンスケーリングについて、独自の手法を開発した。その結果、空間ダウンスケーリングについては累積分布関数法(CDF法)を適用すること、時間ダウンスケーリングについては個別降雨の継続時間、降雨開始時刻、最大強度継続時間などのモデル化を行うことが適切であると結論付けた。

第7章では、空間・時間ダウンスケーリングしたGCM予測値による将来気候のもとで、ベイドスゾーンの水分動態、熱動態や熱フラックスがどのような値となるのかを推定し、例えば2071~2100年6月の降水量は現在の1.6倍になる見込みなので土壌水分量が2~3%増加すること、2071~2100年全体の平均地温は表層30cmでは4.2度上昇、深さ80cmでは2.9度上昇が予測されることなどを示した。

第8章では、同じく空間・時間ダウンスケーリングしたGCM予測値による将来気候のもとで、ベイドスゾーンのCO2動態がどのような値となるのかを推定し、2071~2100年の積算CO2生成量は現在の1.3倍程度に増加すると予測した。

第9章は全体の結論を述べており、将来の気候変動がベイドスゾーンにおける熱、水、CO2ガス動態に及ぼす影響について、予測可能であること、また、その予測によって、気候変動が農業技術(水管理法、農薬散布法、施肥法など)や生物多様性の変化に対して取るべき適応策を提案する根拠となりうること、などを結論として述べた。

以上要するに、本論文は、将来の気候変動がベイドスゾーンの水・熱・CO2動態に及ぼす影響について、全球気候モデル(GCM:Global Climate Model)のダウンスケーリングとHYDRUSモデルの適用により定量的、数値的に予測・評価したものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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