学位論文要旨



No 128087
著者(漢字) 王,蕾
著者(英字)
著者(カナ) オウ,ライ
標題(和) キセノン水和物を利用した農産物の長期保存法に関する基礎研究
標題(洋)
報告番号 128087
報告番号 甲28087
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3803号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物・環境工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大下,誠一
 東京大学 教授 芋生,憲司
 東京大学 教授 富士原,和宏
 東京大学 准教授 牧野,義雄
 北海道大学 准教授 内田,努
内容要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなり,第1章では,序論として研究の背景および目的を示した.食品としての農産物には高品質であることが求められる.凍結保存法は長期保存に適した方法として実用に供されているが,細胞内外の凍結による氷結晶の形成および体積膨張により,部分的な凍結濃縮,凍結脱水が生じ,組織の変形や損傷および含有成分の変性を伴い,解凍後にドリップが生じること,テクスチャーが劣ることなどの問題点が残されている.

これを避けるために,凍結防御剤の導入や急速冷却によるガラス化などの既往の研究では,凍結保存法について低温での化学変化の抑制を期待して,凍結点以下で生じる氷の形成・成長を制御する方法が模索されてきた.しかし,氷の形成量を人為的に制御するのは困難であるため,成功に至っていない.

一方,疎水性水和物は低温で圧力を加えながら,水に疎水性ガスを溶解させると形成する氷状結晶である.氷と比較して,疎水性水和物の形成には温度・圧力など,必要条件を人工的に設定できるため,その物性の研究は進展が目覚しい(内田ら,2006).また,疎水性水和物の形成が可能な疎水性ガスであるキセノンガスを用いた結果より,疎水性水和物と構造化した水は,全身麻酔のメカニズムとして提案されるなど,生物の代謝抑制と関係することが指摘されてきた(Pauling, 1961).さらに,近年,生鮮農産物の保存について,大下ら(1996, 1997),Zhanら(2005)により,キセノンガスの溶解に伴う水の構造化を利用した農産物の変色や代謝の抑制効果が報告されている.これは,キセノンガスの溶解に伴う疎水性水和により水分子間の水素結合ネットワークが発達した状態を利用したものである.従って,水和物が形成していなくとも,構造化した水の利用でも品質の劣化を抑制できると言える.しかし,構造化した水では長期保存が難しいため,凍結との併用を検討した.すなわち,本論文では,水の構造化に伴うキセノン水和物の部分的な形成の利用により,水和物周辺に微細な氷結晶を形成させ,細胞膜の損傷を抑制できる長期保存技術の確立を目的とした.

第2章では疎水性ガスであるキセノンガスを溶解させることで形成されるキセノン水和物が植物細胞に与える損傷に着目し,生存率の観点からキセノン水和物の形成を利用した保存法を検討することを目的とした.そのため,まず,1)水中におけるキセノン水和物の形成過程および結晶サイズ分布について検討し,最も小さなサイズのキセノン水和物が形成される条件を決定した.次に,2)この条件をオオムギ子葉鞘細胞に適用し,水和物結晶形成による細胞の損傷を氷結晶の形成と比較して検討した.

まず,(1)水中の水和物サイズ分布の検討では,供試材料には超純水(関東化学(株))を用いた。これに,1℃で0.7 ~1.0MPa,5℃で0.9および1.0MPaの圧力でキセノンガスを溶解させ,水和物の形成開始から1h後の結晶サイズを測定した.その結果,温度が低いほど,圧力が高いほどキセノン水和物結晶のサイズが小さくなる傾向が示された.また,検討した条件の中で最小サイズの水和物ができる条件は1℃,キセノン分圧 1.0MPaであることが示された.

次に,(2)オオムギ子葉鞘細胞の損傷評価では,播種から9~11日後のオオムギ(コビンカタギ)子葉鞘組織片を供試した。1℃,1.0MPaの下のキセノン処理区と-20℃凍結保存区において,1,5,7,9,12h保存後に試料片を20℃で30分間水に浮かべ,結晶が解離した後,光学顕微鏡により,視野内の120~180個の細胞の原形質流動の有無を確認し,原形質流動が認められたものを生細胞,認められなかったものを死細胞として生存率を求め,細胞の損傷程度の評価指標とした.この観察により,細胞中にキセノン水和物が形成されることが確認された.また,保存時間にかかわらず,キセノン処理区では凍結保存区よりも細胞の生存率が高く維持され,細胞膜の損傷が抑制できる可能性が示された.しかし,子葉鞘組織全域にわたって小さいサイズのキセノン水和物が形成しているのか,一部に大きなサイズの水和物が形成しているのかは不明であった.一方,保存時間の延長に伴い細胞の生存率が徐々に低下することがキセノン処理区および凍結保存区とも観察された.これは,キセノン水和物と氷結晶のいずれにおいても,時間の経過と共に結晶が成長したことで子葉鞘細胞に損傷を与え,生存率が低下したものと考えられた.

第3章では長期保存のための新たな指標として,細胞膜の損傷の有無に着目した.これは,第2章の結果から,保存中の組織への損傷を最小限に抑えるためには,組織内の結晶化の割合を把握し,それを制御することが必要であると考えたためである.死細胞であっても細胞膜が物理的に損傷していなければ,食品の品質保持という観点からは大きな意味があると考えられる.そこで,細胞膜の損傷の有無を検討するために水の拡散係数の測定を行った.

試料には,播種から9~11日後のオオムギ(コビンカタギ)子葉鞘を用い,組織片8個をNMR用耐圧試料管に入れ,まず,キセノン水和物の形成割合を測定した.試料に与えた条件は温度1℃,キセノンガス分圧1.0MPaで,この条件に静置する時間に比例してキセノン水和物の形成割合が増加することを確認し,キセノン水和物の形成割合が制御可能であることを示した.NMR法のパルスシーケンスにはSolid Echo法を用いた.次に,キセノンガス分圧1.0MPa,温度1℃に維持する時間の調整により,キセノン水和物形成割合を10%,20%,30%,40%,50%,60%,70%に制御した試料を20℃で解離させ,その後キセノン水和物の形成割合の変化に伴う子葉鞘細胞内水の拡散係数をStimulated Echo法で測定した.その結果,60%以下のキセノン水和物が形成された組織において,細胞膜機能の低下が抑制されたことを示した.これにより,細胞膜機能低下を抑制するためには,キセノン水和物の形成割合を60%以下に制御することが必要であることを示した.

第4章では,キセノン水和物の形成割合を60%を超えないように制御した上で凍結させ,細胞内水の拡散係数を測定し,この結果に基づいて水透過係数を算出することにより,キセノン水和物の部分的な形成を利用した農産物の長期保存法の効果について検討した.

試料は第3章と同じく播種から9~11日後のオオムギ(コビンカタギ)子葉鞘であり,組織片8個を1組として測定に供した.温度1℃,キセノンガス分圧1.0MPaでキセノン水和物形成割合を60%以下に制御した上で5日間凍結保存し,解離・解凍後の組織における細胞内水の拡散係数および水透過係数の測定に基づいて細胞膜機能の評価を行った.その結果,水和物形成割合が20%以下の組織では,水和物周囲の水の構造化の程度が弱く,-20℃で凍結した際に大きな氷結晶を形成しやすいことが示された.一方,水和物形成割合が60%以上の組織では,水和物自体の体積膨張による細胞膜の損傷が生じた.これに対し,水和物形成割合が30%~50%の組織では,細胞膜損傷の抑制に効果的であることが示された.

さらに,得られた最適な保存条件,30%~50%のキセノン水和物の形成割合に調整した子葉鞘組織を20日間凍結保存し,水和物の解離および氷結晶の解凍後の拡散係数および水透過係数を測定した.その結果,キセノン水和物が30%~50%の組織では,長期間の保存においても,細胞膜の損傷が抑制されことが確認された.

第5章は結論として,全体を総括した.

以上,本論文は,農産物の長期保存法として,キセノン水和物の形成割合を制御し,その後凍結することにより,細胞膜の物理的な損傷を抑制して長期保存が可能な方法を示したもので,新たな農産物の長期保存法に道を拓くものと考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

食品としての農産物には高品質であることが求められる。食品を長期に保存する方法としては凍結保存が実用化されている。しかし、農産物の凍結保存については氷結晶形成による細胞膜をはじめとする生体組織の損傷、解凍後の品質低下などの問題点が残されている。この問題を解決するために、凍結防御剤の導入や急速冷却によるガラス化のような、凍結点以下の温度で生じる氷結晶の成長を制御する方法が模索されてきた。しかし、氷結晶の形成割合を人為的に制御するのは困難であり、成功に至っていない。一方、疎水性水和物は、水に疎水性ガスを溶解させるとガス分子の周囲に水素結合ネットワークが発達した水(構造化した水)が生成し、その後、形成される氷状結晶である。氷結晶と比較して、疎水性水和物は0℃以上の温度でも形成でき、その形成割合は温度・圧力などの条件を設定することにより、人為的に制御できる可能性がある。また、疎水性ガスであるキセノンガスの溶解による水の構造化は、麻酔のメカニズムとして提案されるなど、生物の代謝抑制と関係することが指摘されてきた。このような知見と凍結プロセスにおける問題点を考え合わせると、長期間の保存を可能にするには、構造化した水とともにキセノン水和物と凍結の併用が効果的であると考えられる。このとき、過剰な水和物の形成は細胞膜に損傷を与える可能性があるため、部分的に水和物を形成させる必要がある。このような熟慮に基づいて、本研究では、キセノン水和物の部分的な形成を利用した凍結プロセスの制御による農産物の長期保存法の提案を目的とし、基礎的知見を提示するために、細胞・組織レベルでの長期保存法について検討した。

第1章では序論として、現行の長期保存法である凍結保存法の既往の研究についてまとめ、凍結保存における問題点について述べた。また、氷結晶と異なるキセノン水和物を利用した保存法を検討する意義を述べ、本研究の背景と目的を示した。

第2章では、超純水において、キセノンガスを溶解させることで形成されるキセノン水和物のサイズ分布について検討し、設定した条件の範囲で最も小さなサイズのキセノン水和物が形成される条件は1℃、1.0 MPaであることを示した。その上で、この条件をオオムギ子葉鞘細胞に適用し、生存率の観点から、氷結晶に比べ、キセノン水和物の形成を利用した保存法により細胞膜の損傷が軽減されることを示した。

第3章では、キセノンガス処理時間の調整により、水和物の形成割合の制御が可能であることを示した。また、生存率ではなく細胞内水の拡散係数及び細胞膜の水透過性係数の評価に基づいて、キセノン水和物の形成割合を50%以下に制御することで細胞膜の物理的な損傷が抑制できることを示した。第3章では、キセノンガス処理時間の調整により、水和物の形成割合の制御が可能であることを示した。また、生存率ではなく細胞内水の拡散係数及び細胞膜の水透過性係数の評価に基づいて、キセノン水和物の形成割合を50%以下に制御することで細胞膜の物理的な損傷が抑制できることを示した。

以上の結果を受けて、第4章では、キセノン水和物を部分的に形成させた上で凍結させるという凍結プロセス制御の有効性を保存後の細胞内水の拡散係数に基づいて評価した。その結果、水和物の形成割合を組織内水の30%~50%に制御した上で凍結させた組織では、細胞膜の損傷が軽減されることを示した。また、X線イメージングにより、オオムギ子葉鞘組織におけるキセノン水和物の形成を確認し、細胞内にも小さい水和物が分散的に形成された可能性を示した。これにより、キセノン水和物の形成割合を制御して凍結することが細胞・組織レベルでの長期保存に有効であることを示した。

以上、本論文は、組織内の一部にのみキセノン水和物を形成させる条件を示すとともに、このキセノン水和物の部分的な形成を利用した凍結プロセスの制御が、細胞・組織の長期保存において、細胞膜の損傷を軽減する上で有効であることを示したものであり、学術上・応用上貢献することが少なくないと考えられる。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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