学位論文要旨



No 128092
著者(漢字) 澤田,大輔
著者(英字)
著者(カナ) サワダ,ダイスケ
標題(和) 高分解能X線回折及び中性子線回折によるβキチン結晶の構造解析
標題(洋)
報告番号 128092
報告番号 甲28092
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3808号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 和田,昌久
 東京大学 准教授 竹村,彰夫
 東京大学 准教授 五十嵐,圭日子
 東京大学 准教授 斎藤,幸恵
 京都大学生存圏研究所 教授 杉山,淳司
内容要旨 要旨を表示する

[βキチン無水物の中性子線解析による水素結合様式の証明]

X線や中性子線を用いた結晶構造解析は、原子の位置を直接的に決定できる点で構造を知るための強力な手法である。近年繊維結晶構造解析の手法はセルロース結晶多形の解析により確立されつつある。結晶構造を明らかにすることにより、水素結合や疎水性相互作用を初めとした分子間の相互作用を知ることができる。結晶構造は必ずしもその分子の材料中での状態を反映するわけではないが、表面での溶液との相互作用や機械的特性を知る上で重要な知見を与える。

キチンはセルロースに次ぐ存在量を持つバイオマス資源として、環境的観点からも近年注目を集めている。またキチンはセルロースとは異なり生体内で代謝されるため、主に医療用材料としての研究が活発に行われている。キチンの化学構造はセルロースと類似しており、C2位の水酸基がアセトアミド基に置換された構造を取る。キチンはN-アセチル-D-グルコサミンがβ-1,4結合した直鎖上の多糖であり、逆平行鎖にパッキングすると言われるαキチンと平行鎖にパッキングされたβキチンの二つの結晶多形が存在する。GardnerとBlackwellは1975年実験室レベルのX線装置を用いて無水βキチンの構造を提示しており、その構造は大きな矛盾の無いモデルとして長く用いられてきた。

2011年Nishiyamaらはシンクロトロン放射光を用いて、原子分解能で精密化された無水βキチンの原子座標を提示した。しかし高輝度のX線による精度の高い構造解析でも、繊維回折では水素原子の位置を直接的に決定することは難しい。水素原子は結晶の構造や機械的特性、化学的特性にとって重要な要素となる水素結合に関わる原子である。キチンでは水素結合に関与する官能基として水酸基に加えアセトアミド基を有しており、その影響を考慮するためには水素位置の精密化が重要になる。さらにβキチンはac面に水素結合と疎水性相互作用による分子鎖シートを形成しb軸方向に水素結合を持たないことから、溶液への単純な浸漬で結晶性を保ったまま錯体を形成すると言われてきた。この興味深い挙動を詳しく解明するためにも、個々の水素結合の強さを含めた水素結合様式の決定は重要な意味を持つ。

繊維回折で水素位置を知るために中性子線繊維回折法が用いられてきており、その手法はほぼ確立されつつある。回折への各原子の散乱への寄与が電子数にほぼ比例するX線回折では水素を確認することは難しいが、水素がほぼ同程度の負の散乱能を持つ中性子線回折では水素を確認することができる。また水素を重水素に置換することにより、正の同程度の散乱能により重水素位置を確認することができる。この手法を用いて重水素置換した無水βキチンから水素結合様式を直接的に決定した。

高結晶性βキチンとタンパク質の複合体であるサツマハオリムシ(lamellibrachia satuma)の棲管を精製し、高結晶性βキチンの膜を得た。この膜を繊維状に切り出し延伸させながら乾燥させることにより配向させキャピラリーに充填し、重水中160°Cでオートクレーブ処理することにより水酸基とアセトアミド基のNHを重水素化した試料を得た。1 cm x 1 cm x 4 mmのサイズにキャピラリーをまとめ、Institute Laue Langevin (Grenoble, France) にて中性子線回折実験に供した。回折強度からバックグラウンド強度を減算し、各指数に対応する強度データ群を得た。

NishiyamaらのX線構造と中性子線強度を用いて、フーリエ差分法による重水素位置の可視化を行った。フーリエ差分図中にO3D、O6D、N2Dに対応するピークを全て確認することができたため、これらの座標に重水素原子を導入し構造精密化を行った。原子を導入するごとに、結晶構造の測定結晶構造因子と計算結晶構造因子から算出される信頼度因子が向上した。これらの原子に等方性温度因子を与え、最終構造を算出した。

最終構造の水素結合様式はO3-D…O5の分子内水素結合とa軸方向に存在するO6-D…O7、N2D-O7の二つの分子間水素結合であった(Figure 1a)。角度と距離から単純に水素結合を算出するとO3-D…O1も存在し得るが、その強度とO1の孤立電子対の位置から考えると、O3-D…O5に付属的に存在する水素結合であろう。水素結合の強さは分子内水素結合が理想的な強い水素結合であり、二つの分子間水素結合はやや弱い水素結合であった。X線構造解析から想定されてきたようにb軸方向をつなぐ強い水素結合は存在せず、CH3からの二つの弱い水素結合のみが存在した。結晶性錯体形成の要因はこの水素結合様式にあると証明することができた。

[βキチン二水和物の高分解能X線及び中性子線解析による固体構造解析並びに水素結合様式の決定]

βキチン結晶は、液体への単純な浸漬により様々な分子と結晶性の錯体を形成する。Blackwellらはその調整法によりβキチンの単位格子を数種類報告している。精製したβキチンの水和物ではβキチン一水和物、βキチン二水和物が報告されており、グルコサミン残基あたりの水の数はそれぞれ一つと二つとされる。これらの構造は、a軸(4.8 A)とc軸(10.4 A)の長さと単斜晶の鈍角(97°)はほぼ同一であり、b軸の長さのみが10 Aと11 Aとやや異なっている。Kobayashiらは調湿によるβキチンの結晶転移について報告しており、二水和物を乾燥させると相対湿度30%から一水和物への転換が始まり、無水物から調湿すると80%程度から一水和物への転換が始まるが、二水和物へはなりえない。βキチン二水和物は水に浸漬させた場合のみ得られる。生合成や分解、また多くの工業的プロセスは水系環境下で行われるため、βキチン二水和物の構造を明らかにすることは重要な意味を持つ。しかし、βキチン二水和物の構造は実験室レベルのX線装置での構造も提示されていない。本研究ではシンクロトロン放射光X線及び中性子線回折を用いて、全ての原子座標と水素結合様式について明らかにした。

無水物と同様に試料を調製し、SPring-8 (Hyogo, Japan)にて100%湿度蒸気中波長1.0 Aのシンクロトロン放射光を照射し回折図を得た。中性子線回折は無水物と同様の試料を、キャピラリー中に重水を入れてからキャピラリーを封じ、波長1.4558 Aの中性子線を照射した。両回折とも、回折強度からバックグラウンド強度を減算し各指数に対応する強度データ群を得た。

帰属可能な37個の回折点から計算した単位格子はa = 4.814 A, b = 11.167 A, c (繊維軸) = 10.423 A,γ = 96.45°となり、これまでに報告されてきた値とほぼ同じであった。βキチン無水物の原子座標を初期座標とし、自由度の高いアセトアミド基と1級水酸基を座標から外してフーリエ差分図を作成した。水二分子、アセトアミド基、ggに位置する1級水酸基がそれぞれフーリエ図に明確に確認できたため、それぞれのピーク位置に原子座標を導入し構造の精密化を行った。最終的に異方性原子変位パラメータを用いた精密化を行った。

こうして得られたX線構造から中性子線構造解析を行った。フーリエ差分図中にそれぞれの原子に対応する重水素原子のピークを確認することができ、最終的に1パターンの妥当な重水素原子位置を確認することができた。これらの重水素原子を座標に導入し、等方性温度因子を与え精密化し最終構造を提示した。

水素結合様式はN2-D…O7のアセトアミド間の分子鎖シートを安定化する分子間水素結合以外は全て無水βキチンとは異なる水素結合であった(Figure 1b)。無水βキチンのO6-D…O7の水素結合は強度が弱い水素結合であったため、アセトアミド基と1級水酸基が移動することで消失するのは合理的な結果である。一方でO3-D…O5の分子内水素結合の消失は意外な結果であった。この水素結合はβ,1-4グリカンのグリコシド結合間、リング間を安定化する重要な水素結合であると認識されてきた。実際にC3位に水酸基を持ち、隣り合うリング間に歪みが存在しない構造では全てこの水素結合が確認されている。βキチン二水和物とこれらの構造との大きな違いは3位の水酸基の近くに水が存在している点である。水は大きな自由度を持つためより強いアクセプターとして働いている可能性が示唆される。水和物の構造の水素結合を統計的に調査すると、水分子のアクセプターとしての強さはエーテルに比べて強い傾向を示す。またO3が水分子と水素結合を形成することで、結晶の構造安定性に大きく寄与すると言われる、結晶サイズでつながる水素結合が形成される。こうした要因から、O3、O5間の水素結合が消失していると考えられる。この結果からセルロースであっても、水系での表面ではO3-H…O5の水素結合が存在せず、水との間に水素結合を持っている可能性が示唆される。

Figure 1. The hydrogen bonding arrangement of anhydrous β-chitin (a) and dihydrate β-chitin (b).

審査要旨 要旨を表示する

本論文は高結晶性βキチンであるサツマハオリムシの棲管を用いて、X線回折と中性子回折によりβキチン無水物とβキチン二水和物の構造を明らかにすることを目的とした研究である。

第2章では中性子回折解析によりβキチン無水物の水素位置の決定と水素結合様式の決定を行った。中性子回折解析は繊維結晶の場合、水素位置決定のための強力な手法である。決定された水素位置から判明した主な水素結合様式はO3-D…O5の分子内水素結合とO6-D…O7、N2-D…O7の二つの分子間水素結合であった。X線構造解析による推定とほぼ同じ水素結合様式であったが、精密化された水素位置から非常に強い分子内水素結合と、やや弱い二つの分子間水素結合であることが明らかにされた。同時にキチンでも中性子回折が水素位置決定に強力な手法であることを示した。また繊維回折の問題点として、回折の重なりがある。最終構造の計算結晶構造因子で測定結晶構造因子の配分を再分配することにより、最終構造の妥当性を確認する手法を提案した。

第3章ではX線解析と中性子回折解析によりβキチン二水和物の水素位置を含めた構造解析を行った。X線構造解析では37個の回折点を元に単斜晶一本鎖で単位格子を算出しa = 4.814 A, b = 11.167 A, c (繊維軸) = 10.423 A,γ = 96.45°となり単位格子はこれまでの報告とほぼ同様であった。非水素原子の構造を1.2 Aまでの原子分解能で精密化し、構造の信頼度は極めて高い値を示した。特に自由度の高いヒドロキシメチル基のO6、アセトアミド基の各原子と二つの水分子の位置をフーリエ差分図に明確に確認した後直接的に位置決定を行っており、構造の信頼性は高いと言える。中性子線回折では無水物と同様に水素位置の決定を行った。決定された水素位置から判明した水素結合様式は、N2-D…O7の分子間水素結合以外全て無水物から変化しており水を介する水素結合様式となった。特にO3-D…O5の分子内水素結合が存在しないという結果は、これまでに発表されている類似の構造には見られない特徴であり、繊維の分子鎖方向の剛直性といった物性を考える上で大きな結果であると言える。セルロース等においても水分子と接触する環境では、そのようにふるまう可能性も示唆される。結晶構造パラメータの変化のみから水素結合を想定した場合、この水素結合は存在している方が妥当である。消失の理由は水分子の自由度の高さ、水分子のアクセプターとしての強さ、連続的水素結合の強さから説明することができたが、この結果は中性子回折を用いて直接的に水素結合を決定することの重要性を示した。

無水物と水和物の構造比較により、ac面の分子鎖シートは疎水性相互作用とそれに伴うアセトアミド間の水素結合により安定化されているが、水素結合や側鎖の原子座標、また分子鎖シート間の角度など変化も大きいことがわかった。βキチンの単純な浸漬により完全形成されない錯体では、より大きな構造変化が起こっていることが想定された。

以上のように本論文は、βキチン無水物及び二水和物の構造と水素結合様式を解明したものである。これらの情報はキチンの材料物性、反応性、溶解機構等を理解し、バイオマスであるキチンの利用を考える上で重要な知見を与えることから、審査委員一同は博士(農学)の学位論文に値するとの結論に至った。

Figure 1. The hydrogen bonding arrangement of anhydrous β-chitin (a) and dihydrate β-chitin (b).

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