学位論文要旨



No 128100
著者(漢字) 藤澤,茉莉子
著者(英字)
著者(カナ) フジサワ,マリコ
標題(和) 気候変動に対する日本のリンゴ農家の適応:適応力は測れるか
標題(洋)
報告番号 128100
報告番号 甲28100
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3816号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農学国際専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,和彦
 東京大学 教授 溝口,勝
 東京大学 教授 二宮,正士
 東京大学 教授 大政,謙次
 東京大学 准教授 八木,信行
内容要旨 要旨を表示する

第1章はじめに

近年、気候変動が社会生態システムに与える広範な影響が認識され始めると同時に、その影響に対してシステムを変化させていく、いわゆる"適応(Adaptation)"の重要性が認識されてきた。適応は現在、大きく二つ、脆弱性とレジリエンスから捉えられ、前者は気象災害時の農作物減収量や人間の死亡率など静的な指標として、システムの影響されやすさを表す。一方後者は、システムが影響を受けた際に元に戻ろうとする力、さらにはより良い状態へと変化していくダイナミズムを捉えようとしたものである。

この章では、脆弱性とレジリエンスから捉える適応の概念を整理する。現在までの適応研究は、政策的にトップダウンの適応を導くため、システムの脆弱性評価に終始し、小規模スケールのシステムが見せるダイナミックな動きは捉えられていない。しかし、そもそも適応の目的や方向性は地域によって異なるのが当然であるため、個々の事例を検証することによる適応の過程の実態解明が急がれている。

そこで本研究では日本のリンゴ栽培に焦点を当て、リンゴ生産地という社会生態システムのダイナミックな適応力を捉えようとした。リンゴ栽培は温暖化によってその栽培適地が変化することが予測され、またリンゴの品質にも温暖化の影響がすでに現れているといわれている。果樹は植えてから利益が出るまでに長い年月を要するため、適応策を早期に実施する必要があり、実際に適応の動きはすでに始まっているものと思われる。

第2章リンゴの植物季節に見られる気候変動の影響評価

この章では、リンゴの発芽・開花の長期のデータを用いて温暖化の影響を評価する。近年、気候変動によって自然植生の発育開始期、いわゆる植物季節が早まってきたことが世界の各地で報告されている。そして、それら植物季節が気温と密接な関係を示すことから、植物季節の早期化は温暖化の現われとされる。しかしながら、長期的には樹齢や土壌など環境条件、また品種や栽培技術の変化が、温暖化とは無関係に植物季節に一定の傾向を与えている可能性がある。そこで本研究では、日本の主要なリンゴ産地6県(青森、秋田、岩手、宮城、福島、長野)の過去28年に及ぶリンゴの植物季節(発芽日、開花日)を用いて、1.植物季節は早まっているか、2.もし早まっているのならば、それは温暖化に起因するといえるのか、について解析を行った。

開花についてみると、1年あたり0.21日から0.35日早まり、6地点中3地点でその傾向は有意であった(p<0.05)。同時に、リンゴの開花に最も影響の大きい3・4月の平均気温が1年で0.047℃から0.077℃の範囲で上昇し、5地点でこの上昇傾向は有意であった(p<0.05)。次に気温の観測値に平滑化スプライン曲線を当てはめてそれを長期傾向とし、観測値からこの長期傾向を引いたものを年変動とした。そして開花日を、これら二つを用いて重回帰を行い、気温の長期傾向と年変動に対するリンゴの温度応答を調べた。結果、開花日は気温の長期傾向に対しては-3.8 day/°Cで、また年変動に対しては-4.6 day/°Cの温度応答を示し、この両者の値に有意差はなく、かつこの値に場所の違いによる差も見られなかった。その結果、リンゴの植物季節は早まっており、それは温暖化に起因すると結論付けられた。

第3章事例1.長野県須坂市のリンゴ生産者の適応

この章では、長野県須坂市のリンゴ生産者とのインタビューを通して、彼らの気候変動に対する認識と対策を明らかにした。長野県は現在全国第2位のリンゴ産地であるが、主要なリンゴ栽培適地の中では南限に位置し、温暖化に伴って近い将来には栽培適地から外れると予測される。このような現状で、実際に生産者は何を気候変動の影響と感じ、それに対してどのような対策を取ってきたのであろうか。須坂市、小布施町、高山村でのリンゴ生産者26軒とのインタビューから明らかにした。

インタビューの結果、リンゴ生産者はその販売チャネルで大きく二つに分類されることが分かった。市場を通す(Mグループとする:13軒)か、通さないか(Dグループとする:13軒)である。Mグループは農協を介して、または生産者が直接市場に出荷するのが中心で、Dグループは宅配によって直接客に、または小売店や生協を介しての販売が中心である。

両グループ間では、温暖化の影響の認識に違いが見られた。Mグループは温暖化の影響として着色不良を強く認識する一方(M: 46%, D: 8%)、Dグループは完熟の遅れを認識していた(M: 15%, D: 62%)。そして、着色不良に対してMグループは着色系品種の導入、またはリンゴの玉回し、葉摘みといった作業で着色を良くしようと対応していた。一方の完熟の遅れに対し、Dグループは収穫期を遅らせることで完熟を待つが、葉摘みや玉回しは糖度を低めるとの理由から行っていなかった。

この違いは生産者と消費者との距離から生じたものであろう。Mグループのリンゴは農協もしくは市場で選果され、その基準は外観であり特に色の比重が大きい。よって彼らは色を良くする対策をとる。対するDグループの客は外観より味を重視する。このためDグループの生産者たちは完熟を待つことで対応し、結果的には省力的かつ省コスト的対策であり、その意味でより適応的であるといえるであろう。

第4章事例2.秋田県鹿角市のリンゴ生産者の適応

秋田県の鹿角市は冷涼な気候を生かしたリンゴ産地として名高い。しかし20年ほど前から、一部の生産者の間でモモの栽培が始まり、現在「かづの北限の桃」として市場でも徐々にその知名度を上げている。今後の温暖化によって栽培適地から外れるわけではない鹿角で、なぜモモの栽培が興ってきたのだろうか。リンゴ生産者40軒とのインタビューを通して、生産者の視点から産地移動の興る過程を明らかにした。

結果、モモ栽培を開始した時期から、生産者は3つにグルーピングされた。20年前に独自に始めたグループI(4軒)、グループIの成功を見て始めたグループII(12軒)、そして市や農協の補助金や出荷体制が整ってから始めたグループIII(19軒)である。またモモを始めなかった5軒もいたが、ここでは除外する。グループごとの大きな特徴はリンゴの販売チャネルであり、グループIは宅配などによる個人販売が中心、グループIIは個人での市場出荷が中心、またグループIIIは農協出荷が中心であった。さらにリンゴの栽培面積もグループI、II、IIIの順に有意に大きかった(p<0.05)。

グループごとにモモ栽培開始の理由は、モモの市場価格が高かったことと、この地域に多い紋羽病によってリンゴ栽培に負の影響があったこと、が共通して挙げられたが、他に台風によるリンゴへの被害(グループI:100%、II:67%、III:26%)やモモは干害に強い(グループI:100%、II:58%、III:11%)などの気象災害が挙げられた。他にもグループII、IIIでは他人から勧められたことが、またグループIIIでは公的支援が挙げられた。しかし、台風や干害がリンゴ栽培に負の影響を与えると認識した生産者自体は、いずれのグループでも80%以上であり、リスクは認識していたが、その後の対策行動が異なっていた。

では、なぜグループIはリスクを認識し、モモ栽培を始め得たのか。これは外部とのネットワークから説明できる。グループIでは、台風や干害でリンゴの収穫量が減ると客の注文に応えられなくなり、注文客が離れていく可能性がある。そのためリンゴ以外のものを積極的に取り入れた。また他県の生産者との交流から、寒冷地という条件を生かしたモモの遅い市場を独占できる可能性を知り、さらに栽培技術をも教わることができた。この事例は、生産者から新たな取り組みが始まり、ある段階で公的な支援が実施されたために産地として確立していった、いわゆるボトムアップ的な産地化であったといえる。

第5章総合考察

以上第3章、第4章の事例研究を、ここではレジリエンスという視点から捉えて比較しながら、適応力は測れるのか、という問いに答え、最後に適応政策への提言で締めくくる。須坂、鹿角の二つの事例に見られた対策は、流通から捉えられる産地化の事例とよく似ている。果実の産地化は、部分市場の独占や果実の高級化、そして特別栽培などの付加価値によるものがあり、鹿角は前者二つの組み合わせの結果であり、須坂は後者の起こりかけであったといえる。

ではこの地域のダイナミックな適応力は測れるであろうか。結論から言えば、汎用的な計測はできないであろう。鹿角は確かにシステムがダイナミックに変化し、市場での地位を確立しつつある。しかし、須坂でも仮に「葉採らず/完熟リンゴ」としての販売を増加させ需要を喚起することができれば、それは同様に成功であり、その場合には、鹿角と須坂のどちらが適応的であるかという比較に意味はない。重要なのは、事例検証から汎用可能なトップダウン的な適応策を導くことではなく、事例ごとに検証して興りつつある変化を見つけ、その変化の段階に応じて支援すべき対象を絞り、支援していくことであろう。適応の中身は農家の自発性に任せ、そうした自発的な適応の発生と拡大を政策的に促す行き方である。その結果、よりダイナミックかつ効率的な適応へとつながっていくと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

背景と目的

気候変動が社会全体に及ぼす影響が認識されるにつれて,その影響への"適応"の重要性も認識されてきた.適応は脆弱性とレジリエンスという二つの概念で捉えられる.前者がシステムの影響されやすさという状態を測るのに対して,後者はシステムが影響を受けた際に元に戻ろうとする,あるいはより良い状態へと変化する過程を含む.

脆弱性とレジリエンスについての先行研究は,政策的にトップダウンの適応を想定するため,システムの脆弱性評価に終始しており,現実の社会生態システムが見せるレジリエンスは扱っていない.そこで申請者は本研究によって,日本のリンゴ栽培について,リンゴ生産者が気候変化に適応しつつある過程を捉えようとした.寒冷地果樹であるリンゴは,温暖化によって栽培適地が北上すると予測されており,すでに果実品質には温暖化の影響が現れているとされる.果樹は永年性作物のため,一年生作物よりも早期に適応策を実施する必要があり,実際に適応はすでに始動したとみられる.

リンゴの植物季節に見られる気候変動の影響評価

気候変動がリンゴの発芽・開花時期に及ぼす影響を解析した.植物季節の早まりが世界各地で観察され,気候温暖化の現われとされるが,それ以外の長期変化の影響も考えられる.そこで,日本の主要リンゴ産地(青森,秋田,岩手,宮城,福島,長野)におけるリンゴの発芽日と開花日の変動を,長期変化と短期変動に分け,短期変動の気温応答と長期変化の気温応答を比較した.その結果,リンゴの発芽と開花は長期的に早まっており,その気温応答は短期的な気温応答と有意差が無く,したがってリンゴの植物季節の早期化は温暖化に起因すると結論付けられた.

長野県須坂市のリンゴ生産者の適応事例

長野県須坂市,小布施町,高山村のリンゴ生産者へのインタビューを行った.リンゴ生産者を,販売チャネルにより市場を通すMグループと通さないDグループの二つに分けると,両グループ間で温暖化の影響の認識に違いが見られた.Mグループは温暖化の影響として着色不良を強く認識する一方で,Dグループは完熟の遅れを認識していた.そして,着色不良に対してMグループはリンゴの玉回し,葉摘み,反射シートといった着色促進技術で対応していたが,Dグループは収穫期を遅らせることで完熟の遅れに対応しており,着色促進は行っていなかった.こうした両グループの対応を比較すると,Dグループのほうがより省力的・コスト節約的であり,その意味でより適応的であると考えられた.

秋田県鹿角市のリンゴ生産者の適応事例

冷涼な気候を生かしたリンゴ産地である鹿角市では,20年ほど前から一部生産者の間でモモの栽培が始まり,現在「かづの北限の桃」として市場でもその知名度を上げつつある.モモの産地が温暖化に伴って北上したとも見える現象であり,リンゴ生産者とのインタビューにより,その過程を明らかにした.リンゴ生産者のうち,モモ栽培を20年前に独自に始めたグループI,グループIの成功を見て始めたグループII,そして市やJAの補助金や出荷体制が整ってから始めたグループIIIに分けた.グループ間では,リンゴの主な販売チャネルが異なり,グループIは宅配などによる個人販売が中心,グループIIは個人での市場出荷が中心,グループIIIは農協出荷が中心であった.またリンゴの栽培面積は,グループI > II > IIIの順であった.モモ栽培開始の理由は,グループ間で共通するものと異なるものがあった.後者では,台風や干害への適応行動としてモモの栽培を開始したことが,グループIで際立っていた.個人販売中心のグループIは,台風や干害によるリンゴ収穫量減少が,販売チャネルの喪失に直結するリスクが高いため,リンゴ以外の果樹を積極的に取り入れる理由がある.また他県の生産者との交流から,寒冷な気候を生かして遅い出荷時期のモモ市場のニッチに気づくことができ,また栽培技術も取り入れることができた.この事例は,少数の生産者が新たな取り組みを始め,その後公的な支援が実施された結果産地が成立した,ボトムアップ的な適応といえる.

総合考察

以上の事例研究は,いずれもボトムアップ的な適応行動の存在とその重要性を示している.レジリエンスの意味での適応には,適応力といった静的な指標は意味が無く,事例ごとにボトムアップの変化を拾い上げ,段階に応じた支援を供給することが重要である.適応の中身は農家の自発性に任せ,政策的には適応の発生と拡大を促す体制整備を行うことで,より高いレジリエンスを目指すのである.

以上のように,本論文が,日本のリンゴ生産における気候変化への適応を,レジリエンスの観点から解明したことは,学術上,応用上貢献するところが大きく,よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

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