学位論文要旨



No 128117
著者(漢字) 豊島,祐次郎
著者(英字)
著者(カナ) トヨシマ,ユウジロウ
標題(和) 内分泌撹乱化学物質(EDCs)の霊長類脳発達に及ぼす影響に関する研究
標題(洋) Studies on the effect of endocrine-disrupting chemicals (EDCs) on the development of the primate brain
報告番号 128117
報告番号 甲28117
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3833号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久和,茂
 東京大学 教授 九郎丸,正道
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 准教授 内田,和幸
 東京大学 准教授 桑原,正貴
内容要旨 要旨を表示する

【緒言】

哺乳類における正常な神経系の構造的発達は、概ね神経前駆細胞の増殖、神経細胞やグリア細胞への分化、層形成のための神経細胞の移動、不必要な神経系細胞のプログラム細胞死で説明され、機能的発達は神経細胞間情報伝達の要であるシナプス形成で説明される。これらの発達過程において、甲状腺ホルモンは必要不可欠であることが知られている。このことはヒトのクレチン病(先天性甲状腺機能低下症)が出生児の神経・知能の発達異常を引き起こすこと、甲状腺ホルモン阻害作用をもつダイオキシン類に曝露された妊婦から生まれた子供に知能発達遅延が認められていることなどから、脳発達において甲状腺ホルモンが周産期において重要な役割を果たしていることがうかがえる。齧歯類では、周産期における甲状腺ホルモン欠乏は中枢神経系において、組織形態学的にも機能的(行動学的)異常を引き起こすことが報告されている。

近年では、いくつかの甲状腺ホルモン阻害作用を示す内分泌撹乱化学物質(EDCs)が報告されており、妊娠中の母体にそれらが曝露された際の胎児の脳発達障害に対する懸念が増加している。中枢神経系発達におけるEDCsの危険性は齧歯類を用いた研究成果が多く報告されているが、(1)齧歯類は神経回路が極めて未熟な状態で生まれるのに対し、霊長類の中枢神経系は胎子期に十分に発達すること、(2)甲状腺ホルモンや内分泌撹乱化学物質(EDCs)(例、ビスフェノールA[BPA])の代謝が齧歯類とサル類では著しく異なること、(3)妊娠のステージにより、BPAの胎子への移行・中枢神経系への曝露量が異なる。そのため、齧歯類のデータを霊長類に単純に外挿することは困難であり、EDCsのヒトに対するリスクを評価するには、ヒトと近縁なサル類のデータが必要である。しかしながら、サル類での周産期の甲状腺ホルモン欠乏が中枢神経系にどのような影響を及ぼすのか、ラットと同様の発達異常がみられるのかといった点については全く不明である。

そこで、本研究では霊長類の脳発達における周産期の甲状腺ホルモン欠乏の影響を明らかにする目的で、妊娠カニクイザルに甲状腺ホルモン阻害剤であるメチマゾールを投与し、甲状腺ホルモン欠乏胎子あるいは新生子の大脳、小脳および甲状腺を主に病理組織学的および免疫組織化学的に解析した。

正常カニクイザル胎子における脳発達

上記で述べた正常神経系発達過程に関する研究は、齧歯類、ヒトで盛んに行われているが、サル類の脳の発達段階に関する基礎的な知見は乏しい。そこで、カニクイザルの異なる胎子日齢(E50、E80、E120およびE150)の脳を用いて、特に大脳皮質における神経系細胞の増殖、分化およびアポトーシスの分布、さらにアポトーシス細胞除去におけるミクログリアの関与を明らかにするために、病理組織学的および免疫組織化学的検索、アポトーシスを検出するTUNEL法を用いて解析を行った。

E50およびE80では、神経上皮層において核分裂像が多数みられ、増殖帯を中心に多くの神経系細胞がPCNA(増殖活性化細胞)に陽性を示す一方、NeuN(成熟神経細胞)に対する陽性細胞は認められなかった。GFAP(グリア細胞)では神経上皮層が陽性を示し、放射状グリア線維も認められた。Iba1(ミクログリア)陽性細胞は全ての領域でみられたが、特にE80では脳室帯においてIba1陽性細胞の限局的な集簇像がみられた。またE50およびE80の増殖帯でアポトーシスの特徴である核濃縮や核の断片化、核崩壊産物の貪食像がみられ、TUNEL陽性細胞も認められた。E120およびE150では、PCNA陽性細胞は多くは脳室帯で認められ、NeuN陽性細胞は大脳皮質の第IからVI層の全ての層(E120でのI/II層は除く)で顕著に認められた。GFAPに対する陽性細胞は主に大脳白質、Iba1に対しては脳室層周囲、大脳皮質および白質において認められた。また同ステージにおいてTUNEL陽性細胞は認められなかった。

E50およびE80の大脳において、核分裂像やPCNA陽性細胞が多数みられたこと、細胞移動を促す放射状グリア線維の形態を示していたこと、アポトーシスおよびそれらの貪食像、さらにはミクログリアの集簇像が認められたことなどから、神経系細胞の増殖・移動・細胞死は主にE80までに行われていることが示唆された。また、E120の大脳皮質において増殖細胞の減少、放射状グリアの消失、成熟神経細胞の出現などが認められたことから、神経系細胞の分化・成熟はE80以降から開始されることが示唆された。

カニクイザル新生子脳発達におけるメチマゾール長期曝露による影響

妊娠50日齢から分娩までメチマゾール(5~20 mg/kg)を長期的(約110日)に曝露した母体カニクイザルから生まれた新生子5頭、対照として無処置の新生子カニクイザル1頭を用いて、新生子の大脳、小脳および甲状腺を病理組織学的および免疫組織化学的に検索した。

その結果、メチマゾールに長期曝露されたカニクイザル新生子における大脳および小脳皮質の細胞密度は対照カニクイザル新生子に比べて著しく減少し、これらの領域における総細胞数も著しく減数していた。また、大脳白質におけるミクログリアは対照に比べて組織形態学的に未成熟だった。以上より、妊娠期において長期にわたるメチマゾール曝露は、カニクイザル新生子脳発達に悪影響を及ぼし、結果として大脳および小脳皮質の低形成、大脳におけるミクログリアの発達遅滞を引き起こすことが示唆された。

カニクイザル胎子脳発達におけるメチマゾール短期曝露による影響

次にカニクイザル胎子脳の様々な発達段階において、どのステージが甲状腺ホルモン欠乏に最も影響を受けるかを確認するため、カニクイザルの異なる胎子日齢にメチマゾール(2.0 mg/kg)を短期的(20日)に曝露(E50-70、E70-90;組織発達期、E90-110、E110-130およびE130-150;機能発達期)した母体カニクイザルから摘出した胎子、対照として無処置の胎子カニクイザルそれぞれ2頭用いて、それぞれのステージにおける胎子の大脳、小脳を病理組織学的および免疫組織化学的に検索した。

神経系細胞の増殖、神経細胞の移動が盛んなE70およびE90では、メチマゾール曝露カニクイザル胎子と対照群とに明らかな差は認められなかった。一方、神経細胞およびグリア細胞の分化、機能成熟が活発なE110、E130およびE150では、メチマゾール曝露カニクイザル胎子の大脳皮質において、神経細胞の樹状突起の長さおよび密度が対照群に比べて乏しかった。その他、長期曝露でみられたような組織形態異常は認められなかった。以上から、様々な妊娠期間における短期間のメチマゾール曝露は、組織発達よりも神経細胞の成熟に影響を及ぼすことが示唆された。

カニクイザル胎子脳発達後期における中等量メチマゾール短期曝露による影響

カニクイザル胎子脳発達における短期的な甲状腺ホルモン欠乏は、機能発達期により影響を及ぼすことが示唆されたため、脳発達期後期におけるメチマゾールの短期間曝露がカニクイザル胎子脳発達にどのように影響を及ぼすかを検索した。カニクイザル胎子脳発達後期に中等量のメチマゾール(3.5 mg/kg)を母体カニクイザル3頭に21日間(E130-150)曝露した。対照として生理食塩水を母体カニクイザル3頭に同期間投与した。最終投与1日後、帝王切開で胎子を摘出し、胎子の甲状腺、大脳、小脳を病理組織学的および免疫組織化学的に検索した。さらに胎子の大脳および小脳における様々なタンパク質発現量を検索した。また、母体および胎子の血清を用いてサイロキシン(T4)およびトリヨードサイロニン(T3)濃度をそれぞれ測定した。

メチマゾール曝露カニクイザル胎子の血清T4およびT3は、対照に比べて大幅に減少していた。また甲状腺は組織学的にコロイド性甲状腺腫を呈していた。このことから、メチマゾール曝露カニクイザル胎子は甲状腺機能低下症を引き起こしていることが示唆された。胎子大脳および小脳において、病理組織学的および免疫組織化学的にメチマゾール曝露群と対照群間に明らかな差は認められなかったが、メチマゾール曝露群の大脳皮質において、成熟神経細胞マーカーであるNeuN発現量が対照群に比べて有意に減少していた。以上の結果から、カニクイザルの妊娠後期おける短期間の甲状腺機能低下症は、胎子の大脳皮質の神経細胞成熟を障害する可能性が示された。

【総括】

本研究において、カニクイザル胎子脳における神経系細胞の増殖、神経細胞の移動、神経細胞およびグリア細胞の分化などの一連の脳発達イベントのタイムスケジュールを明らかにした。また本研究で得られた所見は、比較する上で神経発達における毒性学的研究に有用であると考えられる。さらに、霊長類の脳発達において甲状腺ホルモンの重要性が確認された。妊娠期間の長期にわたる甲状腺ホルモンの欠乏は、カニクイザル胎子の脳発達に悪影響を及ぼすことが示唆された。また、妊娠期間後期における短期間の甲状腺ホルモン欠乏は、神経細胞の機能成熟に影響を及ぼす可能性が示された。

これらの結果は、霊長類における甲状腺ホルモン阻害作用を示すEDCsを用いた毒性学的研究を行う上で、重要な知見となりうる。また、ヒトにおける甲状腺ホルモン欠乏胎児あるいは新生児の組織形態学的変化を比較する上で重要なデータになると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

哺乳類の神経系の構造的発達は神経前駆細胞の増殖、神経細胞やグリア細胞への分化、層形成のための神経細胞の移動、不必要な神経系細胞のプログラム細胞死で説明され、機能的発達はシナプス形成で説明される。これらの発達過程において甲状腺ホルモンは重要な役割を果たしており、ヒトのクレチン病(先天性甲状腺機能低下症)では出生児の神経・知能の発達異常が引き起こされる。

一方、内分泌撹乱化学物質(EDCs)が甲状腺ホルモン阻害作用を示すことが報告されており、妊娠中の母体がEDCsに曝露されると胎児脳発達に障害を引き起こすのではないかと懸念されている。EDCsの中枢神経系発達障害に関する齧歯類を用いた研究成果が多く報告されているが、齧歯類と霊長類の間には数々の種差が存在し、齧歯類の結果を単純にヒトを含めた霊長類に外挿することは困難である。本研究では霊長類の脳発達における周産期甲状腺ホルモン欠乏の影響を明らかにするために、妊娠カニクイザルに甲状腺ホルモン阻害剤メチマゾールを投与し、甲状腺ホルモン欠乏胎子あるいは新生子の大脳、小脳および甲状腺を病理組織学的および免疫組織化学的に解析した。本論文は次の3章からなる。

第1章では正常カニクイザルの50日齢胎子(E50)、E80、E120およびE150の脳を用いて、大脳皮質の組織学的および免疫組織化学的検索を行った。E50およびE80では、神経上皮層において核分裂像が多数みられ、増殖帯を中心に多くの神経系細胞がPCNA(増殖活性化細胞)に陽性を示す一方、NeuNに対する陽性細胞(成熟神経細胞)は認められなかった。GFAP陽性細胞(グリア細胞)は神経上皮層でみられ、放射状グリア線維も認められた。Iba1陽性細胞(ミクログリア)は全ての領域でみられたが、特にE80では脳室帯において限局的な集簇像がみられた。またE50およびE80の増殖帯で核濃縮や核の断片化、核崩壊産物の貪食像がみられ、TUNEL陽性細胞も認められた。E120およびE150では、PCNA陽性細胞は脳室帯で認められ、NeuN陽性細胞は大脳皮質第IからVI層の全ての層(E120でのI/II層は除く)で顕著に認められた。GFAP陽性細胞は主に大脳白質、Iba1陽性細胞は脳室層周囲、大脳皮質および白質において認められた。また同ステージにおいてTUNEL陽性細胞は認められなかった。これらの結果からカニクイザル神経系細胞の増殖・移動・細胞死は主にE80までに行われていること、神経系細胞の分化・成熟はE80以降から開始されることが示唆された。

第2章ではカニクイザル新生子脳発達におけるメチマゾール長期曝露による影響について検討した。妊娠50日齢から分娩までメチマゾール(5~20 mg/kg)を長期間(約110日)曝露したカニクイザルから生まれた新生子5頭、無処置新生子1頭(対照)を用いて、大脳、小脳および甲状腺の病理組織学的および免疫組織化学的検索を行った。長期曝露カニクイザル新生子の大脳および小脳皮質の細胞密度および総細胞数は対照に比べて著しく減少し、長期メチマゾール曝露はカニクイザル新生子の大脳および小脳皮質の低形成を引き起こすことが示唆された。

次に胎子脳のどの発達段階が甲状腺ホルモン欠乏に最も影響を受けるか検討した。神経系細胞の増殖、神経細胞の移動が盛んなE70およびE90では、メチマゾール曝露カニクイザル胎子と対照群との間に差は認められなかった。一方、E110、E130およびE150では、メチマゾール曝露カニクイザル胎子大脳皮質の神経細胞樹状突起の短くまた密度が低かった。したがって、短期メチマゾール曝露は、組織発達よりも神経細胞の成熟に影響を及ぼすことが示唆された。

第3章ではメチマゾールのカニクイザル胎子脳発達期後期短期曝露がどのように影響を及ぼすかを検索した。中等量のメチマゾール(3.5 mg/kg)を母体カニクイザル3頭に21日間(E130-150)曝露した。メチマゾール曝露カニクイザル胎子の血清T4およびT3は、対照に比べて大幅に減少した。また甲状腺はコロイド性甲状腺腫を呈しており、甲状腺機能低下症を引き起こしていることが示唆された。大脳および小脳の形態学的観察では差は認められなかったが、ウェスタンブロット法で曝露群胎子の大脳皮質NeuN発現量が減少していることが明らかになった。以上の結果から、カニクイザル妊娠後期における短期間の甲状腺機能低下症は、胎子の大脳皮質の神経細胞成熟を障害する可能性が示された。

以上の結果は、カニクイザル胎子脳における神経系細胞の増殖、神経細胞の移動、神経細胞およびグリア細胞の分化などの一連の脳発達イベントのタイムスケジュールを明らかにするとともに、霊長類脳発達における甲状腺ホルモンの重要性を示した。これらの研究成果は獣医学学術上貢献するところが少なくない。よって、審査員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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