学位論文要旨



No 128119
著者(漢字) 井手,鉄哉
著者(英字)
著者(カナ) イデ,テツヤ
標題(和) イヌ頭蓋内腫瘍の細胞分化と腫瘍発生に関する病理学的・分子生物学的研究
標題(洋)
報告番号 128119
報告番号 甲28119
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3835号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中山,裕之
 東京大学 教授 西村,亮平
 東京大学 准教授 松木,直章
 東京大学 准教授 内田,和幸
 東京農工大学 教授 三森,国敏
内容要旨 要旨を表示する

頭蓋内腫瘍には脳実質を構成する神経上皮組織に由来する腫瘍の他、髄膜組織に由来する髄膜腫や間葉系組織に由来する腫瘍も含まれる。脳や脊髄は周囲を頭蓋骨や脊椎骨で囲われているため、病変を肉眼あるいはレントゲンや超音波などの従来の画像診断機器で診断することが困難であり、獣医学における頭蓋内腫瘍に関する研究には病理解剖が不可欠であった。しかし、1990年代初頭から高度画像診断技術の導入が進んだことにより、生前検査・診断技術が向上し、中枢神経組織内の病変の質や広がりを確認した上で予後判断や治療法選択が行えるようになった。

一般的に、頭蓋内腫瘍はその種類により抗がん剤や放射線などの治療に対する感受性およびその予後が大きく異なるため、正確に分類することが重要である。しかしながら、動物の神経系腫瘍のWHO分類が制定されて既に10年以上が経過し、さらにこの間、小動物臨床領域におけるMRIの普及と相まって、動物(特にイヌ)の頭蓋内腫瘍の臨床動向や病理学的特徴に関する情報が飛躍的に増加し、現分類に問題点がいくつか生じてきている。本研究は、イヌの神経上皮性腫瘍、髄膜腫および組織球性肉腫の病理発生機序や進展機序を明らかにし、その生物学的特徴を正確に把握することを目的として遂行された。

第1章では、イヌの神経上皮性腫瘍の分類および組織発生に関する研究を行った。動物の神経系腫瘍のWHO分類では、腫瘍細胞が示す分化の特徴に従い大まかに神経上皮性腫瘍を分類している。しかし近年、幹細胞に関する知見が飛躍的に増加し、神経組織においても神経幹細胞の概念が確立され、従来の動物の神経上皮性腫瘍の組織診断分類や病態解釈が大きく修正される可能性がある。本章では、イヌの神経上皮性腫瘍30例について、細胞の分化や増殖に関連するマーカーの発現を免疫染色にて検索し、その結果に基づいて階層クラスター解析を行うことで、イヌの神経上皮性腫瘍の分類を再検討した。その結果、WHO分類の記載の通り、星状膠細胞性腫瘍、脈絡叢性腫瘍、神経細胞腫および神経芽腫は、比較的均一な分化方向を示す腫瘍細胞より構成され、髄芽腫および原始神経外胚葉性腫瘍は極めて多彩な分化傾向を示す腫瘍細胞より構成されることが明らかになった。しかし、形態学的に稀突起膠細胞性腫瘍と診断されていた腫瘍は、原始神経外胚葉性腫瘍と同様の多彩な分化能を有する非常に未分化な腫瘍であり、由来不明の膠細胞性腫瘍とされていた大脳膠腫症は、様々な膠細胞の反応性増生を伴う未分化な細胞の脳内浸潤亢進を特徴とする疾患であることが判明した。さらに、イヌの神経上皮性腫瘍における細胞増殖関連シグナル伝達系の関与を評価したところ、星状膠細胞性腫瘍と一部の原始神経外胚葉性腫瘍で、チロシンキナーゼ受容体であるEGFRとc-erbB2のシグナル経路の異常が腫瘍発生に関与していることが示唆された。また、多くのイヌの神経上皮性腫瘍で、Bcl-2とBcl-xLが相補的に腫瘍細胞のアポトーシスを抑制し、結果として腫瘍細胞の生存・増殖を助長していると考えられた。

第2章では、イヌの髄膜腫の分類および予後因子に関する研究を行った。WHO分類では、髄膜腫をその生物学的挙動の相違から大きく通常型(良性)と退形成型(悪性)に分類している。髄膜腫の診断の際には、通常型と退形成型を区別することが再発や転移予測において非常に重要である。本章では、イヌの髄膜腫55症例を用いて、腫瘍細胞の神経組織内浸潤に着目し、髄膜腫の退形成型の診断に有用なマーカーを検討した。正常髄膜上皮の細胞膜に発現しているE-cadherinは腫瘍化に伴い発現が減弱し、代償性にN-cadherinが発現するようになった。すると細胞膜でE-cadherin?と連結しているbeta-cateninは核内へと移行する傾向が認められた。さらに、神経芽細胞の脳内移行に関与するDoublecortinが腫瘍の神経組織内浸潤部で腫瘍細胞の細胞質に強く発現するようになった。増殖細胞マーカーであるKi-67の陽性率は退形成型で高かった。以上のことから、N-cadherin、核内移行beta-cateninおよびDoublecortinの発現がイヌの髄膜腫の進展に関連していることが示唆された。また、統計学的に核内移行beta-catenin、DoublecortinおよびKi-67の発現率が通常型よりも退形成型で有意に高いことが判明し、線型判別解析によりこれら3つは単独で使用しても髄膜腫の悪性度の判別にある程度の有用性を示すことが明らかになった。そのため、病理診断に際しては、通常のHE標本で得られる知見にこれらのマーカーの発現状態を加味して通常型ないし退形成型の判断をすることで、より客観的エビデンスに基づく診断をすることが可能になると思われる。また、顆粒細胞型髄膜腫は大脳髄膜の広範囲に進展病変を形成し、クモ膜上皮が本来発現すべきE-cadherin、beta-catenin等の細胞接着因子の発現を欠き、生物学的特徴が他の通常型髄膜腫とは異なっていた。このため、顆粒細胞型髄膜腫を従来のように通常型髄膜腫として分類するには問題があると考えられた。

第3章では頭蓋内原発の組織球性肉腫の病理組織学的特徴および腫瘍細胞の免疫組織化学的特徴を詳細に検討した。イヌでは近年、頭蓋内の組織球性肉腫が多く診断されるようになり、髄膜腫との鑑別が必要になっている。通常の組織球性肉腫はリンパ性組織や軟部組織に病巣を形成し、バーニーズ・マウンテン・ドッグなどの大型犬種に好発することが知られているが、頭蓋内組織球性肉腫ではリンパ性組織や軟部組織に特に病変がなく、頭蓋内に限局する症例が多い。検索した20症例の頭蓋内原発組織球性肉腫はその発生に性差はなく、平均発症年齢は8.4歳であり、中型犬種であるウェルシュ・コーギー・ペンブローク(WCP)犬に高率(60%)に発生することが明らかになった。本研究では頭蓋内原発組織球性肉腫の増殖パターンを大きく2つに分類した。すなわち、髄膜腫のように孤在性腫瘤を形成するもの(孤在型)が18症例、髄膜の広範囲にび漫性に浸潤するもの(び漫型)が2症例である。両型の細胞形態に相違は認められなかった。マクロファージ・組織球系列のマーカーであるHLA-DR alpha-chain(MHC class II)とIba1およびマクロファージのマーカーであるCD163とCD204に対する免疫染色を行ったところ、CD163とCD204が孤在型とび漫型を区別するマーカーとして有用であることが明らかになった。加えて、頭蓋内原発の組織球性肉腫と通常の組織球性肉腫では腫瘍形成部位および好発犬種が明らかに異なることから、それぞれには異なる病因因子が関与していると考えられた。

第4章では、WCP犬で組織球性肉腫が多発する原因を調べるため、国内のWCP犬における過去3年間の組織球性肉腫の発生状況を調査したところ、特に頭蓋内と肺に好発することが明らかになった。そのため、WCP犬は組織球性肉腫罹患リスクに関連するゲノム・遺伝子群に特有のSNP(一塩基多型)を有していると予想し、組織球性肉腫罹患症例3例および健常症例1例について、次世代シークエンサーにより全ゲノム配列を決定して、罹患症例に特有のSNPの有無を明らかにした。すなわち、罹患症例の全エクソン領域で共通してみられるSNPを検出し、さらに腫瘍組織の網羅的遺伝子発現解析により、実際の腫瘍細胞で発現している遺伝子群に関連するSNPを抽出した。これらのSNPから特に遺伝子機能への影響が大きいSNPのみを選択した。その結果、罹患症例ではBone marrow kinase gene on X chromosome(BMX)遺伝子のエクソン8のSNPにより、第237番アミノ酸がAlaからThrへと変異し、同タンパク質のSH3様ドメインの構造が変化していることが明らかになった。BMXはJAK-STATシグナル経路を活性化し、ヒトでは様々な腫瘍の病理発生に関与している。BMX遺伝子は組織球性肉腫の腫瘍細胞でも有意に発現していることが確認されたことから、本腫瘍の病理発生に関与している可能性は高いと考えた。以上の結果から、WCP犬においてBMX遺伝子のエクソン8に存在するSNPを検出することは、組織球性肉腫罹患リスクを予測するうえで有用と考えた。

以上の一連の結果より、イヌの神経上皮性腫瘍では多方向性分化能を有する神経幹細胞様の細胞の増殖が関与すること、髄膜腫では細胞接着分子の発現変化やDoublecotrinの発現がその進展機序に重要であることが明らかになった。これらの研究成果は、イヌの頭蓋内腫瘍の分類、組織発生および腫瘍化のメカニズムを解明していく上で、貴重な情報となると考えられた。また、日本国内のWCP犬に頭蓋内組織球性肉腫が多発していることが明らかになり、本腫瘍の感受性遺伝子1つとしてBMX遺伝子が同定された。本研究で得られた一連の知見は、イヌの頭蓋内腫瘍の病理発生機序を解明していく上で極めて重要と思われた。

審査要旨 要旨を表示する

頭蓋内腫瘍は種類により治療に対する感受性や予後が異なるため、生物学的特徴に応じて正確に分類することが重要である。動物神経系腫瘍のWHO分類は制定されて既に10年以上経過し、この間、動物(特にイヌ)の頭蓋内腫瘍の臨床動向や病理学的特徴に関する情報が飛躍的に増加したことにより、現分類には様々な問題点が生じている。本研究は、イヌの神経上皮性腫瘍、髄膜腫および組織球性肉腫の病理発生機序や進展機序を明らかにし、その生物学的特徴を正確に把握することを目的としている。

神経上皮性腫瘍は腫瘍細胞が示す分化の特徴に従い分類がなされている。しかし近年、神経幹細胞の概念が確立され、従来の動物の神経上皮性腫瘍の分類や病態解釈が大きく修正される可能性がある。本研究では、まずイヌの神経上皮性腫瘍30例について、細胞の分化や増殖に関連するマーカーの発現を免疫染色にて検索し、その結果に基づいて階層クラスター解析を行い、診断分類を再検討した。その結果、WHO分類の記載の通り、星状膠細胞性腫瘍、脈絡叢性腫瘍、神経細胞性腫瘍は比較的均一な分化方向を示す腫瘍細胞より構成され、原始神経外胚葉性腫瘍(PNET)と髄芽腫は多方向性分化を示す腫瘍細胞より構成されていた。しかし、これまで稀突起膠細胞性腫瘍と診断されていた腫瘍は、PNETと同様の多方向性分化能を有する未分化な腫瘍であり、由来不明の膠細胞性腫瘍とされていた大脳膠腫症は、様々な膠細胞の反応性増生を伴う未分化な細胞の脳内浸潤亢進を特徴とする疾患であることが判明した。

髄膜腫はその生物学的挙動の相違に基づき通常型と退形成型に分類されており、神経組織浸潤の有無がその鑑別に最も重要である。本研究では、イヌの髄膜腫55症例を用いて、腫瘍細胞の神経組織浸潤に着目し、髄膜腫の退形成型の診断に有用なマーカーを検討した。正常髄膜上皮の細胞膜に発現しているEカドヘリンは腫瘍化に伴い発現が減弱し、代償性にNカドヘリンが発現した。これに伴い細胞膜でEカドヘリンと結合している・カテニンは核内に移行した。さらに、神経芽細胞の脳内移行に関与するDCXが腫瘍の神経組織浸潤部で発現するようになった。増殖細胞マーカーであるKi-67の陽性率は退形成型で高かった。核内・カテニン、DCXおよびKi-67の発現率は退形成型で有意に高く、線型判別解析によりこれら3つは単独でも髄膜腫の悪性度の判別にある程度有用であることが明らかになった。そのため、病理診断に際しては、HE標本で得られる知見にこれらのマーカーの発現状態を加味して退形成型の判断をすることで、より客観的エビデンスに基づく病理診断を行うことが可能になると思われた。

イヌでは近年、頭蓋内の組織球性肉腫の診断機会が増加し、髄膜腫との鑑別が必要になっている。通常の組織球性肉腫はリンパ性組織や軟部組織に発生し、バーニーズ・マウンテン・ドッグなどの大型犬種に好発するが、検索した20症例の頭蓋内組織球性肉腫は全て頭蓋内に限局しており、ウェルシュ・コーギー・ペンブローク(WCP)犬に好発していた。本研究では頭蓋内原発組織球性肉腫の増殖パターンを2つに分類した。すなわち、髄膜腫のように孤在性腫瘤を形成するもの(孤在型)が18症例、髄膜の広範囲にび漫性に浸潤するもの(び漫型)が2症例である。これらの症例について様々なマクロファージ・組織球系マーカーの発現を検討した結果、CD163とCD204が両型を区別するマーカーとしてある程度有用であることが明らかになった。

さらにWCP犬における組織球性肉腫の過去3年間の発生状況を改めて調査したところ、特に頭蓋内と肺に多発していることが明らかになった。本犬種で組織球性肉腫が多発する原因を明らかにするため、大規模シークエンス解析により正常なWCP犬の全ゲノム配列を決定し、組織球性肉腫罹患症例3例のそれと比較解析し、疾患関連遺伝子の探索を行った。すなわち、罹患症例に共通してみられるエクソン領域のSNP(一塩基多型)を検出し、さらにDNAマイクロアレイにより腫瘍細胞で発現が認められた遺伝子に存在するSNPを抽出した。その結果、罹患症例では共通してBone marrow kinase gene on X chromosome(BMX)遺伝子エクソン8にSNPが集積し、第237番アミノ酸がAlaからThrへと変異していた。そのため、SH3様ドメインの構造および極性が大きく変化していると推察された。BMXは単球系細胞ではJAK-STATシグナルの活性化に深く関与しているため、BMXの先天的な変異がWCP犬における本腫瘍の病理発生に関与している可能性が高いと考えた。

本研究で得られた一連の知見は、イヌの頭蓋内腫瘍の分類、組織発生および腫瘍化のメカニズムを解明していく上で重要な情報を提供するものと考えられた。よって審査委員一同は申請者が博士(獣医学)の学位を授与するに値すると認めた。

UTokyo Repositoryリンク