学位論文要旨



No 128123
著者(漢字) 後藤,亜紀子
著者(英字)
著者(カナ) ゴトウ,アキコ
標題(和) イヌの常同障害に関する行動遺伝学的研究
標題(洋)
報告番号 128123
報告番号 甲28123
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3839号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 准教授 桑原,正貴
 東京大学 准教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

家庭動物の飼育が生活の質にもたらす好影響が注目されている。なかでもイヌに対する期待は大きく、たとえばイヌを飼うことで抑うつ状態が軽快したり心臓発作後の余命が有意に延長するなど、飼育者の心身の健康状態が改善されることを示す具体的事例が数多く報告されている。その反面、近年のペットブームがもたらす負の影響として、乱繁殖や不適切な育成販売、ペットの安易な入手と飼い主の知識不足などの要因が重なることにより、深刻な問題行動を示すイヌが増加しつつあるといった指摘がある。動物飼育によるメリットの享受が普及するためには、まず心身ともに健康な動物が社会に提供され続けることが重要であり、そうした観点から獣医学とりわけ臨床行動学の果たすべき役割は大きい。

本研究で対象としたイヌの常同障害(CD)は代表的な問題行動のひとつであり、明らかな目的や機能を持たない反復性の行動が繰り返される疾患である。この疾患自体は致命的なものではないが、原因やきっかけの分からない異常な行動が、時には自傷行為として際限なく繰り返されるために飼い主の心痛は大きく、イヌの飼育放棄や安楽死処分に繋がる事例も少なくない。しかしイヌのCDは、ヒトにおける多くの精神疾患と同様に、血液性状やマーカー値の変化といった客観的な診断基準はまったく存在しないのが現状である。本研究ではこのような状況を踏まえて、イヌのCDがどのような要因によって特徴づけられる疾患であるのかを明らかにすることを目的とし、多岐にわたるCDの病態のなかでも飼い主が認知しやすくかつ定量化が容易な"尾追い行動 tail chasing"に焦点を絞り、一般家庭飼育犬を対象とした行動遺伝学的研究を行った。

本論文は5章から構成されており、第1章は総合緒言として、これまでのイヌに関する行動遺伝学的研究の概要と現状を述べるとともに、常同行動の発現様式や治療に有効な薬物が共通であることからイヌのCDとの類似性が推測されるヒトの強迫性障害(OCD)に関する先行研究を取り上げ、これらの背景をもとに本研究で設定した具体的目標について説明した。

第2章では、我が国における尾追い行動の好発犬種とリスクファクターを調べるためにアンケート調査を行った。予備調査から選択した7犬種を対象として、ドッグフェスティバル会場と動物病院を調査フィールドとして飼い主に対する調査を実施した。アンケート結果を重回帰分析した結果、ドッグフェスティバルと動物病院のいずれにおいても、犬種、入手経路、興奮しやすいというイヌの行動特性、の3項目について尾追い行動との有意な関連が認められた。それぞれの項目内では、シバイヌ(犬種)、ペットショップ由来の個体(入手経路)、興奮しやすい個体(行動特性)がそれぞれ尾追い行動と最も強い関連を示した。そこで次に、犬種の影響を除外した場合に、入手経路と興奮しやすいという行動特性の2項目について同様の結果が得られるかどうかを調べた。シバイヌとダックスフントの2犬種を用いて解析を行ったところ、いずれの犬種においても、尾追い行動の重篤度が高い個体群には、ペットショップ由来の個体、興奮しやすい個体が多く認められ、犬種の影響を除いても同様な結果が得られることが確認された。

以上のことから、尾追い行動はシバイヌで多く認められること、そのリスクファクターとして入手経路や個体の気質があることが明らかとなり、尾追い行動の発現には遺伝要因と環境要因のいずれもが関与することが示唆された。

第3章では、前章の調査から尾追い行動の素因として気質が示唆されたことを受けて、尾追い行動と気質の関係をより詳細に調べることにした。同時に、先行研究で報告されている攻撃性との関連についても検討することを目的に、尾追い行動が多く認められたシバイヌを対象に新たなアンケート調査を行った。

アンケート調査結果の因子分析によって得られた9つの気質因子について検討を行った。過去又は現在において2ヶ月以上にわたり週1回以上の頻度で尾追い行動とともに尾を咬む・うなるといった行動がひとつでも認められる個体(CH群)と、いままでに尾追い行動を全く行ったことのない個体(NO群)の2群間で因子ポイントの比較を行った結果、"好奇心"、"接触過敏性"、"小動物に対する反応性"、"音や動きに対する反応性"においてCH群でいずれも有意にポイントが高く、"興奮性"においてCH群でポイントの高い傾向が認められた。また、CDの症状としての尾追い行動に関連する気質を特定するために、CH群のなかで、常同障害の診断を受けている、又は、尾を咬んで出血したことのある個体(CD群)とNO群との2群間で因子ポイントの比較を行ったところ、"接触過敏性"、"興奮性"、"音や動きに対する反応性"の3因子において、CD群のポイントの方がNO群より有意に高いという結果が得られた。さらに、きっかけの「イライラした時」と気質因子との関連を調べたところ、"接触過敏性"との関連性が明らかとなった。これらの結果より、"好奇心"と"小動物に対する反応性"への関与が考えられる、衝動性や活動性の高い個体が尾追い行動を発現し、"接触過敏性"と"音や動きに対する反応性"との関連が考えられる不安や葛藤、さらに"興奮性"への関与が考えられる興奮が持続することによって、尾追い行動が重篤化する可能性が示唆された。

また、攻撃性のスコアをCH群とNO群の2群間で比較したところ、"飼い主に対する攻撃性"において有意差が認められたが、この攻撃性は尾追い行動関連気質であることが示唆された5つの因子のうち、"小動物に対する反応性"以外の4つの因子と関連することから、尾追い行動と気質の関連には、"飼い主に対する攻撃性"が交絡因子として関与していることが示唆された。

さらに、研究対象とした個体のうち血統書が得られたものについて血縁関係を調べたところ、祖父母までに血縁のある2個体間で同じ表現型を示す(どちらの個体もCH群)組み合わせが期待値よりも高い確率で認められたことから、尾追い行動に対する遺伝的要因の関与が推測された。

第4章では、尾追い行動に関わる遺伝子多型の探索を目的として、シバイヌを対象に、候補遺伝子関連解析とゲノムワイド関連解析(GWAS)を行った。

第1節では、第3章において尾追い行動との関連が示唆された衝動性、活動性や不安に関わることが知られているセロトニン1A受容体遺伝子(5HTR1A)、グルタミン酸トランスポーター遺伝子(SLC1A2)、モノアミン酸化酵素B遺伝子(MAOB)、ドーパミントランスポーター遺伝子(SLC6A3)、カテコール-O-メチル転移酵素遺伝子(COMT)において、それぞれシバイヌで認められている多型(5HTR1A-C808A、SLC1A2-T471C、MAOB-T199C、SLC6A3-G528A、COMT-G216A)を候補として候補遺伝子関連解析を行った。COMT-G216Aでは多型性が認められなかったため、その後の解析からは除外し、それ以外の4遺伝子多型について尾追い行動との関連性、さらには尾追い行動関連気質との関連性を調べた。その結果、これらの多型と尾追い行動との間に直接的な関連は認められなかったものの、5HTR1A-C808Aと"小動物に対する反応性"、SLC6A3-G528Aと"興奮性"・"音や動きに対する反応性"、雌においてMAOB-T199Cと"小動物に対する反応性"・"好奇心"との間に関連する傾向が認められた。本研究で解析した遺伝子多型については、いずれも気質に対する影響力が小さいために尾追い行動との直接的な関連性が認められなかったものと推測された。

第2節では、GWASによる網羅的な遺伝子解析を行い、尾追い行動に関連する遺伝子多型を探索した。尾追い行動と有意に関連する一塩基多型(SNP)は認められなかったものの、有意水準に迫るSNPが幾つか発見され、そのうちのひとつは衝動性や強迫的行為などCDと同様の症状が認められるヒトの精神遅滞への関連が示唆されている遺伝子上に存在していた。

以上のことから、これらの遺伝子多型が、今後、尾追い行動関連遺伝子探索において有益なマーカーとなり得る可能性が示された。

第5章では、総合考察を行った。本研究より、(1) 我が国において尾追い行動はシバイヌに多く、またペットショップ由来の個体で多く認められること、(2) 尾追い行動は、"好奇心"、"接触過敏性"、"興奮性"、"小動物に対する反応性"、"音や動きに対する反応性"という 5つの気質因子と関連しており、なかでも"接触過敏性"、"興奮性"、"音や動きに対する反応性"の3つの気質因子が症状の重篤化に際して重要であると考えられること、(3) 尾追い行動関連気質への関与が示唆された遺伝子多型(5HTR1A-C808A、SLC6A3-G528A、MAOB-T199C)や、CDと同様の症状が認められる精神遅滞への関与の示唆されている特定の遺伝子上のSNPなどが、今後の尾追い行動遺伝子探索において有益なマーカーとなり得る可能性が示された。

先に述べたように、イヌにおけるCDには、客観的で明確な診断基準すら設けられていないのが現状である。本研究で得られた行動遺伝学的な知見が、今後、CDの診断基準策定に資するとともに、個々の気質測定による尾追い行動発現やCD発症リスクの軽減、罹患個体に対する適切な治療法の確立、また、遺伝子診断による早期の発症予測、さらには遺伝子情報をもとにした計画繁殖によるCD罹患個体の減少に貢献することを期待したい。

審査要旨 要旨を表示する

イヌの常同障害(CD)は問題行動のひとつであり、明らかな目的や機能を持たない反復性の行動が繰り返される疾患である。CDは、ヒトにおける多くの精神疾患と同様に、血液性状やマーカー値の変化といった客観的な診断基準が存在しないという状況を踏まえて、本研究ではCDがどのような要因によって特徴づけられる疾患であるのかを明らかにすることを目的とした。多岐にわたるCDの病態のなかでも飼い主が認知しやすくかつ定量化が容易な"尾追い行動 tail chasing"に焦点を絞り、一般家庭飼育犬を対象とした行動遺伝学的研究が行われた。本論文は5章から構成され、第1章は総合緒言であり、第2章から第4章が実験の説明、そして第5章は総合考察である。

第2章では、我が国における尾追い行動の好発犬種とリスクファクターの探索が行われた。7犬種を対象として、ドッグフェスティバルと動物病院を調査フィールドにアンケート調査を行った結果、犬種、入手経路、興奮しやすいというイヌの行動特性について、尾追い行動との有意な関連が認められ再現性も確認された。それぞれの項目内では、シバイヌ(犬種)、ペットショップ由来の個体(入手経路)、興奮しやすい個体(行動特性)が尾追い行動と最も強い関連を示していた。次に、犬種の影響を除外した場合に、入手経路と興奮しやすいという行動特性について同様の結果が得られるかどうかを調べるために、シバイヌとダックスフントを用いて解析を行った。その結果、いずれの犬種においても、尾追い行動の重篤度が高い個体群において、ペットショップ由来の個体、興奮しやすい個体が多く認められ、犬種の影響を除いても同様な結果が確認された。以上のことから、尾追い行動の発現には遺伝要因と環境要因のいずれもが関与することが示唆された。

第3章では、尾追い行動と気質の関係をより詳細に調べると同時に、先行研究で報告されている攻撃性との関連についても検討することを目的に、シバイヌを対象とした新たなアンケート調査が行われた。因子分析によって得られた9つの気質因子について、過去又は現在において2ヶ月にわたり週1回以上の頻度で尾追い行動とともに尾を咬む・うなるといった行動が認められる個体(CH群)と、いままでに尾追い行動を全く行ったことのない個体(NO群)の2群間で因子ポイントの比較を行った。その結果、"好奇心"、"接触過敏性"、"小動物に対する反応性"、"音や動きに対する反応性"においてCH群で有意にポイントが高く、"興奮性"においては同様の傾向が認められた。以上のことから、"好奇心"と"小動物に対する反応性"への関与が考えられる衝動性や活動性の高い個体が尾追い行動を発現し、"接触過敏性"と"音や動きに対する反応性"との関連が考えられる不安や葛藤、さらに興奮が持続することによって、尾追い行動が重篤化する可能性が示唆された。また、攻撃性のスコアを先の2群間で比較したところ、"飼い主に対する攻撃性"で有意差が認められた。しかし、この攻撃性のスコアが、尾追い行動との関連の示唆された気質因子のうち4因子と相関していたことから、尾追い行動と気質の関連には、"飼い主に対する攻撃性"が交絡因子として関与していることが示唆された。

第4章では、尾追い行動に関わる遺伝子多型の探索を目的として、シバイヌを対象に、候補遺伝子関連解析とゲノムワイド関連解析を行った。前者では、第3章で尾追い行動との関連が示唆された活動性・衝動性や不安に関わることが知られている5つの遺伝子を選択し、それぞれシバイヌで認められている多型(5HTR1A-C808A、SLC1A2-T471C、MAOB-T199C、SLC6A3-G528A、COMT-G216A)を候補とした。多型性の認められなかったCOMT-G216A以外の4多型について尾追い行動との関連性、さらには尾追い行動関連気質との関連性を調べた結果、これらの多型と尾追い行動との間に直接的な関連は認められなかったものの、5HTR1A-C808Aと"小動物に対する反応性"、SLC6A3-G528Aと"興奮性"・"音や動きに対する反応性"、雌においてMAOB-T199Cと"小動物に対する反応性"・"好奇心"との間に関連する傾向が認められた。本研究で解析した遺伝子多型については、いずれも気質に対する影響力が小さいために尾追い行動との直接的な関連性が認められなかったものと推測された。ゲノムワイド関連解析では、尾追い行動と有意に関連する一塩基多型(SNP)は認められなかったものの、有意水準に迫るSNPが幾つか発見され、そのうちのひとつはCDと共通する症状である衝動性や強迫的行為などを示すヒトの精神遅滞への関連が示唆されている遺伝子上に存在することが明らかとなった。

以上、本研究では、CDに関する行動遺伝学的研究が行われ、尾追い行動の好発犬種やリスクファクターが明らかにされるとともに、幾つかのSNPが今後尾追い行動関連遺伝子探索において有益なマーカーとなり得る可能性が示され、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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