学位論文要旨



No 128124
著者(漢字) 塚本,篤士
著者(英字)
著者(カナ) ツカモト,アツシ
標題(和) 犬の胃運動障害および5-HT4受容体作動薬モサプリドの臨床応用に関する研究
標題(洋) Studies on Canine Gastric Motility Disorders and the Clinical Application of 5-HT4 Receptor Agonist Mosapride
報告番号 128124
報告番号 甲28124
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3840号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 教授 尾崎,博
 東京大学 教授 西村,亮平
 東京大学 准教授 堀,正敏
 東京大学 准教授 大野,耕一
内容要旨 要旨を表示する

嘔吐、食欲不振、悪心をはじめとする上部消化器症状は、人医療と獣医療のいずれにおいても発生頻度の高い症状である。近年、これら症状の病態として、消化管運動障害、特に胃運動障害が注目されている。人医療において胃運動障害は、慢性胃炎や糖尿病をはじめとするさまざまな疾患に付随して起こり、上部消化器症状の原因となることが報告されている。消化管運動改善薬は、このような胃運動障害に起因する消化器症状に対しその有効性が報告されており、人医療では上部消化器症状の管理に広く臨床応用されている。一方、獣医領域では上部消化器症状と胃運動障害の関連については不明な点が多く、さまざまな消化管運動改善薬が使用されているものの、その有効性に関するエビデンスは乏しい。

5-HT4受容体作動薬であるモサプリドは、消化管壁内神経叢のセロトニン神経を刺激し、消化管運動を促進する消化管運動改善薬である。人医療では、その有効性および安全域の広さから、消化器症状の治療に広く用いられている。本薬剤は犬においても上部消化管運動を促進することが示唆されており、獣医療への応用が期待される。

本論文における一連の研究は、犬における胃運動障害の病態への関連性を明らかにするとともに、モサプリドの臨床的有用性を提示することを目的とするものである。第1章では超音波診断装置を用いた犬における新たな胃運動評価法を確立した。第2章では犬におけるモサプリドの胃運動促進用量について検討を行った。これらを踏まえ、第3章では薬剤誘発性消化器毒性における胃運動障害の関与を検証するとともに、モサプリドの臨床的有用性を検討した。第4章ではモサプリドの炎症性サイトカイン発現抑制効果について、犬初代培養マクロファージを用いて検討を行った。

第1章:超音波診断装置による犬の胃運動測定系の確立

これまで獣医療においてさまざまな胃運動評価法が開発されてきたが、侵襲性や設備面等の制約により、いずれも臨床応用に至っていない。そこで、本章では犬において臨床的に応用可能な胃運動測定系の確立を行った。

健常犬7頭を用い、人医療の報告に準じた超音波法によって食後胃前庭部運動を評価した。各個体において、食後胃前庭部横断面積変化率 (Amplitude)と蠕動回数 (Frequency)から胃運動の指標であるMotility Index (MI) を算出した。MIの計測は食後30分おきに3時間計測し、各計測点の値を比較した。また、対照試験として既存の胃排出評価法である13C-オクタン酸呼気試験 (13C法)を並行して行い、両試験におけるデータの相関を検討した。

各計測点おけるMIを算出した結果から、変動係数が最小値を示した食後30分をMIの計測点として採用した。MIと13C法から得られた胃排出パラメータの相関関係を検討したところ、有意な相関を認めた。最後にアトロピン誘発性胃運動低下モデルを用い、本法による胃運動変化の検出精度を検討したところ、全個体においてアトロピン投与による胃運動低下が検出された。

以上の検討より、本法の新規胃運動評価法としての妥当性が示された。本超音波法は従来の方法と比較して低侵襲かつ簡便であり、ベットサイドにおけるリアルタイムな胃運動評価を可能にすると考えられる。

第2章:健常犬におけるモサプリドの胃運動促進効果

本章では、犬におけるモサプリドの用量設定を目的として以下の検討を行った。

(1) 健常犬におけるモサプリドの胃前庭部運動促進効果:健常犬においてモサプリド単回投与 (0.5 ~ 2 mg/kg) 後の胃運動性を、超音波法により検討した。クロスオーバー試験によって各用量のモサプリド投与後におけるMIを計測した結果、0.75 ~ 2 mg/kg の範囲で用量依存性のMIの上昇を認めた。

(2) 高カロリー食誘発性胃排出遅延に対するモサプリドの胃排出促進効果:高カロリー食給与による胃排出遅延モデルを用い、モサプリドおよび既存の消化管運動改善薬であるメトクロプラミドの固形食胃排出促進効果を、13C法により検討した。その結果、有意な胃排出促進効果はモサプリド経口投与時 (1 mg/kg) においてのみ認められた。

(3) モサプリド反復経口投与における安全性評価:モサプリド反復経口投与 (2mg/kg, 1日2回, 1週間) における安全性を、臨床症状、身体検査、血液検査に基づいて評価した結果、いずれの個体においても異常を認めなかった。

以上の結果から、モサプリドは用量依存性に胃前庭部運動を促進し、さらに固形食胃排出促進効果を有することが示された。またその胃排出促進作用は、メトクロプラミドよりも強いことが示唆された。本研究により、犬におけるモサプリドの有効用量は0.75 ~ 2 mg/kg であることが示された。

第3章:薬剤誘発性消化器毒性への胃運動障害の関与およびモサプリドの臨床的有用性の検討

本章では薬剤投与に起因する胃運動障害に着目し、以下の検討を行った。

(1) ビンクリスチン誘発性胃前庭部運動障害の検討およびモサプリドの併用効果:ビンクリスチンは獣医療において広く用いられる化学療法剤であるが、消化器毒性の発生が臨床上問題となる。人医療では本薬剤の消化器毒性の病態に消化管運動障害が関与するとされている。一方、犬ではビンクリスチン誘発性消化器毒性の病態は明らかでなく、また人医療を含め消化管運動改善薬による消化器毒性予防効果に関する報告はない。本研究では、犬においてビンクリスチンの胃運動への影響を評価し、さらにモサプリドの併用効果を検討した。

健常犬5頭を用い、ビンクリスチン単独投与時およびモサプリド併用時における胃運動の推移を超音波法にて評価し、さらに消化器症状発現頻度を比較した。ビンクリスチン単独投与時においては、MIは徐々に低下して3日目に最低値に達し、 その後6日目には正常レベルまで回復した。消化器症状の発現はMIが低値を示した3, 4日目において多く認めた。これに対し、モサプリド併用時には、試験期間中有意なMIの低下は認められず、さらに消化器症状発現頻度の低下を認めた。以上の結果から、ビンクリスチンは可逆性の胃運動障害を引き起こし、遅延性消化器毒性への関与が示唆された。モサプリドの併用はビンクリスチン誘発性消化器毒性の軽減に有効であるものと考えられた。

(2) プレドニゾロン誘発性消化器毒性の病態評価およびモサプリドの併用効果:近年モサプリドは消化管運動促進作用のみならず、胃潰瘍予防効果を有することがラットにおいて報告されている。その作用機序には、α7ニコチン性アセチルコリン(α7nACh) 受容体を介した抗炎症効果が関与することが示されている。本研究では、獣医療における代表的なコルチコステロイド薬であるプレドニゾロンの消化器毒性発現病態を検討し、それに対するモサプリドの併用効果を検討した。健常犬を用い、プレドニゾロン (2 mg/kg, 1日2回, 3日間) 単独投与時およびモサプリド併用時における胃粘膜障害スコアを内視鏡を用いて評価するとともに、胃排出能を13C法にて測定し、さらに消化器症状の発現頻度を比較した。

プレドニゾロン単独投与時の内視鏡特徴所見は、多発性の糜爛および潰瘍形成であった。潰瘍病変病理組織像では好中球とマクロファージの浸潤を認め、さらに病変部におけるα7nACh受容体mRNAの発現を認めた。モサプリド併用時における胃粘膜障害スコアは、プレドニゾロン単独投与時と比較し、有意に低かった。また、プレドニゾロン単独投与時に有意な胃排出遅延を認めたのに対し、モサプリド併用時では胃排出遅延を認めなかった。さらに、消化器症状発現頻度はモサプリド併用時において有意に低下した。

以上の結果から、プレドニゾロンの消化器毒性発現には胃粘膜障害および胃排出障害が関与することが示唆された。モサプリドは胃排出促進作用のみならず胃潰瘍予防効果を有し、消化器症状の緩和に有効であると考えられた。潰瘍予防効果の機序については直接的には示せなかったものの、α7nACh受容体を介した抗炎症作用の関与が示唆された。

本章では、ビンクリスチンおよびプレドニゾロンの消化器毒性に胃運動障害が関与することを明らかにし、さらに獣医療におけるモサプリドの臨床的有用性を示唆した。本章で得られた知見は、副作用軽減という観点からモサプリドの人医療における新たな適応を提示するものであると考えられる。

第4章:モサプリドの炎症性サイトカイン抑制効果

モサプリドの抗炎症作用機序は、5-HT4受容体刺激により放出されたアセチルコリンが炎症細胞のα7nACh受容体に結合し、サイトカイン産生を抑制することによるものとされている。一方、5-HT4受容体が直接サイトカイン産生を制御することがヒト単球を用いた報告で示唆されている。

本章では、炎症性サイトカイン発現に対するモサプリドの直接的な効果について、犬初代培養マクロファージを用いて検討した。まず、初代培養マクロファージにおける5-HT4受容体mRNAの発現を確認した。次に、モサプリド添加によるTNF-α, IL-1β, IL-6 mRNA発現量の変化をリアルタイムPCRにより定量したところ、いずれのサイトカインに関してもその発現が用量依存性に抑制されることが示された。しかし、この発現抑制効果は5-HT4受容体アンタゴニストによって拮抗されなかった。以上より、モサプリドは5-HT4受容体を介さずに炎症性サイトカインの発現を抑制することが示された。その臨床的意義ならびにマクロファージに発現を認めた5-HT4受容体の機能についてはさらなる検討が必要と考えられる。

以上のように、本論文では犬における胃運動障害の評価ならびにモサプリドの作用に関して、一連の研究を行った。本研究から得られた知見は、獣医療における胃運動障害に対する有効な評価法ならびに治療法を提供するとともに、人医療におけるモサプリドの新規臨床応用を提示するものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文における一連の研究は、犬における胃運動障害の病態への関連性を明らかにするとともに、モサプリドの臨床的有用性を提示することを目的とするものである。

第1章:超音波診断装置による犬の胃運動測定系の確立

犬における臨床的に応用可能な胃運動測定系を確立した。健常犬において超音波診断装置を用い、胃運動の指標であるMotility Index を計測した。Motility Indexの最適な計測点を評価した上で、従来の胃運動検査である13Cオクタンサン呼気試験との相関を確認した。さらにアトロピン誘発性胃運動低下モデルを用いた胃運動変化検出精度の検討では、全個体においてアトロピン誘発胃運動低下が検出された。本章における研究は、超音波診断装置による新規胃運動測定系の妥当性を示すものであり、獣医臨床現場における胃運動障害評価ツールとしての応用が期待される。

第2章:健常犬におけるモサプリドの胃運動促進効果

本章では、犬におけるモサプリドの胃運動促進用量を評価検討した。モサプリド単回投与による胃前庭部運動促進効果を検討した結果、0.75 ~ 2 mg/kg の範囲において用量依存性の胃前庭部運動促進作用を認めた。高栄養食負荷胃排出遅延モデルを用いた胃排出改善効果の検討では、モサプリドが有意な固形食胃排出促進効果を有することが明らかとなった。本章における検討から、犬におけるモサプリドの有効用量が明らかとなった。

第3章:薬剤誘発性消化器毒性への胃運動障害の関与およびモサプリドの臨床的有用性の検討

本章では、消化器系副作用が臨床上問題となるビンクリスチンおよびプレドニゾロンの消化器毒性の病態を検討し、さらにモサプリドの臨床的有用性を検討した。

ビンクリスチンの消化器毒性に対する胃運動障害の関与を検討し、それに対するモサプリドの併用効果を検討した。その結果、ビンクリスチン投与により可逆性の胃前庭部運動障害が引き起こされることが明らかとなった。モサプリド併用時には胃運動低下は認められず、さらに消化器系副作用の発現頻度は顕著に減少した。本研究より、ビンクリスチンの消化器毒性に対する胃運動障害の関与が示された。モサプリドの併用は、ビンクリスチンの消化器毒性の管理において有用であると考えられた。

近年モサプリドは、胃潰瘍予防効果を有することがラットにおいて報告されており、抗潰瘍薬としての臨床応用が期待されている。本研究では、プレドニゾロンの消化器毒性の病態を評価し、さらにモサプリドの併用効果を検討した。プレドニゾロンは多発性糜爛などの顕著な胃粘膜障害を引き起こすと同時に、胃排出障害を引き起こすことが明らかとなった。モサプリド併用時には有意な胃粘膜障害の軽減ならびに胃排出時間の短縮を認め、さらに消化器系副作用の発現頻度の低下を認めた。本研究から、プレドニゾロンの消化器毒性に、胃粘膜障害および胃排出障害が関与することが明らかとなった。モサプリドは胃排出促進作用のみならず胃潰瘍予防効果を有し、消化器症状の緩和に有効であると考えられた。

第4章:モサプリドの炎症性サイトカイン抑制効果

炎症性サイトカイン発現に対するモサプリドの直接的な効果について、犬初代培養マクロファージを用いて検討した結果、モサプリド添加により、TNF-αをはじめとする炎症性サイトカインの発現が抑制されることが明らかとなった。しかしこの発現抑制効果は5-HT4受容体アンタゴニストによって拮抗されなかった。本章における検討より、作用機序は明らかでないものの、モサプリドが直接的に炎症性サイトカイン発現を抑制することが示された。

本論文では、犬における胃運動障害の病態を明らかにするとともに、モサプリドの臨床的有用性を示した。第一章で樹立した胃運動測定系は、獣医臨床現場における胃運動障害評価ツールとして有用であり、さらに今後の消化管運動研究の進展に寄与するものと考えられる。第2章以下では、これまで獣医療で明らかにされていなかった胃運動障害の病態を検討すると同時に、モサプリドの臨床的有用性を検討した。その結果、モサプリドは上部消化管に対して一定の運動機能改善効果を示すこと、作用機序は不明ながら抗潰瘍、抗炎症作用を有することを明らかとした。本論文の研究から得られた知見は、胃運動障害に対する有効な評価法および治療法を提供し、獣医療における上部消化器症状の管理の向上に寄与するものである。さらにモサプリドの胃潰瘍予防効果、抗炎症効果について、今後の新たな展開を期待できる基盤を構築するものであり、獣医療のみならず、人医療におけるモサプリドの新規臨床応用を提示するものであると考えられる。

本申請論文を審査した結果、審査委員一同博士 (獣医学)の学位を授与するに値すると判断した。

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