学位論文要旨



No 128145
著者(漢字) 磯谷,一暢
著者(英字)
著者(カナ) イソガヤ,カズノブ
標題(和) 肺腺癌細胞におけるTGF-βシグナルの制御機構の解析
標題(洋)
報告番号 128145
報告番号 甲28145
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3804号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村上,善則
 東京大学 特任教授 間野,博行
 東京大学 教授 古川,洋一
 東京大学 講師 新井,郷子
 東京大学 講師 幸山,正
内容要旨 要旨を表示する

Transforming growth factor-β (TGF-β)は発生・分化から各種線維化疾患・癌細胞の浸潤・転移などにおいて多彩な作用を発揮するサイトカインである。その制御機構は多段階にわたり、これまでの解析から、多くの細胞に共通のもののほか、組織・細胞種特異的になされていることも明らかになっている。一方Thyroid transcription factor-1 (TTF1)は甲状腺や肺の発生と恒常性維持に重要な役割が知られる転写因子である。TTF1はまた肺癌との関係が知られており、その発現のない肺腺癌は予後不良として知られる。またTTF1の発現消失と癌の進行も実験的に報告されてきた。このTTF1はTGF-βによって、それ自身の発現抑制やTGF-βシグナルの下流因子Smad3による標的遺伝子の転写調節領域への結合阻害など、抑制的な制御を受けることが明らかとなっている。一方所属研究室では近年、TTF1が肺癌細胞のMesenchymal-to-epithelial transition (MET)を起こす機能を有すること、それがTGF-βによる肺癌細胞のEMTを抑制することを報告している。このようにTGF-βとTTF1は相互機能抑制を行っていることが示唆されるが、そのメカニズムについては十分に明らかにされていない。そこで本研究では肺癌細胞におけるTGF-βシグナルの制御因子としてのTTF1の作用メカニズムを明らかにすることを目的として解析を行った。

TGF-βの主たる細胞内シグナル伝達経路であるSmad経路は細胞膜状の受容体によるリン酸化からSmadファミリー間の複合体形成と核内移行、そして標的遺伝子プロモーター上での転写活性のそれぞれの段階で、様々な機能制御因子によって脱リン酸化・ユビキチン化と分解などを通して調節を受けている。本検討ではまず、TTF1の発現のないA549細胞でのTTF1の過剰発現の検討により、TTF1は核内にあって、Smad3のリン酸化と核内移行には影響を与えずにSmad3/4複合体形成を阻害することが明らかとなった。一分子レベルでの結合を検出できるin situ PLA法を活用して、TTF1によるこのSmad3/4複合体乖離作用が、細胞質ではなく、核内のみで行われていること、さらに乖離したSmad3はそのまま核内にとどまる傾向にあることが明らかとなった。この状態においてTTF1は核内に局在して、免疫沈降法では検出できないような比較的弱い結合でSmad3と共に局在し、且つそれはTGF-β非依存的であった。

TTF1によるSmad3の核内での機能調節機構が考えられたことから、次にSmad3の標的遺伝子プロモーターへの結合へのTTF1の影響をクロマチン免疫沈降法(ChIP)によって検討した。Smad3のChIPに適した抗体を同定し、そのSmad2,3,4ファミリー内での特異性を検定した上で、代表的なTGF-β応答性の遺伝子であるPAI-1とSmad7のプロモーター領域における既知のSmad3結合部位における検討を行った。その結果Smad3のPAI-1プロモーターへの結合がTTF1の過剰発現によって抑制されたことから、TTF1がSmad3の標的遺伝子座へのTGF-βによる結合増強を阻害していることが示唆された。TGF-βによるPAI-1遺伝子発現誘導へのTTF1の抑制効果は所属研究室で明らかにされており、本研究でもPAI-1のプロモーターを用いたルシフェラーゼ活性がTTF1の過剰発現で抑制された。興味深いことに、Smad binding elementのみからなるレポーターでは、このTTF1による転写抑制効果は認められなかったことから、TTF1の作用には、標的遺伝子の転写調節領域上の他のシスエレメントが重要であることが示唆された。

TGF-βの標的遺伝子の転写調節領域には多様なシスエレメントが存在することが考えられる。そこでSmad3のゲノム上の結合部位をChIP-sequencing (ChIP-seq)法により網羅的に同定するとともに、その結合に対するTTF1の役割を解析することとした。内在性のTTF1を発現する肺腺癌細胞H441を用い、TTF1をsiRNAによりノックダウンしSmad3のChIP-seqを行ってcontrol siRNAにおけるデータと比較を行った。さらにTTF1についても合わせてその結合部位の網羅的同定を行いSmad3の結合部位との比較検討を行った。用いたTTF1抗体は既知の標的遺伝子サーファクタント蛋白B (SpB)のプロモーターでのChIPで良好な結果を得られた。Smad3およびTTF1の有意な結合部位を算出した結果、TTF1の ChIP-seqではFDR 0.1 %で31,083箇所同定された。 一方Smad3結合部位はTGF-β刺激後1.5時間ではcontrol siRNAサンプルではFDR 0.1 %で8,941箇所同定されたのに対して、TTF1のsiRNAでは同じ同定条件で14,145箇所と増加した。この傾向はTGF-β刺激後24時間でも同様でcontrol siRNAの4,530箇所に対して、TTF1 siRNAの11,906箇所であった。このピーク数の変化を踏まえて、TTF1 siRNAのSmad3の結合部位とcontrol siRNAでの結合部位との重複をTGF-β刺激後1.5時間と24時間のそれぞれについて計算した結果、1.5時間ではcontrol siRNA条件、すなわちTTF1が発現している状態でのSmad3結合部位8,941か所のうち80.5 %はTTF1ノックダウンによっても引き続き有意な結合が認められた。一方TTF1 siRNAによって新たに出現したSmad3結合部位は、6,944か所にのぼった。次にTTF1結合部位とTGF-β刺激後1.5時間のSmad3結合部位の重複について同様の解析を行った。Control siRNA群ではSmad3結合部位8,941か所のうち7,839か所がTTF1結合部位と重複した。それに対して、TTF1 siRNA群ではSmad3結合部位は前述のように14,145か所に増加するものの、重複部位は1,009か所の増加にとどまり、一方でTTF1と結合部位の重複しない、5,297か所の新たな結合部位が認められた。以上のことからTTF1 siRNAによって新たに他のゲノム領域にSmad3結合部位が出現することが示唆された。このことはそれぞれのピークにおけるSmad3結合程度の変化をChIP-seqでマップされたリード数で定量的に比較した結果でも同様であった。そして発現マイクロアレイによる解析から、こうしたSmad3の結合強度の変化が標的遺伝子発現と関係することが示唆された。以上のことから、TTF1のSmad3への作用は、これまで提唱されていた、クロマチン上の結合部位をめぐる競合ではなく、Smad複合体の乖離を介した機序を含む、その他の要因によるものであると考えられた。

本研究では初めてTTF1結合部位をChIP-seqによって網羅的に同定したことから、CisGenomeによるモチーフ解析によってこれらTTF1結合部位に濃縮するモチーフを算出した。同定したTTF1モチーフはランダムなコントロールゲノム配列データセットと比較して、ChIP-seqでのTTF1結合部位に4.3倍濃縮して存在し、そのTTF1結合部位における頻度は34.2 %であった。またTGF-β刺激により、TTF1の結合は一様に抑制を受ける傾向が認められ、Smad3の結合が部位選択的にTTF1によって制御を受けることとは対照的な結果であった。

ChIP-seqによる解析から、PAI-1領域には複数のSmad3結合ピークが認められた。その多くはTTF1の結合ピークと重複せず、TTF1発現下ではピークが大きく減弱した。一方で転写開始点から10k bps下流のPAI-1遺伝子のコーディング領域に、TTF1の結合ピークがあり、かつTTF1の存在下でもSmad3の結合ピークが大きく変わらない領域が存在した。TTF1がSmad3のDNA結合部位の分布に影響を与えるとともに、Smad3/4複合体を核内で乖離することが観察されたことから、この部位において、Smad4のDNAへの結合を確かめるために、ChIPを行った。その結果、TTF1発現下においても、Smad3は転写開始点の下流10kbpsの領域に結合しているが、そこではSmad4と複合体を形成せず、単独で結合していることが考えられた。またSmad4はTTF1存在下には、検討を行ったPAI-1の転写調節領域には結合しないことが示唆された。

Smad3がTTF1と同時にクロマチン上に存在することがChIP-seqによって示されたことから、最後にTTF1のDNA結合がSmad複合体の乖離に必要かどうかを検討するため、TTF1のホメオドメインのうちDNAへの結合に重要であるとされるアルギニン残基を変異させたTTF1遺伝子を作成した。このTTF1のR214C変異体はSmad3/4結合を阻害しないことが分かった。このR214CはA549細胞におけるSpB遺伝子の転写活性能を上昇させることができなかったことから、Smad3/4複合体の乖離にTTF1のDNA結合能が重要である可能性が示唆された。

以上のことから、肺癌細胞においてTTF1が標的遺伝子上でSmad3/4複合体の乖離を促すとともにSmad3/4の結合部位に影響を与え、TGF-βによる転写調節に影響を与えているという、シグナルの制御機構が示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、肺癌の進展に重要な役割を果たすTGF-βシグナルの制御因子としてのTTF1の作用メカニズムを明らかにすることを目的として、肺腺癌細胞株を用いた系において、TTF1がどのようにTGF-bシグナルを抑制するのか、生化学的手法とChIP-seq法を用いた網羅的な解析を試みたものである。この解析により以下のことが明らかになった。

(1)TTF1の発現のないA549細胞でのTTF1の過剰発現の検討により、TTF1は核内にあって、Smad3のリン酸化と核内移行には影響を与えずにSmad3/4複合体形成を阻害することが明らかとなった。一分子レベルでの結合を検出できるin situ PLA法を活用して、TTF1によるこのSmad3/4複合体乖離作用が、細胞質ではなく、核内のみで行われていること、さらに乖離したSmad3はそのまま核内にとどまる傾向にあることが明らかとなった。この阻害のメカニズムは、今まで報告されたことのない新しいものである。

(2)Smad3の標的遺伝子プロモーターへの結合へのTTF1の影響をクロマチン免疫沈降法(ChIP)によって検討した。TGF-β応答性の遺伝子であるPAI-1とSmad7のプロモーター領域における既知のSmad3結合部位における検討を行った結果Smad3のPAI-1プロモーターへの結合がTTF1の過剰発現によって抑制されたことから、TTF1がSmad3の標的遺伝子座へのTGF-βによる結合増強を阻害していることが示唆された。またPAI-1のプロモーターを用いたルシフェラーゼ活性がTTF1の過剰発現で抑制された。興味深いことに、Smad binding elementのみからなるレポーターでは、このTTF1による転写抑制効果は認められなかったことから、TTF1の作用には、標的遺伝子の転写調節領域上の他のシスエレメントが重要であることが示唆された。

(3)Smad3のゲノム上の結合部位をChIP-sequencing (ChIP-seq)法により網羅的に同定するとともに、その結合に対するTTF1の役割を解析することとした。H441を用い、TTF1をsiRNAによりノックダウンしSmad3のChIP-seqを行ってcontrol siRNAにおけるデータと比較を行った。さらにTTF1についても合わせてその結合部位の網羅的同定を行いSmad3の結合部位との比較検討を行った。Smad3結合部位はTGF-β刺激後1.5時間ではcontrol siRNAサンプルではFDR 0.1 %で8,941箇所同定されたのに対して、TTF1のsiRNAでは同じ同定条件で14,145箇所と増加した。一方、Control siRNA群ではSmad3結合部位8,941か所のうち7,839か所がTTF1結合部位と重複したが、TTF1 siRNA群ではSmad3結合部位は前述のように14,145か所に増加するものの、重複部位は1,009か所の増加にとどまり、一方でTTF1と結合部位の重複しない、5,297か所の新たな結合部位が認められた。以上のことからTTF1 siRNAによって新たに他のゲノム領域にSmad3結合部位が出現することが示唆された。このことはそれぞれのピークにおけるSmad3結合程度の変化をChIP-seqでマップされたリード数で定量的に比較した結果でも同様であった。そして発現マイクロアレイによる解析から、こうしたSmad3の結合強度の変化が標的遺伝子発現と関係することが示唆された。以上のことから、TTF1のSmad3への作用は、これまで提唱されていた、クロマチン上の結合部位をめぐる競合ではなく、Smad複合体の乖離を介した機序を含む、その他の要因によるものであると考えられた。

(4) ChIP-seqによる解析から、PAI-1領域には複数のSmad3結合ピークが認められた。その多くはTTF1の結合ピークと重複せず、TTF1発現下ではピークが大きく減弱した。一方で転写開始点から10k bps下流のPAI-1遺伝子のコーディング領域に、TTF1の結合ピークがあり、かつTTF1の存在下でもSmad3の結合ピークが大きく変わらない領域が存在した。TTF1がSmad3のDNA結合部位の分布に影響を与えるとともに、Smad3/4複合体を核内で乖離することが観察されたことから、この部位において、Smad4のDNAへの結合を確かめるために、ChIPを行った。その結果、TTF1発現下においても、Smad3は転写開始点の下流10kbpsの領域に結合しているが、そこではSmad4と複合体を形成せず、単独で結合していることが考えられた。またSmad4はTTF1存在下には、検討を行ったPAI-1の転写調節領域には結合しないことが示唆された。

以上、本論文では、肺癌細胞においてTTF1が標的遺伝子上でSmad3/4複合体の乖離を促すとともにSmad3/4の結合部位に影響を与え、TGF-βによる転写調節に影響を与えているという、いままでに報告されていない新たなシグナルの制御機構の存在を示唆した。これは今後の転写因子研究に重要な貢献をなすものと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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