学位論文要旨



No 128156
著者(漢字) 堀口,華奈
著者(英字)
著者(カナ) ホリグチ,カナ
標題(和) TGF-βによるEMT誘導の分子機構の解析
標題(洋)
報告番号 128156
報告番号 甲28156
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3815号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 特任教授 間野,博行
 東京大学 教授 齊藤,泉
 東京大学 特任准教授 後藤,典子
 東京大学 教授 岡部,繁男
 東京大学 講師 多田,敬一郎
内容要旨 要旨を表示する

EMT (Epithelial-Mesenchymal Transition, 上皮-間葉転換)とは、上皮細胞が間葉系細胞様に形態的及び機能的に変化する現象のことであり、個体発生における原腸陥入や創傷治癒、線繊症、癌の浸潤や転移などの過程で観察される。EMTを獲得した細胞では、E-cadherinなどの上皮系マーカーから間葉系マーカーへの変換が行われ、細胞極性が喪失する。また、アクチンストレスファイバーの再構築やマトリックス分解酵素の分泌が促進され、運動能や浸潤能が亢進する。EMTを誘導する代表的なサイトカインとしてTGF-β (transforming growth factor-β) が知られる。TGF-βのノックアウトマウスでは口蓋裂や心臓房室クッションの形成不全などEMT誘導が必須な発生過程での異常が認められる。また、癌細胞自身や炎症性細胞により分泌されるTGF-βは癌細胞のEMTを誘導し、浸潤や転移を促進することが示されている。

当研究室の先行研究により、TGF-βによりEMTを誘導した細胞ではFGF-2 (fibroblastic growth factor-2) に対する応答性が上昇することが示された。FGF-2は創傷部位や多くの癌組織で発現が上昇することが報告されている増殖因子である。FGF-2をTGF-βと共に添加して共刺激を行うと、TGF-β単独刺激時と比較してより顕著な線維芽細胞様の細胞骨格の変化と細胞運動能や浸潤能の亢進がもたらされる。FGF受容体 (FGFR) は1~4の4種類が同定されており、FGFR1~3は組織特異的な選択的スプライシングによりリガンド特異性の異なるIIIb型 (FGFRIIIb) とIIIc型 (FGFRIIIc) の2つのアイソフォームを産生する。FGFRIIIbは上皮系の細胞で発現が高く、FGFRIIIcは間葉系の細胞で主に発現する。FGF-2はFGFRIIIcに対するリガンドである。原腸陥入時の間充織細胞ではFGFR1の発現が高く、中胚葉形成や原腸陥入での細胞運動などの発生初期の形態形成に重要な役割を果たすことが知られている。FGFR1をノックアウトしたマウスではEMTの誘導が必須である原腸陥入の過程に障害が起こり、原腸胚形成期に胎生致死となる。興味深いことに、FGFR1IIIcの特異的ノックアウトマウスはFGFR1ノックアウトマウスと同一の表現型を示すが、FGFR1IIIbの特異的ノックアウトマウスでは表現型の異常は認められない。発生や癌悪性化で認められるEMTの誘導は、様々なシグナルが時空間的にクロストークすることで生じるとされており、TGF-βによる細胞の外的刺激に対する応答性の変化は細胞のEMT獲得に重要な役割を果たしていることが考えられる。そこで本研究では、TGF-βとFGFシグナルの関連性を調べるため、TGF-βによる FGFRの発現制御機構について解析を行った。

まず、マウス乳腺上皮細胞であるNMuMG細胞やEpRas細胞においてTGF-β誘導性EMTに伴うFGFRの発現変化を解析したところ、無刺激の細胞ではFGFRIIIbの発現が高いのに対し、TGF-β刺激によりEMTを誘導した細胞ではFGFRIIIbの発現は抑制され、FGFRIIIcの発現が上昇した。そこでFGFRの選択的スプライシングを制御する因子の発現を解析したところ、TGF-βはRNA結合タンパク質であるESRP (epithelial splicing regulatory protein) の発現を抑制することが明らかとなった。ESRPはFGFRのエキソンIIIbとIIIc間のイントロン上のcisエレメントに結合し、エキソンIIIbを含むスプライシングを促進し、エキソンIIIcを含むスプライシングを抑制する。ESRPをノックダウンした細胞ではTGF-β刺激と同様にFGFRIIIbの発現が抑制され、FGFRIIIcの発現が亢進した。一方、ESRPを過剰発現させた細胞にTGF-β刺激するとFGFRIIIbの発現が維持され、FGFRIIIcの発現は検出されなかった。これらの結果から、TGF-βはESRPの発現抑制を介してFGFRの選択的スプライシングをIIIb型からIIIc型へと変化させることが明らかとなった。

次に、TGF-βによるESRPの発現変動を調べたところESRPの発現はTGF-β刺激後徐々に減少し、この経時変化はE-cadherinのそれと一致していた。NMuMG細胞においてTGF-βによるE-cadherinの発現低下はδEF1ファミリータンパク質に属するδEF1とSIP1により制御されることが報告されている。また、ESRPのプロモーター上にはδEF1ファミリータンパク質が結合するE-box配列が存在したことから、TGF-βの下流でESRPの転写を制御する因子としてδEF1とSIP1に着目した。δEF1とSIP1を過剰発現するとESRPのプロモーター活性の低下や転写抑制が認められた。さらに、siRNAを用いてこれらの転写因子をノックダウンするとTGF-βによるESRPの転写抑制やそれに伴うFGFRの選択的スプライシングの変化が抑制された。これらの結果から、TGF-βはδEF1ファミリーの発現誘導を介してESRPの発現を抑制することが明らかとなった。

ヒト乳癌細胞パネルを用いてδEF1、SIP1、ESRPの発現を比較したところ、δEF1やSIP1の発現が低い細胞ではESRPの発現が高く、δEF1やSIP1の発現が高い細胞ではESRPの発現が低いことが明らかとなった。また、これらの乳癌細胞株の分子病型分類とδEF1、SIP1、ESRPの発現を比較すると、δEF1とSIP1の発現が低くESRPの発現が高い乳癌細胞株は予後が比較的良好とされるLuminal typeに主に分類され、δEF1とSIP1の発現が高くESRPの発現が低い乳癌細胞株は予後不良なBasal typeに分類された。このことから、δEF1ファミリータンパク質の発現上昇やESRPの発現低下は乳癌の悪性化や予後不良と相関することが示唆された。さらに、ESRPの発現が低い乳癌細胞株であるMDA-MB-231細胞とBT549細胞でδEF1とSIP1をノックダウンすると、ESRPの発現上昇が認められた。このことから、ヒト乳癌細胞株においてもδEF1とSIP1がESRPの発現を抑制することが明らかとなった。

MDA-MB-231細胞にESRPを過剰発現させると、FGFRIIIcの発現がFGFRIIIbへと変化した。また、細胞形態が紡錘形から敷石状へと変化し、E-cadherinのタンパク量が上昇した。しかしその一方で、間葉系マーカーであるN-cadherinやfibronectinの発現やアクチンストレスファイバーの形成には影響を与えず、ESRPは特定のEMTマーカーのみに特異的に作用していることが明らかとなった。同様に、ESRPを過剰発現させたNMuMG細胞ではTGF-βによる敷石状から紡錘形への細胞形態の変化とE-cadherinの発現減少が抑制されたが、間葉系マーカーの発現やストレスファイバーの形成には影響が無かった。興味深いことに、E-cadherin mRNA量を測定したところ、ESRPを過剰発現した細胞におけるTGF-βによるE-cadherinの転写抑制はコントロールの細胞と同程度に認められた。このことから、ESRPはE-cadherinの転写量に影響を与えることなく、E-cadherinのタンパク量を増加させることが考えられる。これまでδEF1ファミリータンパク質は転写抑制を介してE-cadherinの発現を減少させることが知られていたが、直接の転写調節以外の過程に影響を与えることでもE-cadherinの発現量を減少させることが示唆された。本研究の中で、TGF-βはFGFR以外にもCD44やMena、p120-cateninなどの遺伝子の選択的スプライシングを上皮型から間葉系型へと変化させることが明らかとなった。これらの遺伝子のスプライシングの変化はEMTや細胞運動能の調節に関わることが報告されており、こうした過程にもESRPの発現抑制が関与している可能性がある。ESRPの過剰発現によるE-cadherinの発現上昇には、こうした様々な遺伝子の選択的スプライシングの変化による遺伝子の機能変化が関与している可能性が考えられる。

最後に、乳癌患者の遺伝子発現公開データを用いた解析から、肺転移を有する症例では肺転移を持たない症例と比較してESRPの発現が低い傾向が認められ、ESRPの発現が低い患者群では高い患者群と比較して無肺転移生存率が低い傾向が認められた。このことから、ESRPの発現低下が乳癌患者の予後不良マーカーとなりうることが示唆された。

以上のことから、δEF1ファミリータンパク質はESRPの発現を抑制することでFGFRをはじめとする遺伝子の選択的スプライシングを変化させ、細胞のEMT形質の獲得に関与することが示唆された。δEF1ファミリータンパク質を高発現する癌細胞は低分化型で浸潤性の高い表現型を有し、またESRP の発現低下は乳癌患者の予後不良マーカーとなりうることが示唆された。このことから、遺伝子の選択的スプライシングの変化が癌の悪性化に重要な役割を果たしている可能性が考えられる。そのため、EMTに伴い選択的スプライシングが変化する遺伝子の同定やその制御機構の解明は、EMTを標的とした診断や治療法の確立につながる重要な知見になると考えている。

審査要旨 要旨を表示する

本研究はEMT (上皮-間葉転換)の過程で起こる細胞の特異的なFGFシグナル応答性獲得機構を明らかにするため、TGF-β刺激によりEMTを誘導したマウス乳腺上皮細胞 (NMuMG細胞) やヒト乳癌細胞株を用いてFGFRの選択的スプライシング制御機構の解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1. TGF-βによりEMTを獲得したNMuMG細胞では、組織特異的な選択的スプライシングが上皮型から間葉系型へと変化することが示された。また、TGF-βによりEMTが誘導される他の細胞株であるEpRas細胞 (マウス乳腺上皮Eph4細胞にRasG12Vを導入した細胞)においても、TGF-β刺激によりFGFRの選択的スプライシングが上皮型から間葉系型へと変化した。

2. FGFRの組織特異的な選択的スプライシングを制御するRNA結合因子において、TGF-βにより発現が変化する因子を探索したところ、FGFRのcis エレメントに結合して上皮型の選択的スプライシングを促進するESRP (Epithelial Splicing Regulatory Protein)と呼ばれるRNA結合因子の発現がTGF-βにより減少することが明らかとなった。ESRPをノックダウンしたNMuMG細胞ではFGFRの選択的スプライシングが上皮型から間葉系型へと変化し、一方でESRPを過剰発現させたNMuMG細胞ではTGF-βによるFGFRの選択的スプライシングの変化が抑制された。このことから、TGF-βはESRPの発現を抑制することによりFGFRの選択的スプライシングを上皮型から間葉系型へと変化させることが示された。

3. タンパク合成阻害剤であるシクロヘキシミド処理を行ったNMuMG細胞では、TGF-βによるESRPの発現抑制が阻害され、TGF-βは新規タンパク質の合成を介してESRPの発現を抑制することが示された。ESRPのプロモーター解析から、δEF1とSIP1がESRPのプロモーター上に結合することが示された。δEF1とSIP1を過剰発現させたNMuMG細胞ではESRPの発現が減少し、δEF1とSIP1をノックダウンしたNMuMG細胞ではTGF-βによるESRPの発現抑制の阻害とFGFRのスプライシングの変化が抑制され、TGF-βはδEF1とSIP1の発現誘導を介してESRPの発現を抑制することが示された。

4. ヒト乳癌細胞パネルを用いてESRP及びδEF1/SIP1の発現を解析したところ、それらの発現は負に相関した。ESRPの発現が低く、δEF1とSIP1の発現が高い乳癌細胞株は未分化で、浸潤性の高い表現型を有するBasal typeの乳癌細胞に分類された。これらの細胞株でδEF1とSIP1をノックダウンするとESRPの発現が上昇し、ヒト乳癌細胞株においてもδEF1とSIP1によりESRPの発現が抑制されていることが示された。

5. ESRPの発現が低いBasal typeの乳癌細胞株にESRPを過剰発現させたところ、細胞形態が紡錘形から敷石状へと変化し、E-cadherinの発現量が上昇した。この時、間葉系マーカーの発現やアクチンストレスファイバーの形成には影響は認められなかった。NMuMG細胞においても、ESRPを過剰発現させることによりTGF-βによる細胞形態の変化とE-cadherinの発現低下が抑制された。一方で、間葉系マーカーやアクチンストレスファイバーの形成には影響は認められず、ESRPはE-cadherinの発現量を亢進させることでEMTの抑制に機能することが示された。

6. 公開データベースを用いて乳癌患者におけるESRPの発現と転移や予後との関連を解析したところ、肺転移が認められた症例では認められなかった症例と比較してESRPの発現が低く、またESRPの発現が低い患者群では発現量が高い患者群と比較して無肺転移生存率が低い傾向が認められた。

以上、本論文ではマウス乳腺上皮細胞NMuMG細胞やヒト乳癌細胞を用いて、two-handed zinc-finger型転写因子であるδEF1とSIP1によるESRPの発現抑制が、EMTに伴う間葉系型のFGFRへの選択的スプライシングの変化や細胞のEMT形質の獲得に重要な役割を果たすことを明らかにした。本研究は、EMTの過程で起こる細胞の劇的な形質変化が遺伝子産物の「発現変化」だけでなく、選択的スプライシングによるタンパク質の「質の変化」にも起因することを示したものであり、EMTを標的とした新規治療戦略の開発に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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