学位論文要旨



No 128180
著者(漢字) 雨宮,薫
著者(英字)
著者(カナ) アメミヤ,カオル
標題(和) 聴覚誘発脳磁場による音楽構造認知の研究
標題(洋)
報告番号 128180
報告番号 甲28180
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3839号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 笠井,清登
 東京大学 准教授 坂井,克之
 東京大学 准教授 川合,謙介
 東京大学 講師 下澤,達雄
 東京大学 准教授 岩崎,真一
内容要旨 要旨を表示する

音楽は,高次認知機能の一つであり,言語同様,時間的な規則性に基づく情報処理能力である.ヒトは特別な音楽訓練を受けなくとも,構造的な規則に基づいた西洋音楽にさらされていることで,規則性に対する知識を身に着け音楽を享受することができる.この音楽的構造における理解や構造理解の能力の獲得は,言語における文法とも対比され,音楽における構造理解と,言語の文法理解とが共通する神経基盤が関連することが示唆されている.

一方で,言語における知識は成長とともに進む反面,音楽は特別な訓練により,音楽的知識の学習が進む.言語における文法理解が同年代内では個人間の差が少ない一方で,音楽においては学習の差が音楽構造への理解の差となる.つまり,音楽を題材に用いることで,生得的であると考えられている構造知識への学習における影響を,はじめて検討できるようになると言える.

しかし,言語における研究の進展や理解と比較すると,音楽における理解は未だ乏しく,特に音楽における時間的情報能力とその処理についての研究は,言語の研究数と比較すると非常に少ない.その理由の一つとして,音楽における構造の検討には,統制すべき要因が常に複雑多岐に存在することが挙げられる.実験刺激に用いる聴覚刺激の選定においては,実験のプロトコルからの制限だけではなく,ヒトの聴覚応答における順応や不応期,強度や周波数,刺激提示回数や時間,刺激間間隔,計測機器が発するノイズ音など,神経活動に影響するあらゆる側面を考慮,統制する必要がある.反面,統制しすぎると,音楽の要素が欠如してしまうという二律背反に板ばさみになるため,音楽実験は困難を要する.そのため,現在の音楽実験には,統制されていない刺激の諸要因が,諮らずとも結果に反映されてしまっている事例が存在する.

本研究では,こうしたヒトの聴覚応答に影響を与える諸要因を強く統制することを第一条件とし,音楽構造の認知に与える影響を探求したうえで,音楽構造認知に基づくメロディの予期とその逸脱がどういうものであるかを脳磁図(MEG)を用いて検討するものである.

通常,ヒトの音楽構造の神経認知科学的な検討には,メロディの逸脱刺激を用いた研究が主流である.メロディは通常ある調性(ハ長調,ヘ長調など)を持ち,メロディの終止には主音または主和音(ド,ドミソ)が用いられるため,終止音が非主(和)音に入れ替えられると,終始への期待が満たされず,終始感の減弱とともに違和感が生じる.この違和感を利用し,逸脱終止に対する反応を正常終止に対する反応と比較することで,構造に対する逸脱反応を,音楽の構造理解の表れとして検討している.このような逸脱刺激に対する反応は,音楽訓練を受けてきた音楽家だけでなく,音楽訓練を行っていない非音楽家にも生じることや,注意下においても生じること,生後まもなくあらわれることなどの報告により,音楽構造に対する能力がある程度生得的知識であるか,もしくは少ない音楽の暴露により獲得されるであろうことが示唆されてきた.一方で,音楽訓練により逸脱刺激への検知力が上昇し,呼応する神経活動の強度が増すことなども示されており,音楽構造の知識能力が訓練により修飾され変化することも同時に示されてきた.

しかし,音楽訓練により増強される能力は,音楽構造理解のみに限らず音楽の種々の構成要素に対する反応の増強があることが知られており,楽音を純粋に提示しただけでも音への反応が音楽訓練の有無で異なる.つまり,音楽の訓練の差が純粋な楽音の知覚に起因する可能性もある.また,音楽訓練の差を示す神経機序の変化(逸脱に対する反応)には,行動学的な変化(逸脱に対する気づきの鋭敏化)も付随しており,神経反応の差が気付きなどの行動学的反応の差を示しているだけの可能性がある.

実験刺激自体にも統制すべき諸要因が存在する.音楽構造の実験では実験刺激(逸脱終止和音)が統制刺激(正常終止和音)に対してオドボール(低頻度)になるよう提示し両者を比較するのが通常である.しかし,実験刺激と統制刺激は,物理的に異なる音を使用されることが多く,両条件の差は,異なる周波数が異なる聴覚領域で処理されるトノトピーの違いの差である可能性を含んでいる.また,刺激を条件間で異なる頻度で提示している状態では,オドボール(逸脱刺激)に対してそもそものミスマッチの反応が混在している可能性もがある.更に,逸脱音で終止するメロディは通常には耳にすることもないため,逸脱音への反応が音楽構造に対する潜在的な理解などに基づくものなのか,経験としての逸脱であるのかも判らない.

そこで本研究では,現段階で問題であると考えられる上記の諸要因を強く統制し,早い潜時における音楽知覚情報能力を群間・条件間で比較検討した.

本研究を構成するのは,実験1~4である.実験1において音楽訓練の差に焦点を当て,音楽構造の知覚において訓練が与える影響について検討し,実験2~3で,逸脱刺激と頻度の影響を検討したうえで,実験4では前実験結果との比較の上,メロディを聴取した際の終止音に対する期待と逸脱を分けるよう試みた.

実験1

現在までに示唆されてきている音楽構造知覚に対する音楽家の可塑性として,逸脱音に対する強い反応や早い処理が示唆されている.しかし,その神経可塑性には,音楽構造知覚時の行動学的変化(細かい差が検出できる,反応が早いなど)が伴っており,音楽家の強い反応が成績の差のみを反映している可能性がある.そこで,メロディ構造の認知時における音楽訓練の差が,行動学的な差の反映か,もしくは行動を支える別の神経基盤(神経基盤の可塑的変化)に根付くかどうかを検討した.

実験では,音楽家と非音楽家の間で行動上の反応の差をなくすように統制し,メロディの終始音に対して,終始感の有無を判定している差異の神経反応の差を両群で比較検討した.

結果,行動上の反応が両群で同じであるにもかかわらず,音楽家と非音楽家では現れる磁場反応が異なっていた.音楽家が終止音後100ms近辺で増大する陰性波(N1m)が非音楽家と比較して,メロディの終止が期待できるような条件においてのみ,より早くより強く増大する傾向がみられた一方で,非音楽家は同条件において,終止音後300ms~500ms近辺で見られる持続性の陰性波(Sustained field: SF)が音楽家と比較して増大する傾向がみられた.この結果から,たとえ行動学的な差異が見られない場合でも,異なる神経基盤の特徴を持っていることを示唆する.

実験2

通常,音楽構造に対する認知を検討する実験では,メロディに対して予期を満たす終止か,逸脱する非終止音を比較する.しかし,実験1では,音楽家・非音楽家ともにメロディへの終止の逸脱に対する特異な反応がみられなかった.完全終止に対する提示頻度が少なかったことが原因として考えられる.メロディに対する終始感に対して,刺激の頻度が関連している可能性が考えられる.

そこで実験2では,メロディからの逸脱音が逸脱刺激となるのか,刺激要素として低頻度なものが,プロトタイプとはなりえないのかを検討した.通常用いられる完全終止を高頻度,非終止を低頻度で提示する代わりに,完全終止を低頻度,非終止を高頻度で提示した.

結果,N1m,N1mに続いて180msほどにみられる陽性波(P2m),SFにおいてそれぞれ,高頻度非終止よりも,低頻度終止音に対する強い反応が見受けられた.このことは,たとえメロディとして逸脱していなくても,頻度情報が強い影響を表すものであることを示唆する.

実験3

通常,オドボール刺激では,高頻度刺激に対する注意の低下と新規刺激に対する注意の増加や定位が低頻度に対する反応増幅に影響していると考えられている.しかし,通常報告されている音楽構造の実験における低頻度逸脱刺激は,頻度だけではなく,通常耳にしないメロディ構造でもある.実験2では,刺激の提示頻度が反応に影響することを示唆した.つまり,長期記憶のレベルではなじみのないものでも,頻度を統制することにより,注意の誘発のレベルを下げることを示唆した.

では,逸脱刺激における短期記憶での聴取の頻度を上げることで,逸脱に対する定位反応を減少させることができるのであろうか.つまり,音楽構造への認知が経験上に基づくものであるのかを検討した.

方法として,高頻度に終止音,低頻度で非終止音を提示する従来の方法を採用すると同時に,実験開始前に非終止音を集中的に提示し,非終止音に対する新規性を減少させた.

結果,通常低頻度で見られるはずの強いミスマッチの成分が消失し,後期成分であるSFにのみ低頻度に対する反応の増強がみられた.このことは,従来言われていた音楽構造の逸脱に対する反応には記憶痕跡が影響を及ぼしていた可能性を示唆する.

実験4

次に,短期的に終止音・非終止音を同回数提示した後,終止音・非終止音どちらも低頻度に提示した場合,どちらがより強い逸脱刺激になるのかを検討した.中頻度刺激としては終止を消去した不完全メロディを提示し,休止における逸脱反応も観察した.結果,両低頻度刺激に対して強いN1m, P2m, SF反応がみられるが,低頻度同士で比較した場合,非終止音に対するSFの強い反応がみられた.終止音・非終止音における短期記憶の痕跡の影響を除去した後に,みられたこの反応は,長期記憶に基づく反応であることが示唆される.

以上の実験により,ヒトの音楽構造の認知には,短期記憶による記憶痕跡の影響や現状におかれている頻度への定位反応が強く影響しているとともに,長期記憶の痕跡が影響として残ることが示唆された.また,そうした認知はさらに訓練によって処理過程が変化していくことも示唆する.

審査要旨 要旨を表示する

本実験は,音楽の構造認知の判断に影響を与える要因について検討した.実験1では,メロディの大局的な予期について,音楽訓練の差が与える影響について検討し,実験2~3において,逸脱刺激と頻度の影響を検討し,実験4において,メロディの予期に対する処理過程について検討した.

実験1

音楽家,非音楽家ともに,メロディの局所的な情報だけでなく,全体的な流れによって終止感判断をしていることが示された.また,たとえ行動学的な差異が認められない場合においても,訓練により異なる処理過程によってメロディを聴取していた可能性を示唆した.

実験2

メロディからの逸脱音が逸脱刺激となるのか,刺激要素として低頻度なものが,プロトタイプとはなりえないのかを検討した結果,たとえメロディとして逸脱していなくても,短期的な記憶痕跡が聴取時の磁場応答に影響を及ぼす可能性を示唆した.

実験3

逸脱刺激における短期的な親和性によっても,聴取時の磁場応答が影響を受ける可能性を示唆した.

実験4

短期的な親和性や頻度を統制した結果,主和音,非主和音に対して異なる磁場応答が認められた.また,最終音を欠落させた場合における誘発応答から,リズムだけでなく,音楽構造に対する予期が頑強である可能性を示唆した.

以上の実験により,ヒトの音楽構造の認知には,短期記憶痕跡の影響が強く影響しているとともに,長期記憶の知識も影響することが示唆された.また,音楽構造の認知はさらに訓練によって,その処理過程が変化していく可能性も示唆する結果となった.音に対する情報処理様式の可塑的な変化や,学習効果のおよぼす影響を示唆している可能性を示唆する,重要な貢献をなすと考えられ,学位の授与に値するものと考えられる.

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