学位論文要旨



No 128196
著者(漢字) 滝沢,彩子
著者(英字)
著者(カナ) タキザワ,アヤコ
標題(和) 救急搬送後司法解剖事例における救急医への解剖情報提供のあり方の検討
標題(洋)
報告番号 128196
報告番号 甲28196
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3855号
研究科 医学系研究科
専攻 社会医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木内,貴弘
 東京大学 教授 矢作,直樹
 東京大学 准教授 上別府,圭子
 東京大学 准教授 山本,隆一
 東京大学 講師 豊川,智之
内容要旨 要旨を表示する

【緒言】

司法解剖により得られた情報の事案関係者への提供を望む声が高まっている。

しかし、現制度の中で、法医が行う鑑定という刑事責任追及と密接不可分な死因究明によって得られた情報を提供するには難がある、という解釈の下、原則提供を行わないという運用がなされてきた。従来、犯罪捜査、公訴の維持その他の公共の安全と秩序の維持に支障を及ぼすおそれが大きいと考えられ、事案関係者、特にも医療側への情報提供が認められなかった。

情報提供のあり方は、診療行為に関連した死亡の調査分析モデル事業( 以下、「モデル事業」)等でも検討されてきた。しかしこのモデル事業は、実施の見通しとしての取扱数も限られていることに対する不安等が指摘されている。また、2010年現在、当面の政局情勢から実施時期は不明である。

これまで、訴訟リスクへの不安・懸念が医療崩壊の一因となっていること、中でも外科・産科・救急科等でその傾向が顕著であることは指摘されてきた。特に救急科は、傷病原因の如何を問わず救急搬送される点において特殊であり、事故や外傷後の搬送を受けて患者死亡に立ち会う機会が非常に多くなる。よって、解剖情報の提供を受ける必要性と意義があると考えられる。また、特に日本救急医学会の認定する救急科専門医への情報提供によって、訴訟リスク軽減のみならず、医療の発展という効果も実効的なものになると考えられる。

そこで、本研究では、医療従事者への情報提供のあり方について、救急医への質問紙調査により、(1) 救急医における情報提供の現状やそれに対する意識はどのようなものであるか、(2) 現状での法医からの情報提供を不十分と考える救急医とそうでない救急医とではどのような違いがあるのか、(3) 司法解剖の情報提供が許される場合、提供対象や知りたい情報はどのようなものかの3点について検討した。加えて、提供する側である法医への質問紙調査も行ない、(4) 法医における情報提供の意識等を把握し、情報提供の実現可能性を探った。さらに文献調査により、(5) 国内外の解剖情報の提供制度の現状を俯瞰した。その上で、今後の死因究明における情報提供のあり方を論じた。

【方法】

質問紙調査と文献調査を行った。質問紙調査については全ての調査内容と実施方法について、東京大学医学部倫理審査委員会(審査番号3339)の承認を得た。調査対象の抽出にあたっては、全国の救急科医師に対する調査を行うため、日本救急医学会に協力を依頼した。日本救急医学会事務局に対して調査協力要請を行い、2011年2月現在での救急科専門医全員の連絡先を入手した。調査票の作成について、先行研究や救急医を中心とした医師へのヒアリング等をもとに、東京大学法医学教室で作成した。

実施方法について、日本救急医学会の所有する専門医名簿に基づき、全国の救急科専門医3049名に対して、平成23年3月、送付・回収ともに郵送による無記名自記式質問紙調査を実施した。このうち60通が宛先不明で返送された。回答者は、調査票とともに配布された調査説明書を読んだ上で回答を行った。また、法医対象の調査については、日本法医学会所属の法医156名に対して同様に配布し、37名が回答した。

分析手法について、全ての統計処理にはSPSS 19.0Jを使用した。本調査では、単純集計の他、現状の法医の情報提供への評価と関連する要因を見つけるため、「現状の法医の情報提供が不十分である」という回答と各項目のクロス表を作成して、χ2検定を行い、調整済み残差による分析を行った。順位尺度についてはMann-Whitney U検定を用いて検討した。いずれの検定も有意水準は5%に設定した。また、知りたい情報の種類として「解剖直後の要約」「死因確定後の要約」「診療経過中の問題点に関する判断」「鑑定書」「解剖写真」「組織所見」「刑事裁判となったか否か」の各項目において、情報提供を許される対象が担当救急医である場合と救急全体である場合の差について、選択した回答者の割合について母比率の区間推定(信頼区間95%)を求めた。

また、文献調査として、診療関連死を中心とした海外の死因究明制度とそこで得られた情報提供の制度について書かれた文献を検索した。医中誌Web Ver.5、Pubmed等のデータベースを使用し、法律や政府・関連機関の広報、ハンドサーチによる学術書籍、新聞記事、Webサイトも参照した。

【結果】

救急医調査票は860通を回収した。このうち高齢等を理由に質問項目の全部について回答無しとしたもの等を除外し、最終的な回収率は28.5%であった。主な属性について、勤務形態は常勤が89.1%、非常勤が3.8%、開業医が6.4%、その他が0.7%だった。勤務機関の救急指定は救急救命センターが45.5%、救急救命センター以外の大学病院が10.5%、前二者以外の総合病院が27.6%、その他が16.4%であった。勤務機関の救急指定は初期が3.1%、二次が31.1%、三次が46.6%、指定なしが10.0%であった。

自分の担当した患者が受けたことのある解剖の種類は、行政解剖が51.1%、承諾解剖が52.6%、司法解剖が62.7%であった(複数回答可)。各解剖において、情報提供を受けた経験が「ある」のは、行政解剖で53.3%、承諾解剖で81.6%、司法解剖で51.0%であった。司法解剖の課題について最も多い回答は、「情報提供が不十分」(50.9%)であった(複数回答可)。解剖結果が自分の予想と異なった経験は、「ある」が32.6%、「ない」が67.4%であった。解剖情報を医療従事者に提供できないことに対してどう思うかについて、「情報提供すべき」が9割を超えた。

現状の法医の情報提供を不十分とした群の主な特徴は以下の通り。情報提供が担当救急医や救急全体での情報共有が許されるとした場合に知りたい情報の種類について、「担当救急医に対する、解剖直後の肉眼的所見の要約・推定死因の提供」の項目で、提供を求める回答が有意に多かった。担当した患者が司法解剖を受けた経験「あり」の回答が有意に多かった。解剖結果が自分の予想と異なった経験「あり」の回答が有意に多かった。死後対応における警察・検視官の情報提供に対しての不満「あり」の回答が有意に多かった。

情報提供が許される場合、知りたい情報の種類ごとに、救急医個人への開示と救急部分野全体への開示を望む回答の差を比較したところ、「解剖直後の肉眼的所見の要約、推定死因」「鑑定後・診療確定後の死因、所見要約」「診療経過中の問題点に関する判断」「鑑定書」「解剖写真」「組織所見」につき差がみられた。「刑事裁判となったか否か」のみ差がみられなかった。

法医調査においては、司法解剖の情報を医療従事者に提供する必要性を感じた事例の経験につき、「ある」が30.6%、「ない」が69.4%であった。情報を医療側に提供できないことに対してどう思うかにつき、「情報提供すべき」63.9%、「情報提供は特に必要ない」が25.0%、「その他」が11.1%であった。提供に伴う負担増については約半数が許容しうるとの回答を得た。

文献調査では、海外では日本とは制度的前提が異なるものの、英米法圏のコロナー制度・ME制度を中心に解剖情報の活用がなされていた。基本的に提供の対象を担当医個人に限定せず、死因究明機関からの直接のフィードバックや、データベースでの情報蓄積が行われ、医療の質向上や真相究明・再発防止に役立てていた。

【考察】

救急科専門医は、法医が情報提供をすべきと考えていることが示された。また、現場では執刀医から一定程度の情報提供が既になされており、情報提供が許されないとする現状の運用方針との乖離がみられた。現状の法医からの情報提供を不十分か否かという評価については、自分の担当した患者が司法解剖を受けた経験や、死後対応における警察・検視官の情報提供に対する不満等と関連があり、情報提供を巡る関係機関や死因究明制度・刑事手続全体も含めての改善が必要であると考えられる。また、司法解剖への情報提供が許される場合に知りたい情報の種類は、解剖直後の肉眼的所見の要約と鑑定後・診療確定後の死因が中心であり、より迅速・簡潔な形での提供が求められていると思われる。提供対象については、担当医への提供と救急全体への提供との間でほぼ全て情報の種類に対して差がみられ、担当医個人への情報提供がより望まれていることが明らかになった。法医においては、情報提供に対しては慎重な姿勢である一方で、情報提供負担増となっても許容しうるという点では実現可能性が示された。

海外においては、死因究明が犯罪捜査と結び付けられていない点は、医療従事者の訴訟リスクに対する懸念を大きく軽減させていると考えられる。また、死因究明により得られた情報をフィードバックすることで、医療の質向上や真相究明・再発防止に役立たせることは、情報活用としてあるべき姿である。同時に、その情報を人権擁護や感染症予防へ役立てることは、日本における法医の本来の役割や目的とも合致するところである。情報提供先をどのように定めるかについても、理想としては、海外の諸制度と同様に、少なくとも医療機関内、あるいは機関外であっても医療関係者ならば必要に応じて参照できる制度を構築すべきと考える。

刑事手続における具体的な法制度改正の必要性や可能性についてはなお詳細な検討の余地があるが、少なくとも現在の法律における運用の改善から始め、もう少し柔軟性を持たせることは可能であり、必要であると考えられる。やがては救急科のみならず、法医と各診療科とが情報提供を通じて連携できる制度の構築を目指すべきである。

当研究の限界は回収率の低さであり、質問紙発送のタイミングが震災直前であったことが影響したと考えられる。当研究の意義は、各対象の全数調査を行ったことと、当結果を契機に、実際に法医と救急医が司法解剖事例につき情報を共有するという試行研究が開始したことである。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、臨床では以前から望まれていながら解釈上未だ実現が困難とされてきた、救急搬送後司法解剖事例における救急医への解剖情報提供のあり方を検討するため、救急科専門医と法医を対象とした各質問紙調査と国内外の文献調査を行ったものであり、下記の結果を得ている。

1. 救急科専門医を対象とした質問紙調査によって、救急科専門医が法医から情報提供をすべきと考えていることが示された。現状の法医からの情報提供を不十分ととらえている救急医は、自分の担当した患者が司法解剖を受けた経験や、死後対応における警察・検視官の情報提供に対する不満、情報提供に迅速性を求める姿勢等と関連があることが示された。司法解剖への情報提供が許される場合に知りたい情報の種類は、解剖直後の肉眼的所見の要約と鑑定後・診療確定後の死因が中心であることが示された。提供対象については、担当医への提供と救急全体への提供との間でほぼ全て情報の種類に対して差がみられ、担当医個人への情報提供がより望まれていることが示された。

2. 法医を対象とした質問紙調査によって、法医の情報提供への姿勢は救急医よりも慎重なものであることが示された。情報提供に伴う作業負担等が増大しても許容できるか否かは判断が分かれることが示された。法医が提供してもよいと考える情報の種類の中心は解剖直後の肉眼的所見の要約と鑑定後・診療確定後の死因であり、救急科専門医と同様であることが示された。

3. 文献調査によって、国内については遺族に対する情報提供実現の過程や、モデル事業における情報提供の成果と課題を示した。国外については日本とは異なる制度的前提をふまえながら、死因究明が犯罪捜査と結び付けられていない地域がある点、死因究明により得られた情報がフィードバックされている点、提供対象が医療従事者に限定されていない点等が示された。そしてそれらの情報が医療の質向上から人権擁護・感染症対策まで幅広く活用されていることが示された。

以上、本論文は救急搬送後司法解剖事例における救急医への解剖情報提供につき、運用の弾力化や法制度の整備等に繋がる意義を持ち、ひいては医学界全体への真実究明・再発防止にも重要な貢献をなす研究と考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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