学位論文要旨



No 128208
著者(漢字) 山本,信三
著者(英字)
著者(カナ) ヤマモト,シンゾウ
標題(和) 大腸癌におけるヒストン脱メチル化酵素GASC1の発現異常とその意義の検討
標題(洋)
報告番号 128208
報告番号 甲28208
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3867号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森本,幾夫
 東京大学 准教授 宇於崎,宏
 東京大学 准教授 池上,恒雄
 東京大学 准教授 門野,岳史
 東京大学 講師 多田,稔
内容要旨 要旨を表示する

【背景・目的】

大腸癌は発生機序や治療法が比較的よく研究された癌でありながら欧米のみならず我が国でも頻度が高く、最も重要な悪性腫瘍のひとつに挙げられる。近年分子標的薬を代表とする薬剤治療が目覚ましい発展をとげているが、いまだ完全切除が困難な進行大腸癌症例においては局所再発・遠隔転移等の理由により多くの症例で治療抵抗性を示し、完全治癒が難しいのが現状である。それゆえ大腸癌診断・治療における新たなバイオマーカーの開発、治療標的となるmoleculeの探索が強く望まれている。近年遺伝子異常に加えエピジェネティックな異常も発がんのみならずがんの進展に寄与することが明らかとなってきており、エピジェネティクス関連分子も治療標的となりうると考えられる。

エピジェネティクスとはDNAの塩基配列の変化を伴わずに、遺伝子の表現を調節する仕組みのことをいう。エピジェネティクスの異常の一つにヒストン修飾異常が挙げられる。真核生物の細胞核内ではDNAはクロマチンと呼ばれる高次構造に収納されているが、DNAはクロマチン構造の最小単位であるヌクレオソームに巻きついて存在する。アミノ酸末端(N末端)はヌクレオソームの外側に露出されておりヒストンテイルと呼ばれる。このヒストンテイルはメチル化、アセチル化、リン酸化といった翻訳後修飾を受けることが知られているが、これらのヒストン修飾によりDNAとヒストンの複合体であるクロマチン構造に変化が生じ、再構成されたクロマチン構造が遺伝子転写・発現に重要な役割を果たしている。これらのヒストン修飾に関わる酵素の異常ががんの進展に寄与しているという報告が相次いでいる。本研究ではヒストンH3の9番目のリシン残基を脱メチル化する酵素であるGASC1(Gene Amplified in squamous cell carcinoma1,別名JMJD2C,JHDM3C,KDM4C)に着目した。GASC1は元来食道癌細胞での増幅から同定された遺伝子であり、この遺伝子によってコードされる分子がヒストン脱メチル化活性をもち、その抑制が食道癌細胞の増殖を抑制するという知見が報告されている。一方で大腸癌におけるGASC1の発現異常およびその意義に関する報告はまだない。予備検討により大腸癌手術検体の癌部・非癌部におけるGASC1発現を解析すると非癌部に比し癌部でGASC1発現が高い症例が多いことが見出された。そこで本研究ではGASC1のがんにおける生物学的役割を検討した。

【方法】

1.大腸癌手術検体癌部・非癌部におけるGASC1発現の解析

2.大腸癌におけるGASC1発現を制御する上流シグナルの解析

3.大腸癌細胞株を用いたGASC1ノックダウン細胞株の樹立及びその表現型解析

4.cDNAアレイを用いたGASC1の標的遺伝子の探索(クロマチン免疫沈降法)

なお得られたデータは各群の平均値±標準誤差(SE)として示し、2群間の比較はStudent-t test、Fisher's exact probability testを用い、p<0.05を統計学的有意と判定した。

【結果】

大腸癌手術検体20例の癌部・非癌部組織よりRNAを抽出しGASC1発現レベルを解析したところ、癌部においてGASC1発現の高い症例が約半数の11症例(55%)で存在しそのほとんどの症例で非癌部におけるGASC1発現を認めなかった。以前に当研究室で行われた大腸癌細胞株を用いたSNPアレイによるLOH解析の結果を参照すると大腸癌では同部位のGene amplificationを認めず、大腸癌癌部におけるGASC1高発現のメカニズムとしてGASC1発現を促進する上流シグナルが存在する可能性を検討した。大腸癌細胞株を用いてβ-cateninをノックダウンすることで大腸癌で重要なWntシグナルを抑制するとGASC1発現が抑制されたため、大腸癌においてGASC1発現はWntシグナルに制御される可能性が示唆された。

次にGASC1の大腸癌における生物学的役割を検討するために、比較的GASC1発現の高い大腸癌細胞株WiDrにおいてレンチウイルスを用いてGASC1の安定ノックダウン細胞株を樹立し、その表現型を解析した。食道癌細胞と異なりGASC1発現抑制による増殖能への影響は認めず、同時に遊走能・浸潤能にも変化を示さなかった。In vitroにおける腫瘍形成能を評価するためsphere formation assayを施行した。具体的には単一細胞になるよう十分ほぐした500個の細胞を24ウェルプレートに播いたのち10日間浮遊状態で細胞を培養後、形成されたsphereの内直径が100μm以上のものの大きさおよび数を検討した。GASC1ノックダウン細胞株ではコントロール細胞株に比し有意に小さく、また少数のsphereしか形成されずGASC1ノックダウンによりsphere形成が抑制されることが示唆された( GASC1コントロール:78.2±16.0個、GASC1ノックダウン15.0±3.51個、p=0.0186:100μm以上のsphereの個数を計測)。ノックダウン細胞にGasc1を発現させることでこの表現型が回復すること、また膵癌細胞株でGASC1をノックダウンすることでも同様の表現型がみられたことから、この表現型はGASC1に特異的な現象であると考えられた。

次に大腸癌におけるGASC1の標的遺伝子の探索を行った。具体的にはWiDrコントロール細胞株・GASC1ノックダウン細胞株を用いてsphereを作成しRNAを抽出後、cDNAアレイを用いてGASC1により発現が制御される遺伝子群の網羅的探索を施行した。大腸癌の腫瘍形成にWntシグナル・Notchシグナルが関与している報告があることより、cDNAアレイの結果をもとにWntシグナル・Notchシグナルの遺伝子群を用いてGSEA解析を行った。GASC1ノックダウンによりWntシグナル・Notchシグナルの遺伝子群全体としては有意な変動は認めなかったが、その中でWntシグナルの下流に位置しNotchシグナルの一つであるJAG1の発現が低下していることに着目した。JAG1がGASC1の標的遺伝子であることを確認するためにクロマチン免疫沈降法を施行したところGASC1はH3K9me3メチル化レベルとは独立してWntシグナルのkey moleculeであるβ-cateninのJAG1プロモーター領域へのリクルートを制御することでJAG1発現を制御することが示された。また実際大腸癌細胞でJAG1の安定ノックダウン細胞株を樹立しsphere assayを施行したところin vitroにおける腫瘍形成能が抑制することが確認できた。

【考察】

(1)大腸癌手術検体におけるGASC1発現について

食道癌・乳癌・前立腺癌細胞株においてGASC1の存在する染色体9p23-24にamplificationが存在し、食道癌細胞株においてGASC1発現が高いことが知られている。今回大腸癌手術検体におけるGASC1の発現を解析したが、約半数の症例で癌部におけるGASC1発現が高いことが確認できた。大腸癌におけるGASC1 の発現増加に関してはWntシグナルが関与していることが示唆され、Gene Ampligfication以外の理由でGASC1発現が亢進することは本研究が初めての報告となる。

(2)GASC1は癌細胞の腫瘍形成能に必要である

以前よりGASC1が癌遺伝子として機能していることが食道癌・乳癌等で報告されている。今回大腸癌細胞株を用いたGASC1表現型解析においては同じ消化管癌である食道癌と異なりgrowthには関与を認めなかったが、一方で乳癌と同様GASC1がsphere形成に関与していることを見出した。In vivoにおいて高い腫瘍形成能をもつ細胞はin vitroで単一細胞からsphereを形成しうることが知られ、sphere assayは癌細胞の腫瘍形成能の指標として用いられている。従って形成された大腸癌sphereには大腸癌幹細胞の性質に富む細胞が含まれている可能性があり、このことはGASC1が未分化な胚性肝細胞に発現し幹細胞維持に関わっていることにも矛盾しないのかもしれないと考えた。

(3)Wnt下流遺伝子JAG1はGASC1により制御され、腫瘍形成能低下の責任遺伝子のひとつである

今回cDNAアレイを用いてGASC1により発現が制御される遺伝子群の網羅的探索を行った。GSEA解析によりWntシグナルの下流に位置し、またNotchシグナルのリガンドの一つであるJAG1に着目したところ確かにJAG1発現がGASC1に制御されており、またJAG1が大腸癌におけるsphere形成に関与していることが示された。

そもそもJAG1はNotchシグナルの5種類あるリガンド(JAG1, JAG2, Delta1, Delta3,Delta4)のうちの1つであり細胞表面に発現する蛋白である。隣接する細胞の表面に発現する4種類のレセプター(Notch1, Notch2, Notch3, Notch4)との間で細胞間シグナル伝達を担い、大腸癌において高発現していることが知られている。また大腸腫瘍の発生、発育、進展に重要であるWntシグナルの下流にも位置し、Wntシグナルのkey moleculeであるβ-cateninの標的遺伝子であることが知られている。すなわちJAG1はWntシグナルとNotchシグナルのクロストークを媒介するmoleculeである可能性がある。

大腸癌の腫瘍形成に関しては(1)大腸癌sphereでWntシグナルが活性化している (2)Notchシグナル抑制により大腸癌の腫瘍形成能が低下し逆にNotch1過剰発現により腫瘍形成能が促進する (3)Notchリガンドの一つであるJag1欠失によるNotchシグナル抑制でApcMinマウスにおける腺腫の腫瘍形成が抑制される等Wntシグナル・Notchシグナルが関与するという報告がなされている。Wntシグナル・Notchシグナルの両者に関わりGSEA解析でも着目されたJAG1に対して検討をすすめていくと、GASC1がβ-cateninのJAG1promoter領域へのリクルートを制御することでJAG1発現を制御していた。またJAG1が大腸癌におけるsphere形成に関与しており、大腸癌で重要とされているWntシグナルによるsphere形成にGASC1が関与している可能性を今回示すことができた。

【結論】

本研究ではヒストンH3の9番目のリシン残基を脱メチル化する酵素GASC1が大腸癌細胞の腫瘍形成能を制御することを見出した。その過程でWntシグナルの下流で発現するNotchリガンドJAG1をGASC1の標的遺伝子として同定し、同時にβ-cateninによるJAG1の発現にGASC1を介した転写制御が必須であることを見出した。このことはヒストン修飾因子GASC1が大腸癌におけるWntとNotchシグナルのクロストークを媒介し、腫瘍形成能獲得に寄与している可能性を示唆した。実際に大腸癌手術検体においてGASC1発現とJAG1発現との間に有意な相関があることが確認できた。本研究結果は大腸がんにおいてもエピジェネティック修飾機構の異常ががんの性質の変化をもたらしその進展に寄与する可能性を示唆するものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究ではヒストンH3の9番目のリシン残基を脱メチル化する酵素であるGASC1(Gene Amplified in squamous cell carcinoma1, 別名JMJD2C,JHDM3C,KDM4C)に着目した。GASC1は元来食道癌細胞での増幅から同定された遺伝子であり、この遺伝子によってコードされる分子がヒストン脱メチル化活性をもち、その抑制が食道癌細胞の増殖を抑制するという知見が報告されている。一方で大腸癌における報告がないことより大腸癌におけるGASC1の発現異常およびその意義の検討を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.大腸癌手術検体20例の癌部・非癌部組織よりRNAを抽出しGASC1発現レベルを解析したところ、癌部においてGASC1発現の高い症例が約半数の11症例(55%)で存在しそのほとんどの症例で非癌部におけるGASC1発現を認めなかった。

2.以前に当研究室で行われた大腸癌細胞株を用いたSNPアレイによるLOH解析の結果を参照すると大腸癌においてはGASC1遺伝子が存在する9p23-24にGene amplificationを認めず、大腸癌癌部におけるGASC1高発現のメカニズムとしてGASC1発現を促進する上流シグナルが存在する可能性を検討した。大腸癌細胞株を用いてβ-cateninをノックダウンすることで大腸癌で重要なWntシグナルを抑制するとGASC1発現が抑制されたため、大腸癌においてGASC1発現はWntシグナルに制御される可能性が示唆された。

3.比較的GASC1発現の高い大腸癌細胞株WiDrにおいてレンチウイルスを用いてGASC1の安定ノックダウン細胞株を樹立し、その表現型を解析した。食道癌細胞と異なりGASC1発現抑制による増殖能への影響は認めず、同時に遊走能・浸潤能にも変化を示さなかったが、In vitroにおける腫瘍形成能を評価するためsphere formation assayを施行したところGASC1ノックダウン細胞株ではsphere形成が抑制された。ノックダウン細胞にGasc1を発現させることでこの表現型が回復すること、また膵癌細胞株でGASC1をノックダウンすることでも同様の表現型がみられたことから、この表現型はGASC1に特異的な現象であると考えられた。

4. WiDrコントロール細胞株・GASC1ノックダウン細胞株を用いてsphereを作成しRNAを抽出後、cDNAアレイを用いてGASC1により発現が制御される遺伝子群の網羅的探索を施行した。大腸癌の腫瘍形成にWntシグナル・Notchシグナルが関与している報告があることより、cDNAアレイの結果をもとにWntシグナル・Notchシグナルの遺伝子群を用いてGSEA解析を行った。GASC1ノックダウンによりWntシグナル・Notchシグナルの遺伝子群全体としては有意な変動は認めなかったが、その中でWntシグナルの下流に位置しNotchシグナルの一つであるJAG1の発現が低下していることに着目した。JAG1がGASC1の標的遺伝子であることを確認するためにクロマチン免疫沈降法を施行したところGASC1はH3K9me3メチル化レベルとは独立してWntシグナルのkey moleculeであるβ-cateninのJAG1プロモーター領域へのリクルートを制御することでJAG1発現を制御することが示された。

5.大腸癌細胞でJAG1の安定ノックダウン細胞株を樹立しsphere assayを施行したところsphere形成は抑制され、Wntシグナル下流遺伝子JAG1は腫瘍形成能低下の責任遺伝子のひとつであることが示唆された。

以上、本論文ではヒストンH3の9番目のリシン残基を脱メチル化する酵素GASC1が大腸癌細胞の腫瘍形成能を制御することを見出した。その過程でWntシグナルの下流で発現するNotchリガンドJAG1をGASC1の標的遺伝子として同定し、同時にβ-cateninによるJAG1の発現にGASC1を介した転写制御が必須であることを見出した。このことはヒストン修飾因子GASC1が大腸癌におけるWntとNotchシグナルのクロストークを媒介し、腫瘍形成能獲得に寄与している可能性を示唆した。実際に大腸癌手術検体においてGASC1発現とJAG1発現との間に有意な相関があることが確認できた。本研究結果は大腸癌においてもエピジェネティック修飾機構の異常ががんの性質の変化をもたらしその進展に寄与する可能性を示唆するものと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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