学位論文要旨



No 128219
著者(漢字) 川上,正敬
著者(英字)
著者(カナ) カワカミ,マサノリ
標題(和) 非小細胞肺癌における新規癌遺伝子の検索
標題(洋)
報告番号 128219
報告番号 甲28219
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3878号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮川,清
 東京大学 教授 黒川,峰夫
 東京大学 教授 山下,直秀
 東京大学 准教授 野入,英世
 東京大学 准教授 久米,春喜
内容要旨 要旨を表示する

肺癌は世界中で診断される臓器別の癌の中では最も多く,死亡者数も男性では臓器別で第一位,女性では第二位である.従来は肺癌に対する化学療法として,病理組織学的な分類に基づいて殺細胞性抗癌剤が用いられてきたが,予後改善への寄与はわずかであると言わざるを得ない.しかし近年は,特定のシグナル伝達分子などを標的とした低分子化合物や抗体を用いた分子標的療法が臨床に供されるようになり,その状況は徐々にではあるが変わりつつある.

肺癌での分子標的薬の代表例としては,チロシンキナーゼ(TK)ファミリーの一つであるEGFRの阻害薬がある.肺癌患者の一部はEGFR遺伝子変異を持ち,これらの遺伝子変異とEGFR阻害薬の臨床効果に密接な関連があることが示され,現在はEGFR遺伝子変異の有無が化学療法剤の選択に重要な要素となってきている.最近では,同じくTKファミリーの一つであるALK遺伝子がEML4遺伝子と融合遺伝子を形成することで恒常的に活性化し,一部の肺癌患者の発癌に寄与していることがわかった.これらの患者に対してはALK阻害薬が治療薬として良好な結果を得られている.こうした成果を受け,今日では肺癌診療においても分子生物学的な視点がますます重要となり,新たな治療標的分子の検索も精力的に行われるようになっている.

今回私は,肺癌においてALK遺伝子のように融合遺伝子形成などにより恒常的に活性化し発癌に関与する遺伝子が他にも存在する可能性を考え,ヒト非小細胞肺癌で活性の亢進している遺伝子をバイオインフォマティクス的手法と実験的手法を組み合わせて網羅的に検索し,最終的に一部の症例でTKファミリーの一つであるFER遺伝子が融合遺伝子を形成していることを発見した.

まず,強い発癌性が示されているALK遺伝子のTKドメインと相同性の高い遺伝子をアメリカ生物情報センター(NCBI)のtblastnアルゴリズムを用いて抽出し,上位36遺伝子を候補遺伝子とした.これらの遺伝子は全てTKファミリーの遺伝子であった.これらの候補遺伝子について,その存在のみで癌化の十分条件とされるEGFR変異やKRAS変異を持たない非小細胞肺癌30症例で,正常肺組織と比べた過剰発現の有無をTKドメインでの定量的RT-PCRにより検討したところ,いくつかの遺伝子が肺癌症例で発現増大していることがわかった.次にこれらの過剰発現している遺伝子について,5'側に新たにプライマーを設計し定量的RT-PCRを行い,TKドメインの発現量との解離の有無を調べた.これは,解析したいずれのTK遺伝子もTKドメインは3'側にあり,もしそのTK遺伝子が融合遺伝子を形成して5'側が別の遺伝子に置き換わっているとすれば,5'側に置いたプライマーでの定量的RT-PCRでは発現量は増大していない(あるいは低下している)ことが予想され,過剰発現しているTKドメインの発現量と解離を認めるはずであると考えたからである.その結果FER遺伝子を含む8遺伝子で解離を認め,これらの遺伝子についてその5'側の配列を同定するためrapid amplification of cDNA ends (RACE)を施行した.ほとんどの遺伝子では,正常型の全長遺伝子のみが検出されるなど有意な産物を得られなかったが,FER遺伝子についてRACEを施行した2症例のうち1症例で5'側がPJA2遺伝子に置き換わり,PJA2遺伝子のエクソン1がFERのエクソン14以下の3'側に融合したPJA2-FER融合遺伝子が同定された.本来PJA2遺伝子とFER遺伝子はヒト5番染色体長椀内に互いに反対向きに存在する.従って,PJA2-FER融合遺伝子が生じるためには5番染色体長椀内で逆位を形成したと予想される.

PJA2側から下向きにフォワードプライマーを,FER側から上向きにリバースプライマーを設計し,PCRを行うことでPJA2-FER融合遺伝子のさらなる検索を施行したところ,最初に同定されたパターンの他にもいくつかの融合パターンが検出された.この中には,PJA2のエクソン1がFERのエクソン3以下に融合しタンパクとしてはインタクトなFERタンパクそのものが翻訳されるであろう融合パターンもあった.肺癌細胞株でも検索したところ,NCI-H661細胞において,臨床症例と同様にPJA2-FER融合遺伝子が同定されFERが他の肺癌細胞株と比べ過剰発現していた.

PJA2遺伝子の生体での機能はほとんどわかっていないが,既知のマイクロアレイデータではほとんどの正常組織で高い発現を示しており,そのプロモーター活性は強いことが予想される.実際に定量的RT-PCRを施行したところPJA2の発現量は,検討した肺や肝臓,横紋筋などを含む20の正常組織の全てでFERの10倍かそれ以上であることが確認された.このことからFERはPJA2と融合し活性の強いPJA2プロモーターを利用することにより過剰発現することが考えられた.

次に,FER遺伝子の機能解析をした.まず,今回同定された融合遺伝子について発現ベクターを作成しNIH-3T3細胞に導入したところ,インタクトな全長FERタンパクが翻訳されるパターンの融合遺伝子の発現ベクターを導入した細胞ではcontact inhibitionの消失を示唆するfocus formationが多数観察され,FER遺伝子の癌化能が確認された.続いて,H661細胞のFERノックダウンによる変化を調べた.H661細胞は前述のように,PJA2-FER融合遺伝子を有しFERの過剰発現を認め,FER過剰発現肺癌症例のモデルとして捉えることができる.FERノックダウンのため,最初にFERに対するsiRNAプラスミドベクターを5種類作成した.これをH661細胞に導入しFERノックダウン効果を確認したところ,ウエスタンブロットによるタンパクレベルでの評価でも,定量的RT-PCRによるmRNAレベルでの評価でも,FERノックダウン効果を確認できた.このうち,ノックダウン効果の最も顕著であった2つを選び実験に使用することにした.この2つのsiRNAベクターに対しては,コントロールとしてそれぞれスクランブルベクターを作成した.作成後,スクランブルベクターをH661細胞に導入しても,FERの発現量の低下を認めないことを確認した.これらのsiRNAベクター及びスクランブルベクターをH661細胞に導入し解析したところ,FER siRNAベクターではアポトーシスが誘導されたが,スクランブルベクターでは変化はなかった.対照実験として,FERの過剰発現のないA549細胞にFER siRNAベクターを導入したが,細胞増殖に変化はなかった.これらのことから,FERを過剰発現している癌細胞ではFERノックダウンにより細胞死が誘導されることが示された.

最後にFER過剰発現のある肺癌症例の頻度を調べた.肺癌症例のtissue microarrayをFER抗体で免疫染色したところ,肺腺癌症例の45.3% (107/236例),肺扁平上皮癌の23.6% (30/127例) でFER免疫染色陽性,即ちFERの過剰発現を認めた.この過剰発現をもたらす機序として,PJA2-FER融合遺伝子におけるPJA2遺伝子の強いプロモーター活性の利用による過剰発現の他にも,例えば遺伝子増幅などの機序も存在する可能性が考えられた.また,融合遺伝子による機序であっても,パートナー遺伝子はプロモーター活性の強い遺伝子でありさえすればFERは過剰発現できることが予想され,必ずしもPJA2遺伝子である必要はないと考えられる.実際,FER免疫染色で陽性であった症例についてPJA2-FER融合遺伝子を検出するプライマーによるPCR法で検索したところ,FER免疫染色陽性肺癌においてPJA2-FER融合遺伝子が検出されたのは,肺腺癌のうち53% (18/34例),肺扁平上皮癌のうち67% (6/9例)であった.免疫染色陽性であったにも関わらずPJA2-FER融合遺伝子が検出されなかった残りの症例では,PJA2-FER融合遺伝子以外の機序でFERが過剰発現していると予想された.

以上,今回私は肺癌における新たな癌遺伝子の同定を目指し肺癌症例を網羅的に検索することにより,一部の症例でTKファミリーの一つであるFER遺伝子が融合遺伝子を形成し過剰発現していることを発見した.また,同様の遺伝子再構成を認める肺癌細胞株も同定し,これをモデルとした機能解析から,FER過剰発現を認める肺癌に対する治療としてFERを阻害することの有効性を示した.これまでの報告でFERのノックアウトマウスは正常に発育することがわかっており,FER阻害薬は治療薬として重篤な有害事象は少ないことが期待され,FERは肺癌分子標的治療の新たな有力な標的となりうると考えられた.

審査要旨 要旨を表示する

本研究はヒト非小細胞肺癌において発癌に寄与する新規癌遺伝子を同定するため,バイオインフォマティクス的手法と実験的手法を組み合わせて網羅的に検索したものであり,下記の結果を得ている.

1. 既に非小細胞肺癌において,EML4遺伝子などとの融合遺伝子を形成し強い発癌性が示されているALK遺伝子のチロシンキナーゼ(TK)ドメインと相同性の高い遺伝子をtblastnアルゴリズムを用いて抽出し,その上位36遺伝子を新規癌遺伝子の候補として,非小細胞肺癌30症例で正常肺組織と比べた過剰発現の有無をTKドメインでの定量的RT-PCRにより検討したところ,いくつかの遺伝子が肺癌症例で発現増大していた.なお,この上位36遺伝子は全てTKファミリーの遺伝子であった.

2. 融合遺伝子を形成し,5'側が別の遺伝子に置き換わっているとすると,TKドメインは過剰発現していても5'側は発現せず,これら2つの領域では発現量に解離を認めることが予想されたため,1.でTKドメインが肺癌症例において過剰発現していた遺伝子について5'側に新たにプライマーを設計し定量的RT-PCRによりTKドメインの発現量との解離の有無を検討したところ,FER遺伝子を含む8遺伝子で解離を認めた.

3. TKドメインと5'側とで発現量に解離を認めた遺伝子について,その5'側の配列を同定するrapid amplification of cDNA ends (RACE)を施行したところ,FER遺伝子についてRACEを施行した2症例のうち1症例で5'側がPJA2遺伝子に置き換わり,PJA2遺伝子のエクソン1がFERのエクソン14以下の3'側に融合したPJA2-FER融合遺伝子が同定された.

4. PJA2側から下向きにフォワードプライマーを,FER側から上向きにリバースプライマーを設計し,PCRを行うことでPJA2-FER融合遺伝子のさらなる検索を施行したところ,最初に同定されたパターンの他にもいくつかの融合パターンが検出された.この中には,PJA2のエクソン1がFERのエクソン3以下に融合しタンパクとしてはインタクトなFERタンパクそのものが翻訳されるであろう融合パターンもあった.肺癌細胞株でも検索したところ,NCI-H661細胞において,臨床症例と同様にPJA2-FER融合遺伝子が同定されFERが他の肺癌細胞株と比べ過剰発現していた.

5. 定量的RT-PCRによる発現量の解析では,PJA2の発現量は,検討した肺や肝臓,横紋筋などを含む20の正常組織の全てでFERの10倍かそれ以上であることが確認された.このことからFERはPJA2と融合し活性の強いPJA2プロモーターを利用することにより過剰発現することが考えられた.

6. 今回同定された融合遺伝子について発現ベクターを作成しNIH-3T3細胞に導入したところ,インタクトな全長FERタンパクが翻訳されるパターンの融合遺伝子の発現ベクターを導入した細胞ではcontact inhibitionの消失を示唆するfocus formationが多数観察され,FER遺伝子の癌化能が確認された.続いて,H661細胞のFERノックダウンによる変化を調べた.H661細胞はPJA2-FER融合遺伝子を有しFERの過剰発現を認めるため,FER過剰発現肺癌症例のモデルとして捉えることができる. FER siRNAベクターによりH661細胞のFERをノックダウンしたところアポトーシスが誘導されたが,コントロールのスクランブルベクターでは変化はなかった.対照実験として,FERの過剰発現のないA549細胞にFER siRNAベクターを導入したが,細胞増殖に変化はなかった.これらのことから,FERを過剰発現している癌細胞ではFERノックダウンにより細胞死が誘導されることが示された.

7. 肺癌症例のtissue microarrayをFER抗体で免疫染色しFER過剰発現のある肺癌症例の頻度を調べたところ,肺腺癌症例の45.3% (107/236例),肺扁平上皮癌の23.6% (30/127例) でFER免疫染色陽性,即ちFERの過剰発現を認めた.FER免疫染色で陽性であったこれらの症例についてPJA2-FER融合遺伝子を検出するプライマーによるPCR法で検索したところ,肺腺癌のうち53% (18/34例),肺扁平上皮癌のうち67% (6/9例)で融合遺伝子が検出された.免疫染色陽性であったにも関わらずPJA2-FER融合遺伝子が検出されなかった残りの症例では,PJA2-FER融合遺伝子以外の機序でFERが過剰発現していると予想された.

以上,本論文は肺癌における新たな癌遺伝子の同定を目指し肺癌症例を網羅的に検索することにより,一部の症例でTKファミリーの一つであるFER遺伝子が融合遺伝子を形成し過剰発現していることを明らかした.また,同様の遺伝子再構成を認める肺癌細胞株も同定し,これをモデルとした機能解析から,FER過剰発現を認める肺癌に対する治療としてFERを阻害することの有効性を示した.本研究はFERが肺癌分子標的治療の新たな有力な標的となりうることを示し,肺癌治療の発展に重要な貢献をなすと考えられ,学位の授与に値するものと考えられる.

UTokyo Repositoryリンク