学位論文要旨



No 128343
著者(漢字) 蛯原,有紗
著者(英字)
著者(カナ) エビハラ,アリサ
標題(和) 神経組織特異的に発現する低分量G蛋白質Di―Rasの生化学的性状の解析
標題(洋)
報告番号 128343
報告番号 甲28343
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1438号
研究科 薬学系研究科
専攻 機能薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 教授 清水,敏之
 東京大学 教授 新井,洋由
 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 教授 岩坪,威
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

Rasを代表とする低分子量G蛋白質は、細胞外からの刺激に応じてGDPと結合した不活性型からGTPと結合した活性型へと立体構造を変換することで、下流へとシグナルを伝達する分子スイッチとして機能している。

当研究室で単離同定したDi-Rasは、Rasファミリー蛋白質の中でも独立したサブグループを形成する新奇のRasファミリー分子である。これまでの解析により、1)Di-Rasは線虫から哺乳動物まで広範な多細胞生物種において神経特異的に発現していること、2)哺乳動物ではDi-Rasl、Di-Ras2のサブタイプが存在し、主にDi-Ras2が発現していること、3)Di-Rasは典型的なRasシグナル経路には関与しないこと、4)線虫Di-Ras機能欠損変異体では運動神経からのアセチルコリン放出に異常が生じることが明らかになっている。しかし、このDi-Rasの哺乳動物での生理的役割や細胞内局在、及びその活性調節機構に関しては不明である。

Di-Ras2は典型的なRasファミリー分子とは異なり、細胞質にも多く存在することが知られているが、本研究で私は、細胞質中のDi-Ras2がSmgGDSというタンパク質と結合して存在することを見いだし、その結合様式およびSmgGDSがDi-Ras2のグアニンヌクレオチド結合活性に与える影響を検討した。さらにSmgGDSが、Di-Ras2の細胞膜と細胞質の間の移行に関与する可能性についても検討したので以下に報告する。

【方法と結果】

1.ラット脳におけるDi-Ras2の局在解析

ラットにおいてDi-Ras2は胎生期には殆ど発現しておらず、生後約7日目から発現が上昇し、成体において高発現となる。また、ラット成体脳組織を細胞質画分と膜画分に分け、ウェスタンブロットを行ったところ、Di-Ras2は細胞質画分、膜画分の両方に存在していた(図1)。次に、ラットの海馬初代培養細胞にGFP-Di-Ras2を発現させ、その細胞内局在を検討したところ、Di-Ras2は細胞膜、細胞質全体に存在し、特定の細胞内領域に限局した局在は見られなかった。

2.細胞質画分のDi-Ras2はSmGDSと結合している

一般的なRasファミリー蛋白質はC末端の脂質修飾を介して細胞膜やオルガネラ膜にアンカーされて存在する。しかし、Di-Ras2は細胞質にも多く存在していたことから、その局在様式について検討を行った。

初めに成体ラットの脳細胞質画分を、ゲル濾過カラムを用いた分離、精製を行なったところ、Di-Ras2の大部分は単量体と想定されるよりも大きな分子量を示す画分に回収され、細胞質中でDi-Ras2は何らかの複合体として存在していることが示唆された。そこで陰イオン交換カラム、ハイドロキシアパタイトカラム等を用いてさらにDi-Ras2複合体と考えられる画分の精製を行ったところ、Di-Ras2と挙動を共にする分子量約60kDaのタンパク質が存在することを見出した。そこで質量分析法による解析を行ったところ、そのタンパク質はSmgGDSであることが明らかとなった。またSmgGDSがDi-Ras2と複合体を形成する可能性について検討する目的で、大腸菌から精製したリコンビナント蛋白質を用いたプルダウンアッセイを行なったところ、両者が直接相互作用することが分かった(図2)。

3.Di-Ras2は子の低分子量G蛋白質とは異なる様式でSmGDSと結合する

SmgGDSはRhoAやK-RasなどC末端に塩基性アミノ酸に富む領域(PBD:Poly-basic domain)をもつ低分子量G蛋白質と結合することや、それら低分子量G蛋白質のGDP-GTP交換反応を促進するグアニンヌクレオチド交換因子(GEF:Guanine-nucleotide exchange factor)として機能することが知られている。Di-Ras2はそのC末端にPBDを有することから(図3A)、Di-Ras2とSmgGDSの結合がPBDを介しているかを検討した。まず、Di-Ras2のPBDを含むC末端を欠失した変異体を作製し、SmgGDSとの相互作用を検討したところ、その欠失変異体も野生型と同様にSmgGDSと結合した(図3B)。また、Di-Ras2のC末端を、H-RasのC末端(PBDを有さない)に置き換えたキメラタンパク質を作製し、同様の検討を行ったところ、そのキメラタンパク質もSmgGDSと結合した。よって、Di-Ras2とSmgGDSの相互作用は他のRhoAや

K-Rasなどの低分子量G蛋白質と異なり、PBDに依存しないことが明らかとなった。

これまでの研究から、RhoAに関しては活性化型(GTP結合型)より不活性化型(GDP結合型)が、SmgGDSとより強固に結合することが知られている。そこで、Di-Ras2のヌクレオチドフォームがSmgGDSとの相互作用に与える影響を検討するため、Di-Ras2の活性化型変異体(G16V)および不活性化型変異体(S21N)のSmgGDSとの結合を検討した。その結果、いずれの変異体も野生型と同様にSmgGDSと結合した(図3C)。よって、両者の相互作用はDi-Ras2のヌクレオチドフォームに依存しないことが分かった。以上の結果から、Di-Ras2とSmgGDSとの相互作用は、既知のSmgGDS結合タンパク質とは異なる様式であることが示唆された。

4.SmGDSはDi-Rasのヌクレオチド結合能を低下させる

SmgGDSは各種低分子量G蛋白質に対してGEF活性を有することが知られていることから、SmgGDSがDi-Ras2に対してGEF活性を示すかを、精製タンパク質を用いて検討した。まずDi-Ras2に結合したGDPの解離速度を示標にして、SmgGDSのGEF活性を評価したところ、SmgGDSはDi-Ras2のGDP解離速度に影響を与えず、Di-Ras2に対してGEF活性を有さないことが示唆された(図4A)。一方Di-Ras2に対するGTPγSの結合実験において、SmgGDSの添加により平衡状態に達した際のGTPγS結合量の減少が見られた(図4B)。そこでDi-Ras2のGTPγSに対する親和性を検討したところ、SmgGDSの存在下ではその親和性が低下することが分かった(GTPγSに対するKd値は、SmgGDS非存在下で0.26μM、存在下で>1μM)。以上の結果から、SmgGDSはDi-Ras2のヌクレオチド結合能を低下させる作用があると考えられた。

5.SmGDSはDi-Rasを膜から細胞質へ移行させうる

一般的にRasファミリー蛋白質は、膜画分において活性化型(GTP結合型)となり、エフェクター分子を介して機能を発揮すると考えられている。SmgGDSが細胞質中でDi-Ras2と結合し、そのGTPγSに対する親和性を低下させる作用を示したことから、SmgGDSはDi-Ras2の膜局在性の制御を介して、その活性調節に関与している可能性が考えられた。そこで、SmgGDSがDi-Ras2の細胞内局在に与える影響について検討する目的で、Di-Ras2を含むラット脳細胞膜画分にリコンビナントSmgGDSを加えてインキュベートした。その結果、SmgGDSの濃度依存的にDi-Ras2が細胞膜から遊離することを見いだした(図5)。よって、SmgGDSとの結合によって、Di-Ras2の膜局在性が変化する可能性が示唆された。

【まとめと考察】

本研究において私は、新奇RasファミリーG蛋白質Di-Ras2の細胞質における存在状態を検討した。その結果、Di-Ras2は細胞質においてSmgGDSと複合体を形成していることを見出した。その結合は、SmgGDSとの結合が知られる他の低分子量G蛋白質とは異なる結合様式であり、SmgGDSはDi-Ras2に対してGEF活性を示さず、むしろDi-Ras2のGTP結合親和性を低下させる作用を有することを見いだした。

一般的にRasファミリーG蛋白質はGDPに対する結合親和性が高く、GEFの作用によってGDPの解離が起こり、グアニンヌクレオチド交換反応が促進されることで、GTPを結合した活性化型となる。Di-Ras2はこれまでの研究から、そのグアニンヌクレオチド交換反応が非常に早いことや、GDPよりもGTPに対する親和性が高く、定常状態においても細胞内で主にGTP型で存在することが報告されている。これらの知見を併せて考えると、Di-Ras2はSmgGDSとの結合によってGTPやエフェクターとの結合が抑制された状態で細胞質に留められており、何らかの刺激に応じてSmgGDSとの結合が解除されると、細胞膜への移行およびGTPの結合が起こることでエフェクターに作用し、その後は再びSmgGDSと結合することで膜から遊離するという全く新しい制御モデルが想定される。

生理的条件下におけるDi-Ras2の活性化のタイミングは現在のところ不明であるが、近年Di-Ras2がカルモジュリンと結合するという報告もなされ、Ca2+シグナルへの関与が示唆されている。今後、Ca2+シグナルがDi-Ras2とSmgGDSの相互作用に与える影響や、Di-Ras2のエフェクター分子を明らかにすることを通じて、Di-Ras2を介した神経伝達物質の放出制御の詳細な分子メカニズムが解明されることが期待される。

図1.Di-Rasは細胞質画分及び膜画分に存在する

図2.Di-RasとSmgGDSは直接相互作用する

A:使用したリコンビナント蛋白質

B:TF及びTF-SmgGDSをDi-Rasと混合し、TF(Trigger Factor)タグを用いてプルダウンした

図3.Di-Rasは既存のSmgGDSの基質とは異なる様式で結合する

図4.SmgGDSはDi-RasのGTPへの親和性を低下させる(A)GDPの解離(B)GTPγSとの結合

図5.SmgGDSの添加により膜中のDi-Rasが遊離する膜画分とリコンビナントSmgGDSをインキュベートした後、超遠心により上清(sup)と沈殿(pell)に分けた

審査要旨 要旨を表示する

低分子量G蛋白質は、上流からの刺激に応じてGDPが結合した不活性型からGTPが結合した活性型へと構造を変換し、下流にシグナルを伝える分子スイッチとして多様な生理応答の制御に介在している。新奇RasファミリーG蛋白質であるDi-Rasは、これまでの解析から、多様な動物種の神経系において特異的に発現すること、典型的なRasシグナルには関与しないこと、さらに、線虫においては、運動神経からのアセチルコリンの放出に関与することが明らかにされてきたが、その活性がどのように調節されるのかは不明であった。「神経組織特異的に発現する低分子量G蛋白質Di-Rasの生化学的性状の解析」と題した本論文は、Di-Ras2が細胞質において別種の蛋白質SmgGDSと複合体を形成することで、活性化に重要な膜への局在およびGTPとの結合が抑制され、典型的なRasファミリー蛋白質とは異なる活性制御を受けることを見出している。

1.細胞質画分のDi-Ras2はSmgGDSと結合している

一般にRasはC末端の脂質修飾を介して細胞膜やオルガネラ膜にアンカーされて存在する。しかしDi-Ras2の膜局在性を調べるため、ラットの脳ライセートを細胞質画分と膜画分に分けてウェスタンブロットを行ったところ、Di-Ras2は両方の画分に存在していた。そこで細胞質での局在様式を検討するため、細胞質画分に対してゲルろ過カラムを用いた分離、精製を行った結果、Di-Ras2は単量体と想定されるよりも大きな分子量を示す画分に回収された。さらに陰イオン交換カラム、ハイドロキシアパタイトカラム等を用いてDi-Ras2複合体と考えられる画分の精製を行ったところ、Di-Ras2と挙動を共にする分子量約60kDaの蛋白質が存在することを見出した。質量分析法による解析を行った結果、その蛋白質はSmgGDSであることが明らかとなった。また、大腸菌から精製したリコンビナント蛋白質を用いたプルダウンアッセイから、両者が直接相互作用することが見出された。

2.Di-Ras2は既存の低分子量G蛋白質とは異なる様式でSmgGDSと結合する

SmgGDSはRhoAやK-RasなどC末端に塩基性アミノ酸に富む領域(PBD:Poly-basic domain)をもつ低分子量G蛋白質と結合し、それらの低分子量G蛋白質のGDP-GTP交換反応を促進するグアニンヌクレオチド交換因子(GEF:Guanine-nucleotide exchange factor)として機能することが知られている。Di-Ras2はそのC末端にPBDを有することから、Di-Ras2とSmgGDSの結合がPBDを介しているかを検討した。その結果、PBDを含むC末端を欠失したDi-Ras2変異体も野生型と同様にSmgGDSと結合した。

またこれまでの研究から、RhoAに関しては活性型(GTP結合型)より不活性型(GDP結合型)が、SmgGDSとより強固に結合することが知られている。そこで、Di-Ras2のヌクレオチドフォームがSmgGDSとの相互作用に与える影響を検討した結果、Di-Ras2の活性型変異体(G16V)および不活性型変異体(S21N)は、いずれも野生型と同様にSmgGDSと結合した。以上の結果から、Di-Ras2とSmgGDSとの相互作用は、既知のSmgGDS結合蛋白質とは異なる様式であることが示された。

3.SmgGDSはDi-Ras2のヌクレオチド結合能を低下させる

SmgGDSは各種低分子量G蛋白質に対してGEF活性を有することが知られていることから、SmgGDSがDi-Ras2に対してGEF活性を示すかを、精製リコンビナントタンパク質を用いて検討した。まずDi-Ras2に結合したGDPの解離速度を指標にして、SmgGDSのGEF活性を評価したところ、SmgGDSはDi-Ras2のGDP解離速度に影響を与えず、Di-Ras2に対してGEF活性を有さないことが示めされた。一方、非水解性GTPアナログであるGTPγSのDi-Ras2への結合実験において、SmgGDSの添加により平衡状態に達した際のGTPγS結合量の減少が見られた。そこでGTPγSに対するDi-Ras2の親和性を測定した結果、SmgGDSの存在下ではその親和性が低下することが見出された(GTPγSに対するKd値は、SmgGDS非存在下で0.26μM、存在下で>1μM)。以上の結果から、SmgGDSはDi-Ras2のグアニンヌクレオチド結合能を低下させる作用があることが見出された。

4.SmgGDSはDi-Ras2を膜から細胞質へ移行させる

一般的にRasファミリーG蛋白質は、膜画分において活性型(GTP結合型)となり、エフェクター分子を介して機能を発揮すると考えられている。SmgGDSが細胞質中でDi-Ras2と結合し、そのGTPγSに対する親和性を低下させる作用を示したことから、SmgGDSはDi-Ras2の膜局在性の制御を介して、活性調節に関与している可能性が考えられた。SmgGDSがDi-Ras2の細胞内局在に与える影響について検討する目的で、内在性のDi-Ras2を含むラット脳細胞膜画分にリコンビナントSmgGDSを加えてインキュベートしたところ、SmgGDSの濃度依存的にDi-Ras2が細胞膜から遊離することを見出した。すなわち、SmgGDSとの結合によって、Di-Ras2の膜局在性が変化する可能性が示めされた。

一般にRasファミリーG蛋白質は、細胞膜においてGDPが結合した不活性な状態で存在しており、GEFの作用によってグアニンヌクレオチド交換反応が促進されることで、GTPが結合した活性型となる。一方Di-Ras2は、1)SmgGDSとの結合によってGTPやエフェクターとの結合が抑制された不活性状態で細胞質に留められており、2)何らかの刺激によってSmgGDSとの結合が解除されると、細胞膜への移行およびGTPの結合が起こり、3)このGTP結合Di-Ras2はエフェクターに作用し、その後再びSmgGDSと再結合して膜から遊離する、という全く新しい活性制御モデルが想定される。以上を要するに、本論文はRasファミリー蛋白質の制御機構について、新たに重要な知見を提示しており、博士(薬学)の学位として十分な価値があるものと認められる。

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