学位論文要旨



No 128363
著者(漢字) 沈,慧蓮
著者(英字)
著者(カナ) チン,ケイレン
標題(和) 恐怖反応の復元に関わる神経機構の解明
標題(洋)
報告番号 128363
報告番号 甲28363
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1458号
研究科 薬学系研究科
専攻 生命薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 三浦,正幸
 東京大学 准教授 垣内,力
 東京大学 准教授 八代田,英樹
 東京大学 講師 千原,崇裕
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

不安障害は、様々な恐怖に対する不安によって引き起こされる精神疾患である。不安障害に対する治療法として、薬物療法と認知行動療法が用いられている。しかし、いずれにしても高い再発率が課題である。再発のメカニズムを解明し、再発を防ぐ治療法の開発が期待されている。

恐怖条件づけは中性刺激と嫌悪刺激の関係を学習する連合学習試験であり、条件づけ後は、中性刺激のみで嫌悪刺激に対する反応を示すようになる。その後、中性刺激のみを長時間提示し続けることで、次第に条件づけ反応は消失する。しかし、恐怖反応が消失した後でも、弱い嫌悪刺激を再び受けただけで恐怖反応は復元する。心的外傷後ストレス障害を初めとした不安障害治療には条件づけ反応の消失を利用した暴露療法が適用されるが、様々な刺激によって恐怖反応が復元してしまうことが治療を妨げる要因の一つである。恐怖記憶に関する過去の研究のほとんど全ては、恐怖の誘発および消失に集中しており、恐怖の復元に関する薬理学的、神経科学的な解析は行われてきてなかった。そこで本研究では、恐怖反応の復元に関わる神経機構の解明を目指した。

【本論】

1.恐怖反応の復元を解析する実験系の構築

恐怖の復元メカニズムを解析するために、以下の手順によって、条件づけ恐怖を形成し、その後に消失したマウスを準備した。ある実験環境(環境X)でマウスに電気ショックを与えた(図1a、条件づけ)。翌日、環境Xに暴露した際、マウスが恐怖反応の一種であるすくみ反応を示した(図1b、Day 2)ことから、マウスは環境Xと電気ショックの関係を学習したと考えられる。この後、環境Xに40分間暴露し続けると、すくみ反応は次第に消失した(消失トレーニング)。3日目にマウスを再び環境Xに暴露した際、すくみ反応は有意に低下していた(図1b、Day 3)ことから、"環境Xは安全である"という新たな記憶が形成されたと考えられる。

恐怖の消失を確認した翌日(Day 4)、条件づけ環境とは異なる環境Yで、非常に弱い電気ショックを与えた。5日目、環境Xに暴露すると、マウスのすくみ反応時間は有意に上昇した(図1、弱いショックあり群)。一方、4日目に弱いショックを受けなかったマウスの恐怖反応は上昇しなかった(図1、弱いショックなし群)。4日目に与えた弱いショックによって、一度消失した恐怖が復元したと考えられる。

2.恐怖反応の復元にNMDA受容体および新規タンパク合成が関わる

恐怖記憶の形成には、NMDA受容体を介したカルシウム流入と新たなタンパク質の合成が必要不可欠である。一方で、恐怖反応の消失には、NMDA受容体、タンパク質合成と共に、カンナビノイド受容体であるCB1受容体も必要である。しかし、恐怖反応がどのようなメカニズムによって復元するかは不明である。そこで、恐怖反応の復元にNMDA受容体とタンパク質合成、CB1受容体が関わるのかについて調べた。

4日目に、環境Yで弱いショックを与える30分前に、NMDA受容体阻害薬MK-801 (1.0 mg/kg)を腹腔内投与した(図2a)。翌日にマウスを環境Xへ暴露したところ、MK-801投与群では恐怖の復元が観察されなかった(図2b)。恐怖反応の復元に、NMDA受容体が関わると考えられる。 次に、恐怖反応の復元に、新規タンパク合成が関わるかどうかを調べた。環境Yで弱いショックを与える30分前に、タンパク合成阻害薬Anisomycin (150 mg/kg)を腹腔内投与した(図3a)。24時間後にマウスを環境Xに暴露したところ、Anisomycin群では、恐怖の復元が観察されなかった(図3b)。恐怖の復元に新規のタンパク質合成が関与することを明らかにした。新たに獲得した記憶を長期記憶に変換する過程を固定化と呼ぶ。新規タンパク質合成は新たな記憶の獲得ではなく、固定化に関与する。恐怖の復元過程においても、新規のタンパク質合成は恐怖を長期間安定的に変換する過程に関与するか。また、そもそも恐怖の復元過程において、このような長期間安定化するための変換過程は存在するのか。こうした疑問に答えるため、新規タンパク質合成の阻害が、復元した直後の恐怖に影響を与えるかどうかを調べた。弱い電気ショックを与える30分前にAnisomycinを投与し、弱いショックを与えてから2時間後に、マウスを環境Xへ暴露したところ、Anisomycin群でも恐怖の復元が観察された(図4a, b)。この結果から、恐怖反応の復元自体は2時間以内で行われ、タンパク合成に依存しないことが明らかになった。このように、Anisomycinによる恐怖の復元阻害作用は電気ショックの24時間後の時点で認められたが、2時間後の時点では認められなかった。このことから、恐怖の復元過程に、復元を長時間維持するための固定化過程が存在すること、そしてこの固定化にタンパク質合成が必要であることを明らかにした。

3.復元を誘導する弱いショックによって、扁桃体および内側前頭前皮質が活性化する

恐怖記憶の形成、発現には内側前頭前皮質や扁桃体、海馬が重要な役割を果たすことが知られている。扁桃体の神経核の1つ、BLAは様々な感覚入力を受け、CeMはBLAから入力を受け、恐怖発現を引き起こす。環境についての情報は海馬を介してBLAへ入力される。内側前頭前皮質の一部であるILはCeMを負に制御することで恐怖発現を抑制する。一方、PLはBLAを介して恐怖発現を強める役割を担っている。特に内側前頭前皮質は、恐怖の消失に重要であることが知られている。しかし、恐怖反応の復元にどの部位が関与するかは不明である。

恐怖反応の復元に関わる部位を特定するため、これらの部位が弱い電気ショックによって活性化するかどうかを調べた。これまでと同様、恐怖条件づけ、消失トレーニングを受けたマウスに弱い電気ショックを与え、90分後に脳を摘出し、免疫組織化学染色によって最初期遺伝子c-fosを可視化した。c-fosは神経活動依存的に発現が誘導される最初期遺伝子であるため、発現分布を調べることで活性化した脳領域を特定できる。その結果、恐怖記憶の形成、発現において中心的な役割を果たす扁桃体の外側核(LA)、基底外側核(BLA)、中心核内側部(CeM)、中心核外側部(CeL)でc-Fos発現細胞数の上昇が認められた(図 5c))。内側前頭前皮質を構成する前辺縁皮質(PL)および下辺縁皮質(IL)でもc-Fos発現細胞数の上昇が認められた(図 6c)。しかし、内側前頭前皮質に近接する運動皮質および場所情報を扁桃体へ送る海馬において、c-Fos発現細胞数の有意な上昇は観察されなかった。また、さらに、脳部位間の関係を調べるため、各部位におけるc-Fos陽性細胞の密度を比較した。扁桃体のLA、内側前頭前皮質のPLの間には、No shock群、Shock群共に正の相関が認められた。LA、PL間における協調した活性化は、ショックと関係なく存在することを示している。一方、内側前頭前皮質のILと扁桃体のBLAの間には、弱いショックを受けた場合のみ、有意な高い相関が認められた。ILとBLAの協調した活性化が恐怖反応の復元に寄与する可能性が考えられる

4.内側前頭前皮質における新規タンパク質合成が復元に関わる

内側前頭前皮質におけるタンパク質合成が復元に必要であるかどうかを調べた。復元を誘導する弱い電気ショックの20分前に、内側前頭前皮質へAnisomycin (100 μg / 0.5 μl / 2 min)を投与した。翌日、マウスを条件づけ環境へ暴露し、恐怖反応を測定した。その結果、Vehicle投与群では恐怖の復元が認められたが、Anisomycin投与群では恐怖反応は復元しなかった。この結果から恐怖反応の復元に内側前頭前皮質における新規タンパク合成が関わることを明らかにした。

【総括】

本研究により、恐怖反応の復元にNMDA受容体が関与すること、恐怖反応の復元には固定化過程が存在し、新規タンパク質合成が関わること、恐怖の復元を誘導する弱いショックによって扁桃体および内側前頭前皮質が活性化することを明らかにした。さらに、恐怖反応の復元に、内側前頭前皮質における新規タンパク質合成が必要であることも明らかにした。これらの結果から、前頭前皮質-扁桃体回路における可塑性が復元に寄与する可能性が考えられる。本研究を端緒として恐怖の復元機構が解明され、不安障害の再発防止を目指した創薬ターゲットの発見や、より良い治療法の開発に結びつくことが期待される。

図1.弱いショックによって恐怖が上昇する

図2.恐怖反応の復元にNMDA受容体が関わる

図3.恐怖反応の復元に新規タンパク質合成が関わる

図4タンパク質合成の阻害は復元した直後の記憶に影響を与えない

図5恐怖反応の復元を誘発する弱いショックによって扁桃体が活性化する

図6恐怖反応の復元を誘発する弱いショックによって内側前頭前皮質が活性化する

審査要旨 要旨を表示する

不安障害は、様々な恐怖に対する不安によって引き起こされる精神疾患である。不安障害に対する治療法として、薬物療法と認知行動療法が用いられている。しかし、いずれにしても高い再発率が課題である。再発のメカニズムを解明し、再発を防ぐ治療法の開発が期待されている。

恐怖条件づけは中性刺激と嫌悪刺激の関係を学習する連合学習試験であり、条件づけ後は、中性刺激のみで嫌悪刺激に対する反応を示すようになる。その後、中性刺激のみを長時間提示し続けることで、次第に条件づけ反応は消失する。しかし、恐怖反応が消失した後でも、弱い嫌悪刺激を再び受けただけで恐怖反応は復元する。心的外傷後ストレス障害を初めとした不安障害治療には条件づけ反応の消失を利用した暴露療法が適用されるが、様々な刺激によって恐怖反応が復元してしまうことが治療を妨げる要因の一つである。恐怖記憶に関する過去の研究のほとんど全ては、恐怖の誘発および消失に集中しており、恐怖の復元に関する薬理学的、神経科学的な解析は行われてきてなかった。そこで本研究では、恐怖反応の復元に関わる神経機構の解明を目指した。

1.恐怖反応の復元を解析する実験系の構築

恐怖の復元メカニズムを解析するために、以下の手順によって、』条件づけ恐怖を形成し、その後に消失したマウスを準備した。ある実験環境(環境X)でマウスに電気ショックを与えた。翌日、環境Xに暴露した際、マウスが恐怖反応の一種であるすくみ反応を示したことから、マウスは環境Xと電気ショックの関係を学習したと考えられる。この後、環境Xに40分間暴露し続けると、すくみ反応は次第に消失した(消失トレーニング)。3日目にマウスを再び環境Xに暴露した際、すくみ反応は有意に低下していたことから、"環境Xは安全である"という新たな記憶が形成されたと考えられる。

恐怖の消失を確認した翌日(Day4)、条件づけ環境とは異なる環境Yで、非常に弱い電気ショックを与えたe5日目、環境Xに暴露すると、マウスのすくみ反応時間は有意に上昇した。一方、4日目に弱いショックを受けなかったマウスの恐怖反応は上昇しなかった。4日目に与えた弱いショックによって、一度消失した恐怖が復元したと考えられる。

2.恐怖反応の復元にNMDA受容体および新規タンパク質合成が関わる

恐怖記憶の形成には、NMDA受容体を介したカルシウム流入と新たなタンパク質の合成が必要不可欠である。一方で、恐怖反応の消失には、NMDA受容体、タンパク質合成と共に、カンナビノイド受容体であるCB1受容体も必要である。しかし、恐怖反応がどのようなメカニズムによって復元するかは不明である。そこで、恐怖反応の復元にNMDAA受容体とタンパク質合成、CB1受容体が関わるのかについて調べた。

4日目に、環境Yで弱いショックを与える3o分前に、NMDA受容体阻害薬MK-801を腹腔内投与した。翌日にマウスを環境Xへ暴露したところ、MK-801投与群では恐怖の復元が観察されなかった。恐怖反応の復元に、NMDA受容体が関わると考えられる。

次に、恐怖反応の復元に、新規タンパク質合成が関わるかどうかを調べた。環境Yで弱いショックを与える30分前に、タンパク質合成阻害薬Anisomycinを腹腔内投与した。24時問後にマウスを環境文に暴露したところ、Anisomycin群では、恐怖の復元が観察されなかった。恐怖の復元に新規のタンパク質合成が関与することを明らかにした。新たに獲得した記憶を長期記憶に変換する過程を固定化と呼ぶ。新規タンパク質合成は新たな記憶の獲得ではなく、固定化に関与する。恐怖の復元過程においても、新規のタンパク質合成は恐怖を長期間安定的に変換する過程に関与するか。また、そもそも恐怖の復元過程において、このような長期間安定化するための変換過程は存在するのか。こうした疑問に答えるため、新規タンパク質合成の阻害が、復元した直後の恐怖に影響を与えるかどうかを調べた。弱い電気ショックを与える30分前にAnisomycinを投与し、弱いショックを与えてから2時間後に、マウスを環境Xへ暴露したところ、Anisomycin群でも恐怖の復元が観察された。この結果から、恐怖反応の復元自体は2時間以内で行われ、タンパク質合成に依存しないことが明らかになった。このように、Anisomycinによる恐怖の復元阻害作用は電気ショックの24時間後の時点で認められたが、2時間後の時点では認められなかった。

このことから、恐怖の復元過程に、復元を長時間維持するための固定化過程が存在すること、そしてこの固定化にタンパク質合成が必要であることを明らかにした。

3.復元を誘導する弱いショックによって、扁桃体および内側前頭前皮質が活性化する

恐怖記憶の形成、発現には内側前頭前皮質や扁桃体、海馬が重要な役割を果たすことが知られている。扁桃体の神経核の1つ、BLAは様々な感覚入力を受け、CeMはBLAから入力を受け、恐怖発現を引き起こす。環境についての情報は海馬を介してBLAへ入力される,内側前頭前皮質の一部であるILはCeMを負に制御することで恐怖発現を抑制する。―方、PLはBLAを介して恐怖発現を強める役割を担っている。特に内側前頭前皮質は、恐怖の消失に重要であることが知ちれている。しかし、恐怖反応の復元にどの部位が関与するかは不明である。

恐怖反応の復元に関わる部位を特定するため、これらの部位が弱い電気ショックによって活性化するかどうかを調べた。これまでと同様、恐怖条件づけ、消失トレーニングを受けたマウスに弱い電気ショックを与え、90分後に脳を摘出し、免疫組織化学染色によって最初期遺伝子c-fosを可視化した。c-fosは神経活動依存的に発現が誘導される最初期遺伝子であるため、発現分布を調べることで活性化した脳領域を特定できる。その結果、恐怖記憶の形成、発現において中心的な役割を果たす扁桃体の外側核(LA)、基底外側核(BLA)、中心核内側部(CeM)、中心核外側部(CeL)でc-Fos発現細胞数の上昇が認められた。内側前頭前皮質を構成する前辺縁皮質(PL)および下辺縁皮質(IL)でもc-Fos発現細胞数の上昇が認められた。しかし、内側前頭前皮質に近接する運動皮質および場所情報を扁桃体へ送る海馬において、c-Fos発現細胞数の有意な上昇は観察されなかった。また、さらに、脳部位間の関係を調べるため、各部位におけるC-Fos陽性細胞の密度を比較した。扁桃体のLA、内側前頭前皮質のPLの間には、Noshock群、Shock群共に正の相関が認められた。LA、PL間における協調した活性化は、ショックと関係なく存在することを示している。一方、内側前頭前皮質のILと扁桃体のBLAの間には、弱いショックを受けた場合のみ、有意な高い相関が認められた。ILとBLAの協調した活性化が恐怖反応の復元に寄与する可能性が考えられる。

4.内側前頭前皮質における新規タンパク質合成が復元に関わる

内側前頭前皮質におけるタンパク質合成が復元に必要であるかどうかを調べた。復元を誘導する弱い電気ショックの20分前に、内側前頭前皮質へAnisomycinを投与した。翌日、マウスを条件づけ環境へ暴露し、恐怖反応を測定した.その結果、Vehicle投与群では恐怖の復元が認められたが、Anisomycin投与群では恐怖反応は復元しなかった。この結果から恐怖反応の復元に内側前頭前皮質における新規タンパク質合成が関わることを明らかにした。

本研究により、恐怖反応の復元にNMDA受容体が関与すること、恐怖反応の復元には固定化過程が存在し、新規タンパク質合成が関わること、恐怖の復元を誘導する弱いショックによって扁桃体および内側前頭前皮質が活性化することを明らかにした。さらに、恐怖反応の復元に、内側前頭前皮質における新規タンパク質合成が必要であることも明らかにした。これらの結果から、前頭前皮質-扁桃体回路における可塑性が復元に寄与する可能性が考えられる。本研究を端緒として恐怖の復元機構が解明され、不安障害の再発防止を目指した創薬ターゲットの発見や、より良い治療法の開発に結びつくことが期待される。よって、博士(薬学)の授与に値すると判断した、

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