学位論文要旨



No 128390
著者(漢字) 上村,紘崇
著者(英字)
著者(カナ) ウエムラ,ヒロタカ
標題(和) 強相関電子系における光誘起相転移の超高速ダイナミクス
標題(洋)
報告番号 128390
報告番号 甲28390
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第749号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 物質系専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡本,博
 東京大学 教授 末元,徹
 東京大学 准教授 島野,亮
 東京大学 教授 森,初果
 分子科学研究所 准教授 米満,賢治
 東京大学 教授 鹿野田,一司
内容要旨 要旨を表示する

近年、固体に光を照射することで物性を大きく変化させる「光誘起相転移」と呼ばれる現象が盛んに研究されている。例えば、絶縁体から金属への転移や反強磁性相から強磁性相への転移、あるいは、中性結晶からイオン性結晶への変化など多様な光誘起相転移が見出されている。このような物性制御を高速かつ高効率に行うことができれば、超高速光スイッチや光メモリなどの光機能性素子の実現に繋がることも期待される。超高速かつ高効率な光誘起相転移の舞台として注目されている系の一つが、本研究が対象とする強相関電子系である。強相関電子系では、電子間のクーロン相互作用が電子物性に関して支配的な役割を担う。このような系で光による電子励起を行うと、その効果は電子間相互作用を介して多数の電子に及ぶことになる。その結果、光誘起モット絶縁体-金属転移のような劇的な物性変化が現れる。他にも、低次元系のように電子格子相互作用が大きい系では、電子状態の変化が構造変化を誘起する。マンガンやコバルトの遷移金属化合物のように電子状態とスピン系の相関が強い系では、光励起が磁性の変化に繋がる。

光誘起相転移の研究が発展してきている背景に、パルスレーザー技術の発達が挙げられる。光誘起相転移では、光励起をきっかけに電子状態、原子、分子の位置などが変化していく。そのダイナミクスを明らかにすることは、光誘起相転移の機構解明に必要不可欠である。ところで、固体中で電子の移動に要する時間をトランスファーエネルギーから見積もると、有機分子性結晶では20 フェムト秒(fs)以内、遷移金属酸化物では8 fs以内となる。原子や分子の移動は、格子振動の周期から見積もると、それぞれ20 fs~300 fs、300 fs~10 psとなる。したがって、光誘起相転移の超高速ダイナミクスを明らかにするには、フェムト秒の時間分解能で物性変化を調べる必要がある。近年、100 fsパルスレーザーでは、中赤外領域から近紫外領域まで連続的に波長を変化させることが可能となった。これによって、過渡的な電子状態についての分光学的情報を約180 fsの時間分解能で広帯域にわたって得ることができる。また、可視-近赤外領域では、サブ30 fsのレーザーパルスが容易に得られるようになり、原子、分子の超高速ダイナミクスを測定することも可能になっている。

本研究では、このようなフェムト秒過渡分光測定を用いて有機分子性結晶や遷移金属酸化物等の強相関電子系における光誘起超高速ダイナミクスを調べた。具体的には、(1) 有機電荷移動錯体アルカリ-tetracyanoquinodimethane (TCNQ) における光誘起スピンパイエルス相融解、(2) モット絶縁体におけるキャリアダイナミクス、(3) 有機電荷移動錯体tetrathiafulvalene (TTF) - p-chloranil (CA) における光誘起中性-イオン性転移、及び、(4) ペロフスカイト型マンガン酸化物における光誘起電荷秩序融解を扱った。本学位論文では、第1章で研究の背景、第2章で実験手法を説明する。第3章から第6章で(1)から(4)の各研究についてそれぞれ詳述し、第7章で全体をまとめる。本要旨では、第3章から第6章についてその概要を以下に記す。

第3章では、有機電荷移動錯体アルカリ-TCNQにおける光誘起スピンパイエルス(SP)相融解に関する結果を述べる。アルカリ-TCNQでは、TCNQ分子のπ電子がhalf-filledの擬一次元電子系を形成し、π 軌道の大きなオンサイトクーロン反発のためモット絶縁体となる。また低温では、SP機構によってTCNQ分子が二量体化する。先行研究により、アルカリ-TCNQのSP相にレーザーパルスを照射すると二量体分子変位の減少、すなわちSP相の融解が起こることが明らかにされていた。しかし、(1)SP相の融解に伴って分子がどのように変位するのか、(2)光誘起SP相融解の効率がどのように決定されるか、という点は明らかにされていなかった。そこで、(1)に関して、時間分解能約30 fsの測定により超高速分子ダイナミクスを調べた。その結果、例えばK-TCNQでは、SP相の不安定化に伴って7種類の分子変位モードが誘起されることがわかった。(2)に関して、光誘起SP相融解ダイナミクスの温度依存性や励起密度依存性を調べた。その結果、SP相の一次元的な性質や一次元鎖間の相互作用が光誘起SP相融解の効率に影響を及ぼすことを明らかにした。さらに、分子変位ダイナミクスを精密に測定することにより、Na-TCNQでは、高密度励起によって二量体変位が完全に消失することを明らかにした。

第4章では、一次元モット絶縁体における光キャリアのダイナミクスに関する結果を述べる。一次元系に特有の性質として、電荷の移動にスピン状態の変化を伴わない、スピン―電荷分離が挙げられる。この性質のため、一次元モット絶縁体にドープしたキャリアは、ドルーデ的に振る舞うことが期待される。その一方で、擬一次元系では電子格子相互作用が電子状態に大きな影響を及ぼす。特に、キャリアに対しては、格子変形によってキャリアを局在化させるポーラロン効果が働く。したがって、一次元モット絶縁体に光キャリアをドープした場合には、スピン―電荷分離の性質からドルーデ的な振る舞いが期待される一方で、電子格子相互作用による局在化が起こる可能性がある。そこで本研究では、光キャリアの性質を電子格子相互作用の大きさが異なる三種類の有機一次元モット絶縁体について調べ、系統的に比較した。その結果、電子格子相互作用が大きいほどポーラロンとして局在化することが実験的に明らかになった。また、電子格子相互作用はポーラロン効果以外にも、パイエルス機構やスピンパイエルス機構を通じて、アルカリ―TCNQにおける二量体化のように格子変形を引き起こす。このような格子変形によって一様格子から変化すると、キャリアの性質、特にスピン―電荷分離に関わる性質が変化することが期待される。そこで、Rb-TCNQ(II)の高温相と低温相、すなわち、一様格子相と二量体格子相で光キャリアの性質がどのように異なるかを調べた。その結果、ポーラロンによるミッドギャップ吸収が二量体化によって二つに分かれることを発見した。二つの励起の性質を詳細に調べた結果、高エネルギー側の励起は、スピンと電荷が結合した励起、すなわち、電荷移動にスピン系の変化を伴う励起であることが明らかになった。このことは、格子の二量体化によって、スピン―電荷分離の性質が破れたことを示している。

第5章では、有機電荷移動錯体TTF-CAにおける光誘起中性―イオン性転移の超高速ダイナミクスについて述べる。TTF-CAは、電子ドナーのTTFとアクセプターのCAからなる電荷移動錯体である。転移温度81 Kより高温では、TTFからCAにほとんど電子が移動していない中性相となり、低温では、TTFからCAに電子が移動したイオン性相になる。イオン性相では、各分子に電子(スピン)が一つずつ存在するため、スピンパイエルス機構により二量体化する。中性-イオン性転移では、TTFからCAへの電荷移動量の変化、価数の違いによる分子形状の変化、スピンパイエルス機構による分子変位、など様々な自由度が変化する。先行研究では、時間分解能180 fsの時間分解分光測定により、光照射によって中性相とイオン性相の間で転移が起こることが明らかにされていた。しかし、180 fsの時間分解能は、電荷移動(約20 fs)や分子変形(20 fs~300 fs)のダイナミクスを測定するには不十分であった。そこで、本研究では、時間分解能約20 fsの測定を行い、光誘起中性―イオン性転移の超高速ダイナミクスを明らかにすることを試みた。その結果、初期過程が電子的な過程であることが明らかになった。また、分子変形・分子変位ダイナミクスを精密に検出することに成功し、光誘起中性-イオン性転移における複雑な電荷-格子結合ダイナミクスを明らかにした。

第6章では、ペロフスカイト型マンガン酸化物R1-xAxMnO3(x ~0.5)における光誘起電荷秩序融解の超高速ダイナミクスについて述べる。この物質では、Mnの平均価数が約3.5であり、低温でMn3+ とMn4+ が整列した電荷秩序 (CO)相となる。光照射によってCO相が融解する現象は、これまでにも数多くの系で研究されてきた。しかし、中赤外領域までの分光学的情報とサブ50 fsの超高速ダイナミクスの両方が調べられている系は少ない。そこで本研究では、Pr0.6Ca0.4MnO3単結晶について時間分解能180 fsの時間分解スペクトロスコピーによって光誘起相の電子状態を調べ、時間分解能約40 fsの測定により光誘起CO融解の超高速ダイナミクスを調べた。その結果、光励起直後、電子的に電荷秩序が融解した後、CO相と強く結合しているJahn-Teller型の酸素変位が誘起されることが明らかになった。さらに、CO相における電子構造の異方性が、光照射による融解だけではなく、回復過程でも減少していくことが明らかになった。

以上のように、フェムト秒過渡分光測定によって電荷・格子の超高速ダイナミクスを実時間観測することに成功し、様々な光誘起相転移ダイナミクスを明らかにした。また、その光誘起ダイナミクスを通じて、各物質の物性を支配している相互作用を明らかにした。このような相互作用は、静的な状態で検出することは困難だが、光によって誘起された過渡的な状態で顕在化し、直接検出することが可能となる。

審査要旨 要旨を表示する

近年、光照射によって固体の電子構造や物性を制御しようという試みが、盛んに行われている。この現象は光誘起相転移と呼ばれており、光誘起絶縁体―金属転移、光誘起中性―イオン性転移、光誘起反強磁性―強磁性転移など、様々な現象が見出されている。これらの現象を機能として生かそうとする場合、光による物性変化をいかに高速に起こせるかが鍵になる。その点で注目されているのが、強相関電子系であり、遷移金属酸化物や有機電荷移動錯体がそれに属する。強相関電子系の特徴は、電子間の相互作用を通して、電子(スピン)系に集団的性質が現れることにある。この性質を利用すれば、光照射による電子励起やキャリア生成をきっかけとして、系の広い領域にわたって電子状態の高速変化を引き起こすことができると期待される。

本論文では、この様な発想に基づき、強相関電子系物質(電荷移動錯体およびマンガン酸化物)において光誘起相転移の超高速ダイナミクスを調べた結果が述べられている。これまでの光誘起相転移ダイナミクスの研究は、主に時間幅が100フェムト秒のレーザーパルスを用いて行われてきた。それらの測定では、時間分解能が十分でなく、電子の運動はもとより、分子変形や原子変位のダイナミクスを実時間検出することができない。そこで、本研究では、時間幅15 から30フェムト秒の超短パルスレーザーを用いた時間分解分光測定を行い、電荷移動錯体およびマンガン酸化物が示す典型的な光誘起相転移において、電荷、分子、格子の超高速ダイナミクスを検出し、相転移の物理的機構を議論した。

本論文は7章からなる。第1章には、序論として、研究の背景と目的、論文の概要、および、論文の構成が述べられている。第2章には、試料作成と時間分解分光測定の方法が述べられている。

第3章では、アルカリ-tetracyanoquinodimethane (TCNQ) における光誘起スピンパイエルス相融解に関する結果が述べられている。時間分解能40フェムト秒の過渡反射測定により、K-TCNQにおいて、光照射によるスピンパイエルス相の不安定化に伴って7種の分子変位モードが誘起されることが示され、スピンパイエルス相の安定化にそれら7つのモードが関与していることが明らかにされた。また、相転移ダイナミクスの温度依存性と励起密度依存性を調べた結果、スピンパイエルス相の一次元的な性質や鎖間相互作用が相転移効率に強い影響を及ぼすことが示された。さらに、Na-TCNQでは、強励起によって二量体変位が完全に消失することが明らかにされた。

第4章では、一次元モット絶縁体の光キャリアダイナミクスを、過渡反射測定によって調べた結果が述べられている。電子格子相互作用の大きさが異なる三種の電荷移動錯体について測定が行われ、電子格子相互作用が大きいほどキャリアがポーラロンとして局在し易いこと、二量体格子変形によってスピン―電荷分離の性質が破れることが明らかにされた。

第5章では、tetrathiafulvalene-p-chloranilにおける光誘起中性―イオン性転移のダイナミクスが述べられている。時間分解能20 フェムト秒の過渡反射測定により、光照射によるイオン性ドメイン生成の初期過程が電子的な過程であることが示された。更に、ドメイン形成に引き続いて生じる分子変形と分子変位のダイナミクスが詳細に検出され、中性-イオン性転移における複雑なダイナミクスの全容が明らかにされた。

第6章では、マンガン酸化物における光誘起電荷秩序融解のダイナミクスが述べられている。典型物質であるPr0.6Ca0.4MnO3において、時間分解能180フェムト秒での過渡反射スペクトルと時間分解能40フェムト秒での反射率変化のダイナミクスが測定された。その結果、光励起直後に電子的に電荷秩序が融解した後、電荷秩序と強く結合していたヤーンテラー型の酸素変位が解放されることが示された。さらに、電荷秩序相における巨視的な電子構造の異方性が、光照射後どのように変化するかが示され、相転移の物理的機構が明らかにされた。

第7章では、本研究の総括が述べられている。

なお、第3章については、岡本博(東京大学)との共同研究、第4章については、前島展也氏(筑波大学)、米満賢治氏(分子研)、岡本博(東京大学)との共同研究、第5章については、岡本博(東京大学)との共同研究、第6章については、富岡泰秀氏(産総研)、十倉好紀氏(東京大学)、岡本博(東京大学)との共同研究であるが、いずれも論文提出者が主体となって研究を遂行したもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

以上から、本論文は、強相関電子系の光誘起相転移の機構解明とその光機能性材料としての新しい可能性の開拓に大きく貢献するものである。したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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