学位論文要旨



No 128399
著者(漢字) 新井,秀実
著者(英字)
著者(カナ) アライ,ヒデミ
標題(和) 軟X線発光及び吸収分光による有機溶媒中の水の水素結合の研究
標題(洋) Hydrogen Bonding of Water in Organic Solvent Studied by Soft X-ray Emission and Absorption Spectroscopy
報告番号 128399
報告番号 甲28399
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第758号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 複雑理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辛,埴
 東京大学 教授 斉木,幸一朗
 東京大学 准教授 高木,紀明
 東京大学 准教授 溝川,貴司
 東京大学 准教授 佐々木,岳彦
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

水(H2O)は常温で無色透明の液体であり、多様な物質を溶かす事の出来る溶媒である。水は地球上で最もありふれた物質の一つであり、人間の60~70%が水で構成されていることに象徴されるように、生物が生きるために必須な物質である。しかしながら、このありふれた物質は、特異的であるとも言われる。例えば、沸点は16族元素水素化物の中では異常に高いこと、多くの液体が低温になるほど密度が高くなるのに対して液体の水は4℃よりも低い温度では密度が低下すること、氷が水に浮くことで分かるように固体が液体よりも比重が小さいなどである。このような他と異なる物性を持つ最大の理由として考えられているのが、水分子の持つ極性から起こる水素結合である。水素結合がもたらす水のネットワーク構造については、赤外線吸収分光、ラマン分光、X線や中性子回折法など実にさまざまな手法で研究されているが、近年、電子状態の観測手法である軟X線吸収分光と軟X線発光分光法の新しい測定法の適用によってモデルに関する新たな結果が報告され水の構造の議論は再燃の気配を見せている。

軟X線吸収分光は軟X線で内殻電子が非占有軌道に励起することで非占有軌道の電子状態を得る方法である。一方、軟X線発光分光は、吸収後によって生じた内殻ホールを占有軌道の電子が埋める際の発光を分光することで、占有軌道の電子状態を得る方法である。これらの手法は絶縁体に適用でき、検出深さが大きいことから液体の電子状態の観測に非常に有効な手法の一つである。近年行われた高分解能軟X線発光分光による液体の水の研究において、水の中に水素結合による配位構造が異なる2つの成分が存在することが示された1,2。軟X線吸収・発光分光は液体の水素結合に関する情報を提供するユニークな研究手法として期待されている。また、これらの手法は内殻電子の局在性により元素選択性を有しており、溶液中の特定の分子の電子状態を選択的に観測することができるので、生化学反応を含む多様な化学反応や界面における反応を電子状態の変化として捉える手段となり得る。しかしながら、これら二つの分光手法が適用された系は、単純な溶液系についてさえ限られており、水素結合に対してどの程度感度があり、またどのような情報が得られるのかについての基礎的な理解が確立されていない。

そこで、本研究では軟X線吸収・発光分光が液体の水素結合に関してどのような情報を与えるのか、水素結合の変化によって水の電子状態がどのように変化するかを明らかにすることを目的として、水/有機溶媒混合系について研究を行った。水/有機溶媒混合系は極性溶媒同士の混合で、有機溶媒は水の水素結合ネットワークに影響を与える。有機溶媒の種類による変化を観測するために、水/ピリジン、水/アセトニトリル、水/エチレンジアミンの三種の二液混合系、混合比による水素結合の変化を観測するために水/3-メチルピリジンの二液混合系について実験を行った。

【実験】

実験は放射光施設SPring-8の BL17SU発光ステーションで行った。測定には溶液用の軟X線発光分光器を使用した3。サンプルを送液するため、溶液セルを用いた(Fig. 1)。送液することで、X線によるサンプルの照射ダメージを防ぐことが可能である。また、窓材(Si3N4窓)によって大気と真空の間に仕切りを設け、大気側では溶液セルを設置し、真空側では軟X線照射と、発光分光さらに蛍光収量による吸収測定を行った。

【結果と考察】

1.有機溶媒依存性

まずは、重水(D2O)と混合させる溶媒を変えたときの水の水素結合に注目した。用いた有機溶媒は、ピリジン(C5H5N)、アセトニトリル(CH3CN)、エチレンジアミン(H2NCH2CH2NH2)を選んだ。前者二つの有機溶媒に対して水はドナーとなり、後者に対してはアクセプターとなる。これら3つの溶媒は水と完全混和する。Fig. 2に水のモル分率が小さい試料の水のO 1s吸収スペクトルを示した。有機溶媒の種類によって、吸収スペクトルの形状が大きく変化していることがわかる。ピリジンおよびエチレンジアミン中の水の吸収スペクトルは、水蒸気で観測される2b2及びRydberg軌道への遷移によるピークがほぼ完全に消滅しているのに対し、アセト二トリル中の水のスペクトルでは2b2軌道が明瞭に観測されている。この結果は、(1)ピリジンおよびエチレンジアミンと水の間には強い相互作用が働き、水の非占有分子軌道がこれらの有機溶媒との水素結合によって強い影響を受けている、(2)一方アセトニトリルと水の間の相互作用は弱く、水蒸気の分子軌道をある程度保っていることを示している。アセトニトリルに関するX線回折と赤外振動分光を組み合わせた研究結果4から、水の低濃度領域では水素結合に比べて弱い双極子-双極子相互作用が支配的であることが報告されており、本研究の結果と一致する。

一方、水低濃度領域における有機溶媒中の水のO 1s発光スペクトル(Fig. 3)を比較すると、純水とは大きく異なり、いずれの発光スペクトルも水分子の1b2、3a1、1b1の分子軌道に由来する3本のピークから構成されることが観測された。この結果は、水が薄くなると、溶媒と水の相互作用のみが働き、水分子は有機分子によって溶媒和されていると解釈できる。水が希薄な領域では水と溶媒の組み合わせによって発光スペクトルに違いがあることが観測された。1b1ピークのエネルギー位置を見てみると、アセトニトリル中の水が最も水蒸気に近くなっている。この結果は水とアセトニトリルとの間の相互作用が弱い、すなわち双極子相互作用が支配的であるという吸収スペクトルの結果と一致する。さらに、エチレンジアミンに溶媒和された水のスペクトルが他の2種類の混合系と大きく異なっていることが分かる。この系では水はアクセプターとしてのみ機能することから、アクセプターの水の電子状態だけを観測した初めての結果であり、ドナーの水とアクセプターの水の電子状態が顕著に異なることが示された。

2.濃度依存性

次に、水(D2O)/3-メチルピリジン混合系について、濃度依存した水素結合の変化を調べた。3-メチルピリジン(C6H7N)は、ピリジンと良く似た構造を持ち、ベンゼン環のメタ位置にメチル基を持つ。この系は同位体効果があることが知られていて、水(H2O)/3-メチルピリジン混合はどの温度、比率においても完全に混和する。一方で、混合させる水を重水(D2O)に変えたとき、室温では完全混和するが、37°C から117°Cの間で2相分離領域を持つ特殊な系である。5また、この系ではピリジンと同様に水分子と3-メチルピリジン分子との間ではO-D・・・N 水素結合が形成されることが知られている。

O 1s発光スペクトルでは,純水で見られる1b1の2本ピークの相対強度が濃度変化に対して敏感に反応し、水の濃度が薄くなるにつれて、4配位の水素結合に由来する氷様の水成分(ピークA)が減少し、歪んだ水素結合成分(ピークB)が増大した(Fig. 4)。一方O 1s吸収スペクトルでは、535eV付近にあるpre-edgeピークエネルギー位置が、水の濃度(モル分率:XD2O)変化に対して敏感に反応し、濃度が薄くなるにつれて高エネルギー側にシフトした(Fig. 5)。このpre-edgeピークのエネルギー位置をフィッティングによって決定し、濃度の関数としてプロットした結果を図6に示す。この図から、水の高濃度領域 (XD2O ≧ 0.8)、中間領域 (0.8 ≧ XD2O ≧ 0.2)、低濃度領域 (XD2O ≦ 0.2) の三つの領域で、濃度依存性が異なることを見出した。水高濃度領域では、ピークシフトが小さく吸収、発光スペクトルにおいても形状が純水と似ていることから、水の水素結合が純水とあまり変わらないことが示された。この結果は、D2O/3-メチルピリジン混合系において、水が濃い領域と3-メチルピリジンが濃い領域が形成されることを示しており、同じ系で密度の不均一性を示唆した中性子小角散乱の研究結果6と一致している。

中間領域では、水が薄くなるにつれて、pre-edge吸収ピークの連続的なエネルギーシフトが観測され、発光スペクトルでは1b1の2本ピークの相対強度の変化が観測された。 これらの結果は、3-メチルピリジンが追加されることで水分子間の平均配位数が連続的に減少していることを示している。水の低濃度領域では、高濃度領域と同様に吸収ピークの濃度依存性が小さくなっており、純水に比べて0.45 eVのシフトが観測された。また発光スペクトルでは、氷様の水成分に対応するピークがほぼ消えている。これらの結果は、水分子同士の水素結合がほぼ完全に水/3-メチルピリジンの水素結合に置き換わり、溶媒和されていることを示しており、熱測定の結果7と一致している。

【まとめ】

軟X線吸収・発光分光による水の水素結合の溶媒依存性から、有機溶媒中の水分子を溶媒和する有機分子の形状や構造に依存した相互作用の違いに関する情報を見出した。軟X線吸収・発光分光を用いた3-メチルピリジン中の水の電子状態観測から、濃度変化に伴った水の水素結合変化を捉えた。これらの結果は、二つの手法が電子状態を介して分子間の相互作用、水素結合に関する情報を与えることを明確に示すものである。本研究で行った軟X線吸収・発光分光法を用いた有機溶媒中の水の電子状態及び、水素結合の解明は、今後多くの生体分子の電子状態、ならびに電子状態の変化と深く結びついた化学反応に関する研究を進めるにあたっての大きな基礎を築いた。

[1] T. Tokushima et al., Chem. Phys. Lett. 460, 387 (2008). [2] C. Huang et al., Proc. Natl. Acad. Sci. (U. S. A) 106, 15214 (2009). [3] T. Tokushima et al., Rev. Sci. Instrum. 77, 063107 (2006). [4] T. Takamuku et al., J. Phys. Chem. B 102, 8880 (1998) [5] K. Sadakane et al., Soft Matter 7, 1334 (2011). [6] L. Almasy et al., J. Mol. Liq. 101, 89 (2002). [7] W. Marczak et al., J. Chem. Therm. 36, 575 (2004). [A] S. Myneni et al., J. Phys. B 14, L213 (2002) [B] P. Wernet et al., Science 304, 995 (2004).

Fig. 1

Fig. 2

Fig. 3

Fig. 4

Fig. 5

Fig. 6

審査要旨 要旨を表示する

本論文は8章からなる。第1章は,本論文の序論であり、主題である「軟X線発光及び吸収分光による有機溶媒中の水の水素結合の研究」についての研究の意義について述べられている。研究背景では、水の水素結合と構造モデルの歴史的な背景と、本研究に関する水の軟X線発光及び吸収測定に関する過去の研究が紹介されている。特に、液体の水の構造モデルに関する、液体の水の軟X線発光スペクトルで観測されたピークの分裂の解釈・論点を挙げて、本論文の目的としている。

第2章には本研究で用いられた実験手法である軟X線吸収及び発光分光の原理が述べられており、各手法によって得られる情報などについての詳細と共に紹介されている。

第3章には本研究が行われた放射光施設SPring-8の BL17SU発光ステーションの紹介がされている。さらに測定に用いた溶液用の軟X線発光分光器や溶液セルなど実験装置に関する詳細が述べられている。

第4章は水と混合させる溶媒を変えたときの水の水素結合に注目した。用いた有機溶媒は、ピリジン、アセトニトリル、エチレンジアミンを選び、それぞれ異なる相互作用が水分子との間に働く。水低濃度領域における有機溶媒中の水の発光スペクトルを比較すると、純水とは大きく異なり、いずれの発光スペクトルも水分子の1b2、3a1、1b1の分子軌道に由来する3本のピークから構成されることが観測された。この結果は、水が薄くなると、溶媒と水の相互作用のみが働き、水分子は有機分子によって溶媒和されていると解釈できる。一方で、水が希薄な領域では水と溶媒の組み合わせによって発光及び吸収スペクトルに違いがあることが観測され、相互作用の違いを軟X線発光・吸収測定で見分られることを明らかにした。

第5章では、水の発光スペクトルで観測されたピークの分裂の軌道対称性を調べるために縦偏光及び横偏光励起による液体の水の軟X線発光偏光依存性測定を行ない、その結果を示した。発光スペクトルのどちらのピークも横偏光によって強度増大し、縦偏光と横偏光それぞれの測定で得られた発光スペクトルの差分結果から、ピークの分裂は同じ1b1軌道に由来するピークであることを明らかにした。本章の結果と4章の結果を合わせて、液体の水の発光スペクトルで観測されたピークの分裂は、水の中に水素結合による配位構造が異なる2つの成分が存在することを示し、水の構造は2状態モデルであることを解明した。

第6章では、軟X線発光及び吸収分光が水素結合に対して敏感であることが明らかになったので、その応用として相分離現象や溶媒和の鍵になる有機溶媒中の水の水素結合に注目し、不均一性を持つ水(D2O)/3-メチルピリジン混合系について、濃度依存した水素結合の変化の結果を示した。この結果から中性子散乱で検出できていない濃度領域でも不均一性があることを明らかにした。さらに発光スペクトルに等発光点があることが観測された。この結果から、この系の混合状態は純水に近い成分と3-メチルピリジンに溶媒和された水の2成分であり、さらに不均一性を形成しているものは純水に近い成分と3-メチルピリジンであることを明らかにした。

第7章には水素結合に関するさらなる議論をするため、有機溶媒中の酢酸の吸収測定結果を示した。2液混合系においては未だ議論されていないサチュレーション効果を補正する手順を、蛍光収量によって観測された有機溶媒中の酢酸の吸収スペクトルに適用した。この結果、補正された吸収スペクトルを得ることに成功し、観測された吸収スペクトルのピークは水素結合に対して敏感に反応することを明らかにした。第8章には、本研究の総括が述べられている。

以上のように、本論文は、水の構造モデルに関する決着をつけ、有機溶媒中の水分子を溶媒和する有機分子の形状や構造に依存した相互作用の違いに関する情報を見出し、さらに不均一性の正体を明らかにした。これらの結果は、今後多くの生体分子の電子状態、ならびに電子状態の変化と深く結びついた化学反応に関する研究を進めるにあたって、新しい可能性の開拓に大きく貢献するものである。

なお、本論文第5章は、辛埴氏、Anders Nilsson氏、Lars G.M. Pettersson氏、原田慈久氏、高橋修氏、徳島高氏、堀川裕加氏、第6章は、辛埴氏、高田恭孝氏、大橋治彦氏、仙波泰徳氏、原田慈久氏、徳島高氏、貞包浩一朗氏、堀川裕加氏、第7章は、辛埴氏、徳島高氏、堀川裕加氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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