学位論文要旨



No 128400
著者(漢字) 飯田,宗徳
著者(英字)
著者(カナ) イイダ,ムネノリ
標題(和) 神経細胞モデルの位相応答曲線に関する理論研究
標題(洋) A Theoretical Study on Phase Response Curve of Neuron Models
報告番号 128400
報告番号 甲28400
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第759号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 複雑理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡田,真人
 東京大学 教授 鈴木,宏二郎
 東京大学 教授 杉田,精司
 東京大学 准教授 溝川,貴司
 東京大学 准教授 國廣,昇
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

脳における情報処理の仕組みを解明するためには,脳を構成する神経細胞の理解が重要である.神経細胞は,生理学的には多数のイオンのダイナミクスでモデル化されるため,高次元の非線形微分方程式で記述されている.そのため神経細胞の挙動は大自由度の力学系と考えられる.大自由度の力学系を扱う手法の1つに,縮約がある.大自由度力学系が振動状態にある場合,低次元自由度の力学系へ縮約ができる.縮約された新たな変数のダイナミクスは,外部からの影響を系がどのように受けるのかを示す関数によって特徴付けられる.この関数は位相応答曲線(Phase Response Curve, PRC)と呼ばれ,系を構成する要素の相互作用は,この関数によって議論される.

神経細胞の相互作用により脳内では情報が処理されているため,脳における情報処理の仕組みを理解するためにも,神経細胞の位相応答曲線の理解が重要である.神経細胞は,生体内に存在するイオンの濃度勾配に起因する電位差(膜電位)によって,情報を表現していると考えられている.神経細胞の外部からの入力に対する膜電位の変化は,神経細胞によって異なり,その性質は膜特性と呼ばれ,神経細胞の生理学的な特徴の1つである.よって,神経細胞間の相互作用を明らかにするためには,神経細胞の膜電位の変化を担う膜特性と位相応答曲線との関係を明らかにする必要がある.しかし,神経細胞の膜特性と位相応答曲線との関係は十分明らかになっていない.

本論文の目的は,神経細胞の位相応答曲線を,生理学的妥当性を保ちつつ,かつ,解析的に導出することである.そのため,我々は本研究において,生理学的に妥当であり,かつ,解析的な取り扱い可能な神経細胞の数理モデルであるスパイクレスポンスモデルを用いて,位相応答曲線の導出を試みる.そして我々は,近年の生理学実験によって測定されている位相応答曲線の測定結果を説明するために,導出した理論の拡張を試みる.

2.スパイクレスポンスモデルの位相応答曲線

我々は,まず,2章において,スパイクレスポンスモデルを用いて,位相応答曲線の導出を行う.スパイクレスポンスモデルは,神経細胞の膜特性を関数で直接的に記述しており,解析的な取り扱いが可能な神経細胞の数理モデルである.スパイクレスポンスモデルを用いることにより,神経細胞の位相応答曲線を解析的に求めることが可能となる.

ここでは,神経細胞の膜電位の挙動と発火閾値に着目することにより,位相応答曲線を導出する新しい理論的枠組みを示す.そして我々は,解析計算により,神経細胞の膜特性をあらわす関数を用いて位相応答曲線を記述することに成功した.その結果,スパイクレスポンスモデルの位相応答曲線を解析的に導出することにより,神経細胞膜の生理学的な応答特性を定める膜特性と,その神経細胞の位相応答曲線との関係が解析的に明らかになった.さらに我々は,導出した理論の妥当性を検証するため,数値シミュレーションを行った.数値シミュレーションの結果から,我々は導出した理論の妥当性を確認した.

従来の位相応答曲線に関する理論研究では,生理学的な知見と位相応答曲線との関係は,主に数値的な対応関係で与えられていた.そのため,位相応答曲線に関して一般的な議論をすることは,個々の神経細胞の位相応答曲線を数値的に求める必要があり,困難であった.本研究において,スパイクレスポンスモデルの位相応答曲線が導出されたことにより,神経細胞の生理学的な応答特性と,位相応答曲線との関係が解析的に明らかになり,両者の関係について包括的な議論が可能になったと考える.

3.位相応答曲線における神経細胞の不応期の影響

続いて我々は,3章及び4章において,前章で得られた理論の深化を試みる. 3章では,神経細胞の生理学的な応答特性の1つである,神経細胞膜の不応期と位相応答曲線の関係について,数理モデルを用いて解析的に明らかにする.生理学の実験などにより,発火直後の神経細胞は,発火後十分な時間が経った神経細胞と比べ,外部からの入力に対する応答が弱くなることが知られている.この外部からの入力に対して神経細胞の応答が弱くなる期間は,神経細胞の不応期と呼ばれている.

我々は,まず神経細胞の不応期を考慮したスパイクレスポンスモデルの定式化を行う.神経細胞の不応期は,神経細胞膜に存在するナトリウムイオンチャネルが不活性化するために生じる.しかし,従来の位相応答曲線に関する理論研究では,ナトリウムイオンチャネルの挙動が,生理学的な現象に基づく複雑な微分方程式で扱われている.そのため,位相応答曲線における神経細胞の不応期の影響を解析的に取り扱うことは困難であった.我々は,神経細胞の不応期を膜特性に取り入れることにより, 2章で構築した理論的枠組みを用いて,神経細胞の不応期を考慮したスパイクレスポンスモデルの位相応答曲線を導出した.その結果,神経細胞の不応期と位相応答曲線の関係が解析的に明らかになった.

神経細胞の不応期を考慮した位相応答曲線が3章において解析的に導出できたことにより,位相応答曲線における神経細胞の不応期の影響が明らかになった.その結果,発火周波数によって位相応答曲線の形状が変化する可能性が示唆された.そのため我々は,数値シミュレーションにより,位相応答曲線の発火周波数依存性について検証を行った.異なる発火周波数において,神経細胞の位相応答曲線は異なる形状を示すことが確認できた.本研究により,我々は,位相応答曲線が発火周波数に依存する原因の1つとして,神経細胞の不応期の影響があることを明らかにした.

4.位相応答曲線における神経細胞の非線形効果

さらに我々は,4章において,生理学実験における神経細胞の位相応答曲線に対する摂動刺激の大きさの影響について議論する.近年の生理学実験において,神経細胞の位相応答曲線が測定されており,その結果,同一の神経細胞から異なる位相応答曲線が測定されることが報告されている.しかし,前章までの理論を含め,多くの位相応答曲線に関する理論研究では,無限小の摂動刺激を仮定しているため,位相応答曲線における摂動刺激の大きさの影響に関する議論が不十分であった.

我々は,まず,位相応答曲線が摂動刺激の大きさに依存して変化する原因を探るため,高次元の非線形微分方程式で記述されているコンダクタンスベースモデルとスパイクレスポンスモデルとの対応関係を示した.コンダクタンスベースモデルは,実際の神経細胞の挙動を模擬する数理モデルである.我々は,次に,スパイクレスポンスモデルを用いることにより,有限の大きさを持つ摂動刺激を考慮した位相応答曲線を解析的に導出し,位相応答曲線に対する摂動刺激の大きさの影響を議論した.

摂動刺激の大きさを考慮した位相応答曲線を4章において解析的に導出できたことにより,位相応答曲線が摂動刺激の大きさに依存して示す非線形変化の原因として,神経細胞の膜特性の非線形な変化と,位相応答曲線の高次の非線形成分の影響が考えられることを示した.さらに,数値シミュレーションを行い,その結果から,位相応答曲線が摂動刺激の大きさに依存して示す非線形変化の主な原因は,位相応答曲線の高次の非線形成分の影響であることを明らかにした.

5.まとめ

最後に5章において,我々は,本研究における主要な成果をまとめた.本論文では,我々は,神経細胞の膜特性と位相応答曲線との関係を解析的に導出する方法を提案した.我々は,神経細胞の数理モデルであるスパイクレスポンスモデルを用いることにより,神経細胞の膜特性をあらわす関数によって,位相応答曲線が記述できることを明らかにした.

また,神経細胞の不応期が位相応答曲線に与える影響を議論した.我々は,神経細胞の不応期を考慮したスパイクレスポンスモデルを構築し,不応期を考慮した神経細胞の位相応答曲線を解析的に導出することに成功した.その結果,位相応答曲線における神経細胞の不応期の影響が明らかになった.さらに我々は,神経細胞の膜特性に不応期の効果を考慮した場合,位相応答曲線の周波数依存性が説明できることを示した.

そして,位相応答曲線における神経細胞の非線形効果について議論した.我々は,摂動刺激の大きさを考慮した位相応答曲線を理論的に導出した.その結果,摂動刺激に対する非線形性は,膜特性の非線形な変化より,位相応答曲線の高次効果が強く影響していることを明らかにした.

本論文により,神経細胞の生理学的な特徴である膜特性と,その神経細胞が示す位相応答曲線との関係が解析的に明らかになった.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章から構成されている.

第1章は導入にあてられ,神経細胞の生理学的知見や神経細胞の数理モデルなど,本研究の背景について紹介されている.第1章において,本研究で用いる位相応答曲線について紹介が行われている.位相応答曲線は高次元で複雑な微分方程式を縮約する上で重要な関数である.神経細胞の数理モデルは高次元の微分方程式で記述されるため,神経回路などの相互作用する系を議論するために重要な指標となる.さらに本研究の目的について第1章で述べられている.

第2章から第4章までは,論文提出者のオリジナルの研究が紹介されている.第2章では,神経細胞の数理モデルの1つであるスパイクレスポンスモデルを用いて,位相応答曲線を解析的に導出する新規手法が提案されている.本論文では,スパイクレスポンスモデルを用いることにより,位相応答曲線を解析的に導出することに成功している.神経細胞の膜電位が持つ発火閾値に関して,膜電位の関係式を導出し,この関係式を用いることにより解析的に位相応答曲線が導出された.その結果,神経細胞の膜特性を記述する関数と,位相応答曲線との関係が明らかにされた.電気生理学において,神経細胞の膜電位は,外部入力に対して,神経細胞ごとに異なった応答を示すことが知られている.この外部入力に対する神経細胞の膜電位の応答は,膜特性と呼ばれる電気生理学的な応答特性に強く依存する.第2章では,さらに数値シミュレーションにより,一般的な神経細胞の膜特性について,導出した理論の妥当性が検証されている.第2章において,位相応答曲線と膜特性との関係が解析的に明らかになった.

第3章と第4章は,近年の生理学実験において測定される,位相応答曲線の実験結果で観測される2つの効果について,第2章で導出された理論を用いて,議論されている.第3章では,位相応答曲線における神経細胞の不応期の影響が調べられている.神経細胞の膜電位は,発火直後に外部から摂動刺激を受けた場合,それ以外の場合に比べ,応答が弱くなる膜特性がある.この期間は不応期と呼ばれている.従来の研究では,不応期は,神経細胞膜を介したイオンの挙動に伴う現象であるため,複雑な微分方程式によって取り扱われていた.不応期を考慮したスパイクレスポンスモデルを用いて,位相応答曲線が解析的に導出されている.その結果,神経細胞の発火周波数が異なる場合,位相応答曲線に神経細胞の不応期の影響が現れることが明らかになった.位相応答曲線の周波数依存性について,数値シミュレーションによって,導出した理論の検証が行われている.これにより,位相応答曲線における神経細胞の不応期の影響が明らかになった.

第4章では,位相応答曲線における神経細胞の非線形効果を議論するため,位相応答曲線における摂動刺激の大きさ(摂動強度)の影響が調べられている.位相応答曲線を測定する際,生理学実験では,有限の大きさを持つ摂動刺激が用いられている.第4章では,まず,有限の大きさを持つ摂動刺激を考慮した位相応答曲線が解析的に導出された.解析計算により,摂動強度が位相応答曲線に与える影響が明らかにされ,位相応答曲線の高次非線形効果と摂動強度との関係が明らかなった.数値シミュレーションによって,導出した理論の妥当性について検証されている.さらに,コンダクタンスベースモデルの数値シミュレーションを用いて,位相応答曲線に対する摂動強度の影響が議論されている.位相応答曲線の非線形性は,位相応答曲線の非線形項の影響が主な原因であることが明らかになった.

第5章では,本論文の総括と結論が述べられている.

本論文では,スパイクレスポンスモデルを用いて位相応答曲線の導出する手法を提案し,神経細胞が示す膜電位の応答特性と位相応答曲線との関係を解析的に明らかにしている.本研究は,生物実験で用いられている現象論的数理モデルと,神経細胞の膜特性を記述する生物物理的な数理モデルの関係を,理論解析により初めて明らかにした新規性・独創性が高い研究である.さらに,神経細胞の位相応答曲線は,脳科学における重要な指標であり,近年の生物実験において広く測定されており,本研究により,生物実験の知見が数理モデル研究へとつながるため,今後の発展が見込まれる.

なお,本論文第2章,第3章,及び第4章は,大森敏明助教,青西亨准教授,岡田真人教授との共同研究であるが,論文提出者が主体となり,理論解析及び数値シミュレーションを行ったもので,論文の提出者の寄与が,十分であると判断する.

したがって,博士(科学)の学位を授与できると認める.

UTokyo Repositoryリンク