学位論文要旨



No 128437
著者(漢字) 波田野,明日可
著者(英字)
著者(カナ) ハタノ,アスカ
標題(和) 心筋細胞の微細構造を考慮した電気生理・代謝・力学統合マルチフィジックスシミュレーション
標題(洋)
報告番号 128437
報告番号 甲28437
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第796号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 人間環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久田,俊明
 東京大学 特任教授 杉浦,清了
 東京大学 准教授 小谷,潔
 東京大学 教授 酒井,信介
 東京大学 教授 佐久間,一郎
内容要旨 要旨を表示する

【1章:序論】

心臓は生命を維持するための中心的臓器である.基礎代謝全体の約10%を消費し,高いエネルギー消費密度と運動時の負荷上昇に耐える高度な代謝システムを備えている.心筋梗塞や狭心症は心臓のエネルギー代謝不全に起因し,日本で年間約7万人もの死者を出す.心臓のエネルギー代謝は個々の細胞内で独立に行われている.心筋細胞内では,その入り組んだ微細構造内において電気現象・力学現象がエネルギー代謝と密接な相互作用して収縮運動が実現される.この複雑な収縮システムにおいては各要素が系全体に及ぼす影響を演繹的に予測することが難しいことが最新の研究を医療に反映する障壁となっており,その打開のため多くの数値的統合による検討が行われてきた.しかし既存の研究は場を考慮しない一点での化学反応プールとしてのモデルである.細胞内の組織構造と生化学反応の分布,結果として発生する濃度勾配や力学的収縮等,空間的な現象の再現は細胞の機能を理解する上で不可欠である.また空間分布を考慮した解析も存在するが,Ca動態または代謝物質輸送などの特定の物理現象に限ったモデル化であり,相互作用の評価はできない.最新の知見を数値的に統合し,空間分布を考慮し代謝を含めた応答を評価することは,医学的・薬学的に大きな意義を持つ.

本研究では心筋の主要な細胞内器官の微細構造を精緻に再現し,電気生理・エネルギー代謝・力学現象を連成させ,三相理論に基づく有限要素解析を実現することにより,細胞内の構造が細胞の代謝や電気生理現象を介して収縮に与える影響について,実験的な時間・空間解像度の限界を超えて現象を評価・考察することを目的とする.

2章ではモデルの構築と評価を行い,3-5章ではモデルを用いて細胞内構造の影響評価を行う.6章では,影響が小さいとされてきた流体の移動と移流・電位勾配の影響を考慮できる三相理論を実装し,従来モデルの妥当性を裏付けるとともに,精緻なモデル化から知見を得た.

【2章:細胞モデルの構築 】

心筋細胞は直径約10μm,長さ約100μmの柱状であり,直径約1μmの筋原線維50本程が走行している.筋原線維は約2μm筋節と呼ばれるの周期性構造(Z帯‐I帯‐A帯‐M帯‐A帯‐I帯‐Z帯)を持っており,A帯部のアクチンーミオシンの相互作用により収縮力を発揮する.収縮力はCaイオンとエネルギー代謝物質であるATP, ADP, Piによって制御されている.Caは以下のように制御される.細胞膜とそのZ帯における陥没構造であるT管に存在するL型Caチャネルから脱分極をトリガとしてCa放出が発生し,そのCaをトリガとして細胞内小器官である筋小胞体(SR)のT管に面した部位(JSR)からのCa放出が起こる.細胞内全体に張り巡らされたSR(NSR)はCaの汲み上げを担い,弛緩を促す.代謝物質に関しては,収縮に際しATPを消費,ADP, Piが発生するが,ATPは収縮を促進,ADPとPiは阻害する.A帯で消費されて出たADPはミトコンドリアにおいて再びATPへと合成される.ATPやADPのエネルギー状態はクレアチンキナーゼ(CK)によってCP, Cr(クレアチンリン酸,クレアチン)のエネルギー状態へと変換され,豊富な存在量と比較的拡散係数が高いCP, Cr はエネルギーの輸送と貯蔵を担う[1].

このプロセスを空間配置を考慮して再現するため,細胞内の筋原線維(Z-I-A-M帯),SR,細胞膜,T管,ミトコンドリアの配置を考慮した有限要素メッシュを構築し,各点でそれぞれ構築された細胞内小器官のモデルを埋め込んだ(図1).細胞内領域全体をCaと代謝5物質(ATP, ADP, Pi, CP, Cr)の反応拡散場とし,細胞内小器官による流出入を反応項,細胞内での輸送を拡散項により表現した.これにより膜の電気生理モデルの脱分極にトリガされたSRからのCa放出が拡散によりA帯に伝播し,収縮力発生を引き起こすプロセスが実現される.更にこの発生収縮力の分布を,境界条件として力学的平衡問題を解く.収縮変形は拡散距離や収縮力発生に影響する.反応拡散と力学平衡を短いタイムステップで交互に解き時間発展問題を解いた.

解析結果は膜のイオン電流と電位変化,各所(細胞平均,膜付近,SR内)Ca濃度変化,収縮力と短縮動態,代謝物質の濃度とフラックスについて,シミュレーションは実験データ[1-3]をよく再現し(図2),本モデルの妥当性を示した.

【3章:ミトコンドリア内Ca2+と代謝応答】

ミトコンドリアのCaは代謝を制御することが知られているが,その変化は相反する実験データの存在により解明されていない[4].ミトコンドリアがCa放出口近くの高い濃度を参照する可能性が示唆されているが,実験の解像度は不十分であり,有効な数値解析も行われていない.

そこで2章で構築した心筋細胞統合シミュレータを用い,ミトコンドリアのCa出入の速度の異なる2つの'fast'と'slow'とを模擬した解析を行い,β刺激,周波数変化に伴う細胞質Caの変化を実験[5, 6]と比較した(図3, 4.黒が'slow', 赤が'fast',青は'slow'の局所濃度).

周波数変化に関しては,'slow'の条件下でのミトコンドリア内NADHの応答が,より実験と合致する結果となった.一方β刺激に関しては,ミトコンドリア内Caの平均値は'fast'の条件下で実験を再現し,'slow'の条件では再現されなかった.しかし,ミトコンドリア内ではCaに大きな濃度勾配が観察され,'slow'の条件においても,ミトコンドリア内Caの局所的な濃度を参照すると実験結果と一致する結果が得られ,早いCaの蛍光を示す実験結果が局所濃度を参照している可能性を示唆した.

【4章:ミトコンドリアの形態変化と代謝応答】

正常な心筋細胞は筋原線維とミトコンドリアが2μmの規則性をもって配置しているが,虚血状態や心筋症等の病態心筋細胞では内部構造が乱れることが知られている.Ca放出口であるJSRとミトコンドリアは約50 nmの間隙で隣接しており,Caのシグナルが直接ミトコンドリアへと伝えられることが重要なのではないかと示唆されている.2章で構築したシミュレータにおいてミトコンドリアとCa放出口の間隙が50 nmと200 nmの形状モデルを作成し,1Hzの低頻度刺激と,3Hzの高頻度刺激を与え解析を行った.

低頻度刺激下では間隙の異なるモデル間での差異は小さかった(図5).一方高頻度刺激下ではモデル間でエネルギー状態の差が顕著となり,間隙の大きいモデルでは収縮力が低下した.細胞内のCaの濃度分布を可視化した結果(図6)より,高頻度刺激下ではCa濃度勾配が増大し,間隙の差を強調した.ミトコンドリアとCa放出口の隣接が細胞内のエネルギー代謝に重要であることを示唆すると考えられる.

【5章:T管欠損の影響の評価】

細胞膜の陥没構造であるT管は膜の電気的興奮を細胞内に伝達し,細胞全体のCa興奮を同期させる役割がある.心不全の心筋細胞においてT管の消失が観察される.これが病的なCa動態の原因と考えられているが,因果関係は確かめておらず,またT管欠損のみの影響を実験的に確かめることは難しい.

そこで2章で構築したシミュレータにおいてT管の有無のみ異なる2つのモデルを作成した.シミュレータの結果はT管の欠損による細胞内のCaの伝播,β刺激を与えた際の実験的応答[7]を定量的に再現した(図7).そのうえでβ刺激や力学的な条件の異なる解析の比較を行い,β刺激による再同期には膜とSRの亢進両方の効果が必要であること,また収縮変形が伝播速度に影響することを示した.

更に部分的なT管欠損の影響を評価するため,12筋節長のモデルを作成し,T管欠損の大きさやパターンを変化させたシミュレーションを行った.欠損部拡大に伴いCa伝播の遅れが増大し,収縮力の立ち上がりのタイミングに大きく差が生じた.解析結果の検討から,非同期な収縮により部分的な短縮と伸長が生じ,収縮のエネルギーを不要な弾性エネルギーとしてしまうことで収縮の効率を下げている事を示した.また,T管の密度を同一とし,均等な欠損分布と集中した欠損部を持ったモデルの比較においては,T管の密度だけでなく,個々の欠損の大きさが収縮に影響を与えることを示した(図8).

【6章:三相理論の適用】

従来電位勾配や流体の移動の影響は細胞内現象への影響が小さく,計算コスト,モデル化・実装の困難さを著しく増大させるものであるため無視されてきた.しかし微小な領域での精緻なモデル化には必要であり,三相理論を用いて統合を実現する.

三相理論の三相とは,固体相,流体相,イオン相を指す.固体・流体・イオンそれぞれの平衡方程式と質量保存とを解くことで,固体の変形,圧力勾配・移流・浸透圧による流体の移動,濃度勾配・電位勾配・移流によるイオンの運動を捉える事が出来る.細胞モデルの反応拡散をイオン相として,力学平衡を混合体としての平衡問題とすることで細胞モデルに三相理論を適用した.解析結果を従来のモデル化による計算結果と比較し,収縮やCa動態等は従来のモデル化で十分に再現できること,その妥当性を確認した.更に収縮に際してT管内圧力変動がT管Ca動態に与える影響など実験での観測の限界を超えた知見を得た.

1.Bers, D.M., Ca source and sinks. 2001, Kluwer academic publishers: Dordrecht.2.Shannon, T.R., et al., Circ Res, 2003. 93(1): p. 40-5.3.Weber, C.R., et al., Circ Res, 2002. 90(2): p. 182-189.4.O'Rourke, B., et al., J Mol Cell Cardiol, 2009. 46: p. 767-774.5.Maack, C., et al., Circ Res, 2006. 99: p. 172-182.6.Brandes, R., et al., Biophysical Journal, 2002. 83(2): p. 587-604.7.Brette, F., et al., J Mol Cell Cardiol, 2004. 36: p. 265-275.

図1 細胞モデル概要

図2 収縮力・Ca濃度の実験結果との比較 [2, 3]

図3 β刺激に対する応答,実験[5]との比較

図4 周波数変化に対する応答,実験[6]との比較

図5 リン酸,NADHの過渡応答

図6 細胞質Caの時空間分布

図7 正常・T管欠損細胞におけるCa伝播とT管欠損細胞Caラインスキャンの実験との比較[7]

図8 T管4筋節欠損,8筋節欠損,均一欠損のCaラインスキャンと発生収縮力の比較

審査要旨 要旨を表示する

本論文は7章からなる。

第1 章は序論である。まず背景として、心臓医療への数値解析の必要性、心疾患における代謝の重要性、また代謝現象と細胞内の3次元構造との密接な関係から、細胞内微細構造を考慮し、代謝を統合した数値細胞モデルの必要性について述べられている。そのうえで心筋細胞を数値的に再現する過去の研究について説明し、「3 次元微細構造を考慮し、代謝・電気生理・収縮現象を統合した数値細胞の構築を行い、細胞内における機能と反応の局在・物質供給と興奮収縮連関・更に力学的収縮現象を連成した解析を実現することにより、細胞内代謝が心筋細胞の収縮に及ぼす影響を評価し、医学的知見を得ること」が本論文の目的として定められている。

第2 章は細胞モデルの数理的構築と検証についての記述となっている。まず電気生理・代謝・力学統合細胞モデルの実現手法について、次に電気生理現象をモデル化した生理モデルの詳細と、反応拡散と力学現象を解く有限要素定式化について説明されている。構築したシミュレータを用いて求めた細胞の基本的な機能と代謝に関する応答と実験データとの比較がなされ、また細胞内のイオンや代謝物質に関する時間・空間パターンの可視化が行われ、電気生理・代謝・力学・空間分布等の観点から構築したモデルが細胞の評価に妥当であると結論づけられている。

第3 章は「ミトコンドリア内Ca2+と代謝応答」と題し、2章で作成された細胞モデルを用い、細胞内Ca2+ 分布がミトコンドリアCa2+ 取り込みに与える影響の検討が行われている。まず背景としてミトコンドリアのCa2+ が拍毎に変化するか累積的に変化するかという未解決の争点に関して説明がなされている。ミトコンドリアのCa2+ 出入の速度の異なる'fast'と'slow'の条件下での解析の結果、刺激頻度変化に対する応答は'slow'を、β 刺激に対する応答は'fast'を支持した一方で、'slow' の条件においても、ミトコンドリア内Ca2+の局所的な濃度を参照した場合には実験結果と一致した。このように解析結果はミトコンドリア内の大きなCa2+濃度分布を示したが、実験データは解像度が不十分であるためミトコンドリア領域全体から得られた蛍光を観察しており、局所濃度の大きな変動が実験データに支配的な影響を及ぼしている可能性があると考察されている。結論としてミトコンドリアのCa2+ の争点の解決にあたりミトコンドリア内で濃度勾配を計測可能とする手法の必要性が示唆された。

第4 章では骨格タンパクの遺伝子異常や代謝不全に起因する心筋細胞の形態の変化・ミトコンドリアの配置の乱れ・収縮能の低下の因果関係を検討するため、2章のモデルを拡張しミトコンドリアとCa2+放出口との距離のみが異なる2つのモデルを用いた解析がおこなわれた。高い刺激頻度下においてのみ間隙による違いが顕在化したが、これは細胞内の時間・空間分布の可視化から高刺激頻度での濃度勾配の増大が原因であると考察された。以上よりミトコンドリアとCa2+放出口の隣接が細胞内のエネルギー代謝に重要であるとの示唆が得られた。

第5 章では代謝不全を起こした細胞で観察される、細胞膜の陥没構造であるT 管の欠損が収縮能に及ぼす影響の検討が行われた。前半では2章のモデルからT管を除いたT管欠損モデルを用いてCa2+の伝播速度やβ刺激を加えた際の応答等が定量的に実験結果を再現することが確かめられている。後半では上記のモデルを線維方向に12筋節接続したモデルを用いた解析により欠損部のサイズとパターンを変えた場合の収縮動態について検討が行われた。欠損部の拡大に伴いCa2+の伝播遅延が増大し、非同期な収縮により効率を下げること、T管の密度だけでなく欠損部の大きさが収縮に影響を与えること等の知見が得られた。

第6 章は三相理論の定式化から細胞モデルへの適用とその評価までが行われている。2 章で構築した細胞モデルでは、計算コストやモデル化・実装の困難さを著しく増大させる流体運動と移流・電位勾配がイオンに及ぼす影響を無視した解析を行ったが、微小な領域での精緻なモデル化には必要であると考えられるため、それらを考慮した解析の実現手法として三相理論の定式化とその細胞モデルへの適用手法について述べられている。解析結果より、流体や電位勾配の影響は十分に小さく、細胞の一般的な電気生理現象に関しては従来のモデル化で十分に再現できることを確認し、正常な細胞全体の挙動の解析における2 章でのモデル化の妥当性の再評価がなされている。その後に、精緻なモデル化を生かし、脱分極時に起こる微小な電位勾配の影響や、T 管など微細構造内の流体現象が細胞挙動に及ぼす影響等、実験的な観察の限界を超えた解像度の解析から生理学的・医学的意義について考察がなされた。

7 章では以上の成果が結論としてまとめられ、今後の課題が提示されている。

以上を要するに、本論文は心筋細胞内の主要な器官を含む微細構造を精緻に再現し、電気生理・エネルギー代謝・力学現象を連成させ、三相理論に基づく有限要素解析を実現したうえ、これを用いて医学的に有用な知見を得たものであり、実験的な時間・空間解像度の限界を超えて現象を評価・考察することを可能とし、計算科学、臨床医学、生理学の発展に寄与するところが大きい。

従って、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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