学位論文要旨



No 128438
著者(漢字) 廣田,晋也
著者(英字)
著者(カナ) ヒロタ,シンヤ
標題(和) 網膜-上丘視覚情報処理系in vitroモデルの構築と活動評価
標題(洋)
報告番号 128438
報告番号 甲28438
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第797号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 人間環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 神保,泰彦
 東京大学 特任教授 杉浦,清了
 東京大学 教授 鳥居,徹
 東京大学 准教授 広田,光一
 東京大学 講師 森口,裕之
内容要旨 要旨を表示する

現在我が国では,糖尿病や緑内障,交通事故等を原因とする中途失明者の数は数十万人に及ぶ.また加齢性の網膜変化による視覚機能不全に陥る患者数が増加する傾向にある.今後更なる高齢者人口の増加が予想され,視覚機能の回復に向けた治療法の開発が重要課題と位置付けられる.視覚情報処理系の神経回路網は解剖学的,生理学的に非常に複雑に形成されており,網膜と脳を中継する視神経を損傷すると本来の視覚機能の再生は不可能とされている.しかし,近年マウス中枢神経の軸索周囲を取り巻く髄鞘内に複数の軸索伸長阻害因子の存在が特定され,その働きを薬理的に抑制することで軸索再生が行われたという報告があり,視神経損傷に対する治療薬開発に期待が高まっている.

脊椎動物の視覚情報処理は複数の経路で並行して行われている.ヒトの場合,形態視や空間視など視知覚を担う網膜-外側膝状体-大脳皮質視覚野の経路が視覚情報処理の中心的役割を果たすが,霊長類に限り著しく発達している.一方,網膜-上丘の経路は視覚対象を注視する際の高速眼球運動 (サッカード運動) に重要な役割を果たし,比較的下等な動物においてもヒトと解剖学的構造が共通している.また外側膝状体と同様,上丘内で網膜の位置特異性 (レチノトピー) も保存されていることから実験的にも扱いやすく,視覚情報処理系を理解する上で適した系と考えられる.

本研究では,網膜-上丘視覚情報処理系の発達時における神経回路網形成と機能発現を細胞レベルで理解することを目的に設定し,第一に微小電極基板 (Microelectrode array, MEA) 上にラットより採取した網膜,上丘を共培養することで,網膜-上丘視覚情報処理系のin vitroモデルの構築を試みた.

また,網膜の神経活動は胎生16日目に開始するのに対し,上丘では生後5-6日目に始まるとされる.先行研究では,網膜の投射先である上丘の神経回路網の発達に対する網膜からの信号入力の効果や上丘の神経活動で自律的に行われるのか,明らかではなかった.そこで,第二に視覚情報処理系のin vitroモデルを用いて,上丘神経回路網の発達に対する網膜の関与を確認するとともに,さらに網膜由来の液性因子,信号入力が作用する可能性を調べた.

以下,これまで得られた結果を示す.

1) 視覚情報処理系を構成する網膜,上丘の、発達過程における電気活動の遷移の観測

網膜-上丘視覚情報処理系in vitroモデルの構築を目的とする立場から,網膜-上丘共培養の最適条件を検討・確立した.新生児ラット由来の網膜組織及び上丘スライスを一カ月以上培養可能な最適条件について培養液の組成,培養液量等の指標をもとに検討し,得られた条件をMEA上での培養に適用した.結果として,各組織を一カ月以上培養し自発電気活動を経時観測することに成功した.網膜については,自発電気活動パターンの遷移がin vivo実験での報告と類似する傾向を示した.上丘については,培養初期に散発的なスパイク発火が出現し,培養日数の経過とともにスパイク数が増加,その後スライス全域に伝搬する同期バーストへと活動パターンが移行する現象が認められた.ここで,同期性の発現が細胞間のシナプス形成やその機能の成熟に基づくものとすると,上丘の発達時の活動をとらえたものと考えられる.さらに薬理操作実験により,in vitro系においても上丘内で神経伝達物質受容体の発現等の機能的な発達が行われる様子が確認された.

2) 網膜-上丘共培養による視覚情報処理系のin vitroモデルの構築

視覚情報処理系における神経回路網の形成と機能発現を調べることを目的に,胎児ラットから網膜組織,上丘スライスを採取し,MEA上で網膜-上丘視覚情報処理系のin vitroモデルを構築した.ここで示すin vitroモデルとは,各組織から一カ月以上自発電気活動が観測できる,組織間で信号伝達が行われている,の基礎的条件を基準にしている.共培養の際は,1) で得られた網膜組織及び上丘スライスの最適条件を考慮し,上丘に合わせて培養条件を設定した.その結果,各組織の自発電気活動を一ヶ月間追跡することができ,両方の組織で1) と同様の活動パターンの経時変化を示すことがわかった.また,網膜-上丘間において神経連絡の形成が形態的に観察され,組織間で信号伝達が行われる様子も確認された.この結果から,初段階の網膜-上丘視覚情報処理系のin vitroモデルを構築できたと考えられる.

3) 網膜の神経活動/液性因子が視覚情報処理系の神経回路網形成に果たす役割の検討

網膜-上丘視覚情報処理系の神経回路網形成時において,上丘内の視神経投射地図の精緻化は一般に網膜の神経活動に依存すると考えられているが,上丘の神経回路網の構造変化や活動に影響されることも十分に考えられる.しかし現状では上丘の神経活動に関する知見は少なく,上丘の発達に対してこれまで網膜からの信号入力が作用するのか,あるいは自律的に行われるのか,明らかではなかった.

本研究では,はじめに網膜の活動や液性因子等が上丘の発達に与える影響を調べるため,胎児由来の網膜-上丘共培養系と上丘単独培養系から一カ月間観測された上丘の自発電気活動パターンを比較した.その結果,共培養系では培養日数の経過に従って散発的なスパイク発火からスライス全域にわたる同期バーストへと一定の活動パターンの遷移が確認された.一方,胎児由来の上丘単独培養系では電気活動が安定して観測されず,散発的なスパイク発火が見られるにとどまった.二つの培養系で上丘の活動パターンに明確な差が現れたことから,上丘の発達に対して網膜が何らかの作用を及ぼすことが示唆された.ここでは主な要因として,網膜からの"信号入力"または"液性因子"が作用している可能性を考えた.

次に組織間の神経連絡の形成を防ぎ培養液を介して液性因子のみ交換可能な培養チャンバーを作製し,その中で共培養を行った.その結果,胎児由来の上丘単独培養試料と同様の活動パターンが観測されたことから,網膜由来の液性因子が上丘の神経活動及び神経回路網の発達に決定的でないことが推測される.また,1) で述べた新生児由来の上丘単独培養試料では胎児由来共培養試料と同様,スライス全域にわたる同期バーストが観測されている.以上の結果を考察すると,網膜からの信号入力が上丘の活動開始のトリガーとして作用し,出生時期付近から上丘の自発活動が開始,その後上丘の神経活動,網膜からの信号入力により活動依存的に神経回路網の発達が行われる可能性が考えられる.

本研究では,網膜-上丘視覚情報処理系in vitroモデルをMEA上で構築することで,以下の新たな知見が得られた.

1) 上丘の自発電気活動を培養環境下で経時的に追跡することで,これまで不明であった発達過程における上丘の神経活動パターンの遷移をとらえることができた.

2) 上丘の神経回路網の発達・成熟は,上丘の神経活動のみで自律的に行われるのではなく網膜からの信号入力が重要な役割を果たす可能性が示唆された.

今後はこの網膜-上丘視覚情報処理系in vitroモデルについてレチノトピー形成を確認し,この系では細胞レベルで形態変化及び神経活動を捉えられることから,将来的には視神経損傷に対して軸索伸長阻害因子の機能抑制を利用した新たな治療薬効果の観察に応用できるものと期待している.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなり、第1章では研究背景並びに関連分野の動向に関する考察に基づき、目的と具体的な課題が提示されている。視覚情報処理系構成要素の1つである網膜-上丘系に注目して、発達期における神経回路形成過程とそのメカニズムを細胞レベルで調べる手法を確立することが目的であること、マイクロ加工技術を積極的に利用する立場が本研究の特徴であることを述べている。具体的な検討課題として、(1)細胞レベルの現象を可視化し経時的に観測する手法の開発、(2)発生・発達過程における自発神経活動観測と神経回路形成におけるその役割に関する知見を得ることを設定している。

第2章では、電極アレイ基板(Microelectrode Array; MEA)上での網膜組織の培養条件に関する検討、並びに発達段階で経時的に変化する自発活動の追跡結果について記述している。網膜組織は新生Wistar ratから採取したものを用いた。培養液組成と培養液量について様々な条件を適用し、組織試料の形状、神経突起成長、細胞死等を指標に評価し、1ヶ月間安定して試料を維持する条件を確立した。自発電気活動は、様々な発達段階においてin vivo試料で報告されているパターンと同様であるとの結果が得られ、本研究で用いているin vitro系を視覚発達・情報処理のモデル系として用いる妥当性が示された。

第3章では、上丘組織について網膜と同様の検討を行った結果を記述している。上丘は新生Wistar ratから切片試料として採取し、これをMEA基板上で培養した。網膜と同様の指標で培養条件に依存した試料の状態を評価し、1ヶ月間の安定培養条件を確立した。上丘については,培養初期に散発的なスパイク発火が出現し、培養日数の経過に従って発生スパイク数が増加、その後スライス全域に伝搬する同期バーストへと活動パターンが移行する現象が認められた。同期バーストの発生に伴って特徴的な電場電位が観測され、これに電流源密度解析を適用した結果、上丘組織の層構造に依存した自発活動の発生・伝搬パターンが見られることが明らかになった。薬理実験により、自発電気活動に関わる神経伝達物質についても知見が得られた。

第4章では、前記2章の結果を受けて網膜・上丘組織の共培養条件の検討ならびに共培養系における自発電気活動の経時観測を行った結果を記述している。共培養系に対しては、前述の網膜及び上丘単独培養における最適条件を考慮し,上丘切片試料に合わせて培養条件を設定した。結果として両組織の自発電気活動を1ヶ月間追跡することができた。また、網膜-上丘間において神経連絡の形成が形態的に観察され、電気刺激に対する応答の記録により組織間での信号伝達も確認した。以上の結果から、網膜-上丘視覚情報処理系の形成過程を追跡するin vitroモデルの構築手法が確立された。

確立したin vitroモデルを利用して、上丘試料を単独で培養した際に観測される自発電気活動と、網膜-上丘共培養系で見られる活動とを比較した。その結果、共培養系の方が培養日数の経過に従って散発的なスパイク発火からスライス全域にわたる同期バーストへとパターンの遷移が起こる確率が高いことが明らかになった。上丘の発達に対して網膜が何らかの作用を及ぼすことが示唆され、その要因として"信号入力"と"液性因子"の2つの可能性を想定し、さらに実験を行った。Polydimethylsiloxane(PDMS)の微細加工を利用して、網膜-上丘両組織間の神経連絡の形成を防ぎ、かつ培養液を介しての液性因子のみ交換可能な培養チャンバーを作製し、その中での共培養を試みた。その結果、上丘単独培養試料と類似の活動パターンが観測されたことから、液性因子の化学的作用ではなく、両組織間のシナプス結合を介する相互作用:(1)網膜神経節細胞の自発電気活動、(2)網膜-上丘組織間シナプス結合を介する信号入力、(3)上丘の自発活動開始の変調、が上丘の適切な神経回路形成に一定の役割を果たしている可能性が高いとの結論を得た。

以上、設定した2つの課題に対して得られた研究結果に基づき、第5章で結論と今後の展望について総括している。なお、本論文第2章、第3章、第4章は、神保泰彦、森口裕之、高山祐三、井上康輔との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

従って、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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