学位論文要旨



No 128483
著者(漢字) 成,玲姁
著者(英字)
著者(カナ) ソン,ヨンア
標題(和) ミュージアムにおける鑑賞支援のための環境センシングとそのフィードバック
標題(洋)
報告番号 128483
報告番号 甲28483
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学際情報学)
学位記番号 博学情第46号
研究科 学際情報学府
専攻 学際情報学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 苗村,健
 東京大学 教授 廣瀬,通孝
 東京大学 教授 相澤,清晴
 東京大学 教授 荒川,忠一
 慶應義塾大学 准教授 筧,康明
内容要旨 要旨を表示する

ミュージアムにおける来場者の鑑賞体験は,個人の嗜好や鑑賞ルート,それに伴う環境情報により複合的に生成されるものである.情報技術の発展に伴い,実世界における環境センシングの手法が多様になってきたが,情報量が豊かな視聴覚情報や,位置情報を重心とした鑑賞支援が多く,現場における空気感や雰囲気といった周辺情報に関する検討が十分に行われていなかった.実物を見るためにミュージアムまで足を運ぶ鑑賞体験の中には,その場所でしか見れない・感じれない空気環境が存在する.そこで本研究では,鑑賞体験における新たな視点での理解と気付きを得るために,ミュージアムにおける空気情報をセンシングし,来場者にその情報をフィードバックするインタラクションサイクルの構築を目的とする.本論文では,鑑賞中における空気環境要素の中でも,人間が五感を通じて環境を知覚する際に重要な「匂い」と,人の滞在状況に応じて変化する「CO2濃度」をセンシングするシステムを提案する.さらに,そのような鑑賞情報をフィードバックする方法として,来場者別に個人化されたリーフレットを提供し,体験の想起と連鎖を促すことで,目的を実現する.

人間は,五感を通じて環境と接しており,旅行バックを開けた時にふと感じられる旅先の匂いに思い出を振り返ったり,博物館のフォルマリンの匂いが記憶に残ったり,風が止まったかのような空間の静けさが印象に残るといった経験をしたことがあるだろう.このように,空気質に含まれる情報には,これまであまり扱われることがなかった人間体験を理解する上での新たな軸になりうる.そして,鑑賞中の空気に含まれる情報を捉えて,鑑賞後に来場者へとフィードバックすることは,情報量が飽和しつつある視聴覚情報とは違った新たな理解や気づきを与えるメディアを生み出す可能性が高い.

さらに,ミュージアムにおける鑑賞体験が,来館前後を含めた継続的なものであると考えた際に,このような鑑賞情報を記念に残る形で来場者個々人にフィードバックしていくことができると,鑑賞後の体験支援に繋がると考えられる.例えば,鑑賞情報のフィードバックにより,ミュージアムの外でも関連する情報が得られたり,思い出を振り返るといった「体験の想起」が生まれることは容易に想像できる.また,来場者内・来場者間における鑑賞情報の共有により,新たな気付きや鑑賞行動へと繋げる「体験の連鎖」を促すことも期待できる.そこで本研究では,鑑賞情報をセンシングするたけでなく,効果的に持って帰ってもらうフィードバックの仕組みとして個人化されたリーフレットの提案を行う.

第3章は,「ミュージアムにおける匂いセンシングシステムと匂いマップ生成」と題し,空気中に含まれる匂いを捉えるための匂いセンシングシステムとその傾向を視覚化する匂いマップを提案する.

ミュージアムは,各展示物や空間構造に基づき,それぞれ匂いにおいても特徴を持つ.鑑賞中に常に接しているミュージアム独特の匂いを捉えることができると,その匂いに基づいた新たな体験の推薦やつながりが実現できる可能性がある.嗅覚情報は,人間の五感の一つであり,記憶とも深い関連があると言われているにも関わらず,その反応特性が視聴覚のような物理的要素でないことから,利用される場面が限られていた.このような現状に対し,本研究では,ミュージアムにおける空気環境を計測する新たなキーとして匂いセンシングを提案する.本研究では,多様な次元を持つ匂い空間を捉えるために,反応特性が異なる匂いセンサをアレイ上に並べ,日常の様々な匂い源を幅広く捉えるために,ポータブル型のセンサシステムを実装した.提案したシステムを日常の様々な場所を歩き回る実験を行い,その際に得られた多次元情報である匂いの傾向を,主成分分析を用いて2次元に表現したものを「匂いマップ」と呼び,匂いマップ上の分布から分類可能性と再現性を調べる.実験の結果,提案システムにより,食事・安定室内・自然に近い屋外といった場所が区別可能であることが明らかになった.さらに,様々なミュージアム空間における匂いを計測し,匂いマップにプロットすることで,ミュージアム毎の匂いの違いや類似度を視覚化することが可能になる.9箇所のミュージアムで計測した匂いデータを匂いマップにプロットしたところ,ミュージアム毎の匂い空間とその傾向が視覚的に確認され,他のミュージアムとは異なる特徴的な匂いの傾向を示すミュージアムなど,ミュージアム間の関係性も読み取ることができた.

第4章は,「ミュージアムにおけるCO2センシングシステムと時空間マップ生成」と題し,CO2センシングシステムを提案し,ミュージアムの混雑状況を時空間的に視覚化すると共に,CO2濃度を用いて来場者数の推定を行う.

ミュージアムにおける来場者の混雑状況は,展示評価のための資料としてミュージアム関係者に有意義であり,鑑賞計画をたてる来場者においても大事な情報となる.CO2は,人間が呼吸をすることで自然に生成される要素であることに着目し,特定の場所に設置し,継続的に記録することで,その場の賑わいや混雑状況を計測できると考えた.ミュージアムの来場状況を把握することは,後から来館する予定の人々において来場日を計画するスケジュールの参考になるなど,自動化に対するニーズが高い.本研究では,CO2が人間の呼吸に伴い自然に生成される要素であることに着目し,特定の場所に設置し,継続的に記録することで,その場の賑わいや混雑状況を計測できると考えた.CO2センシングシステムを実装し,展示空間内の複数箇所で長時間計測することで,CO2濃度変化に伴う賑わいや混雑状況を捉えることができた.CO2濃度の高低から,その時刻の空間的な混雑状況が把握できる.CO2濃度の時間変化を追うことで,午前より午後が混雑している,といった時間的混雑状況が把握できる.ウェブと現場のディスプレイにCO2濃度の視覚化を行ったところ,来場者とミュージアム関係者から好意的な意見が得られた.しかし,単なるCO2濃度は,滞在時間に影響されるため,来場者を直接的に表すものではない.そこで,ミュージアム空間内のCO2濃度に基づき,来場者数の推定を行った.住宅を対象とした従来の推定方法をミュージアムに適応させ,さらに来場者の体表面積に対する考察を加えた.結果,男性・女性・子供の構成比まで把握している場合は,日報との誤差が1.2%となり,モデルを用いない場合より精度の高い推定を行えたが,構成比がわからない別の日に適応した場合は,誤差が6.7%となり,誤差の原因と減少方法を明らかにすることが今後の課題としてあげられた.また,来場者数の時間変化の推定にも応用できる可能性を示した.

第5章は「ミュージアムにおけるフィードバックのための個人化されたリーフレット」と題し,前章で捉えた環境情報を来場者に積極的にフィードバックしていく方法として,個人化されたリーフレットを土産として提供する「Peaflet」を提案する.

Peafletは,来場者がデバイスを持ち歩きながら気に入った展示物に点数を入力することで,その点数に応じて展示物の画像の大きさを変えたレイアウトのリーフレットを出力する.嗜好情報がリーフレットのデザインに反映されたPeafletを個人が持って帰ることで,鑑賞前後におけるインタラクションサイクルが豊かになると考える.来場者は,鑑賞後に手渡されたPeafletから体験の軌跡を容易に辿ることができる.さらに,Peafletを用いて知り合いと体験が共有できたり,新たなミュージアムへと足を運ぶきっかけになる可能性も考えられる.本研究では,展示会における実証実験から,Peafletが鑑賞情報をフィードバックするメディアとしての有効性を評価した.一般向けの展示会において,固定サイズデザインのリーフレットと個人のPeafletのうち,一つだけ持って帰る実験を行った結果,実験協力者のうち,83%の人がPeafletを好んで選択していた.2人以上で来場した実験協力者間では,全員(100%)が自分以外の他者のPeafletに関心を示した.また,アンケートでも高い評価を得られ,来場者個人および来場者間において,期待した一定の効果があることが確認された.さらに,ミュージアムの専門家による評価を受け,Peafletにより蓄積された嗜好情報がミュージアムのための利用においても充分な可能性があることが確認された.これらの結果から,Peafletが来場者に対して有効なフィードバック用のメディアになりうることが確認された.最後に,Peafletに匂いやCO2情報を掲載する展望について述べる.前章で求めた匂い情報やCO2情報を掲載することで,来場者個々人に対する新たな鑑賞支援が容易に実現できると期待される.

以上の確立により,環境センシングとそのフィードバックが生み出す体験の拡張・連鎖を,博物館や美術館などのミュージアムにおける鑑賞支援として取り組み,循環するインタラクションサイクルの中で本研究の意義を明らかにする.また,本論文でまとめた成果は,実際のミュージアムに配置して利用することを念頭にした上で検討を進めており,今後様々な公共空間で使用する上で有意義な検討となると考えられる.多様な場面への応用により,ヒューマンインタラクションの理解や一般の体験支援においてさらなる理解への道筋を示すものとなるであろう.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,「ミュージアムにおける鑑賞支援のための環境センシングとそのフィードバック」と題し,ミュージアムにおける来場者の鑑賞体験に関する理解と気付きの可能性を広げるために,鑑賞中の環境情報をセンシングする仕組みと,それを個人別のお土産としてフィードバックする仕組みを提案することで,新たな鑑賞支援の実現可能性について論じたものであり,全体で6章からなる。

第1章は「序論」であり,現在の鑑賞支援の状況をセンシングとフィードバックの観点から論じ,鑑賞体験の理解と気付きに関する新たな知見を深める可能性を有するものとして空気情報センシングと個人別リーフレットの必要性を指摘することで,本論文の背景と目的を明らかにしている。

第2章は「関連研究」と題し,様々な環境センシング手法を広く取り上げ,その中でも特に空気情報センシングをミュージアムに応用するためのシステム設計の必要性を述べるとともに,ミュージアムの鑑賞支援におけるフィードバック方法をその対象と場面毎にまとめることで,本論文の位置付けを明らかにしている。

第3章は「ミュージアムにおける匂いセンシングシステムと匂いマップ生成」と題し,様々な環境下で計測可能な匂いセンシングシステムを提案し,ミュージアムの匂いの傾向を匂いマップ上に視覚化することで,ミュージアム間の匂い類似度を明らかにしている。従来の匂いセンシングでは,予め用意されている試料を用いる場合や安定室内での計測など,その利用場面が限られていたのに対し,屋内外を含む幅広い日常場面を考慮した設計と実験から検討を進めている。半導体ガスセンサをアレイ状に配置した提案システムから得られる14次元の匂いデータを主成分分析に基づき2次元に表すことで,計測した日常場面が食事・室内・屋外・半屋外に大きく分類できることを示している。さらに,そこで得られた知見に基づき,ミュージアム空間における匂いの傾向を2次元の匂いマップに表すことで,ミュージアム間の関係性が明らかにし,今後のフィードバックとして,匂いの傾向が近いミュージアムを推薦するといった応用可能性について述べている。

第4章は「ミュージアムにおけるCO2センシングシステムと時空間マップ生成」と題し,ミュージアム内の混雑状況を捉えるために,従来のカメラを用いた手法に比べ,プライバシーを侵害する恐れがない方法としてCO2センシングシステムを提案している。ミュージアム内の複数箇所に設置したセンサの値を継続的に計測することで,時空間的な混雑状況を把握することが可能になった。さらに,空間容積・換気量・来場者の滞在時間などに影響されるCO2濃度からミュージアムの来場者数を推定するために,住宅を対象としたCO2濃度・CO2発生量・人数の関係を表すモデルをミュージアム空間に適用することで,CO2濃度から来場者数の推定がモデルを用いない方式より精度良くできることが明らかにした。また,モデルを取り入れた本手法により,細かい時間間隔での来場者数の推定が可能になったことから,具体的な混雑時間を知らせるようなフィードバックへの応用可能性を示している。

第5章は「ミュージアムにおけるフィードバックのための個人化されたリーフレット」と題し,前章で捉えた情報を来場者へ効果的にフィードバックし,体験の保存と共有を促す方法として「Peaflet」を提案している。Peafletは,来場者が鑑賞中にデバイスを持ち歩きながら気に入った展示物に点数を入力することで,その点数に応じて展示物の写真の大きさを変えたレイアウトのリーフレットを出力する。一般向けの展示会において,固定サイズデザインのリーフレットと個人のPeafletのうち,一つだけ持って帰る実験を行った結果,83%の人がPeafletを好んで選択していたことと,展示期間中に2人以上で来場した全員(100%)が自分以外の他者のPeafletに関心を示していたことから,Peafletが一般のリーフレットより魅力的であり,他者との感想共有に適したメディアであることを明らかにした。最後に,3章と4章でセンシングした匂い情報と混雑情報を掲載したPeafletデザインについて述べ,様々な情報を組み合わせてフィードバックさせるメディアとしての応用可能性を示している。

第6章は「結論」であり,本論文の主たる成果をまとめるとともに今後の展望について述べている。

以上を要するに,本論文は,ミュージアムの鑑賞体験における空気情報やお土産に着目し,より豊かな鑑賞体験を提供できる新たな鑑賞支援の手法を提案したものであり,ミュージアム,体験記録,インタラクション等の学際情報学の各分野の今後の進展に寄与するところが少なくない。よって,本審査委員会は,本論文が博士(学際情報学)の学位に相当するものと判断する。

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