学位論文要旨



No 128518
著者(漢字) 藤岡,俊博
著者(英字)
著者(カナ) フジオカ,トシヒロ
標題(和) エマニュエル・レヴィナスと「場所」の倫理
標題(洋)
報告番号 128518
報告番号 甲28518
学位授与日 2012.04.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1155号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 増田,一夫
 東京大学 准教授 森山,工
 東京大学 准教授 原,和之
 東京大学 教授 高橋,哲哉
 明治大学 教授 合田,正人
内容要旨 要旨を表示する

本論文「エマニュエル・レヴィナスと「場所」の倫理」は、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの思想を「場所」の概念を中心に読解し、レヴィナスの「倫理」がこの概念に関わるさまざまな主題をめぐってどのように組み立てられているのかを明らかにする。

本論文は全五部に分けられる。

第I部「具体性の諸相」では1930年代のレヴィナスの論考を取り上げる。まずフッサール、ハイデガーのもとでの現象学研究から出発したレヴィナスが、現象学が試みている具体的な生の分析をどのように評価していたのかを見たうえで、レヴィナスが独自の哲学を展開し始める論文「ヒトラー主義に関する若干の考察」(1934年)および「逃走について」(1935年)を追いながら、レヴィナスの哲学が具体的な生と実存の粗暴さに対する両義的な関心から出発していることを示す。次に、同時期にレヴィナスが執筆している数本のユダヤ教論考の読解によって、生の具体性からの脱却の可能性がユダヤ教のうちに認められていることを確認する。第I部は全体として、世界への内在と世界からの超脱、存在の自然性とその批判といった、生涯にわたるレヴィナスの関心の端緒を示すことで、第II部以降への導入となる。

第II部「環境世界と根源的場所」では、初期レヴィナスの主要著作『実存から実存者へ』(1947年)を中心的に読解する。まずハイデガー『存在と時間』(1927年)との比較によってレヴィナス自身の「世界」概念を調査し、同著作でレヴィナスが提示する〈ある〉の議論を通じて、存在論的差異の改鋳によってハイデガーの「世界」概念の乗り越えを目指すレヴィナスの試みを検討する。その際、〈ある〉の概念の導入に際して哲学者・民族学者リュシアン・レヴィ=ブリュールによる「未開心性」の分析が果たした役割を明らかにする。以上で『実存から実存者へ』の議論の大綱を踏まえたうえで、ハイデガーの「環境世界」の議論との対照によってレヴィナスの「場所」の概念を精査する。ハイデガーが示したように、現存在を取り巻く環境世界のうちに各々の位置を占める「用具的存在者」は、相互の指示連関に応じてそのふさわしい居場所を有しており、現存在もまた環境世界内に整序された存在者の配置に従った振る舞いを取るのだが、それに対してレヴィナスは、「場所」の所有および「ここ」への局所化こそが存在者の成立の根拠であるという仕方で議論を転換し、〈ある〉という場所の不在からの主体化の出来事を動態的に捉えるのである。本論は、人間存在の根本的な「地理性」をレヴィナスへの参照に基づいて提唱する地理学者エリック・ダルデルの著作の批判的読解によって、レヴィナスの「場所」の議論の焦点を環境世界論の側から逆照射する。第II部全体を貫く環境世界と根源的場所という対立は、《同》の議論が本格的に展開される『全体性と無限』を解釈する際の本論の立場を提示するものでもある。

第III部「居住と彷徨」は、レヴィナスが精力的に論文を発表していく50年代から主著『全体性と無限』(1961年)までのテクストを対象とする。まず50年代のレヴィナスの思想の軸線を、存在論の「根源性」への批判、ハイデガーの「居住」思想に対する反応、フッサールの再解釈という三点から提示する。次に『全体性と無限』第2部「内部性と家政」の集中的読解に基づいて、レヴィナスがハイデガーの居住思想をどのように吸収し自らの哲学のうちに組み込んでいったのかを明らかにする。「享受」の概念を中心に展開されるレヴィナス自身の環境世界論を俎上に載せることによって、根源的な「場所」の所有に依拠した「わが家」という内部性が《同》としてその領域を拡大していく様態が記述される。次いで、レヴィナスにおける「他者」の議論が、この《同》を超越するものとしてはじめて導出されていく筋道を、特にレヴィナスの「場所」批判と深く結びついた「異教」の概念を中心に追っていく。まずハイデガーの居住思想を異教的な「場所」への執着と断じたテクスト「ハイデガー、ガガーリン、われわれ」(1961年)を『全体性と無限』との関連で読解したうえで、異教・無神論・一神教という三層構造が『全体性と無限』の理論体系を下支えしていることを示す。さらにレヴィナスが使用する異教の概念の発想源と推測されるフランツ・ローゼンツヴァイクの思想との比較検討を行い、場所への固着・世界への内在性という異教の哲学的含意と、哲学と神学との積極的協働を目指す両者の企図をテクストに沿って跡づける。最後に、異教をめぐる以上の議論を踏まえたうえで、あらためてレヴィナスとハイデガーの思想が対峙する様態を検討する。問題となるのは、存在の神秘から眼を背けた日常的な現存在の「彷徨」を語るハイデガーの小論「真理の本質について」(1943年)と、レヴィナスによるその解釈である。この比較を通じて、第III部では最終的に、両者において居住/彷徨が単純な対立としては捉えられない対概念であることを示すことで、レヴィナスとハイデガーの思想的対立を同一の議論の枠組みのなかで捉え返すことが目指される。

第IV部「非場所の倫理」では、70年代の中心的著作である『存在するとは別の仕方で』(1974年)周辺のテクスト群を扱う。まず『全体性と無限』出版後にレヴィナスが発表した諸論文の分析によって、「場所」から「非場所」へと議論の根幹を移したレヴィナスの思想の内的運動を解釈する。特に、この時期の論文ではじめて本格的に提出されることになる「痕跡」および「近さ」の概念に焦点を合わせ、レヴィナスの言わば「場所論的転回」を準備した概念構成を整理する。次に『存在するとは別の仕方で』の読解によって、70年代のレヴィナスの思想を「非場所の倫理」として取り出していく。とりわけ問題となるのは「他者のための一者=他者のかわりの一者」という「身代わり」の構造である。さらに同著作でレヴィナスがしばしば用いる「われここに」という聖書表現を取り上げ、自らが占める場所によってではなく他者の「呼び声」への「応答」によって規定される主体性の様態を記述する。「非場所」自体は形式的な概念であり、この概念は実際には「身代わり」に代表される諸概念によって具体的な内実を与えられるのだが、さらにレヴィナスは他の思想家や著述家に仮託して「非場所の倫理」を語ることがある。本論では、『存在するとは別の仕方で』と同時期に書かれ、同書の議論と密接な関係を持っているレヴィナスの詩人論「パウル・ツェラン 存在から他者へ」と「今日のエドモン・ジャベス」(いずれも1972年)を取り上げ、「場所」と詩作との連関を問うハイデガーの詩論との対照において、これらの詩人とレヴィナスの思想交流を論じる。最後に、ウジェーヌ・ミンコウスキー、フーベルトゥス・テレンバッハといった精神病理学者の議論を参照しながら、『存在するとは別の仕方で』の結論部でいささか唐突に現れる「雰囲気」の概念を論じていく。その際、レヴィナスの最初期の論文「仏独両文化における精神性の理解」(1933年)がすでにこの主題に目配せをしていたことに着目することによって、具体的空間に対する初期の関心と、雰囲気としてのしかかる他性の侵襲を耐え支える主体という後期の関心とが接続する論点を読み解いていく。後期テクストを扱う第IV部は、レヴィナスの哲学著作の時系列的な読解に基づいて本論が抽出する「非場所の倫理」の総括である。

第V部「レヴィナスとイスラエル」は、上記四部では直接扱っていないレヴィナスのユダヤ教論考を取り上げ、「場所」の主題と密接な関係を有する「約束の地」およびイスラエル国の問題を論じる。まず、イスラエルをめぐるレヴィナスの議論の前提となっているイスラエルと「離散」のあいだの緊張関係を明るみに出すために、ユダヤ人子弟へのユダヤ教育を実践した教育者としてのレヴィナスの活動の軌跡を辿る。次いで、イスラエルが劇的な勝利を収めエルサレムを占有するに至った1967年の第三次中東戦争(「六日戦争」)の前後に発表された、レヴィナスのユダヤ教論考およびタルムード講話「約された地か許された地か」(1965年)を読解する。レヴィナスにとって、「約束の地」の所有は普遍的な「正義」の名においてのみ正当化されるものだとされるが、そこではいかなる正義が問題となっているのかが問われなければならない。本論は「約束の地」の議論を『存在するとは別の仕方で』の正義論と照合しながら、この地における場所/非場所の二重性を倫理的要請と政治的要請とが拮抗する局面として解釈していく。その際、生涯を通してフランスに留まったレヴィナスの身振りを、六日戦争後にイスラエルに移住したアンドレ・ネエルらと対置して分析する。さらに「高さ」の主題に注目することで、「場所かつ非場所」というユートピア的な両立が、レヴィナスが論じる主体性とイスラエルの双方に共通して見られる構造であることを示す。第V部は、レヴィナスの思想を構成する哲学著作とユダヤ教論考という二つの次元を「場所」の主題を軸に架橋する試みでもある。

審査要旨 要旨を表示する

藤岡俊博氏の論文「エマニュエル・レヴィナスと「場所」の倫理」は、「場所」の概念を読解の中心に据え、リトアニア出身のユダヤ系フランス人哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906-1995)の「倫理」を、「場所」を縦糸として時系列的に分析し、その生成と構造を明らかにしたものである。

本論文は、序論、第I部~第V部、結論から構成される。

第I部「具体性の諸相」は、1930年代の論考を取り上げ、フッサール、ハイデガーのもとで現象学者として出発したレヴィナスが、現象学の試みている具体的な生の分析をどのように評価していたかを分析する。というのも彼は、人間の生を豊かな具体性のもとに記述するとして基本的に現象学を評価するが、他方で具体的生への繋縛に対する警戒も語っているからである。後者は、「ヒトラー主義に関する若干の考察」(1934年)、存在からの超脱を考察する「逃走について」(1935年)に読むことができる。こうして本論文は、冒頭から、世界への内在/世界からの超脱という、レヴィナスが生涯持ち続ける姿勢の両面を提示する。さらに、哲学的論考と同時代のユダヤ教論考を取り上げ、両者の密接な連関を探求する。本論文の大きな特色となっているこの姿勢から、この時代のレヴィナスにとって、反ユダヤ主義は「異教」の復活と結びついているという点、生の具体性から脱却する可能性がユダヤ教のうちに見いだされているという点が明らかになる。

第I 部をふまえて、第II部「環境世界と根源的場所」は、初期の主要著作であり、「場所」が最も明示的に語られている『実存から実存者へ』(1947年)を検討の対象とする。そのために不可欠な作業として、藤岡氏は、ハイデガーにおける日常性とレヴィナスにおける日常世界を対比的に考察し、緻密かつ明快な仕方で、「道具と趣向性」の世界に対する「糧と欲望」の世界という構図を描き出してゆく。さらに、レヴィナス独特の概念である、一切の存在者に先立つ存在としてのil y a(ある)の主題化、そのil y aからの脱出によって根源的な場所としての「ここ」を所有するにいたる過程が示され、本論文が扱おうとする領野が読者の眼前に広がることになる。民族学者レヴィ=ブリュールの「未開」の心性、先行研究でほとんど言及されたことのない地理学者エリック・ダルデルの「現象学的地理学」の有効活用などは、執筆者がいかに細心に議論を組み立てたかを証言している。

第III部「居住と彷徨」では、1950年代から主著『全体性と無限』(1961年)にいたるまでの思想の動きが、1)存在論の根源性に対する批判、2)ハイデガーの「居住」の思想に対する批判、3)校訂版全集『フッセリアーナ』を契機とするフッサールの再解釈の三点に注目して語られる。ただし、とりわけ『全体性と無限』第2部「内部性と家政」からは、レヴィナスがハイデガーの思想を単に否定したのではなく、それを組み替えながら吸収していったことがうかがわれ、生・享受・身体・元基・感受性・家・所有・労働など、固有の意味が装填された諸概念もその観点から読まれるべきだとされる。また本論文は、「他者の思想家」として紹介されるレヴィナスの出発点が他者論ではなくあくまで自我論であることを強調する。《同》という内部性の外延が問われた上でのみ、内部性を超越したものとして他者が立てられるのである。その動きを象徴的に示す「ハイデガー、ガガーリン、われわれ」(1961年)の分析から、技術の力と土地の精霊という対比が導入され、後者に価値を認めるハイデガーの「居住」を、レヴィナスが「場所」への「異教」的な根づきと批判的に位置づけていること、異教・無神論・一神教という三層構造が『全体性と無限』の理論的体系の下地をなしていることが示される。

1970年代の中心的著作『存在するとは別の仕方で』を論じる第IV部「非場所の倫理」では、「場所論的転回」という大胆な読解が提示される。思想の連続性ゆえの「転回」というこの読解は、レヴィナス解釈に新たな可能性を加えるものといっても過言ではない。「転回」は、「痕跡」・「近さ」といった概念の導入、「他者のための責任」と不可分な「身代わり」の記号論、聖書表現「われここに」という応答の重要性、他者の呼びかけへの応答によって成立する「非場所」的主体などを通じて論じられる。レヴィナス自身は、「非場所」を明確に定式化したわけではない。しかし藤岡氏は、パウル・ツェランやエドモン・ジャベスといったユダヤ系詩人、あるいは精神病理学をめぐる論考を通じて、レヴィナスがそれらに付託して語る「非場所」の相貌を示そうとする。

第IV部は、哲学著作の時系列的な読解から現れる「非場所の倫理」の総括であった。第V部「レヴィナスとイスラエル」は、ユダヤ教論考をとりあげ、「場所」・「非場所」の主題と「約束の地」およびイスラエル国家という複雑によじれた問題を、レヴィナスの伝記的事実、イスラエル国家と「離散(ディアスポラ)」との緊張関係、1960年代から1970年代の政治的・社会的背景を交えながら論じる。タルムード講話「約束された地か許された地か」(1965年)、「空間は一次元ではない」(1968年)からは、「約束の地」の所有は普遍的な「正義」の名においてのみ正当化されるという思想が読み取れる。その半面、『存在するとは別の仕方で』で語られる、「責任」を軽減する「正義」が「非場所」を共通の「場所」へと開くことが示され、「約束の地」における正義は、場所/非場所の微妙な二重性の上に、または相矛盾する倫理的要請と政治的要請とが拮抗する上にあるものと位置づけられる。レヴィナスは、「高さ」概念によって両者の調停を試みようとする。その結果「場所かつ非場所」というユートピア的両立が、レヴィナス的主体性とイスラエルの双方に共通する構造として現れるのである。

エマニュエル・レヴィナスは、とりわけ1980年代以来、日本を含む世界各地で盛んに研究されている重要な思想家である。しかし「場所」を主題とした本格的な研究は知られていない。したがって「場所」を導きの糸にして「他者」や「倫理」といった、レヴィナス特有の大概念に挑む姿勢には優れた独創性を認めることができ、さらにその視点から思想の連続性と整合性を描き出すのに成功したことは、今後のレヴィナス研究全般に貢献するものとして大いに喜びとしたい。審査員のひとりから紹介された、藤岡氏によるフランス語での研究成果が第一線で活躍する複数のフランス人研究者からも高く評価されているという点も、十分に納得がゆくものである。

本論文の長所は独創性のみではない。周到な資料調査、緻密な論理構成による記述はきわめて堅牢であり、対象となるテクストを捌く手際のよさ、必要な引用をかならず提示する配慮などのおかげで、高度な内容にもかかわらず読み進むことは驚くほど容易であった。また、性急な断定を避け、忍耐強くレヴィナス思想の内的構造を追究していった点も異口同音に評価された。その姿勢は、仮想的な論敵としていったんは退けられるかに見えるフッサールやハイデガー相手に、レヴィナスがその後も対話を続け、自分の思想に組み込んでいった身振りへ注意をむけることを可能にしている。レヴィ=ブリュール、ダルデル、ツェラン、ジャベス等を論じるレヴィナスに関する詳しい記述をおこないえたのもその姿勢ゆえであり、新たな視点の獲得につながっている。

レヴィナスについては、哲学的もしくは倫理的著作とタルムード読解などのユダヤ教関連の著作が切り離して論じられがちである。しかし本論文は、初めから双方の本質的な関連を認めている。その姿勢こそが、レヴィナスのイスラエル国家に対する視点を単に政治的にではなく哲学的に分析することを可能にしている。著者自身「第V部は、レヴィナスの思想を構成する哲学著作とユダヤ教論考という二つの次元を「場所」の主題を軸に架橋する試みでもある」と述べているが、その意図と成果を積極的に評価したい。内的読解を主軸とした本論文に、非常に効果的なかたちでレヴィナスの伝記的事実、フランスとイスラエルをめぐる政治的、社会的背景が挿入される点も、本論文の出色の出来に貢献している。

なお、とりわけ第V部においてレヴィナス思想の諸矛盾が論じられるが、断定を避ける本論文は思想全体の是非を問うことはしない。思想が軋みだす行程をたどり、その軋みの手前で立ち止まるその身振りは、ギリシャ‐西洋/ユダヤの両プレート上に立ちながら後者を顕揚しようとするレヴィナスに対してジャック・デリダの「暴力と形而上学」(1964年)が展開する批判の出発点付近まで、まったく別の道を通って読者を導くと言えるかもしれない。

他方でいくつかの問題も指摘された。1)ハイデガーの存在論を権力の哲学と位置づけるレヴィナスの見方からもう少し離れることはできなかったのか。2)レヴィナスにとって「ユダヤ人」とは誰かが十分に説明されていないのではないか。3)レヴィナスが語る具体性は、とりわけ人類学などから見た場合、具体的と言えないのではないか。4)場所の議論を父性、血、女性的なもの、エロスの現象学、家族といった方面から立ち上げることもできるのではないか。5)「非場所の倫理」は「ユダヤ民族」という「場所」を想定してしまうと破綻に瀕するのではないか。

しかし、これらのなかには、今後の課題とされているものもあり、論文に対してというよりもレヴィナス思想そのものに向けられたものもある。したがって、研究自体の価値を減ずるものではない。よって審査委員会は、本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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