学位論文要旨



No 128519
著者(漢字) 鵜戸,聡
著者(英字)
著者(カナ) ウド,サトシ
標題(和) コスモグラフィーとしてのカテブ・ヤシン作品 : アフリカ性と民衆の詩学をめぐって
標題(洋)
報告番号 128519
報告番号 甲28519
学位授与日 2012.04.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1156号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 森山,工
 東京大学 教授 石井,洋二郎
 東京大学 教授 鈴木,啓二
 東京大学 教授 杉田,英明
 東京大学 准教授 星埜,守之
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、マグレブ(リビア以西の北アフリカ地域)における最も重要な現代作家の一人であるカテブ・ヤシン(Kateb Yacine, 1929-1989)と、そのフランス語による文学作品(詩・小説・戯曲)について論じたものである。

アラビア語文学に先んじることおよそ20年、1950年代に飛躍的発展を遂げたアルジェリアのフランス語文学において、カテブ・ヤシンは第一世代に分類される作家であり、現在その作品はすでに「古典」と看做されている。本論文では、その主著である二作品『ネジュマ』(1956)および『星の多角形』(1966)を研究の中心に据え、その歴史的背景から作品の構造・テーマに至るまでを詳細に分析した。

論文は三部構成となっている。

第一部「テクストのなかのアルジェリア―ネジュマをめぐって」は、カテブ・ヤシンについての基礎的な研究であり、アルジェリア現代史における作家の経験がマグレブ文学の金字塔と目される小説『ネジュマ』に結実していく経緯を、テクストを歴史のなかに再文脈化しつつ読み解いていくことによって論じている。

第一章「カテブ・ヤシンとその時代」では、独立(1962年)前後のアルジェリアの歴史的・社会的背景を確認しながら、作家の伝記情報を概観することによって本論への導入とする。

次いで第二章「屍体の経験と詩人の誕生―セティフ暴動と『包囲された屍体』」で、カテブ・ヤシンが文学とナショナリズムに目覚める決定的な契機となった1945年の反仏暴動(所謂「セティフ暴動」)にふれ、歴史的事件における個人的な体験がどのようにして作品に取り込まれ影響を与えているのかについて、処女戯曲『包囲された屍体』(1954)を中心に分析を試みる。

第三章「『ネジュマ』の世界」では主著『ネジュマ』について概説をおこない、当時のアルジェリア文学にとって革新的であったその小説構造に注目する。時系列がばらばらの断章群からなるこの小説において、前後する時間は渦巻き状に進み、やがて書物の終わりは始まりに接合されて円環構造を作り出す。

その形式上の新しさに関してウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』などの影響が指摘されているが、第四章「『ネジュマ』の文体―フォークナーとの比較研究」では、小説の構造のみならず文体もが英語圏モダニズム小説の影響を受けていることを指摘し、とりわけ「意識の流れ」による記述が時間軸を離脱しようとする傾向を持ち、そこに開陳される情念の渦が大きな暴力性を孕んでいることを論じている。

第二部「精読『星の多角形』―コスモロジーからコスモグラフィーへ」は、『ネジュマ』の続編とも位置づけられ、詩・小説・戯曲の形式が交じりあったジャンル混淆的な作品『星の多角形』(1966)の分析に充てられる。折々に独立して発表されたテクストを含み、時系列どころか内容的にもばらばらの断章群をゆるやかに束ねたこの書物は、これまでの研究において概括的あるいは部分的に論じらるばかりだった。それゆえ本論文ではあえて作品全体を通読し、全ての断章に言及することによってそこに何が描かれているのかを可能な限り明らかにし、一冊の書物としての『星の多角形』にいかなる構造がそなわっているのかを見出そうとする。

かくして第二部は、第一章から第六章にかけて作品本文の分析をおこない、終章「生成する書物のコスモグラフィー」において『星の多角形』の全体を振り返って書物の構造を把握しようと試みる。そこには、存在世界の発生に始まり起源への回帰(の失敗)に終わる枠組が見出されるのだが、その内部で幾人もの登場人物たちの物語がばらばらに展開され、彼らの彷徨とさまざまなモチーフやテーマの反復は、断章配列の自由さとも相俟って、一種のダイナミズムを作品に与えている。

『星の多角形』の断章は、『ネジュマ』その他の書物と作品世界をゆるやかに共有しつつ、そのひとつ一つが高い自律性を有したコスモス(物語小世界)となっている。それが偶然のようにして書物の形に束ねられることにより一つのコスモロジーが生じ、断章同士あるいは断章と書物とは互いに照応交感してより大きな詩的宇宙の鼓動を生むこととなる。そこで本論文は、この断章を延々と産出していくエクリチュールの運動を、コスモス・コスモロジーの著述誌として「コスモグラフィー」と名付けることとする。

カテブ・ヤシンは、(齟齬がありながらも)同一の世界を書き続けたことについて、「私はただ一冊の本の人間です」と述べている。彼が描き続けた断章が集積し、ひとつ一つのコスモロジーのもとに『ネジュマ』や『星の多角形』といった書物が生成する。そこに収められた断章は、書物がばらばらにされることによってコスモロジーを喪失し、一枚一枚のページとして「一冊の本」に回収されようとするのだが、その本は終わりがないゆえに、一冊に綴じられて新たなコスモロジーを形成することはない。この、断片が書き続けられ、それが書物のコスモロジーを形成し、そして同時に高次の「一冊の本」へと解体されるという、生成・構造化・自己解体の絶え間ない循環運動こそがカテブ・ヤシンのコスモグラフィーなのである。

第三部「コスモグラフィーのなかの民衆」は、第二部終章において提出された「コスモグラフィー」の概念が主にその構造の面から論じられたのを承けつつ、翻ってその内実を問おうとするものである。

第一章「コスモグラフィーの諸相」はコスモグラフィーに見出されるさまざまな特徴を論じたもので、先に提起された反復の問題を突き詰めていく。まず、往年のカテブ研究の権威である故ジャクリーヌ・アルノーが提示した「断片の作品」という概念を乗り越えるものとして、コスモグラフィーの示唆する動態性に注意を促す。さらに、カテブ・ヤシンのインタヴューから彼の述べる「円環」や「螺旋」がどのような意義を持っているのか推論し、コスモグラフィーのなかに幾度もあらわれる「挫折」や「潰走」が、逆説的ながらもむしろその反復によって運命に抗おうとすることを指摘する。最後に、個的存在としての人間が集団的存在である「民衆」に溶け込んでいくのを確認し、コスモグラフィーのなかに満ちる「民衆の生」と「個人の死」の相克を論じる。

第二章「アフリカとしてのアルジェリア」では、前章で述べた「民衆」という集合的生が文学テクストのなかで如何にして具象化されるのかを考察する。はじめに、民衆をあらわす代表的なモチーフとして「屍体」を挙げ、カテブ・ヤシンがマダガスカルの反仏暴動の犠牲者たちに捧げた詩「彷徨える民衆」を分析し、マダガスカルの屍体とアルジェリアの屍体が連帯のうちに「アフリカ」の屍体として歌われることを指摘する。次に、そのアフリカを象徴する存在のひとつである「黒人」がカテブ作品のなかにどのように書き込まれているのかを確認し、部族の血に潜む黒人性の問題を検討する。さらに、幾度となく言及される古代ベルベル王国「ヌミディア」を媒介に、アルジェリア民衆が潜在的に有している「アフリカ性」がテクストに浮き上がることを論じる。

第三章「言語と演劇」では、1970年代にカテブ・ヤシンが開始した口語アラビア語による演劇活動について考察する。フランス語から口語アラビア語へと言語的転換がおこなわれ、後者はなによりも民衆の言語として称揚されるのだが、これは民衆を描き出すコスモグラフィーとしてのカテブ作品が、口語演劇の上演によって民衆に直接差し向けられることでもあろう。

その演劇の特徴として円環状の舞台や歌の使用が挙げられ、ベルトルト・ブレヒトの影響も指摘されるところであるが、カテブ・ヤシン自身の証言からはまずもってベトナムの伝統演劇「チェオ」がモデルとして考えられ、くわえてアルジェリアの大道芸「ハルカ」(環)にもその根を持つように思われる。

歌のなかで役者と観衆は一体となり、舞台で演じられるのは民衆の生である。課された運命を活写すると同時に運命への抵抗でもあるカテブのコスモグラフィーは、民衆を描き、民衆によって動かされていくことばの宇宙であったが、民衆が演じ民衆が観衆である演劇空間は、謂わばコスモグラフィーの現実世界への顕現として夢想されたのである。

審査要旨 要旨を表示する

鵜戸聡氏の学位請求論文『コスモグラフィーとしてのカテブ・ヤシン作品―アフリカ性と民衆の詩学をめぐって』は、マグレブ地域における最も重要な現代作家の一人であるカテブ・ヤシン(1929-1989年)を題材とし、そのフランス語による文学作品について論じたものである。

1950年代に飛躍的な発展を遂げたアルジェリアのフランス語文学において、カテブ・ヤシンは第一世代に分類される作家であり、現在その作品はすでに「古典」と見なされている。本論文では、その主著である二つの作品、『ネジュマ』(1956年)および『星の多角形』(1966年)を中心に据え、その歴史的・社会的背景から作品の構造・モチーフに至るまでを詳細に分析したものである。

本論文は三部構成となっている。

第一部「テクストのなかのアルジェリア―ネジュマをめぐって」は、カテブ・ヤシンの全体像を視野に入れつつ、本論文全体にとって基礎となる論述にあてられている。とりわけ、アルジェリア現代史における作家自身の経験が小説『ネジュマ』に結実していく過程を、歴史のなかにテクストを再文脈化しつつ論じている。

第一章「カテブ・ヤシンとその時代」では、独立(1962年)前後のアルジェリアの歴史的・社会的背景を確認しながら、作家の伝記的な事象を概観することによって本論文全体への導入を図る。

第二章「屍体の経験と詩人の誕生―セティフ暴動と『包囲された屍体』」では、カテブ・ヤシンが文学とナショナリズムに目覚める契機となった第二次大戦終結直後に勃発した反仏暴動に触れ、歴史的事件の只中での個人的体験がどのように作品に影響を与えているのかについて、処女戯曲『包囲された屍体』(1954年)を中心に分析している。

第三章「『ネジュマ』の世界」では主著『ネジュマ』について概説し、当時のアルジェリア文学にとって革新的であったその小説構造に注目する。時系列がばらばらの断章群からなるこの小説において、前後する時間は渦巻き状に進み、やがて書物の終わりは始まりに接合され、全体として円環構造をなすことが確認される。

第四章「『ネジュマ』の文体―フォークナーとの比較研究」では、その形式上の新しさに関してウィリアム・フォークナーなどの影響が指摘されているカテブ・ヤシン作品において、小説構造のみならず文体までもが英語圏モダニズム小説の影響を受けていることを指摘する。

第二部「精読『星の多角形』―コスモロジーからコスモグラフィーへ」は、本論文で最も独創的かつ中心的な位置を占めるパートであり、詩・小説・戯曲の形式が混ざり合ったジャンル混淆的な作品、『星の多角形』の詳細な読解と分析にあてられる。この作品は『ネジュマ』の続編とも見なされうるものであるが、折々に独立して発表されたテクストを含み、時系列どころか内容的にもばらばらの断章群をゆるやかに束ねたものであり、これまでの研究においては概括的に、ないしは部分的に論じられるのみであった。これに対して、本論文では作品全体を通読し、全ての断章に言及することによって、そこに描かれているものを可能なかぎり明らかにし、一冊の書物としての『星の多角形』にいかなる構造が備わっているのかを見極めようとしている。

このためこの第二部は、その第一章から第六章にかけて作品本文の読解と分析を行い、終章「生成する書物のコスモグラフィー」において『星の多角形』の全体を総括して作品構造を把握している。そこには、存在の発生に始まり、起源への回帰(およびその失敗)に終わる枠組みが見出され、その内部で幾人もの登場人物たちの物語がばらばらに展開されていることが論証される。また、彼らの彷徨とさまざまなモチーフの反復が、断章配列の自由さとも相俟って、作品に一種のダイナミズムを与えていることが論じられる。

『星の多角形』の諸断章は、『ネジュマ』その他の書物と作品世界をゆるやかに共有しつつ、その一つひとつが高い自律性を有したコスモス(物語小世界)となっている。それが偶然のようにして書物の形に束ねられることにより一つのコスモロジーが生じ、断章どうし、あるいは断章と書物全体とは相互に照応交感してより大きな詩的宇宙の鼓動を懐胎する。本論文では、このように断章を延々と産出していくエクリチュールの運動を、コスモスの著述誌として「コスモグラフィー」と名付けている。コスモスとしての断片が書き継がれ、それがコスモロジーとしての書物を形成し、そして同時に高次の「一冊の書物」へと解体されるという、生成・構造化・自己解体の絶え間ない循環運動こそがカテブ・ヤシンのコスモグラフィーであるというのが、本論文の骨子をなす理論的主張である。

第三部「コスモグラフィーのなかの民衆」は、第二部終章において提出された「コスモグラフィー」の概念が主にその構造の面から論じられたのを踏まえ、翻ってその内容を問おうとするものである。

第一章「コスモグラフィーの諸相」は、コスモグラフィーに見出されるさまざまな特徴を論じたもので、先に提起された反復の問題に着目する。そこではまず、コスモグラフィーの示唆する動態性に着目した上で、カテブ・ヤシンが論ずる「円環」や「螺旋」がどのような意義をもっているのかを考察している。さらに、個的存在としての人間が集団的存在である「民衆」に溶け込んでいく様相を確認し、コスモグラフィーに満ちる「民衆の生」と「個人の死」の相克を論じる。

第二章「アフリカとしてのアルジェリア」では、前章で述べた「民衆」という集合的生が文学テクストのなかでいかにして具象化されるのかを考察する。はじめに、民衆をあらわす代表的なモチーフとして「屍体」を挙げ、カテブ・ヤシンがマダガスカルの反仏暴動(1947年)の犠牲者たちに捧げた詩「彷徨える民衆」を分析し、マダガスカルの屍体とアルジェリアの屍体が「アフリカ」の屍体として連帯していることを指摘する。次に、アフリカを象徴する「黒人」がカテブ作品のなかにどのように描かれているのかを確認し、部族の血に潜む黒人性を検討する。さらに、幾度となく言及される古代ベルベル王国「ヌミディア」を媒介に、アルジェリア民衆が潜在的に有している「アフリカ性」がテクストに浮かび上がることを論じている。

第三章「言語と演劇」では、1970年代にカテブ・ヤシンが開始した口語アラビア語による演劇活動について考察する。フランス語から口語アラビア語へと言語的転換が行われ、後者は民衆の言語として称揚されるのだが、これは民衆を描き出すコスモグラフィーとしてのカテブ作品が、口語演劇によって民衆に直接差し向けられることでもあるとする。

以上の三部を踏まえ、結論では再び『ネジュマ』と『星の多角形』に立ち返り、それらがそれぞれにそれ自体として読まれうることを本論文の主張として確認し、それぞれのテクスト内部で解決されない「謎」をまさしく「謎」として引き受けるという読解上の立場が表明されている。

以上のような構成と内容を有する本論文の学術的意義としては、次の諸点を挙げることができる。

第一に、カテブ・ヤシンという作家をその歴史的・社会的文脈に位置づけ、必要に応じてその伝記的事象も参照しながら、特定の二作品に論述の課題を絞り込みつつも、彼の作家としての全体像を体系的かつ広範な視野のもとに把握した学術論文としての価値である。カテブ・ヤシン作品に関するこのような学術論文は、日本語で執筆されたものとしては先例がなく、本論文にして初めてその本格的な研究を提示するものであって、この点での学術的な貢献には多大なものがあると評価される。

第二に、本論文の第二部に見られるように、とくに『星の多角形』に密着することによって、多声的とも言える作品構造を解明し、時空間を超越的に横断するダイナミズムや、カテブ・ヤシンにとっての「アフリカ」概念の重層性をテクストから丹念に導出している点である。このような読解の試みはフランス語で書かれた先行研究においてさえ類例がなく、ミクロ・レクチュールとして非常に価値の高い成果を提示するものと評価される。

第三に、そのようなミクロな読解の一方で、カテブ・ヤシンという一作家について、その生涯や歴史的・社会的背景も含めて論述し、その作品群がギリシア悲劇から中国演劇・ベトナム演劇にまで至る広範な教養を裏打ちとしている事実を浮き彫りにすることで、日本ではまったくと言ってよいほど知られていないアルジェリア文学の全体的な動向を紹介する意義がある点である。本論文がこの意味で総体として情報量の豊かな、きわめてスケールの大きな論文として仕上げられていることは積極的な評価に値する。

もちろん、本論文に不十分な点があることもまた確かである。たとえば、全体的な構成としては第二部に分量的な過度の比重がかかっており、緊密なバランスにやや欠ける憾みがある。作品の内在的な分析と、作家の伝記的事実や歴史的・社会的背景といった作品にとって外在的な事象とがときに恣意的に結びつけられるきらいがあり、両者のより有機的な連関が望まれる。「謎」を「謎」として引き受けるという読解上の立場表明は、むしろ解釈からの逃避と受け取られる恐れがある。「モチーフ」と「テーマ」、「イマージュ」と「ヴィジョン」といった概念をより精密に腑分けし、分析概念として彫琢する必要がある。「コスモグラフィー」が主タイトルにも現れるキーコンセプトであるにもかかわらず、それがもっぱら記述概念としてのみ使用されており、「コスモス」と呼びうるものを記述している他の諸作家の「コスモグラフィー」との比較を行うなどといったかたちで、その概念が分析概念として十分に突き詰められていない。作品の日本語への翻訳において、不適切な訳語・訳文となっている箇所が少なからず存在する。以上のような諸点である。

しかしながら、このような弱点はありながらも、本論文自体がスケールの大きな一個の「作品」であり、今後の研究の進展によってこれらの弱点も乗り越えられることが十分に期待されるという点で、本審査委員会は意見の一致を見た。また、本論文がカテブ・ヤシン作品について緻密かつ丁寧な記述と分析を積み上げた野心作・労作であり、高度な学術的水準に達した論文であるとの見解でも本審査委員会は一致している。したがって本審査委員会は、本論文提出者が博士(学術)の学位を授与されるにふさわしいものと認定する。

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