学位論文要旨



No 128520
著者(漢字) 佐藤,和
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ヤマト
標題(和) ラットモデルを用いた歩行中の障害物回避動作および下オリーブ核-登上線維系破壊の影響
標題(洋) Effects of lesions to the olivo-cerebellar pathway on obstacle avoidance during overground locomotion in rat
報告番号 128520
報告番号 甲28520
学位授与日 2012.04.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1157号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 柳原,大
 東京大学 教授 石井,直方
 東京大学 教授 深代,千之
 東京大学 教授 八田,秀雄
 東京大学 教授 中澤,公孝
内容要旨 要旨を表示する

【第1章:研究の背景】

我々の日常生活において、歩行中の路面に段差が存在する状況や移動方向上に跨ぎ越さなければならない障害物がある状況に遭遇することは少なくない。このような状況において、前方に認知された障害物を跨ぎ越すことは、歩行を安全かつ円滑に遂行するために大変重要である。ヒトを対象にした歩行中の障害物回避(跨ぎ越し)に関する研究では、障害物へ向かっていく局面(アプローチ相)において歩幅を調節するなどの歩行調節を行い、障害物回避直前の接地位置が非常に正確に調節されていることが報告されている。また、高さの異なる障害物を回避する場合、回避する際の離地から下肢の関節角度および筋活動を障害物の高さに応じて調節していることが報告されている。これらの報告は、障害物回避の準備段階から歩行動作の調節を行うことが障害物を適切に回避するために重要であることを示している。また、障害物を回避する動作は、障害物を回避する肢(以下、回避肢)と反対側で体重の支持や平衡の維持に関わる肢(以下、支持肢)の異なる動作を同時かつ協調的に制御する必要がある。このような動作の制御には中枢神経系が重要な役割を果たしていると考えられているが、ヒトや実験動物を対象にした現在までの研究からは不明な点が多い。歩行中の障害物回避は、歩行という周期的な動作の中に、障害物に対して適応的に回避するための肢先の軌道調節が付加される。歩行時の適応的な肢内および肢間協調には、小脳が重要な役割を果たしていると考えられている。小脳皮質唯一の出力細胞であるプルキンエ細胞の活動やその可塑性の発現には、延髄下オリーブ核を起始とする登上線維入力が重要な役割を果たす。障害物回避歩行は、平面歩行が動作の基盤となっていると考えられるが、登上線維入力によりプルキンエ細胞に生じる複雑スパイクは、外乱の無い平面歩行においては1Hz以下と非常に低頻度であり、歩行の位相に非特異的な活動パターンを示すが、歩行中に外乱を加えた際には複雑スパイクの発火頻度が著しく増大することが報告されている。しかしながら、登上線維系の入力が歩行制御自体にどのような役割を有するのかについては現在でも不明である。さらに、登上線維系入力が障害物回避歩行にどのような役割を持つのかについて検討した研究は見当たらない。そこで本研究では、ラットモデルを用いた歩行中の障害物回避動作の特性を明らかにするとともに、小脳プルキンエ細胞の活動に重要な作用を持つ下オリーブ核-登上線維系を破壊し、登上線維系の欠如が歩行中の障害物回避動作に及ぼす影響について調べることを目的とした。

【第2章:ラットモデルを用いた障害物回避(跨ぎ越し)歩行‐アプローチ相における歩行調節‐】

ヒトを対象とした先行研究から、歩行中の障害物回避における回避直前の接地位置は厳密に調節され、つま先―障害物水平方向距離の極端な減少は回避時の躓き回数を増加させることが報告されている(Patla and Greig, 2006; Chou and Draganich,1998)。また、高さの異なる障害物を回避する際、つま先―障害物水平方向距離は障害物の高さによる影響は受けずに一定であることも報告されている(Chou and Draganich,1998; Austin et al., 1999)。これらの報告から、回避直前の接地位置は適切な障害物回避動作を遂行するために重要であり、この動作は中枢神経系によって正確に制御されていることが考えられる。中枢神経系の役割について詳細に調べるためには実験動物を用いることが大変有用である。そこで第2章では、Wistar系rat (n=10)を用いて高さの異なる障害物を回避する際のアプローチ相中の歩行調節を明らかにすることを目的とした。歩行中の障害物回避動作(障害物の高さ 2-4cm)を高速度ビデオカメラシステム(200 frames/sec)により記録し、その後解析した。その結果、前肢および後肢trailing limb(前肢間および後肢間で2番目に障害物を跨ぎ越す肢)の回避直前のストライド長および遊脚相持続時間は回避2歩前および平面歩行にくらべ有意に短縮した。また、つま先‐障害物水平方向距離は、障害物の高さに応じた変化を示さず、前‐後肢間に正の相関関係が認められた。これらの結果は、ヒトを対象とした先行研究の結果を支持し、回避直前におけるtrailing limbの歩行調節が障害物回避動作の準備に重要であることを示唆する。

【第3章:ラットモデルを用いた障害物回避(跨ぎ越し)歩行‐跨ぎ越し動作における肢間協調‐】

障害物を跨ぎ越す際、回避肢は障害物の高さ等に応じた肢内協調に基づく肢先軌道の生成を必要とし、回避肢の反対側は体重の支持、平衡の維持を担う支持肢として回避肢の動作に貢献していると考えられ、両肢間において異なる動作を同時かつ肢間協調的に制御することが重要である。また、回避動作は離地から始まるが、ヒトを対象とした研究において、leading limb(前肢間および後肢間で1番目に障害物を跨ぎ越す肢)およびtrailing limbでは回避する際の離地時から障害物の高さに応じた調節が行われていることが報告されている(Patla and Rietdyk, 1993; Chou and Draganich, 1997)。障害物回避歩行のような歩行制御研究の多くは、ラットを実験動物として、後肢を主な分析対象としている。そこで第3章では、第2章とは異なるWistar系rat (n=10)を用いて高さの異なる障害物を回避する際の回避肢と支持肢の動作特性について調べることを目的とした。対象動作の記録、解析方法は第2章と同様であった。本研究の結果、ラットは障害物の高さに応じた腸骨稜高とつま先高を示して障害物を回避した。しかしながら、つま先が障害物上に位置する際の回避肢の関節角度は障害物の高さに応じた変化を示さなかったが、回避肢の反対側の肢である支持肢の関節角度が障害物の高さに応じた伸展位を示した。ラットを用いた障害物の回避動作において、回避肢の高さに応じたつま先高の調節には、反対側の支持肢による高さに応じた肢位の調節が重要であることが示唆された。また、回避肢の動作に反対側の支持肢が影響を与える事から、障害物回避には肢間協調が重要であることが示唆された。

障害物を回避する際の離地時における腸骨稜高は、障害物の高さに応じて増大し、その際の回避肢はleading limbにおける膝関節および足関節、trailing limbにおける膝関節が高さに応じた肢位の調節に関与していた。これらの結果から、障害物の高さに応じた回避を遂行するためには、回避肢の離地時から腸骨稜の高さを調節し、そのためには特に膝関節の肢位の調節が重要であることが明らかとなった。

【第4章:歩行中の障害物回避動作における下オリーブ核‐登上線維系破壊の影響】

歩行中の適応的な肢間および肢内協調には、小脳が重要な役割を果たしていると考えられている。小脳プルキンエ細胞は小脳皮質唯一の出力細胞であり、プルキンエ細胞の活動および可塑性の発現には下オリーブ核を起始とする登上線維が重要な役割を果たしている。そこで第4章では、延髄下オリーブ核を選択的に細胞死させ、歩行中の障害物回避動作に対する下オリーブ核‐登上線維系破壊の影響について調べることを目的とした。Wistar系rat(n=8)に下オリーブ核細胞を選択的に細胞死させる3-acetylpyridine(3-AP)を腹腔内投与し、下オリーブ核破壊前後の歩行中の障害物回避動作を記録、解析した。記録方法および解析項目は第2章および第3章と同様である。全ての行動実験終了後に、組織化学的検査を行い3-AP投与により下オリーブ核細胞が選択的に細胞死していることが確認された。第4章においても、第3章と同様の理由および破壊の影響が大きかったことから後肢を分析の対象とした。その結果、下オリーブ核を破壊されたラットは、障害物の無い平面歩行でも遊脚相における膝関節角度および足関節角度の過度な屈曲に伴い、過度なつま先高を示した。また、四肢の離地および接地の順序が乱れ、歩行パターンも不安定になった。歩行中の障害物回避動作において、下オリーブ核を破壊されたラットは、障害物回避時に試行間で変動があり、不安定なつま先軌道を示し、この症状は障害物回避動作に特異的であった。障害されたつま先軌道の中でも離地から障害部物直上までのつま先軌道に、下オリーブ核破壊の影響が確認された。また、回避肢のつま先が障害物上にあるとき、反対側の後肢も離地した状態であり、回避肢および支持肢としての機能分化が確認されなかった。以上より、下オリーブ核‐登上線維系の破壊は、平面歩行の動作に対する影響に加え、より正確な肢先軌道の生成が必要とされる障害物回避動作に大きな影響を及ぼした。これらの原因として、下オリーブ核‐登上線維系入力の慢性的な欠損によるプルキンエ細胞の機能障害が推測される。

【まとめ】

歩行中に高さの異なる障害物を回避する際、アプローチ相には回避直前におけるtrailing limbの歩行調節、回避時には障害物の高さに応じた支持肢による肢位の調節が重要であることが明らかとなった。下オリーブ核‐登上線維系の破壊は、平面歩行における動作に対する影響に加え、より正確な肢先の軌道生成を必要とする障害物回避動作において大きな影響を及ぼした。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「ラットモデルを用いた歩行中の障害物回避動作および下オリーブ核-登上線維系破壊の影響(Effects of lesions to the olivo-cerebellar pathway on obstacle avoidance during overground locomotion in rat)」は、5章から成っており、第1章:序論、第2章:ラットモデルを用いた障害物回避(跨ぎ越し)歩行‐アプローチ相における歩行調節‐、第3章:ラットモデルを用いた障害物回避(跨ぎ越し)歩行‐跨ぎ越し動作における肢間協調‐、第4章:歩行中の障害物回避における下オリーブ核‐登上線維系破壊の影響‐、第5章:総合論議となっている。

歩行を安定して、かつ、様々な外部環境の変化に適応して行うための神経制御機構についての知見は未だ十分ではない。ヒトを対象とした生理学的研究、認知科学的研究、さらには神経疾患患者などを対象にした臨床的バイオメカニクス領域における研究においては数多くの研究成果が報告されているが、実験手法の制約上、神経制御機構の詳細な解析は難しい。一方で、実験動物を対象にした研究は本邦以外においても行われているが、神経機構として未だ断片的な知見が得られているのみである。本論文では、実験動物モデルとしてラットを用い、それらが歩行する際にその前方に設置された障害物を跨ぎ越し回避する実験パラダイムを新たに構築し、障害物に向かって歩行していくアプローチ相における歩行調節、障害物を跨ぎ越す肢の動作の特性、さらには、この障害物回避動作における中枢神経系の機能の一つとして小脳の機能について焦点を当て、小脳皮質のプルキンエ細胞の活動およびその可塑性に重要な役割を果たしている下オリーブ核‐登上線維系を破壊した際の機能障害について調べた。

第2章では、ラットモデルを用いて、歩行路の前方に設置された障害物を跨ぎ越し回避する歩行の際の障害物へ向かうアプローチ相における歩行調節について調べた。その際に、障害物の高さを3種類設定し、高さに対する影響を観察すること、leading limb(左右対側肢において、最初に障害物を跨ぎ越す肢)とtrailing limb(左右対側肢において、leading limbに後続して障害物を跨ぎ越す肢)との比較を行うことから重要な知見を得た。障害物回避歩行課題において、3種類の高さの障害物に対して一定のsafety marginを持ったつま先の挙上が観察され、ラットモデルに対して適切な実験パラダイムであることを示した。障害物を跨ぎ越す前の各肢つま先と障害物までの水平距離は前肢および後肢ともにleading limbよりもtrailing limbが短く、また障害物の高さによる影響を受けないことを明らかにした。さらに、障害物に対して最も近接して接地されるtrailing limbの回避直前のステップにおけるストライド長と遊脚相持続時間は、障害物がない平面歩行やleading limbの各ステップ、trailing limbの先行するステップにおけるものよりも有意に短縮していたことが示され、回避直前におけるtrailing limbの歩行調節は障害物回避歩行時の障害物へのアプローチ相における歩行においてその他の肢およびステップとは特異的に行われていることが示唆された。

第3章では、ラットモデルを用いて、歩行路の前方に設置された障害物を跨ぎ越し回避する歩行の際の障害物を跨ぎ越す動作について、特に後肢に注目して高速度カメラを用いて、それらのつま先の軌道、腸骨稜高、また、腰・膝・足関節の動作解析を行った。ここでは、leading limbが跨ぎ越す際にtrailing limbが体重を主として支持する支持肢として、逆に、trailing limbが跨ぎ越す際にleading limbが体重を主として支持する支持肢として機能していることに注目し、その肢間協調を明らかにした。跨ぎ越し回避する肢(回避肢)のつま先が障害物上にある時、その肢の各関節角度は、障害物の高さに応じた変化を示さなかった。しかしながら、trailing limbおよびleading limbのいずれにおいても、回避肢が障害物上にある時の反対側の支持肢としての腸骨稜高は、障害物の高さに応じて変化していたこと、それらの関節角度は、障害物の高さに応じた伸展位を示していたことが明らかとなった。これらの結果は、回避肢の高さに応じたつま先高の調節に、反対側の支持肢による肢位の調節が重要であることを示唆しており、障害物回避歩行における肢間協調を明らかにした。

第4章では、延髄下オリーブ核ニューロンを選択的に細胞死させ、歩行中の障害物回避動作に対する下オリーブ核‐登上線維系破壊の影響について調べた。歩行中の適応的な肢間および肢内協調には、小脳皮質が重要な役割を果たしていると考えられている。プルキンエ細胞は小脳皮質からの唯一の出力細胞であり、プルキンエ細胞の活動および可塑性の発現には下オリーブ核を起始とする登上線維からのシナプス入力が重要な役割を果たしていることが知られている。ラットモデルにおいて、下オリーブ核細胞を選択的に細胞死させる3-acetylpyridineを腹腔内投与し、下オリーブ核破壊前後の歩行中の障害物回避歩行を解析した。下オリーブ核が破壊されたラットは、障害物の無い平面歩行において遊脚相における膝関節角度および足関節角度の過度な屈曲を生じ、つま先の異常な挙上を示すとともに、四肢間の接地順序が乱れ、歩行が不安定になることが示された。歩行中の障害物回避動作において、下オリーブ核を破壊されたラットは、変曲点を複数有する異常なつま先軌道を示し、それらの軌道は試行間での大きな変動を示した。これらの結果から、下オリーブ核‐登上線維系の破壊は、平面歩行の動作に対する影響に加え、より正確な肢先軌道の生成が必要とされる障害物回避動作に大きな影響を及ぼすことが明らかとなった。

以上をまとめると、論文提出者は本研究において、ラットモデルにおける障害物回避歩行の動作特性について解析を行い、障害物に向かって歩行していくアプローチ相における歩行調節、障害物を跨ぎ越し回避する際に発現する肢間協調、さらにこれらの動作の生成における下オリーブ核‐登上線維系破壊の影響について新知見を提供した。これらの結果は、神経科学、身体運動科学において有意義な貢献をするものと認められる。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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