学位論文要旨



No 128526
著者(漢字) 牧村,幸敏
著者(英字)
著者(カナ) マキムラ,ユキトシ
標題(和) 実験的炎症性腸疾患における骨盤神経の侵害受容に関する研究
標題(洋)
報告番号 128526
報告番号 甲28526
学位授与日 2012.05.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3851号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 尾崎,博
 東京大学 教授 真鍋,昇
 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 准教授 堀,正敏
内容要旨 要旨を表示する

潰瘍を伴う炎症性腸疾患(IBD)は、近年10万人以上の罹患者が存在するとされ、医療的にも社会的にも大きな関心が集まっている。IBDはこれまで主に腸管における免疫機序の観点から研究が進められてきたが、実際には免疫系以外にも神経系の役割が重要な位置を占める可能性が考えられている。そのため、IBDにおける腸管支配知覚神経の興奮特性とその役割を電気生理学的手法や薬理学的手法を用いて明らかにすることは、IBDの病態発現機構の解明や治療・予防法の開発にとって極めて有意義なことと考えられる。

そこで、本論文においては、まず、消化管を支配する知覚神経の存在を確認するために起炎剤でもある酢酸を消化管内に投与したときの骨盤神経求心性線維の興奮性の変化を検討した。次に、下部消化管知覚神経の興奮特性を明らかにすることを目的として、DSSを自由飲水させることで作成したIBDのモデル動物を用い、その骨盤神経求心性線維の興奮性の変化をカプサイシンに対する応答性を比較しながら検討した。また、その興奮特性の変化に関わる生理学的メカニズムを追及するために、C線維を興奮させるカプサイシンの受容体TRPV1が含まれるTRPチャネルに着目し、その非選択的阻害薬であるルテニウムレッド(RR)を投与したときの興奮性の変化を検討した。

第1章「序論」では、 IBDに関する病態の解説とIBDの発症要因に関する過去の研究経緯ならびに本研究の目的と意義について述べた。

第2章「骨盤神経の化学的侵害刺激に対する応答」では、結腸の知覚を担っているとされる骨盤神経(Pelvic nerve)が腸内の化学的侵害刺激に対する応答性を示すか否か、またその応答性はどのようなものであるかを明らかにするために、正常ラット(Wistar Kyoto)に酢酸溶液の直腸内投与を行い、骨盤神経の求心性活動を電気生理学的に記録した。酢酸溶液の濃度は5%(n=6)、10%(n=6)および25 %(n=6)とし、 それぞれ0.5 mlを1回だけ直腸内に30秒間かけて投与した。さらに、酢酸溶液の投与後一定時間の回復期間を経た後にC線維(侵害受容器)の選択的刺激剤であるカプサイシン溶液(10.0μg/kg)を静脈内に投与し、骨盤神経の応答性を観察した。5%、10%、25%のいずれの濃度においても、酢酸投与直後から骨盤神経求心性活動の増加が認められ、その増加度は酢酸濃度依存性を示した(最大応答時の放電数の増加率:5%酢酸133.8%、10%酢酸160.8%、25%酢酸286.6%)。放電頻度の増加は投与後10分間にわたって認められたが、5%および10%の酢酸では投与直後の30秒間で最大を示したのに対し、25%の酢酸では、投与直後から放電頻度が増加するとともに、投与後120-180秒間にわたって最大反応が持続した。一方、これらの神経活動はカプサイシン溶液に対しても明瞭な応答性(459.6%の増加)を示した。これらの実験結果から、骨盤神経中には化学的侵害刺激に応答する侵害受容器(C線維)が存在することが明らかになった。

第3章「腸炎モデル動物における骨盤神経の化学的侵害受容」では、より長時間にわたる腸炎発症下での骨盤神経の興奮性を明らかにするために、Dextran Sulfate Sodium (以下DSS)溶液の自由飲水によって腸炎モデルラットを作出した上で、カプサイシンの下部消化管内投与に対する応答性を調べた。Wistar Kyotoラットに5%のDSS水溶液を1日(DSS-1群)または8日間(DSS-8群)飲水として与えた。また水道水のみを与えた対照群(non-DSS群)を設けた。DSS-8群ではすべての個体に下痢、血便が観察された。DSS-1群ではすべての個体において、軟便が観察されたものの、下痢や血便は観察されなかった。non-DSS群についてはすべての個体において便の性状は正常であった。各群に対して、骨盤神経の神経活動を記録しながら、薬物投与前90秒間の対照記録を行った後、30秒間かけてカプサイシン溶液(100μg/ml、0.5 ml)を直腸カテーテルを介して下部結腸内への投与を行い、その後神経活動を10分間連続記録した。カプサイシン刺激による放電頻度の増加は投与後90秒間で特に顕著であり、その期間においてはnon-DSS群およびDSS-1群において、カプサイシン刺激により、投与前に比べて有意に増加(non-DSS群:47.9 imp./30s v.s. 34.5 imp./30s, DSS-1群:55.7 imp./30s v.s. 39.7 imp./30s)(p<0.05)し、DSS-8群においても増加する傾向(43.8 imp./30s v.s. 36.0 imp./30s)を示した。non-DSS群では投与後5-10分で放電頻度が減少し、投与前のレベルにまで戻ったのに対して、DSS群(DSS-1群、DSS-8群)においては放電頻度の10分間にわたる持続的な増加が観察され、特にDSS-8群では、その持続的な増加が明瞭であった。またカプサインに対する最大応答に関しては、DSS-1群ではその応答性がnon-DSS群およびDSS-8群に比べて有意に高かった(p<0.05)。

これらの結果から、DSS誘発腸炎モデルラットでは、カプサイシンの結腸内投与に対する侵害受容が亢進しており、とくにDSS飲水の1日目からすでに高い感受性を発現していることが明らかになった。

第4章「腸炎モデル動物における骨盤神経の化学的侵害受容におけるTRPチャネルの関与」では、第3章で明らかにされたDSS誘発腸炎モデルラットにおけるカプサイシン感受性の亢進にTRPチャネルがどのように関与しているかを明らかにするための実験を行った。non-DSS群、DSS-1群およびDSS-8群に対して、予めTRPチャネルの非選択的阻害薬であるルテニウムレッド(以下RR)を静脈内投与した後に、カプサイシンの下部消化管内投与に対する骨盤神経の応答性を観察した。RRを前投与した群と前投与しなかった群における、骨盤神経求心性活動のカプサイシンに対する最大応答を比較したところ、DSS群、とくにDSS-1群では、RRの前投与によってカプサイシンの結腸内投与による骨盤神経放電頻度の増加が有意に抑制されたが、non-DSS群ではRRの前投与の有無に関わらず、カプサイシンによる骨盤神経放電頻度の増加が観察され、RRによる抑制効果は認められなかった 。

以上の実験結果から、DSS誘発腸炎、とくにその初期段階においてはカプサイシン感受性の亢進にTRPチャネルが深く関与していることが示唆された。

第5章「腸炎モデル動物における骨盤神経の機械的侵害受容」では、骨盤神経の機械的刺激に対する応答性の有無と、DSS誘発腸炎モデルラットにおける機械的刺激受容の変化を観察した。non-DSS群では、下部消化管のバルーン拡張刺激に対する応答性が明瞭に発現したのに対してDSS群では明瞭な応答性が示されなかった。このことから、骨盤神経には下部消化管内の機械的刺激に応答する知覚線維が含まれることが明らかになったとともに、その機械的刺激受容は腸炎によってむしろ抑制される傾向があることが判明した。

第6章 「総合考察」では、上記の第2章から第5章までの実験結果を踏まえ、下部消化管を支配する骨盤神経の化学的、機械的侵害刺激に対する知覚受容機構の一端を明らかにしたとともに、炎症性腸疾患における本神経活動の動態が腸炎病態の発現性に少なからず影響をもたらす可能性を指摘した。

審査要旨 要旨を表示する

近年、わが国において潰瘍性大腸炎(Ulcerative Colitis)で代表される「炎症性腸疾患 Inflammatory Bowel Disease(IBD)」は患者数が10万人を超えるなど医療上、社会上大きな問題になっている。IBDは結腸を含む下部消化管に生じる難治性の腸疾患であり、その発症要因および発症機序に関する研究はこれまで免疫学的領域で多くなされているものの、IBD発症の全体像において未だ不明な点が少なくない。本研究では、IBDの病態解明において、これまで取り組みが遅れている腸管支配知覚神経の関与の有無とその関与の仕方を明らかにする目的で電気生理学的方法を中心にした実証実験を行い、従来の免疫学的知見に加えて新たに神経学的な情報を提供したものである。

まず下部消化管を支配する骨盤神経(pelvic nerve)中に下部消化管の侵害刺激に応答する知覚神経が存在するか否かを明らかにするために、Wistar Kyotoラットの結腸内に5%、10%、25%の酢酸溶液を投与し、骨盤神経求心性活動を電気生理学的に記録した。いずれの濃度においても、酢酸投与直後から求心性活動の増加が認められ、その増加は濃度依存性を示した。これらの神経は同時に侵害受容器(C線維)の選択的刺激剤であるカプサイシン(以下、CAPS)に対しても明瞭な応答性(平均459.6%の増加)を示した。この実験結果から、骨盤神経中には化学的侵害刺激に応答する侵害受容器が存在することが明らかになった。

上記の結果を踏まえて、より実際に近い腸炎における下部消化管知覚神経の侵害受容を明らかにするために、Dextran Sulfate Sodium(以下DSS)溶液の自由飲水による腸炎モデルラットを作出し、本モデル動物を用いた実験を行った。Wistar Kyotoラットに5%のDSS水溶液を1日(DSS-1群)または8日間(DSS-8群)飲水として与えた。また水道水のみを与えた対照群(non-DSS群)を設けた。各群に対して、骨盤神経の神経活動を記録しながら、CAPS溶液(100μg/ml、0.5 ml)の結腸内への投与を行った。CAPS刺激による放電頻度の増加は投与後90秒間で明瞭であり、non-DSS群、DSS-1群、DSS-8群において、投与前に比べて有意な増加 (p<0.05) が示された。non-DSS群では投与後5-10分で放電頻度が減少し、投与前のレベルにまで戻ったのに対して、DSS群(DSS-1群、DSS-8群)においては放電頻度の10分間にわたる持続的な増加が観察され、特にDSS-8群では、その持続的な増加が明瞭であった。またCAPSに対する最大応答に関しては、DSS-1群ではその応答性がnon-DSS群およびDSS-8群に比べて有意に高かった (p<0.05)。これらの結果から、DSS誘発腸炎モデルラットでは、CAPSの結腸内投与に対する侵害受容が亢進しており、DSS飲水の1日目からすでに高い感受性を発現していることが明らかになった。

次いで、DSS誘発腸炎モデルラットにおけるCAPS感受性の亢進にTRP(transient receptor type)チャネルがどのように関与しているかを明らかにするための実験を行った。non-DSS群、DSS-1群およびDSS-8群に対して、予めTRPチャネルの非選択的阻害薬であるルテニウムレッド(以下RR)を静脈内投与した後に、CAPSの下部消化管内投与に対する骨盤神経の応答性を観察した。RRを前投与した群と前投与しなかった群における、骨盤神経求心性活動のCAPSに対する最大応答を比較したところ、DSS群、特にDSS-1群では、RRの前投与によってCAPSの結腸内投与による骨盤神経放電頻度の増加が有意に抑制されたが、non-DSS群ではRRの前投与の有無に関わらず、CAPSによる骨盤神経放電頻度の増加が観察され、RRによる抑制効果は認められなかった 。以上の実験結果から、DSS誘発腸炎、特にその初期段階においてはCAPS感受性の亢進にTRPチャネルが深く関与していることが示唆された。

次いで、DSS誘発腸炎モデルラットにおける機械的侵害刺激に対する応答性を明らかにするための実験を行った。その結果、non-DSS群では、下部消化管のバルーン拡張刺激に対する応答が明瞭に発現したのに対してDSS群では明瞭な応答性が示されなかった。このことから、骨盤神経には下部消化管内の機械的刺激に応答する知覚線維が含まれることが明らかになったが、その機械的刺激受容は腸炎によってむしろ抑制される傾向があることが判明した。

上記の成績から、骨盤神経の知覚神経は腸炎発症下で下部消化管の化学的侵害刺激に対して過敏な応答性を示し、その過敏性はTRPチャネルを介していることなどが明らかになった。また応答性の経時的変化にはTNFαのような炎症性メディエーターや各種の神経ペプチド、オピオイド受容体などの機能も関与する可能性が推測された。

以上を要するに、本研究は腸管支配知覚神経からその興奮性の変化を記録するといった直接的な実証方法を用いて、腸炎病態の発現や制御に侵害受容器が関わっていることを裏付けたものであり、学術上、応用上資するところが大である。よって、審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位を授与するにふさわしいものと認めた。

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