学位論文要旨



No 128530
著者(漢字) 岸,雄介
著者(英字)
著者(カナ) キシ,ユウスケ
標題(和) 神経発生におけるグローバルなクロマチン状態の変化
標題(洋)
報告番号 128530
報告番号 甲28530
学位授与日 2012.05.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7797号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 後藤,由季子
 東京大学 教授 上田,卓也
 東京大学 教授 鈴木,勉
 東京大学 准教授 上田,宏
 東京大学 准教授 尾藤,晴彦
内容要旨 要旨を表示する

I、 緒言

発生過程において、細胞はその形質を大きく変化させるが、この過程では遺伝子の発現が大きく変化する。遺伝子の発現には、クロマチンの凝集状態が深く関係している。クロマチンがあまり凝集していない"ゆるい"領域にある遺伝子では、転写因子などが接近しやすいために転写が活性化されており、逆により凝集した"かたい"領域では転写が抑制されている。これまで、それぞれの発生過程におけるクロマチン状態の変化については、主に重要なある特定の"ローカルな"遺伝子座において研究されてきた。しかしながら、発生過程においては遺伝子の発現パターンがゲノム全体で変化しており、どのようにして多くの遺伝子の発現が協調的に制御されているのかはわかっていない。

本研究では、大脳新皮質発生における(II)ニューロンの成熟過程と、(III)神経系前駆細胞の時期依存的な変化において、クロマチン状態が核全体で"グローバルに"変化していることを見いだした。そして、このグローバルなクロマチン状態の変化の重要性について検討した。

II、 ニューロンの成熟過程におけるグローバルなクロマチン状態の変化

ニューロンは、軸索や樹状突起、シナプス、分極した膜電位など様々な特異的な形質を持っている。しかし、これらの形質は神経系前駆細胞がニューロンに分化したあとにすぐに発現するわけではなく、多くの場合は適切な場所へと移動してから発現する。例えば、大脳新皮質においては脳室帯で産まれたニューロンは皮質板へと移動し、そこで成熟する。このニューロンの成熟過程では、遺伝子の発現パターンが大きく変化するが、これを協調的に変化させるメカニズムについてはわかっていない。

本研究では、ニューロンの成熟課程におけるクロマチン状態について検討を行った。まず、ヌクレアーゼによる切断アッセイを行った。マウス胎児大脳新皮質より採取し、未分化/未成熟条件と分化/成熟条件で培養した細胞から核を抽出し、それをヌクレアーゼで処理し、切断されるDNA量を定量した。すると、分化/成熟条件において未分化/未成熟条件の細胞よりも多くのDNAが切断されることがわかった。このことは、ニューロンの成熟に伴って核全体でヌクレアーゼがより接近しやすい状態になっていることを示唆している。また、同様の核を適当な塩濃度の溶液で処理をし、溶出されてくるヒストンの量を定量したところ、分化/成熟条件でより多くのヒストンが溶出された。この結果は、ニューロンの分化/成熟に伴ってクロマチン状態が静電的にゆるくなることを示唆している。さらに、リンカーヒストンH1-GFPを用いたFRAPを行ったところ、H1-GFPの移動度がニューロンの成熟に伴って早くなることがわかった。このことは、ニューロンの成熟に伴って、クロマチン状態がよりダイナミックになっていることを示唆している。これらの実験は、ニューロンの成熟課程では、クロマチン状態が核全体でグローバルにゆるくなることを示唆している。

次に、このグローバルなクロマチン状態の変化を制御するメカニズムを検討した。SWI/SNFクロマチンリモデリング因子の構成因子であるBrmとBaf53bは、ニューロンの成熟に伴ってその発現が上昇することが知られており、実際に本研究で用いている系でもそのことが確認された。SWI/SNF因子のグローバルなクロマチン状態の変化における役割を検討するために、BrmとBaf53bをノックダウンして、ヌクレアーゼによる切断アッセイや塩による溶出アッセイを行ったところ、切断されるDNAや溶出されるヒストンが減少することがわかった。このことはSWI/SNF因子がニューロンの成熟におけるグローバルなクロマチン状態の変化に重要な役割を果たすことを示唆している。

次に、ニューロンの成熟課程におけるグローバルなクロマチン状態の変化の意義を検討した。グローバルなクロマチン状態の変化に重要であるBrmとBaf53bをノックダウンして、ニューロンの形態を観察した。すると、ニューロンの神経突起の発達が抑制されることがわかった。このことは、ニューロンの成熟にSWI/SNF因子が重要であることを示唆している。また、クロマチン状態を凝集させることが知られているヒストンH1の変異体であるH1ccを発現させたところ、神経突起の発達が抑制されることがわかった。この結果は、グローバルなクロマチン状態の変化がニューロンの成熟に必要である可能性を示唆している。

これらの結果から、ニューロンの成熟過程ではクロマチン状態が核全体でグローバルにゆるくなり、さらにこの変化にSWI/SNF因子が重要な役割を果たすことを明らかにした。また、SWI/SNF因子の機能を阻害する、あるいはH1ccを発現させるとニューロンの成熟が抑制されることがわかった。このことは、グローバルなクロマチン状態がゆるくなることがニューロンの成熟を誘導し、遺伝子の発現パターンをゲノム全体で変化させるメカニズムであることを示唆しているのではないかと考えている。

III、 神経系前駆細胞の時期依存的なグローバルなクロマチン状態の変化

神経系前駆細胞は、神経系を構成する様々なニューロン、アストロサイト、オリゴデンドロサイトを産生する多分化能を持つ細胞である。しかし、神経系前駆細胞は発生初期にはニューロンを産生することができるが、時期を経るとグリア細胞しか産生できなくなる。このように、神経発生の時期依存的に神経系前駆細胞の分化能は低下していく。この過程では、遺伝子の発現パターンが大きく変化するが、そのメカニズムは明らかになっていない。

近年、ES細胞などの系で幹細胞は分化した細胞に比べて核全体でのグローバルなクロマチン状態がゆるく保たれていることが報告されており、そのことが幹細胞の多能性に寄与しているのではないかと考察されている。しかし、組織幹細胞でもそういった現象があるのかは明らかにされておらず、さらにその意義もほとんどわかっていない。

本研究では、神経系前駆細胞の時期依存的な変化におけるクロマチン状態について検討を行った。まず、ヌクレアーゼによる切断アッセイを行った。すると、早期の神経系前駆細胞において後期の神経系前駆細胞よりも多くのDNAが切断されることがわかった。このことは、神経系前駆細胞の時期依存的な変化に伴って核全体でヌクレアーゼが接近しにくい状態になったことを示唆している。また、塩による溶出アッセイを行ったところ、早期の神経系前駆細胞でより多くのヒストンが溶出された。この結果は、神経系前駆細胞の時期依存的な変化に伴ってクロマチン状態が静電的に凝集することを示唆している。さらに、リンカーヒストンH1-GFPを用いたFRAPを行ったところ、H1-GFPの移動度が後期の神経系前駆細胞で遅くなることがわかった。このことは、早期の神経系前駆細胞ではクロマチン状態がよりダイナミックであることを示唆している。これらの実験は、神経系前駆細胞では時期依存的にクロマチン状態が核全体でグローバルに凝集することを示唆している。

次に、このグローバルなクロマチン状態の変化を制御するメカニズムを検討した。HMGA1とHMGA2は、早期の神経系前駆細胞でその発現が高いことが知られており、実際に本研究で用いている系でもそのことが確認された。これらの分子をノックダウンして、ヌクレアーゼによる切断アッセイや塩による溶出アッセイを行ったところ、HMGA1あるいはHMGA2をノックダウンすると切断されるDNAや溶出されるヒストンが減少することがわかった。このことはHMGA遺伝子群が早期の神経系前駆細胞においてクロマチン状態をグローバルにゆるくするために重要な役割を果たすことを示唆している。

次に、神経系前駆細胞におけるグローバルなクロマチン状態の変化の意義を検討した。早期の神経系前駆細胞でHMGA1とHMGA2をノックダウンしてその分化能を検討した。すると、ニューロン産生能が減少し、アストロサイト産生能が増加することがわかった。このことは、早期の神経系前駆細胞のニューロン分化能にHMGA遺伝子群が重要であることを示唆している。

本研究では、神経系前駆細胞の能力が時期依存的に制限されていくとともに、グローバルなクロマチン状態がかたくなっていくことを明らかにした。また、HMGA遺伝子群が早い時期の神経系前駆細胞でクロマチン状態がゆるいことに必要であり、また早い時期の神経系前駆細胞のニューロン分化能に必要であることを見いだした。当研究室では他に、i)HMGA遺伝子群を遅い時期の神経系前駆細胞に過剰発現するとクロマチン状態がグローバルにゆるくなること、ii)HMGA遺伝子群を遅い時期の神経系前駆細胞に過剰発現するとニューロン産生能が上昇し、アストロサイト産生能が低下することを見いだしている。これらの結果をあわせて、早い時期の神経系前駆細胞ではグローバルなクロマチン状態がゆるいことがその高い分化能に寄与しているのではないかと考えている。

IV、 結言

本研究では、ニューロンの成熟過程と神経系前駆細胞の時期依存的な変化という、大脳新皮質発生において非常に重要な現象で、グローバルなクロマチン状態が変化するという現象を見いだした。そして、この現象を制御するメカニズムの一端を明らかにすることで、このグローバルなクロマチン状態の変化がそれぞれの現象に重要な役割を果たすことを明らかにした。発生過程では、遺伝子の発現パターンが大きく変化するが、それを制御するメカニズムの1つとしてグローバルなクロマチン状態の制御が重要であることを示唆しているのではないかと考えている。

審査要旨 要旨を表示する

多細胞生物を構成する細胞は、同じDNAの一次配列情報を持っているにもかかわらず発生の時期や組織ごとにその性質は大きく異なる。これを実現するには、非常に多くの遺伝子の転写状態を細胞ごとに制御することが重要となる。また、癌や神経変性疾患を初めとした様々な疾患や、加齢に伴って細胞内で数多くの遺伝子の転写状態が異なっていることも知られている。これまで、遺伝子の転写制御については個々の遺伝子の転写と、それを制御する転写因子の発現や活性に着目して多くの研究がなされてきた。しかしながら、細胞の状態変化に伴ってどのように数多くの遺伝子の転写を協調的に変化させるメカニズムについてはほとんどわかっていなかった。

クロマチン構造は、転写因子のDNAへの接近のしやすさなどを制御しているため、遺伝子の転写に非常に重要な要素の1つである。本研究では、このクロマチン構造の変化に注目して、ゲノムワイドな遺伝子の転写制御のメカニズムについて検討を行った。

序章では、クロマチン状態と神経系について研究の背景、既往の研究および本研究の意義について述べた。

第一章では、ニューロンの成熟課程におけるグローバルなクロマチン状態の変化について解析した。ニューロンは、軸索や樹状突起、シナプス、分極した膜電位など様々な特異的な形質を持っている。ニューロンが成熟していく過程では、このような形質を発現してその性質を大きく変化させるが、それに伴って数多くの遺伝子の転写状態が変化する。しかし、これを協調的に制御するメカニズムについてはわかっていなかった。本研究では、ヒストン修飾の免疫染色や、ヌクレアーゼによる切断実験、塩による溶出実験、H1-GFPを用いたFRAP (Fluorescence recovery after photobleaching)といった手法を用いて、ニューロンの成熟課程ではそのクロマチン状態が核全体で脱凝集していることを見いだした。また、次世代シークエンサーを用いた解析からこのクロマチン状態の変化は、遺伝子領域でのみ起きている変化ではなく、遺伝子間領域も含んだよりグローバルな変化であることがわかった。さらに、クロマチン状態の制御を介して遺伝子の転写を制御することが知られているSWI/SNFクロマチンリモデリング因子が、ニューロンの成熟とそれに伴うグローバルなクロマチン状態の変化の両方を制御していることを見いだした。これら結果から、グローバルなクロマチン状態が脱凝集することがニューロンの成熟を誘導し、数多くの遺伝子の転写状態の変化の引き金となっている可能性が示唆された。

第二章では、神経系前駆細胞におけるグローバルなクロマチン状態の変化について解析した。神経系前駆細胞は、ニューロンやアストロサイト、オリゴデンドロサイトなどの神経系を構成する細胞を産生するが、その能力は発生時期依存的に制限されることが知られている。例えば、胎生期にはニューロンを産生することができるが、周産期以降はニューロンを産生する能力を失い、アストロサイトやオリゴデンドロサイトを産生するようになる。この神経系前駆細胞の発生時期依存的な変化において、数多くの遺伝子の転写状態が変化することが知られているが、これを協調的に制御するメカニズムはわかっていなかった。本研究では、ヌクレアーゼによる切断実験、塩による溶出実験、H1-GFPを用いたFRAPといった手法を用いて、神経系前駆細胞の発生時期依存的な変化に伴ってそのクロマチン状態がグローバルに凝集することを見いだした。また、HMGA遺伝子群が早期神経系前駆細胞においてクロマチン状態がグローバルに脱凝集するために必要であること、またニューロン分化能にも必要であることを見いだした。これらの結果から、神経系前駆細胞では発生時期依存的にクロマチン状態がグローバルに凝集し、そのことが神経系前駆細胞においてニューロン分化能を失われることに重要である可能性が示唆された。

以上のように申請者は、神経系の細胞において数多くの遺伝子の転写が変化するときのクロマチン状態の変化について検討し、クロマチン状態がグローバルに変化することがその過程に重要な役割を果たすことを示唆する結果を得た。これまでに、ニューロンにおいては加齢やアルツハイマー病に伴って、また癌おいてもクロマチン状態がグローバルに変化していることが観察されている。このため、本研究の成果はこれらの疾患に対する新たな薬剤標的を提案し、実際に薬剤を創成する上で医学・薬学・工学分野に貢献するものである。

また、神経系前駆細胞以外の系においても、ES細胞を初めとした様々な幹細胞においてクロマチン状態が脱凝集していることが示唆されている。そのため、この意義を明らかにした本研究は幹細胞を用いた再生医療・組織工学分野に貢献できると考えられる。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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