学位論文要旨



No 128532
著者(漢字) 本郷,久美子
著者(英字)
著者(カナ) ホンゴウ,クミコ
標題(和) 大腸癌における上皮間葉移行(EMT),浸潤能に対する低酸素の影響
標題(洋)
報告番号 128532
報告番号 甲28532
学位授与日 2012.05.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3994号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮川,清
 東京大学 教授 古川,洋一
 東京大学 准教授 長谷川,潔
 東京大学 講師 狩野,光伸
 東京大学 講師 重松,邦広
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景と目的

1980年代に提唱された上皮間葉移行(Epithelial Mesenchymal Transition:EMT)は、上皮系である癌細胞が間葉系細胞の特徴を獲得し、遊走能や浸潤能を高め、局所浸潤や遠隔転移を引き起こすための重要な機序であると考えられている。EMT誘導因子としては、これまでにTransforming Growth factor (TGF)-βなどの細胞増殖因子が注目されていたが、近年、低酸素環境が細胞にEMT様の変化をもたらす事が確認されている。しかし、その機序についての詳細は不明である。本研究では、低酸素環境(1%O2)で培養した大腸癌細胞の形態変化および転移形成に重要な機能である接着能、浸潤能、遊走能などに及ぼす影響について検討し、低酸素環境によって誘導されるEMTが、癌の浸潤及び転移に寄与するメカニズムを明らかにする事を目的とした。

方法

ヒト大腸癌細胞株(LOVO)を低酸素下に培養し、細胞の形態的変化及び機能的変化について、通常酸素下に培養した細胞と比較して検討した。形態学的変化に関しては、光学顕微鏡による細胞形態の観察、およびEMTマーカーの発現変化について検討した。また、機能的変化の解析には、各種インテグリンおよび67kDaラミニン受容体の発現、CXCR4の発現についてWestern blottingとflowcytometry検討し、それらが関与する細胞外基質に対する細胞接着能及び細胞外基質上での浸潤能、さらにはSDF-1αに対する遊走能については、Boyden-Chamber法にて検討した。

結果

ヒト大腸癌細胞株(LOVO)を低酸素下に培養したところ、細胞間接着が喪失し、樹状突起を有する紡錘状形態を示した。また、ビメンチン発現増加、E-カドヘリン発現低化といったEMTに特徴的なマーカーの変化を認めた。次に低酸素下でのインテグリンの発現を調べたところ、α2β1およびα5β1インテグリンの有意な発現増加が確認されたのに対し、α3、α6インテグリンの発現増加は軽微であった。これらのインテグリンが関与する細胞外基質への接着能、浸潤能を検討したところ、コラーゲン、およびフィブロネクチンへの接着、そしてこれらの細胞外基質上での浸潤は有意に亢進していた。一方、α6インテグリンのリガンドであるラミニンへの接着、ラミニン上での浸潤能は、低酸素下で有意に抑制されていた。この結果より、ラミニンへの接着に関しては別の受容体の関与が示唆されたため、67kDaラミニンレセプターの発現について調べたところ、低酸素下において時間依存的に発現の低下を認めた。また、低酸素下では、癌転移に重要な役割を果たしていると考えられているケモカイン受容体CXCR4の発現増加を認め、SDF-1αに対する走化能の著明な亢進を認めた。

考察

低酸素環境における大腸癌細胞のEMTの誘導がと他臓器への転移に関わる接着・浸潤能との関連性を検討した。ヒト大腸癌組織における微小環境に近いと考えられる。大腸癌細胞を1%酸素下で数日間培養すると、確かにEMT様変化が誘導されることが確認された。EMTの誘導により、癌細胞は上皮細胞が間葉系細胞の特徴を獲得することにより、接着、浸潤能を亢進し、転移の機序の一端を担うとされている。すなわち接着能、浸潤能を亢進することで癌細胞は原発巣から離脱して、周囲組織及び血管やリンパ管に浸潤し、血流にのって他臓器に到達し、転移巣を形成する。本研究で確認したLOVO細胞におけるα2β1およびα5β1インテグリンは細胞外基質のコラーゲン、さらにはフィブロネクチンとの相互作用に重要な接着因子であり、これらインテグリンの発現増加が、癌細胞の接着能、浸潤能亢進に寄与していることが推測された。一方、低酸素下で有意に減弱したラミニンとの相互作用には、α6β1インテグリンではなく、 67kDaの非インテグリンレセプターの発現低下が関与していることが示唆された。ラミニンは、大腸組織の基底膜に豊富に存在することから、ラミニンに対する接着、浸潤能が早期の段階で低下することで、大腸癌細胞は基底膜から離脱し、その後、間質成分であるコラーゲンやフィブロネクチンと密に相互作用しつつ、浸潤、転移していく過程があることが推測された。

また、低酸素下においてLOVO細胞表面のCXCR4レセプターの発現増加が認められ、SDF-1αに対する走化能が著明に亢進することが確認された。低酸素下におけるCXCR4発現は経時的に増加し、培養7日目に最大発現を示した。SDF-1α/CXCR4システムは、白血球をはじめ、様々な細胞種の遊走能に関与する重要な系であり、SDF-1αは生体内において肝臓、肺臓、脳、骨髄等に多く局在することが確認されている。したがって、原発巣から離脱した癌細胞が、血管やリンパ管に浸潤した後、血流やリンパ流に乗って体内を巡るなかで、発現が増加したCXCR4を介してSDF-1αが多く局在する臓器へ特異的に誘導され、そこに生着、増殖すると考えると、この事実は癌転移の臓器特異性を考える上で極めて重要な現象であると考えられる。

癌細胞がEMTをおこし、様々な細胞外マトリックスとの相互作用を介して浸潤・移動し、さらにはSDF-1α/CXCR4 axisの作用によって遠隔臓器へ誘導されるという転移形成の一連のシナリオの中で、原発巣における低酸素環境が重要な役割を果たしていると考えられた。本研究を発端として、大腸癌の転移機序をさらに詳細に解明することによって、低酸素に代表される癌の内部環境を標的とした新しい癌治療戦略が開発されることを期待する。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、低酸素環境によって誘導されるEMTが、大腸癌細胞の浸潤能、及び転移能に寄与するメカニズムを明らかにする事を目的としたものであり、下記の結果を得ている。

1、 ヒト大腸癌細胞株(LOVO)を低酸素下に培養したところ、細胞間接着が喪失し、樹状突起を有する紡錘状形態を示した。また、ビメンチン発現増加、E-カドヘリン発現低化といったEMTに特徴的なマーカーの変化を認めた。このような形態上の変化、マーカーの変化より低酸素下での培養によりEMTが誘導されていることが確認された。

2、 低酸素下でのインテグリンの発現を調べたところ、α2β1およびα5β1インテグリンの有意な発現増加が確認されたのに対し、α3、α6インテグリンの発現については有意な差を認めなかった。

3、 低酸素培養下の癌細胞における細胞外基質への接着能、浸潤能を検討したところ、インテグリンの発現と合致し、コラーゲン、およびフィブロネクチンへの接着、そしてこれらの細胞外基質上での浸潤は有意に亢進していた。しかし、α6インテグリンのリガンドであるラミニンへの接着、ラミニン上での浸潤能は、低酸素下で有意に抑制されていた。この結果より、ラミニンへの接着に関しては別の受容体の関与が示唆された。

4、 非インテグリンレセプターである、67kDaラミニンレセプターの発現について調べたところ、低酸素下において時間依存的に発現の低下を認めた。このことより、低酸素下培養の癌細胞におけるラミニン上での機能低下は67kDaラミニンレセプターに由来することが考えられた。

5、 また、低酸素下では、ケモカイン受容体CXCR4の発現増加を認め、SDF-1αに対する走化能の著明な亢進を認めた。

以上、本論文は癌細胞がEMTをおこし、様々な細胞外マトリックスとの相互作用を介して浸潤・移動し、さらにはSDF-1α/CXCR4 axisの作用によって遠隔臓器へ誘導されるという転移形成の一連の仮説の中で、原発巣における低酸素環境が重要な役割を果たしていることを明らかにした。本研究は、大腸癌の転移機序を詳細に解明することに重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク