学位論文要旨



No 128536
著者(漢字) 佐藤,勇起
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ユウキ
標題(和) 身体性の拡張に関するコンピュータシミュレーション及び認知実験
標題(洋) Investigating Extended Embodiment with Computer Simulations and Real Human Experiments
報告番号 128536
報告番号 甲28536
学位授与日 2012.05.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1159号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 池上,高志
 東京大学 教授 開,一夫
 東京大学 教授 植田,一博
 東京大学 教授 國吉,康夫
 理化学研究所 チームリーダー 谷,淳
内容要旨 要旨を表示する

第一章 序論

本研究のテーマ「身体性の拡張」の哲学的背景として、「心身問題」と「意識科学の自己言及性」という問題がある。Varelaは、これらの問題を解決するために、心的なものと物的なものの連続性、相補性に着目したEnactivismという世界観を提唱した。デカルト的世界観と異なり、Enactivismは身体の二つの側面、すなわち意識としての身体(ライプ)と物的な身体(ケルパー)に着目する。たとえば、我々は自分の手を物体として観察することができるが、他方で同じ手を使って何かを触って知覚することもできる。観察対象としての手がケルパーであり、観察手段としての手がライプである。これらの哲学的問題は次に説明する本研究のテーマ「身体性の拡張」と密接な関係がある。

我々の身体の境界は体表(皮膚)に限られるわけではなく、乗りなれた車、視覚障害者にとっての杖などはあたかも自分の身体の一部のように感じられる。単なる物体であり視覚障害者にとって観察対象(ケルパー)であった杖が、道具に習熟するにつれ観察手段(ライプ)となり、杖の先端から直接外界を知覚することができるようになる。身体の境界がどこにあるかを判断する上で、本研究が特に注目するのは、「注意のシフト」あるいは、「図と地の反転」である。例えば、初めてワープロを使う時、注意は最初、画面の文字ではなく、キーボードにある。このとき、キーボードはまだ観察対象でありわれわれの身体の一部になっていない。しかし、使い慣れ、ブラインドタッチができるようになると、注意はキーボードからモニターの文字へと変化する。そして、われわれは無意識にキーボードを打てるようになる。このとき、キーボードは身体の一部になったと感じられる。すなわち、道具(キーボード)に向いていた注意が、目的(入力したい文字)へとシフトするとき、身体はその道具まで拡張すると考えられる。あるいは、「ルビンの壺」などの「図地反転図形」の観点から、最初道具が「図」であり、目的が「地」であるが、使い慣れ、身体が道具にまで拡張すると、道具は「地」となり、目的の方が「図」となると考えられる。身体性の拡張は、人、道具、環境の相互作用の中から形成されると考えられるが、依然そのメカニズムの詳細は十分明らかになっていない。

第二章 コンピュータシミュレーションモデル

そこで、身体性の拡張を議論するためのコンピュータシミュレーションモデルを、Ikegami, Iizukaによる、"active perception"(Gibson,1962)を理解するための「風車モデル」(Iizuka et al. 2005)を拡張することにより構築した。

先行研究は以下のようなものである(図1)。ニューラルネットワークに「腕」がついた「エージェント」と、5枚もしくは7枚の羽根のついた「風車」を用意する。ここでの課題は風車の羽根の枚数を、エージェントが腕を左右に動かし、風車に触り、回転させ、相互作用することで識別する、というものである。ニューラルネットワークと腕の間にあるbody neuronの値の増分が腕を動かす力に翻訳され、逆に、腕の角度の状態がbody neuronの値に翻訳されるようになっている。羽の枚数は、中間層の二つのニューロンの値の大小関係によって識別する。遺伝的アルゴリズムを用いて、ニューラルネットワークのパラメータを最適化することにより、5枚、7枚の風車を識別することのできるエージェントを構築する。このとき、エージェントが能動的に羽を回し識別する場合と、風車が回転して受動的に識別する場合を比較する。Body neuronへの感覚入力(角度状態)に時間的遅れを加えて両条件を比較した結果、active条件で進化したエージェントは、passive条件で進化したエージェントより、時間遅れにセンシティブであり風車を識別できなくなることが観察された(Iizuka et al. 2005)。また、風車を識別できるようになる以前、エージェントと風車の運動の規則性は低いが、識別できるようになると規則性が高くなることが観察された。

身体性の拡張を議論するために、本研究ではこの風車の向こう側にもう一つ風車を置き、エージェントはその奥の風車の羽の枚数を、手前の風車を介して識別する、という課題を行った。このとき、先行研究において観察対象、単なる物体に過ぎなかった手前の風車が、本研究においては奥の風車を識別するための観察手段に変化している、すなわち、エージェントの身体の境界が手前の風車まで拡張している、と考えることができないだろうか。

しかし、例えば、手前の風車(=風車1)を5枚に固定して、奥の風車(=風車2)が5枚なのか7枚なのか識別できるようになったというだけでは、このエージェントの身体の境界が風車1にまで拡張したと十分に主張することはできない。なぜなら、この課題では、エージェントの「注意」が風車1、2のどちらに向けられているかを決めることができないからである。エージェントは風車2に注意を向け、それらを識別したとも考えられるが、風車1に注意を向け、(5,5)、(5,7)という二種類の風車の組を識別しただけであるとも考えられる。後者の場合、風車1はエージェントにとって観察手段にはなっておらず、観察対象のままであるため、身体の境界は風車1にまで拡張していないことになる。

エージェントの注意(=身体の境界)がどこにあるかを議論するために、エージェントに二組の風車、(5,5)、(5,7)ではなく、四組の風車、(5,5)、(5,7)、(7,7)、(7,5)を識別させる。そして注意の異なる2種類のエージェントを比較する。もし、あるエージェントが(5,5)、(5,7)を「5枚」として、(7,7)、(7,5)を「7枚」として識別したとしたら、このエージェント(=Agent 1)は風車1を識別している(風車1に注意を向けている)のであって、風車2を識別しているのではないことになる。つまり、風車1はこのエージェントにとって観察対象(「図」)であり、風車2はノイズ(「地」)として無視されている(図2)。このとき、風車1は風車2を識別するための道具として使われていないので身体の境界は一つ目の風車にまで拡張していないと考えられる。逆に(5,5)、(7,5)を5枚として、(5,7)、(7,7)を7枚として識別したとしたら、このエージェントは風車2を識別しており(風車2に注意を向けており)、風車1を識別しているのではないことになる。つまり、このエージェント(=Agent 2)にとって風車2が観察対象(「図」)であり、風車1は観察手段(「地」)になっている、すなわち身体の境界が風車1にまで拡張しているということができる(図3)。

上記のように風車の組を識別することをフィットネス関数とし、遺伝的アルゴリズムを行うことで、Agent 1, 2を構築することができた。解析の結果、一つ目の風車を道具として使い、二つ目の風車を識別するAgent 2の方が、一つ目の風車を観察対象とするAgent 1より、運動の規則性が高いことが明らかになった。コンピュータシミュレーションから、身体性の拡張に関して次の仮説を提案した。道具に習熟するとき、運動の規則性が高くなり、無意識に使えるようになり、注意が道具から目的へとシフトし、身体が拡張する。

第三章 認知実験

身体性の拡張(注意のシフト)に関する仮説をヒトにおいて検証するために、実物の風車モデルを構築し、認知実験を行った。風車1の羽根を5枚に固定する。目隠しをした被験者が棒で風車1を触ることによって、風車2の枚数(5か6)を識別した。被験者は風車が識別できるようになる前後でランダムから規則的な運動へ変化した。また、熟達者では、運動が最小限になり、高効率で識別できるようになること、あるいは、提示された風車の種類に応じて、離散的な運動パターンを生成し、それにより風車をはっきりと識別できるようになることが観察された。この結果は、コンピュータシミュレーションでみられた結果と類比的であることを議論した。さらに、より身体の境界の拡張現象を強めるために、被験者に風車の視覚情報も与える実験(図6)と、風車1を棒ではなく、直接手で触る実験を行った(図7)。視覚情報を与えた場合、ある被験者は、注意を風車2の方へ向け、かつ、風車1の一枚の羽根を棒のように使って風車2を識別することができた。直接触る実験では、被験者の正答率をクラスター解析した結果、正答率の高い群と低い群に二分し、前者において高い運動の規則性がみられた。

第4章 まとめと今後の課題

本研究の独自性は、「身体の二つの側面」という哲学的問題を議論するために、観察対象にも観察手段にもなる風車を用いて、注意(身体の境界)の異なる二種類のエージェントを構築し、さらに、注意の変化を人によっても検証し、道具が身体の一部となる過程を「図と地の反転」として議論した点にある。

シミュレーションと被験者実験の結果、道具の熟達過程において、ランダムからレギュラーへの運動の変化が観察された。そして、より身体の境界を拡張させるためには、被験者と道具との間に強く、連続的な接触が必要になるということを議論した。

コンピュータシミュレーションにおける今後の課題としては、風車へのアテンションを自律的に切り替えることのできる一体のエージェントを構築するということがあげられる。これにより図と地の反転のメカニズムをより明らかにすることが期待される。

さらに風車モデルを拡張することで、他個体とのコミュニケーションに関する研究を計画している。最後に、本研究の医療、工学における応用について議論した。

図1:風車モデル

図2:Agent 1(風車1を識別する)

図3:Agent 2(風車2を識別する)

図6:被験者に風車の一部(マーク部)の視覚情報を与えた実験

図7:風車1を棒ではなく直接手で触る実験

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、神経回路網のネットワーク・モデルと認知実験を用いた、身体性の拡張現象の理論的構築を中心テーマとし、具体的には、小型の風車のはねの枚数を数える実験のモデル化および、その認知実験の結果を論じたものである。

1章では、まず意識のハードプロブレムとして知られる心脳問題に言及し、その上で「意識としての身体の境界の拡張」、という問題をとりあげ、擬似的にハードプロブレムに挑戦するという学位請求者の立ち位置が明白にされている。近年は特に、ラバーハンド実験や、知覚交差実験などにより、身体性とダイナミックに組織化される知覚の問題が注目されている。この辺の問題意識を整理するのは難しい中、なにが問題なのかを簡潔にわかりやすくのべている点で、評価できる。

2章では、論文の中心となる「風車モデル」実験を説明する。モデルの基本フレームは、風車を手で回してその羽根の枚数を当てるという設定である。コンピュータシミュレーションにおいて、人工神経回路モデルを搭載し、腕をもったエージェントを用意する。エージェントは腕で風車を回転させ枚数を当てさせる。神経回路のネットワークを遺伝的アルゴリズムで進化させ、エージェントは風車の枚数を当てることができるように進化する。このとき、エージェントが能動的に羽を回す場合と、風車が回転して受動的に枚数を判別するエージェントを比べると、どちらも枚数が当てられる場合には、エージェントはある内部状態に推移することがわかった。

1台目の風車につづけて2台目の風車を配置し、 1台目の風車を回すと 2台目も回るようにする。この 2重風車モデルにおいて同様にエージェントを進化させると、 1台目の風車と 2台目の風車の枚数を区別できるようになる。この実験において、はじめて身体性の拡張が議論される。なぜならば、「観察対象」としての風車を、今度は「観察手段」として用いることで枚数が数えられるようになるからだ。観察対象が観察手段になるのは、注意のシフトと考えられる。注意のシフトに伴い、枚数を当てられる場合には、規則的な運動が風車の運動に出現することが見出された。

このように身体性の拡張を理論的に扱った数理モデルはほとんどなく、理論的なアプローチを新しく開拓したものとして高く評価される。また、身体性の拡張を運動の規則性の出現として、客観的に特徴つけることを見出したのは、心脳問題を自然科学に接続する第一歩として評価できる。

続けて 3章では、 2重風車モデルを実際に組み立て、人間の被験者を用いて同様の実験を試みた。その結果、被験者は風車の枚数をあてられるようになること。「観察対象」としての風車を「観察手段」として用いるように注意がシフトする段階で、風車の回転に規則的な運動の構造が出現することが見出された。これは、外部的に測定することが出来ない人の主観的な注意のシフトを、風車の回転にみる運動の構造の転移として捉えたのは評価できる。また、シミュレーションモデルと認知実験の両方を行なっていることも評価できる。

4章は全体のまとめであり、ここで行った実験の意義を、図と地の反転問題(注意点が自律的にシフトする)などを引き合いに出して、議論している。また、 2重風車を用いた新しいコミュニケーションのモデルも提案し、最後は医学療法への応用を議論して終わっている。

以上のように論文提出者の研究は、身体性の拡張とダイナミックな認知過程の理解に関して、ひとつの重要な貢献をなしていると考えられる。今後はますますこのような認知のハードプロブレムを見据えた研究が増えてくると思われるが、本研究はその口火を切る新しい研究だと考えられる。したがって、本審査会は博士 (学術 )の学位を与えるのにふさわしいものと認定する。

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