学位論文要旨



No 128559
著者(漢字) 朝妻,恵里子
著者(英字)
著者(カナ) アサヅマ,エリコ
標題(和) ロマン・ヤコブソンの言語論における言語記号の「周縁性」
標題(洋)
報告番号 128559
報告番号 甲28559
学位授与日 2012.06.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1161号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西中村,浩
 東京大学 教授 安岡,治子
 東京大学 准教授 渡邊,日日
 東京大学 名誉教授 山中,桂一
 早稲田大学 教授 桑野,隆
内容要旨 要旨を表示する

ロシアの言語学者ロマン・ヤコブソンは、一般言語学はもちろん、スラヴ語研究、詩学、民俗学、情報理論など非常に多岐にわたる研究で知られている。

なかでも、言語を記号現象として捉え、言語に関わるさまざまな事象を普遍的なレベルで理論づけた論考は数多い。ヤコブソンの言語記号論は、形式と意味、そしてその意味の解釈プロセス、さらには言語主体を考慮に入れ、最小から最大までのすべての言語単位を記号現象として包括的に捉えている。ヤコブソンの言語論の多くが、独自の記号論的な観点に基づいており、その言語記号観を踏まえてはじめて、かれの多岐にわたる著作も充分に理解可能なものとなる。

本稿の目的は、ヤコブソンの言語記号論の独自性をコミュニケーションに関する自身の見解から明らかにすることにある。ヤコブソンは1950年代半ばごろから、言語の指標性に基づいたコミュニケーション理論を展開し、これによりかれの言語論は言語の使用の場を考慮に入れたより広い視野を獲得することになる。この指標性は、言語記号の類像性とともに、ヤコブソンの記号論においてたびたび扱われる概念である。ヤコブソンの考えていた、言語記号の類像性と指標性の概念を再検討しつつ、コミュニケーション理論にあたることで、ヤコブソンの広範囲に渡る言語論をより包括的に捉えることができる。

具体的な分析対象として、ヤコブソンによる格理論を扱う。ロシア語の格は一般に六格あるとされるが、その六格で多様な意味機能を担っている。必然的に一つの格形式が複数の意味用法を有することになる。また逆に、一つの同じような意味が複数の形式で指示されることがしばしばある。つまり、格には、一つの格形式に複数の意味用法を担わせて、できるだけ少ない数の格ですまそうとする言語の経済性がある一方で、その限られた格の布置によって外部世界を的確に表現しなければならないという補完性があり、この二つの性質が拮抗することで格は体系を保っている。格のこうした性質は、ヤコブソンが考えている記号性質と一致する。ヤコブソンは言語記号をシグナンスとシグナートゥムが一対一に対応するものとはみなさずに、双方が非対称的なものであると考えているのである。

また、ヤコブソンの格論において、ロシア語の格がもつ類像性と指標性の性質が強調されているという事実もあり、格体系はヤコブソンが認めている言語記号の特質を顕著に反映した検証材料であると考え、第I部でヤコブソンの記号理論を再検討し、第II部で格体系を具体的な考察対象として扱った。

第1章では、まずソシュールとヤコブソンの言語記号観を比較し、そのことによってヤコブソンの記号観の独自性を明らかにした。ヤコブソンとソシュールは、言語記号をシグナンスとシグナートゥム(ソシュールの術語ではシニフィアンとシニフィエ)という二つの局面から捉えるという出発点は同じであったものの、双方の結びつきを恣意的とみるソシュールに対して、ヤコブソンはむしろその結びつきの有縁性を主張しているという点で大きく異なっている。ヤコブソンはパースによる記号の三分類を自身の言語記号理論に取り入れ、シグナンスとシグナートゥムの恣意的な結びつきに基づく言語記号の「象徴性」のほかに、双方の類似的な関係に基づく「類像性」、そして近接的な結びつきに基づく「指標性」という概念を獲得した。これらの概念によって、ヤコブソンが記号と「対象」とを直接的に結びつける方法論を得たことをこの章では明らかにした。

第2章と第3章では、言語記号の「類像性」と「指標性」とをそれぞれ取りあげた。第2章では、ヤコブソンが「類像性」のあらわれとして挙げた、音と意味、あるいは文法形式と意味との相関性を実例とともに考察し、形式と意味との結びつきには何らかの必然性があるというヤコブソンの主張を確認した。また、ヤコブソンが考えていた言語記号の「類像性」とは、単に形式と意味とのあいだの実際的な類似性に依拠する現象というだけでなく、人間の認知的な思考プロセスに根づいた普遍的な作用に基づく性質でもあるという点まで論をすすめた。ヤコブソンには一貫して、言語主体である人間が言語をつくりかえてきたという目的論的見解がみられるが、その主張のあらわれの一つとして言語記号の類像性に関する見解があることがわかった。

第3章では、記号と対象との近接的な関係に基づく言語記号の「指標性」について論じた。ヤコブソンは、1950年代半ばに執筆したコミュニケーション論において、発話行為の基準点を参照することによって成り立つ指標的な文法カテゴリー(人称、法、時制などのダイクシス)があるという考えを得、コードとメッセージとが直接的に結びつく言語現象を理論化した。この章では、こうした言語記号の指標的性質の解明を契機に、ヤコブソンが「コンテクスト」という概念をもつに至ったことを明らかにした。指標的性質はダイクシスにのみ見られるものではなく、あらゆる言語活動で作用することをヤコブソンは示唆しており、これが「コンテクスト」という概念に拡大したと考えられるのである。「指標性」、さらには「コンテクスト」の概念の導入によって、コードとメッセージの相互作用の視点、言語と発話事象をも含んだ事象世界とが結びつくというヤコブソン独自の見解が得られた。

ここまでで明らかになったヤコブソンの言語記号観を踏まえて、第4章からは具体的な言語事象としてロシア語の格を扱った。ヤコブソンの格理論は、形態論的な観点から、格そのもののもつ「一般的意味」を取り出すことを目的としている。文の環境に依存した「個別的意味」は、統語論的な研究で扱うものとされ、ヤコブソンの形態論的な研究では除外されている。この観点から取り出されたロシア語の格の一般的意味が「方向性」、「範囲性」、「周縁性」の三つである。

三つの意味素性に基づくヤコブソンによる格記述の確認・修正を第4章でおこなったが、第5章ではより詳細に検証するために、前置詞を伴う格の前置詞句を分析した。ヤコブソンは、前置詞句への言及をしながらも、単独での格のはたらきと、前置詞句内での格のはたらきとを同一視し、前置詞句内という環境に注意を払っていない。しかしこの章の分析で、前置詞と格との間には明らかな共起関係があることがわかり、ヤコブソンの形態論的観点に基づく格理論の限界が露呈した。

また、ヤコブソンの前置詞句の分析においては、意味のメタファーに基づく拡張に関する方法論が確立していないため、辞書的記述の域を出ていないが、本稿の分析で「場所」をあらわす前置詞には、決まったパターンの意味拡張がみられることが実証された。他方、「場所」をあらわさない前置詞、たとえばбезやдляなどはこうした意味拡張はみられない。つまり、前置詞句の多義性は、「場所」をあらわす前置詞の汎用性が主因となっていることが明らかになった。

第6章では、ヤコブソンが、「周縁性」の無標格である造格に多くの関心を寄せていることから、その理由を明らかにするため、「周縁性」の意味素性に焦点をあてた。まず、造格の多岐にわたる用例を分析し、造格という記号の性質を考察した。その結果、造格の用法の多くが、中核的な意味の「道具」からのメタファー的意味拡張によって説明でき、柔軟に汎用することのできる格であることがわかった。

また、造格は単に修飾語的な役割をはたす「周縁」に位置する格ではなく、意味・情報の観点からは中心的な役割を担うことさえある格である。たとえば、動詞で示された動作の展開を積極的に促す機能を有していたり、何らかの新しい状態や出来事をあらわす機能があったりする。あるいは造格は、主格で指示された文と同意文をつくることが可能な格であるが、造格指示と主格指示からなる二つの文の違いには、話し手の認知的な視点が反映される。つまり、造格で指示すれば、話し手はその対象を「格下げ」して表現していることが示されるのである。こうした造格のもつ、主体の視点の格下げ機能や意味展開の役割は、具体的な発話、コミュニケーションにおいて発揮されることから、コンテクストを参照することでのみ意味がとれるという造格の指標的性質の高さが明らかになった。

ヤコブソンはこうした造格に対して〔周縁〕という意味素性を与え、形態論的見地からの分析に収まりをつけた。しかし実際、造格形式で指示された語は、〔周縁〕という意味素性からは何を指すのか見当もつかず、周囲の語やコンテクストを参照することなしに正確な意味解釈がむずかしい。このため、ヤコブソンは形態論的立場をとりつつも、コンテクストとの照合の必要性に言及しているのである。造格の意味はコンテクストを通して与えられるものであって、格形式を通して与えられるものではないという見解をすでにこの時期に得ていたと考えられる。

この「周縁性」こそが、コードがメッセージにはたらきかける、あるいは相互に作用するという、のちのヤコブソンのコミュニケーション論、および形式、意味、対象という三項関係に基づく言語記号論にとってきわめて重要な契機となったのである。造格の多義性、そして指標性を前に、ヤコブソンは自身のコミュニケーション理論、ひいては言語記号理論において、言語使用の場、「コンテクスト」を考慮に入れずに言語を記述することは不可能であることを認識したのである。言語は、誰がいつどのような状況で話したかという発話事象と、語られる事象世界との関係を指示するものであるというヤコブソンの言語記号論の独自性が明らかになった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「ロマン・ヤコブソンの言語論における言語記号の「周縁性」」は、ロシアの言語学者ロマン・ヤコブソンの記号論とコミュニケーション論に関わる思想を総括し、その中心的な観念が具体的な言語分析、とくにロシア語の格の形態論的・意味論的理論づけにいかに活かされているかを綿密に考察することによって、ヤコブソンの記号論の独自性を明らかにしようとするものである。

論文は、2部から構成されている。第1部の3つ章では、ヤコブソンの一般記号論・言語理論とコミュニケーション論との繋がりを検討することによって、その6機能モデルとこのモデルを構成する諸因子の吟味を行っている。第2部の3つの章では、ヤコブソンのロシア語の形態論に関する主要論文を批判的に分析し、その理論の修正を行うとともに、ロシア語の格の具体的な分析を通じて、その理論の持つ可能性を考察している。

まず、第1章では、ソシュールの言語理論との比較を通して、ヤコブソンの言語理論の特徴が概観される。筆者は、ヤコブソンがソシュールのsinifiantとsinifie をsignansとsignatumと言い換えたことに注目し、これは単なる言い換えではなく、そこには双方の結びつきを恣意的と見るソシュールと、その結びつきの有縁性を主張するヤコブソンの理論的な違いが現れていると指摘する。そして、ヤコブソンの言語記号論には、signansとsignatumの恣意的な結びつきに基づく「象徴性」に加えて、双方の類似的な関係に基づく「類像性」、近接的な関係に基づく「指標性」という3つの概念が中心にあることを指摘している。

「類像性」を扱った第2章では、ヤコブソンが考えていた言語記号の「類像性」は、単に形式と意味との間の実際的な類似性に依拠しているだけではなく、人間の認知的な思考プロセスに根づいた普遍的な作用にも基づいていることが明らかにされている。さらに、第3章では、「指標性」が取り上げられ、そのコミュニケーション論の6機能モデルの検討がなされる。ここでヤコブソンが発話行為の基準点を参照することによって成り立つ指標的な文法カテゴリー(ダイクシス)があるという考えに基づいて、コードとメッセージとが直接に結びつく言語現象を理論化していること、さらにこうした言語記号の指標的性質はダイクシスだけではなく、あらゆる言語活動で作用すると考え、これを「コンテクスト」という概念に拡大したことが指摘される。そして、ヤコブソンの理論の特質が、「指標性」と「コンテクスト」という概念を導入することによって、言語と発話事象を含む事象世界とが結びつくという考えであることが明らかにされている。

第2部の第4章では、意味の非対称的対立に関わる「標識」概念の検討と、ロシア語形態論分析における応用と変遷の考察がなされる。まず、ヤコブソンが1936年と1958年にロシア語の格に関する内容の重複する2つの論文を書いた理由は理論の修正にあり、その原因が標識概念の転換、すなわち非対称的対立(欠性対立)から両極対立への転換にあったことが指摘される。

次いで、第5章と第6章では、ヤコブソンがロシア語の格の一般的意味として取り出した「方向性」、「範囲性」、「周縁性」という3つの意味素性でロシア語の6つの格を正確に分析できるのかという問題の検討がなされる。第5章では、筆者は、ヤコブソンが前置詞句への言及を行いながらも、単独での格の働きと前置詞に支配された格とを同一視していることが指摘し、ロシア語の前置詞に支配された格の詳細な分析を行うことによって、ヤコブソンの格理論の補完・修正を行っている。そして、個々の前置詞の帯びる複数の意味がメタファー的拡張系列を措定することによって単一の原義に還元することが可能であること、さらに前置詞の原義と名詞の格の間に整合性があることを立証し、ある言語記号のもつ複数個の個別的意味が一般規則によって一般的意味に還元しうるというヤコブソンの理論の有効性を確認している。

第6章では、ロシア語の造格の意味と用法の詳細な分析によって、「周縁性」という意味素性とはいかなるものかという問題に焦点が当てられる。まず、造格の多様な意味は中核的意味である「道具」からのメタファー的意味拡張で説明できると同時に、具体的な文における造格の個別的意味は周囲の語やコンテクスト、さらには発話の状況を参照しなければ決定できないこと、また、文の中心に対して「周縁」に位置する格である造格が、意味・情報の観点からは中心的な役割を担うこともあり、そこには話し手の認知的な視点が反映されることから、「周縁性」という意味素性が、記号の「指標的性質」と深く関わっていることが示される。そして、ヤコブソンは形態論的な見地からロシア語の格を分析し、造格という格形式に「周縁性」という意味素性を与えているが、「周縁性」という意味素性は、彼がコミュニケーション論や言語記号論で展開した「指標性」と「コンテクスト」という概念と関連づけてはじめて理解できることが論じられている。

本論文の功績の一つは、1950年代末までのヤコブソンの一般記号理論構築への軌跡を跡づけ、その射程を詳らかにしようとしていることである。とくに注目すべき点は筆者が、ヤコブソンの音韻研究と言語機能論をつなぐ要として標識概念に着目し、そのロシア語形態論に関する諸研究を分析することにより、その進展および変遷を明らかにし、さらに、そして論文「言語学と詩学」で提起されたいわゆる6機能モデルの解釈にひとつの突破口を開いた点である。

従来のヤコブソン研究においては、6機能モデルそのものの言語理論史における意義、そしてモデルを構成する諸要因の検討といった面はなおざりにされてきた。本論文は、当の6機能モデルと相前後して著されつつもそれと関連づけて理解されることのなかった文法範疇論を取りあげ、その理論構造を「指示的意味モデル」として再構築することにより6機能モデルの解釈と評価に大きく貢献している。これによって、ヤコブソンの構想していた「言語科学」の全体像が明確にされただけでなく、従来、二律背反として捉えられていたラングとパロールがヤコブソンの再定義によっていかに揚棄されているか、また「コンテクスト」という定義項がどのような内実を伴うかを明らかにしている。

また、第2部でなされているヤコブソンの格理論の修正・補完、そしてロシア語の諸格の用法と意味の詳細な分析を通じた理論の検証では、詳細な用法分析と理論的考察において高い水準を示しており、この点はロシア語の格に関する研究を含むロシア語学への大きな貢献であると見なすことができる。

ただ、問題領域が一般記号論・コミュニケーション論とロシア語文法研究とにまたがっているために、論文が2部構成となっているが、審査委員の中からは、第1章とロシア語文法理論を扱った第2章との関連が必ずしも明確ではないことが指摘された。また、第2部で挙げられているロシア語の用例の個々の表現の微差や合文法性を見分ける手法が必ずしも充分ではない、第6章の造格の分析はヤコブソンの一般的意味に関する理論を支持するには充分であるが、その考証に用いられた具体的な意味タイプがそもそもいかなる因子によって生じ、なぜ個別的に検出可能であるか、それらがヤコブソンの「個別的意味」に該当するかどうかについて論証が尽くされているとは言い難い、という意見が出された。しかしながら、本論文は、これまで主として文学理論や一般言語学の分野でなされてきたヤコブソンの理論を、ヤコブソン本来の専門分野であり、その理論的営為の中核をなすスラヴ語研究の角度から再検討する作業を行っており、その結果、従来見逃されてきた諸問題に光を当ててることに貢献していることを考えれば、上記のような欠点は本論文の価値を損なうものではないことは審査委員全員の一致した結論である。

したがって、本審査委員会は本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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