学位論文要旨



No 128563
著者(漢字) 池上,剛
著者(英字)
著者(カナ) イケガミ,ツヨシ
標題(和) 離散運動と周期運動の制御・学習機構の違い
標題(洋)
報告番号 128563
報告番号 甲28563
学位授与日 2012.07.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第198号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野崎,大地
 東京大学 教授 多賀,厳太郎
 東京大学 准教授 東郷,史治
 東京大学 教授 岡田,猛
 東京大学 准教授 針生,悦子
内容要旨 要旨を表示する

我々ヒトが営む豊かな日常生活やスポーツや芸術などの文化的活動は,脳が身体を通して実現する多種多様な運動によって支えられている.このような複雑で多様な運動を制御することや,学習することを可能とする神経機構は,長い進化の過程で獲得されてきたと考えられる.脊椎動物の進化の過程を顧みると,最も古い魚類は,既に移動,咀嚼といった同じ運動パターンを繰り返す周期運動を行っていた.そして,両性類,爬虫類,鳥類,哺乳類と,系統が新しくなるにつれ,周期運動に加えて,獲物に向かって飛びかかったり,何かに四肢を伸ばしたりといった,より随意性が高く,一回きりで行う離散運動を獲得するようになった.長い進化の歴史の中で獲得された離散運動と周期運動は,地球環境における生活にとって必要不可欠な運動だと考えられる.実際,何かに手を伸ばす,蹴るといった離散運動と,歩く,拍手するといった周期運動は我々の日常生活の至る所で目にすることができ,それらの組み合わせによって,日常の多様な運動が実現されている.脳神経系が身体運動を制御する仕組みの理解を目指した従来の研究においては,その自動性・随意性の違いゆえに離散運動と周期運動はそもそも別々の運動形態として捉えられ,両者を制御する神経機構の共通性や関連性についてはほとんど言及されてこなかった.本論文は,心理物理学的な手法,特に視覚運動学習の実験手法を用いることにより,離散運動と周期運動の制御・学習機構の具体的な違いを明らかにしようとしたものである.

古くから運動制御の分野では,複雑な動作は,より単純で基礎的な運動を組み合わせることによって生成されると考えられてきた.つまり,これ以上還元できない単純な運動の組み合わせにより複雑で多様な運動を生成するという考え方である.このような原始的な運動,またはその神経基盤を運動プリミティブ(Hogan and Sternad, 2007)と呼ぶ.運動制御の研究分野では,離散運動と周期運動をこの運動プリミティブの候補とみなし,それぞれの制御メカニズムを明らかにすることが,より広汎なヒトの身体運動の制御メカニズムの解明につながると考えられてきた.しかし,離散運動と周期運動は,系統発生学的な違い,自動性や随意性の違い等から,そもそも異なる制御基盤をもつものとして研究されてきたため,最近になるまで2つの運動が具体的にどのような共通性あるいは関連性を持つのか,ほとんど研究されてこなかった.ところが,動作解析,心理物理学的実験,脳機能イメージングなどの手法が発展をみせてきた10年程前から,2つの運動の関連を明らかにすることが運動制御研究の重要なテーマの一つになりつつある.そこで立てられた具体的な作業仮説は以下の3つである.1) 離散運動が運動プリミティブであり,周期運動は離散運動を繰り返し実行することによって生成される.2) 周期運動が運動プリミティブであり,離散運動は周期運動を部分的に実行することによって生成される.3)離散運動と周期運動はともに運動プリミティブであり,異なる制御基盤をもとに生成される.現在までに,動作のパターン(キネマティクス)や脳活動を調べた多くの研究によって離散運動だけが運動プリミティブであるという1)の説が反証されている.しかし,依然として離散運動と周期運動が同じ運動プリミティブをもとに生成されているのか,それとも異なる運動プリミティブをもとに生成されるのかは不明であった.

本研究では,この問いを解決するために,離散運動と周期運動の運動パターンの違いや類似性を運動学習の汎化(転移)の観点から調べるというアプローチを用いた.周期運動の1周期だけを取り出すと,そのキネマティクスをみても,離散運動とほとんど違いは検出できない.しかし,もしそれぞれの動作の遂行に異なる神経制御機構が関与していれば,一方の動作様式で新奇な運動課題を学習させる場合,関与する神経制御過程のみが適応し,獲得された学習効果はもう一方の様式の動作を遂行するときには活用できないであろう.反対に,同じ神経制御機構が関与していれば,運動学習効果の大部分が転移すると考えられる.そこで,第3章では,視覚運動変換課題の学習効果が離散運動と周期運動の間でどのように転移するかを調べた.被験者には,ロボットマニピュランダムのハンドルを動かして,画面上のカーソルが2つのターゲットの間を往復するように,離散的,あるいは周期的な到達運動を行なってもらった(図1).このとき,画面上のカーソルがハンドル(実際の手の位置)に対して30°回転した位置に表示されるように視覚運動変換を印加した.実験の結果,離散運動で獲得した学習効果は引き続き行った周期運動に十分転移した一方,周期運動で獲得した学習効果は引き続き行った離散運動に殆ど転移しなかった(図2).この非対称な運動学習の転移は,2つの運動の制御機構が異なることを示唆していた.同様に,学習効果の転移に着目することによって,離散運動の制御プロセスと周期運動の制御プロセスという2つ制御過程が存在し,周期運動の1サイクル目は離散運動の制御プロセスによって生成されることと,試行間隔が短い離散運動の生成には,離散運動の制御プロセスだけでなく,周期運動の制御プロセスも関与していることが明らかになった.以上の結果より,離散運動と周期運動が,異なる2つの運動プリミティブであるという仮説3)が支持された.

第3章で行った実験では,非対称な学習効果の転移という結果に加えて,周期運動は離散運動に比べて運動学習の成績が非常に悪いという現象が観察された.この結果から,周期運動と離散運動は異なった性質の運動学習システムを有すること,より具体的には,運動に伴ってエラーが生じたとき,そのエラー情報を元に後の運動指令を修正するシステムが異なっていることが推測された.この可能性を検証するため,第4章では,システム同定法を用いて周期運動学習システムの動的特性を調べた.第3章と同じ,視覚運動変換の実験系を用い,画面上のカーソルの動きと実際のハンドルの動きの間にランダムな回転変換を課したとき,生じたスクリーン上での運動エラーがその後の周期運動サイクルでどのように修正されるかを調べた.そして,視覚的なエラー情報に基づいて運動指令が修正されるプロセスを状態空間モデルによって数学的にモデル化し,実際のデータに適合させた.観測されたエラー情報が次試行の運動指令の修正のみに用いられるという離散運動の運動学習システムの特性とは異なり,同定された周期運動学習システムは,過去複数サイクルの運動エラーを参照して運動指令を修正していていることを示していた.この結果は,絶え間なく運動のエラー情報を受取ると同時に,絶え間なく運動指令を発信し続けているという周期運動の学習システムにおいては,運動エラーと運動指令の時間的な関係性が崩れていることを示していた.さらに予期しないことに,複数サイクル前の運動エラーは,エラーを減じるように運動指令を修正するのではなく,むしろエラーを増加させるような修正に貢献しており,運動学習に対して負の影響を持つという結果が得られた.

これまで,運動学習の分野では,運動エラー情報は運動スキルの獲得を促進する原動力であると暗黙の内に仮定されており,学習にとって負の影響をもちうるという概念が提唱されることは皆無であった.第4章で得られたシステム同定の結果を考慮すると,周期運動学習時には,運動エラー情報を与える頻度を減らす方が,かえって学習が向上するという反直感的な仮説が導かれる.この仮説を検証するため,第5章では,周期運動によって視覚運動変換を学習する際に,運動の視覚フィードバックを間欠的に与えることにより実際に運動学習のパフォーマンスが向上するかどうかを調べた.被験者には,画面上のカーソルの視覚情報が2,3,4,5サイクルに1サイクルだけ提示されるいずれかの視覚フィードバック条件下で周期的な到達運動(1サイクルの運動時間は400m)を用いた視覚運動変換課題を学習してもらった.その結果,仮説どおり,毎サイクル,連続的にフィードバックを与えた場合より,4サイクル,あるいは5サイクルに1サイクルだけ,間欠的にフィードバックを与えた方が運動学習の成績が向上した(図3).また,この結果は,第4章で同定したモデルの妥当性と,運動エラー情報の学習に対する負の影響の存在可能性を支持するものとも考えられる.第4章,5章で得られた結果は,運動エラーは運動学習を促進する原動力であり,運動学習にとって好ましい情報であるという,これまでの運動学習研究がとってきた前提に疑問を投げかける発見である.

ある目標物に向かって手を伸ばすという運動を一度きりで離散的に行う場合と,繰り返し反復して周期的に行う場合では,一つ一つの動作に注目すると,見掛け上はあまり変わらない.しかし,本研究の一連の実験結果から,我々の脳の中で行われている,その運動を生成する制御過程,その運動を獲得する学習過程には,大きな違いがあることが明らかになった. 本論文の研究結果は,ヒトの動作の基盤となる離散運動と周期運動の制御・学習機構の関連を明らかにしたことによって,運動制御・学習分野に対して重要な学術的知見を与えるとともに,学校教育,競技スポーツ,リハビリテーションの分野における運動技能の効率的な習得法やコーチング法の開発につながることが期待される.

図1 視覚運動変換課題

図2 離散運動と周期運動の間の運動学習の転移 (代表的な被験者の運動軌道)

図3 間欠的な視覚フィードバックの周期運動学習への影響

審査要旨 要旨を表示する

我々が日常的に実行する身体運動は、主に、物に手を伸ばす・つかむなどの離散運動と、決まった動作を繰り返す歩行のような周期運動から構成されている。本論文は、系統発生的に新しく随意性の高い離散運動を司る神経制御過程が、古く自動性の高い周期運動を司る神経制御過程と、どの程度共通点を有しているかという問題を、運動学習効果の転移に着目するという独自のアプローチによって解明しようと試みたものである。

第1章では、離散運動と周期運動の制御機序を扱った先行研究が概説された後、両者の制御過程の関連が十分に理解されていないことが述べられている。第2章では、離散運動と周期運動が改めて定義されるとともに、動作のパターン(キネマティクス)を調べる従来のアプローチでは、両運動の制御過程の共通点・差異を明らかにすることは困難であると指摘されている。この限界を克服する手段として、一方の運動を行いながら新奇な運動課題を学習した後、もう一方の運動への学習効果の転移量を調べることで、両運動の制御過程の共通性・差異を解明可能であるという本研究独自のアプローチが紹介されている。

第3章では、画面上のカーソルをハンドル操作によりターゲットに到達させる視覚運動課題を用い、離散運動・周期運動間の運動学習効果の互換性が検証されている。周期運動によって獲得した新奇な視覚運動課題の学習効果が、引き続き行われたほぼ同一のキネマティクスを持つ離散運動に転移しないこと、一方、離散運動によって学習した場合にも、周期運動の1サイクル目を除くと学習効果が十分転移しないことが示されている。この運動学習効果の非互換性から、周期運動を部分的に切り出すことにより離散運動が生成される、離散運動を時間的につなぎ合わせて周期運動が生成される、という2つの考え方が棄却され、両運動の制御過程が根本的に異なったものであると結論づけられている。

周期運動の運動学習成績が低いという第3章の付加的な観察結果を受け、第4章では、システム同定手法を用いて、両運動間では、運動学習時の運動誤差情報の活用様式に違いがあるとの仮説が検討されている。離散運動では、ある試行で生じた運動誤差が、次試行において必ず適切な運動指令修正を促すのに対し、周期運動では、ある動作サイクルでの運動誤差情報が、次サイクルの運動指令を適切に修正するものの、さらにそれ以降のサイクルの運動指令修正には負の影響を及ぼすという新しい知見が見出されている。第5章では、この結果から導かれた、過度な運動の視覚的情報を間引くことによる運動学習成績の改善可能性が検証され、4、5サイクルに1サイクルだけしか視覚情報(カーソル)を呈示しない条件で運動学習成績が向上することが実証された。

第6章では、以上の結果が総括され、離散運動と周期運動を制御する神経基盤の違い、運動学習の際に運動誤差情報を利用する神経機序の違いが考察された後、離散運動と周期運動はキネマティクスが似ていても別々に練習を行う必要があること、過度の運動誤差情報の呈示の問題点など、身体教育現場での応用を見据えた議論が行われている。

本論文は、ヒトの身体運動の主要構成要素である離散運動と周期運動が異なる神経基盤を持ち、さらに、周期運動特有の運動学習機構を明らかにした点で特に意義が認められる。よって、本論文は博士(教育学)の学位を授与するに相応しいものと判断された。

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